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僕と川田は獣医に言われたとおり病院の表に行った。しばらく駐車場に立っていると、病院に灯りが点った。中からカーディガンを羽織った夫人が現れて、入り口の自動ドアを両手を使って手動で開け、「どうぞ」と言った。
病院に入った僕と川田は、夫人に先導されて誰もいない待合室を通り、手術室に入った。そこは、だいたい六畳ほどのこぢんまりとした部屋で、中央には小さな手術台があり、その真上には円盤状の物に丸い蛍光灯が五つついている、まるでUFOのような照明が設置されていた。その周囲には流し台や大型のモニターや白い蓋付きの棚や、その他僕にはなんだか分からない機械が、手術台をぐるりと囲んで置いてある。なんの飾り気もない、無機質で清潔な部屋だった。
「その子をこっちに、いいかしら」
夫人が川田に声をかけた。いつの間にか両手にゴム手袋をしている。川田は言われるがままにコータローを夫人に手渡した。
夫人はコータローを抱きかかえると、手術台の上にコータローを置いた。そして、先ほどまでのぶっきらぼうな言動が嘘に思えるような優しい声で、
「あー、よしよし、かわいそうにね、かわいそうに。もう大丈夫だからね」
とコータローに向かってしゃべりかけて、その背をなでるのである。手術室の隅に川田と並んで立ちながら、僕は夫人の態度の変わりように驚愕した。
そうこうしているうちに、部屋の奥の扉から獣医が手術室に入ってきた。獣医はパジャマの上から手術衣の上衣を着ていた(しかしズボンはパジャマのままだったので、手術衣の下からパジャマのズボンが見えているのだった)。きちんとマスクをし、ゴム手袋もはめているが、足元はサンダルだった。僕たちを見て、軽く会釈し、手術台へ向かった。獣医が手術台へ近づくと、夫人はすっと身を引いた。
それから獣医は、手術台の上に寝そべっているコータローに、いろいろ触診をした。触診をしながら、眼鏡の奥の瞳をしかめて、
「もう、冷たくなってきてるな・・・」
と、ぼそりと呟いたりした。また、僕と川田に向かって言っているのか、独り言を呟いているのか、どちらとも判別つかない調子で、
「まだ若いから、たぶん、去年の春に生まれたんだろう。野良猫になると、生後一年目の冬を、越すのが難しいんだ。飼い猫と違って、食べ物は無いし・・・。おおかた、それでこんなに弱っているんだろう」
と、言ったりもした。
コータローを診はじめて五分ほど経つと、一通り触診が終わったようで、獣医は手術台を離れた。そして流し台で良く手を洗うと、白い棚の蓋のひとつを開けて、中からプラスチック製のグレーの小箱を取り出した。と思うと、一個だけでなく、同じものをもう二つ、棚から出した。獣医はそれらを持って手術台に戻り、小箱をコータローの脇に置き、そのうちのひとつを開けた。中から注射器と小さな薬瓶が出てきた。
獣医は薬瓶を開け、その中に入っている液体を注射器で吸った。それから薬の込められた注射器を持ったまま、もう片方の手でコータローの腹の辺りを探った。そして注射器を構え、今にもコータローに刺そうとした。・・・と、何を思い直したのか、注射器を構えるのを止め、僕たちの方を向いた。そして、相変わらずのぶっきらぼうな調子で、こう言い放った。
「この注射は、一本一万円する」
僕はぎくりとした。自然に、学生服のポケットに入れていた財布に手が伸びた。この日、僕はちょうど一万円札を一枚持っていた。一万円。高校生にとっては大金である。それは通学用の電車の定期券を買うために、親からもらった金だった。しかし、この際、それは仕方ないと思った。川田は僕の後輩である。金を出させるわけにはいかない。定期券は、後で何とかなるだろう。注射代の他に、診察代とか、いろいろかかるものなのだろうが、それはどうにか負けてもらうか、後で払い直すか、するしかない。
獣医から言葉をかけられ、僕が一瞬のうちにそんなことを考えた次の瞬間、獣医は続けざまにこう言った。
「その注射を、今から三本打つ」
そして獣医は再び間を置いた。僕も川田も、ヘビに睨まれたカエルのように固まった。
「お前たちにその金をどうにかして欲しいとは思わない。ただその代わり、」
獣医はそこでまた一呼吸置いて、川田を見、僕を見て、
「もしそれでこの子が元気になったら、君たちや君たちの知り合いで、誰かが責任を持って飼うことはできるか。金はいらないが、それを約束して欲しい」
と言った。
こう言われた瞬間の、僕の感動を、どう言い表せばいいか、適当な言葉を僕は知らない。ただ起きた現象を述べると、僕の体はかあっと熱くなり、目頭の辺りがじいんと痺れた。そして僕と川田は無責任にも勢いに任せて、首をぶんぶん縦に振って獣医に応えていたのである。




