紅の蛇
あどけなささえ残るその声の主が、靄の中から姿を現した。
「お前は……」
そいつの姿を目にして、ルシオンは息を飲んだ。
その半身にまとっているのは、ゆったりとした桃色のケープ。
これまた薄桃色のレースのベールで顔半分を覆った、小さな少女の姿だった。
そして地面まで伸びた燃えたつ炎の様な紅色の髪が、風もないのにザワザワと揺らいでいる。
琥珀色をした少女の瞳が、冷たくルシオンを見据えていた。
「邪神教団のプリエル・セルパン! なぜお前が……!」
「プリエル……まさか、こんな小さな女の子が……!?」
ルシオンの耳元で、コゼットが驚きの声を上げた。
その名前を耳にして、ルシオンもまた動揺していた。
2人とも……知っているのか、コイツを!
ソーマはワケがわからず混乱する。
コゼットとルシオンの取り乱しようからして、なんだかすごく厄介なヤツみたいだ。
でも、こんな小さな女の子が……?
コゼット、知ってるのか? なんなんだよ、あいつは!
「はいソーマ様、あいつはプリエル。邪神イリスに仕える蛇人の巫女です。その見た目に騙されてはいけません。あいつはインゼクトリアにその教団をかまえ、彼らの神への儀式のために多くの民をさらい、殺し、生贄に捧げて来た邪教の祭司! 魔王ヴィトル・ゼクト様の手で教団本部を滅ぼされた後、いずこかに姿を消したと聞いていましたが……まさかこの世界に!」
コゼットの声が、震えていた。
その声には、ソーマがこれまでのコゼットからは感じたこともない激しい感情が滲んでいた。
それは、凄まじい怒りだった。
「答えなさいプリエル! なぜこの世界にいる。なぜまたお前のおぞましい業で、この世界の民を殺す!」
コゼットが、少女にむかって毅然とそう叫んだ。
だが少女はコゼットの問いには答えなかった。
プリエルと呼ばれた少女は、無感情な琥珀色の目でルシオンの方を見つめたまま。
ザワザワザワ……
そして少女の紅色の髪が、妖しく蠢きはじめた。
いや、髪だけではなかった。
フードコートに転がった無数の死体が、地面全体が……蠢いて……揺らいでいる!
「まずい! 離れてくださいルシオン様」
「うわあああっ!」
コゼットの声に、ルシオンは背中の翅をしならせる。
とっさに空に飛びあがって、異様な蠢きから逃れようとするルシオンだったが……!
ザザザアアアアッ!
少女の攻撃の方が早かった。
フードコートを覆った死体の合間から、一斉に何かが飛び出してきた。
真っ赤な紐みたいにしなった無数の何かが、ルシオンの体に飛び掛かった!
「ぐううあ!」
空中のルシオンが、苦痛の声をあげる。
嘘だろ……!
ルシオンを捉えたモノの正体に気づいて、ソーマもまた驚きの声をあげた。
彼女に巻き付いて、その体をギリギリと締め上げているモノ。
それは真っ赤な鱗をテラテラ光らせた……何百匹もの細長いヘビだった!
「『アビムの赤蛇』……! まずい!」
ルシオンのまわりを飛び回りながら、コゼットがオロオロした声を上げる。
なんだよそれ……ヤバイのか!
ソーマはヘビたちの感触のおぞましさに震えながら、ルシオンにそう訊く。
「ヤバイなんてものじゃないです! 深幻想界でも最も強い毒と魔を持つヘビ……ルシオン様、逃げて!」
「わかってるけど、体が……!」
悲鳴を上げるコゼットに、ルシオンは悔しげにうめいた。
じゃあ、フードコートで捕まっていた人たちも、このヘビに……!?
ソーマの頭を、恐ろしい想像がよぎった。
ルシオンの目を惑わせた妖しい蠢きの正体。
それは少女の髪の毛だった。
少女の足元から伸びて床全体に広がった紅髪が、真っ赤なヘビに変身してルシオンの体を縛り上げているのだ!
「我らが神敵に、わたしの僕たちは決して容赦しません。魔王ヴィトル・ゼクトの眷属、まずは1人……」
少女が何の感情もこもっていない声でそう呟くいて、自分の指をパチンと鳴らした。
ルシオンに巻き付いたヘビたちが一斉に鎌首をもたげた。
シャー……!
ヘビたちが、ルシオンに牙を剥く。
牙の先からポタポタと透明な液体を滴らせながら、ルシオンの喉元に這っていく。
むきだしになった太ももに、締め上げられた胸元にズルズルと這って行く。
そして少女の合図と同時に。
ヘビたちがルシオンの全身に噛みつく……!
かと思った、その時だった。
「ジャアアアアッ!」
空中に、裂帛の気合がこだました。
と、同時に。
バランッ!
ルシオンに巻き付いていた無数のヘビたちが一斉にほどけた。
いや、解けたというのはルシオンがそう感じただけで、正確ではなかった。
ヘビたちの体は、同時に、一瞬にして引き千切られていたのだ。
「わっ! わっ!」
空中に放りだされたルシオンが、地面に尻もちをついた。
まわりには細切れになったヘビたちが、うらめしそうに蠢いている。
「……きさま! なにをする!?」
「やれやれ。抜け駆けはいけませんよ、プリエル殿……」
自分の蛇を……自分の髪を引き裂かれた少女が、彼女の邪魔をした乱入者を冷たい目で見据える。
そして、ルシオンのすぐ目の前に降り立ったそいつが、肩をすくめながら少女にそう言った。
そいつが空中で抜き放った手刀は、ルシオンの体には傷ひとつ付けていなかった。
絡みついたヘビだけを、正確に切り裂いていたのだ。
そいつは、ルシオンの背丈の倍くらいもある長身の男だった。
真っ黒な燕尾服と目深にかぶった山高帽。
整ったその顏は、だが痩せぎすで骨ばっていて青白い。
まるで死神を思わせる容貌だった。
「最初に王女を試すのは私だって、さっきそう決めたじゃないですかプリエル殿。フフッもっともその最初が、最後になるかも知れませんがね……」
少女に向かって両手を広げながら、男は丁寧な口調でそう続ける。
「ググ……! お前は……いったい何だ!」
どうにか地面から立ち上がったルシオンが、目の前の男をにらみつけた。
「お初にお目にかかります。インゼクトリア第3王女、ルシオン・ゼクト様……」
男がルシオンを向いて、慇懃にお辞儀をした。
「我が名はリュトムス。我が生涯を賭して求めし魔拳の業。深幻想界最強の魔王の眷属に通じ得るか否か。我が拳、是非ともご賞味あそばされたい!」
なんだか難しい言い回しでワケのわからない事を言いながら、男がルシオンの方に歩いて来た。
そして男は、真っ白な手袋に覆われた指先をポキポキ鳴らしながら、拳法の構えみたいなポーズをとった。
「リュ……リュトムスって、あの『食屍拳のリュトムス』か……!」
そう呟いたルシオンの腰が、思い切り引けていた。
ルシオン、おいどうしたルシオン!
ルシオンの異変に気づいて、ソーマは叫んだ。
ルシオンの体が震えていた。
そしてソーマにも、ルシオンの感情がもうハッキリわかっていた。
ルシオンが感じているもの。
それは激しい恐怖だった。
「『プリエル・セルパン』と『リュトムス・ライヒェ』! 深幻想界でも最凶格のテロリストがいちどに2人も……なぜココに!?」
ルシオンの肩にとまったコゼットが、混乱した様子でそう呟いていた。
「では、参ります……」
リュトムスと名乗った男が、慇懃な口調でそう言った、次の瞬間。
ユラン……。
ルシオンの視界から、リュトムスの姿が消えた。
「へ……」
呆然としたルシオンが、声を上げる間もなく……!
ゴッ!
「があああああああっ!」
ルシオンのミゾオチに、何かが爆発するような凄まじい衝撃が炸裂した。
ルシオンの体が、あたりに絶叫を響かせながらフードコートからふっ飛ばされた。