逢魔が時
つかれた……。
リビングのソファーに横たわりながら、ソーマはグッタリそう呟いていた。
黒鳥の衣の姿に戻って、コゼットの膝枕で眠るルシオンの中で。
これからは、風呂に入るたびに毎回あんな思いをしなければいけないのだろうか。
なんだか先が思いやられる。
(んんにゅうぅ……あじたましょうゆらーめん……もう3杯……)
すでに眠ってしまったルシオンの、わかりやすい寝言が頭の中に響いてくる。
ルシオンが眠ってしまったせいで、彼女の体はひと時ソーマの自由だった。
眠りに落ちるまでのわずかな間、ソーマはコゼットの膝の上で考えごと。
ルシオンの銀色の髪をサラサラなでるコゼットの優しい手にその身をまかせていた。
「ルシオン様のこと、許してあげてくださいねソーマ様……」
「……コゼット?」
コゼットの言葉にソーマは目を開ける。
まだソーマが目を覚ましていることを、コゼットは知っていたらしい。
「あの方は必死なのです。お父上のヴィトル様に認められようと、必死でがんばっているのです。こんな見知らぬ世界にたった1人で剣を探して……怖い思いや不安な思いも我慢して、無理やり自分を奮い立たせているのです。だから放っておけない。ソーマ様には、いろいろ迷惑をおかけしますけど……」
「がんばってるのは知ってるし……まあ、迷惑は迷惑だけどさ……」
コゼットの膝の上でソーマはモジモジする。
「別にイヤだなんて思ってないよ。おまえらに命たすけられたのは、俺たちだしさ……いろいろ手伝いたいとは思ってるよ……」
「ありがとうございますソーマ様。ですが今まで通りで大丈夫。ルシオン様はイヤがると思いますが、明日も普通に学校に行ってください。学校で……少し気になったことがあるのです。それでちょっと……調べてみたくて……」
「気になった? 調べる?」
ソーマは首をかしげた。
コゼットは学校で、何に気づいたというのだろう。
自分たちの国から盗み出された剣のことに、何か関係あるのだろうか?
まあいいか。
明日の事は、明日考えよう……。
ソーマは再び目を瞑る。
コゼットの優しい手に頭を撫でられながら、ソーマの心もまた泥のような眠りの底に沈んでいく……。
#
ハア……ハア……ハア……!
ソーマは林の中を駆けていた。
冬のどこかの公園。
街並みの向こうに涼んでゆく夕日が、あたりの景色のいっさいを真っ赤に染め上げている。
樹の幹や枝葉が地面に落とした影が、しだいにその色を濃くしてゆく。
たくさんのイチョウの樹から落ちた葉っぱが地面に一面しきつめられて、まるで赤金色の絨毯みたいだった。
その落ち葉の絨毯を踏みしめて、ソーマは何かから逃れようと必死に雑木林の中を駆けていた。
「ソーマ、はやく! はやく!」
「お姉ちゃん。待って、手が痛い!」
ソーマの手を引く誰かが、彼を向いてかすれた声を上げる。
それはまだ中学校にも上がっていないだろう。
あどけなさの残った、人形みたいに整った少女の顏。
姉のリンネの顏だった。
そのリンネの顏を見て。
ソーマの中のもう1人のソーマが、ああ、俺はいま夢を見ているんだ……とボンヤリ思った。
リンネはソーマの手を引いて、何かから必死に逃げていた。
ザワザワザワザワ……
そして林を駆ける2人の背中を追うモノたちがいた。
それはまるで、世界にたれた黒いインクのシミ。
地面から染み出るようにして落ち葉を飲み込みながらソーマたちを追っているのは、真っ黒な影たちだった。
オオオオオオオオンン………
欲シイ。欲シイ。欲シイヨォオオ……。
アイツノ体。アイツノチカラ。アイツノ命。
全部。全部。全部。全部。全部……!!
影たちが、ソーマの足元まで手を伸ばして彼を捕まえようとしている。
「わああああああっ!」
「ソーマ!」
自分の足首を掴もうとする影の手に気づいて、ソーマは悲鳴を上げる。
ソーマの足がもつれる。
地面から飛び出した木の根っこにつまづいて、ソーマはその場に倒れ込む。
ソーマの手を引いていたリンネも、つられて転んでしまった。
オオオオオオオオンン………
餌。餌。餌。餌。餌ダヨオオオオオ……。
ハヤク。ハヤク。全部イタダイチマオウ……!
影たちが、ソーマとリンネを取り囲んだ。
地面から湧き立つ真っ黒な波みたいになって、2人の周りでグルグル波うっている。
その波の円陣が、だんだん小さくなっていく。
ソーマとリンネに迫って来る!
「ソーマ!」
「お姉ちゃん!」
リンネがソーマを抱きしめる。
ソーマはリンネの腕に顔をうずめる。
ピチャピチャと影たちが舌なめずりする音だけが聞こえる。
「ソーマ。目を瞑っていて」
「……え?」
そしてリンネの言葉に、ソーマは顔を上げる。
リンネは、ソーマを見つめてニッコリ笑っていた。
その顏が、ソーマには凄く綺麗に思えた。
「ソーマは渡さない。大事なソーマ。わたしだけのソーマ。わたしが……わたしが守る……!」
ソーマを抱きしめるリンネの力が強まる。
ソーマは再び顔を伏せ、目を瞑る。
オオオオオオオンン……!
影たちの気配が迫る。
お姉ちゃん、怖い……。
怖い! 怖い! 怖い!
そして……。
そのままソーマが固まって、どれくらい経っただろうか。
「ソーマ。起きて。目を開けて」
「……!?」
静かにそう呼びかけるリンネの言葉に、ソーマは目を開ける。
顔を上げて、あたりを見回す。
あれ……?
ソーマは戸惑う。
影たちが姿を消していた。
2人を取り囲んでいた禍々しい気配も。
ソーマに迫ってきた凄まじい欲望の気配も。
今はもう、全て消えている。
いまこの場所。
夕闇の迫った冬の公園にいるのは、ソーマとリンネの2人だけ。
「さあ、帰ろうソーマ……あっ!」
「お姉ちゃん!」
その場から立ち上がろうとする、リンネの体がよろけた。
地面に手をついて、再び座り込んでしまう小さなリンネの体。
ソーマはリンネの肩に手をかける。
心配そうに姉の顔を覗き込む。
「大丈夫ソーマ。ちょっと疲れただけ。それになにか……息が苦しい……!」
紙みたいに白い顔をしたリンネが、弱々しくソーマに笑いかけた。
リンネは少し苛立たしげに、か細い自分の首に手をやった。
そしてリンネが、胸元から何かをはずした。
「ソーマ、これを……」
「お姉ちゃん?」
そしてリンネは、自分の胸元から外したソレを、ソーマの首にかけてくれた。
戸惑うソーマの頭を撫でて、リンネは優しく彼にこう言った。
「ソーマ。ソレはお母さんの形見。お母さんがわたしに遺してくれたモノ。でもこれからは……あなたが持っていて。これはお守り、もうアンナモノがやってこないようにって。お母さんがきっとソーマを守ってくれるから……!」
「うん……お姉ちゃん、わかった……」
リンネが首にかけてくれたもの。
それは小さな銀色の……十字架のついたネックレスだった。
再びソーマを抱き締めながら、ソーマの耳元でリンネは囁く。
ソーマを抱いたリンネの腕が、冷たくジットリと濡れている。
リンネの体全体から。
ソーマの耳に当たるリンネの吐息から。
さっきまでのソーマには感じなかった匂いがした。
それは甘く爛れた、花の香だった。
お姉ちゃん!
ソーマは突然、不安になった。
顔を上げて、姉のリンネの顔を見ようとした。
その時。
街並みの向こうに消えかかっていた日の名残りが完全に絶えた。
あたりに闇が満ちた。
リンネの顏が、見えなくなった。
ソーマの視界を、暗闇が閉ざした。
#
「姉さん……!」
かすれた悲鳴を上げて、ソーマはソファーから飛び起きた。
チュンチュン……チュン……
庭先からスズメの鳴く声が聞こえる。
もう朝だった。
ソーマは頭を振ってうめく。
夢……だったのか。
あの景色。
あの音。
あの声。
あの感触。
それにあの……匂い!
今日はじめて見出したような。
それでいて、もうずっと昔から知っていたような。
不思議で、暗い夢だった。
「これは……」
自分の両手を見つめて、ソーマは驚く。
寝る前はルシオンの姿だった体が、今はソーマのソレに戻っていた。
寝ている内に転身が発動したのだろうか……?
「うん……!?」
何かが気にかかって、ソーマは2階の自室に向かった。
#
「母さんの……形見……!」
机の物入れから取り出した銀色のネックレスを、ソーマはしげしげ見つめていた。
モノゴコロがついた頃から、十字架のネックレスはソーマが持っていた……気がする。
亡くなった母親の形見だと、リンネがそう教えてくれた……気がする。
「…………!!」
記憶の混乱する頭を振りながら、ソーマはギュッと十字架を握りしめた。
その時だった。
ピンポーン。
玄関先からチャイムの音。
「ユナか……!」
ソーマは時計に目をやってその場から立ちあがる。
今日はちゃんと服を着て行かないと……。
また、幼馴染に怒られる。
#
「ソーマくん。どうだった朝ごはん?」
「あ……うん美味しかったよユナ」
朝の通学路。
ソーマと並んで歩くユナが、そう尋ねて来た。
モジモジしながら答えるソーマ。
今朝のユナが作ってくれたのはピザトーストと、コールスローサラダとコーンスープ。
例によって悶絶するルシオンを無理やり押さえつけながら、朝食を終えたソーマとユナは学校へ出発。
今朝は珍しく、時間に余裕があった。
「リンネさんの具合、どうだった?」
「うん……まあ悪くなったり、良くなったり……だな……」
リンネの事を訊くユナに、ソーマの声が小さい。
「そうか……あと昨日の夜はラーメンだったんだって? ダメよもー、栄養が偏るんだから……」
「アハハ。悪いユナ。コウに誘われてつい……」
いったいドコで聞き出したのか、ユナはソーマの昨日の行動を知っていた。
ユナまで、リンネと同じようなことを言う。
「ところでさソーマくん、もう決めたの?」
「決めたって何を?」
「ソーマくんの……マテリア」
ユナが違う話題を振ってきた。
魔法が使えるようになった、ソーマの使う新しい触媒……。
「マテリアか……ああーそれは……」
「決まってないならさ、音叉なんかどうかな!」
ユナがすかさず、自分の音叉をソーマの目の前に差し出した。
「魔法の力……感じやすいし、使いやすいし、それに……誰かとオソロイなのもイイかなーって……」
「ユナ……ごめん」
顔を赤らめてモジモジしているユナの言葉を、ソーマは静かな声で止めた。
「触媒はもう……決めてあるんだ……」
「あ、そ、そうなの? じゃあしょうがないか!」
ソーマはすまなそうにユナに告げる。
ユナも慌てて首を振って、自分の音叉をひっこめた。
「そうだ、もう決まってる……!」
自分に言い聞かせるように、ソーマはもう1度、小さくそう呟く。
ソーマの右手に握られているモノ。
それは机の物入れから取り出してきた、銀色の十字架が付いたネックレスだった。