明日から本気出す
――人は、善と悪とを区別できない――
「何かっこつけてるんですか。働かないのはどう考えても悪ですよ!」
木の影に隠れているのを見つかって、俺は飛ぶことを忘れて天使の国の草原を駆け出す。裸足だから、草がくすぐったい。
「うるざいっ! ひぐっ……悪いのはガブリエルだろ、もう話しかけないでって言ったじゃん!」
走りながら、あふれる涙が止まらない。自分の意志で止めることができない。汚された。ガブリエルに汚された。もう飛び降り自殺するしかない。それなのにガブリエルは追いかけてくる。こんなことってあるもんか。説明責任を果たさなかったガブリエルが百パーセント悪いんだ!
「少し落ち着いてください!」
「追ってこないでよ! あっちいけーーっ!」
ぬぐってもぬぐっても、涙はいつまでも流れ続ける。もう限界だ。
初めにとてつもない恥ずかしさがやってきて、次に怒りに変わり、やがて自己嫌悪が心を蝕んだら、もう泣くのを我慢することなんて、誰にもできやしない。
俺は心の内側からやってくる幼い欲求に耐え切れず、力が抜けて体が勝手にへたり込み、泣こうとなんて思ってないのに、全然思ってないのに、体が勝手に大声で泣きじゃくり始めてしまった。おかしいな、前まではこんなに感情が抑えられないなんてことはなかったはずなのに。
「……もう、まったく。精神がちょっと幼すぎです」
ガブリエルが後ろから近づいてくるのを感じる。逃げなきゃ。こいつは絶対に変態だ。逃げなきゃやられる。それでもどうしても体は動いてくれなかった。ただ、古い本能に身を任せて、すべての感情を吐き出すようにひたすら泣き続けるしかない。
こうして冷静に考えているけど、頭は冷静なはずなのに、体は言うことを全く聞いてくれない。そのせいで、みっともない姿を晒してしまっている自分の現状を余計に理解してしまって、コントロールできない感情がどこまでも高まっていくのを、ただじっと待つことしかできない。
もちろん、走って逃げ続けることができていたとしても、飛んで追いかけてくるガブリエルに追いつかれるのは必然というもので、俺は結局、いつかのように胸のあたりでぎゅっと抱きしめられることになる。そう、まるで親がやんちゃな子供を捕まえるかのように……これじゃ、比喩じゃなくて本当に子供を捕まえてるのと同じだ。そして俺は温もりを背中にしっかり感じながら――冷たくはない、天使は温かいのだ――ガブリエルのひざにおもむろに座らされてしまう。あ、天使ってやっぱり胸ないんだな。平面だ。そしてガブリエルの翼が俺をそっと包み込む。
「大丈夫、私が一緒にいてあげるから」
なにが"私が一緒にいてあげるから"だ。ガブリエルが一緒にいたら俺の貞操の危険が危ないに決まってる。俺が首を後ろに回してきっと睨みつけると、ガブリエルはとても、とても優しく微笑んだ。――やめてよ、こんなに感情が高ぶってるときに、そんな顔で見ないでよ。
思わず睨みつけるのを忘れて、目をそらしてしまった。そうやって微笑まれると、自分が悪いんじゃないかって気分になって、小さい頃悪いことをしたとき、お母さんの目を見ることができなかったように、どうしても目をそらしてしまう。良心が罪悪感を引っ張って、心の奥から"ごめんなさい"という言葉を引きずり出そうとしてくる。やだよ、だれがそんなこと言ってやるもんか。謝りたい、頭を横に振って、必死でその罪悪感に抵抗する。
「いい子だから、ね?」
すると、ガブリエルは俺の頭に手を置いて、頭をなでなでし始めた。
ガブリエルの手のぬくもりが頭のてっぺんに伝わってきて、子供みたいな扱いを受けている実感が急に湧いてきて、すごく恥ずかしい。だけどそれよりも、認めたくなんてないけど、頭をなでてくれるのがどうしようもなく嬉しい。頭をなでられた嬉しさと、少しの恥ずかしさが合わさって、ついに途方もない心地よさに移り変わっていくと、だんだん心が落ち着いて、徐々に眠くなってくる。ずっと孤独だったから、彼女なんているはずもなかったから、頭をなでられるのに耐性なんてこれっぽちもなかったんだ。温かい手、とても心地いい、ゆりかごのような、ふわふわ浮かぶ雲の上のような、そんな感覚が俺の体をめぐりめぐって、意識をどこかへ連れて行こうとする。ガブリエルの手の中で眠るなんて、そんなの、ぜったいに――
――気持ちいいに、決まってる。
・
・
・
幸せな夢の中、あるいは憂いの回想。
「ねえ、ガブリエル、それはどんな木の実なの? おいしくなかったりしないよね?」
「ええ、もちろん。とってもおいしい木の実ですよ」
「それなら食べる! 早く早く!」
「そんなに急かさないでください。すぐに食べさせてあげますから」
エルフの里をひとつ助けたから、俺はガブリエルから給料をもらうことになった。
エルンのいるハーベストの里を救ったのはいいけど、捕まってしまった他のエルフをどう助ければいいのか、里の復興を手伝っているあいだもずっと考えていた。その結果、感情に従ってすぐに助けに行くのではなく、まずガブリエルの判断を仰ぐという考えに至った。俺にだって論理的思考力は備わっているのだ。だから、正直言って、エルフの里をすべて救うまでは給料をもらうつもりはなかったんだけど、くれるっていうのだから仕方がない。
給料はナシ。ひどい。と前までは思ったけど、よく考えたら梨はとてもおいしい果物だ。かつてはよく食べていたし、特に千葉県産の幸水と豊水が好きだった。あの食べてくださいとでも言っているような柔らかい食感、たっぷり含まれた果汁、だけど味がないわけではなくて、口いっぱいに広がる甘みと、ほんの少しの酸味がすっきりと交じり合って、ついついいくつも食べてしまうような絶妙な味わい。梨だけは、夕食後の食卓においておくと家族が食べて、すぐになくなってしまうくらいにおいしい果物だ。果物として、桃と並んで至高だと俺は今でも思っている。
異世界に来て、あのクソまずい邪悪な木の実を食べて気づいたけど、この世界にもおいしい食べ物があるという保証はない。けれど、天使として生きていくにあたって、おいしい食事はとても重要なはずだ。ハーベストの里でも、ずっとおいしい食べ物に飢えていた。なにしろ食べられるものは草ばかりで、その草はあまり俺の口に合わなかったのだ。だから、もしこの梨らしき果物を食べられるのなら、フライング土下座したっていいくらいに、俺は今、食娯楽に飢えている。
「はい、どうぞ」
小さな水堀の内側、庭園の木、初めて飛んだときは見下ろしていた木から、ガブリエルがひとつだけ実をもぎとる。
「わーいっ」
俺は梨らしき果物を受け取ると、適当にナイフを作ってさくさく切って、すぐにひとかけら口に放り込む。なるほど、なるほど。うん、おいしい。懐かしき梨テイストだ。よく味わって食べ……っ!?
「ぁ……」
「ようこそ、深淵なる世界へ」
ガブリエルがなにかおかしなことを言っているけど、よくわからない、体が熱い。顔が熱い。頭が熱い。天使に心臓なんてあるはずもないのに、間違いなく心臓がどくんどくんと激しく脈打っている。あっ、残りの梨をガブリエルに取り上げられてしまった。でもそれを取り返す余裕なんてない。頭がぼーっとして、なんだか夢の中にいるみたいだ。
「ふあ……」
腰が抜けて、立っていられなくなる。前に倒れそうになって、手を草地につこうとして、失敗しておしりだけ上につきだした格好になってしまった。上半身の体重をあごで支えるような格好だ。絶対に恥ずかしいはずだけど、今はそのポーズがたまらなく心地いい。よだれが垂れてくるのを感じる。なぜだろう。この気持ちは……もしかして、恋?
「うーん、やはり生命の木の実の効果は魂だけになっても持続するんですね。これが初めてならば、こんなものでは済まないはずですから」
ガブリエルはなにを言っているのかなあ? わかんない。でも、きっと悪いことじゃないはずだ。だってこんなに楽しくて気持ちいいのだから。
「ん……あぅ……」
「ちょっと触りますよ」
「ひああっ!?」
ガブリエルがわたし……俺? どっちだったかな、よくわかんない。わたしの羽を触ると、体が勝手にびくんと跳ねる。羽だけに……えへへ。とにかく、気持ちよくて、体を震わせて気持ちいいのを逃さないと、どうにかなってしまいそう。なにもかもが大好きで、うん、大好きだからしょうがない。
原っぱに横になると、わたしの熱い体を冷まそうとするかのように、風がひゅうひゅう抜けていく。とても涼しくて、その風に色をつけるなら、空みたいな青色か、森のような緑色をしているに違いない。空を満たす風の流れの中に、わたしのハダカの体がたゆたっている。考えないようにしてたけど、わたしは転生してからずっとハダカだったんだ。ガブリエルもハダカだったし、天使ってこんなものなのかなあって思ってたけど、やっぱりおかしいよね。エルフさんだって、ちゃんと服を着てたのに。
「……まあこんなものでしょうか。これ以上やると後で殺されてしまいそうです」
ガブリエルはわたしを持ち上げて、高い高いをする。そして――
『――零時間飛翔』
☆
……はっ。
ここはどこ?
いったい何が起きたんだ。
また時間酔いしてしまったのか?
やはり草原の上に置かれた、白くやわらかい大理石のベッドに寝かされているようだ。
「あ、目を覚ましましたか? 悪い夢は思い出さなくても良いんですよ。いずれ時間が解決してくれますから」
ガブリエルはベッドの横に立って話しかけてくる。
でも、いったい何を言ってるんだ?
嫌なことなんて…………あ。
「あああああああああっ!?」
「それで次の仕事の話なのですが」
「死ね!」
俺は全力で顔――には届かなかったので、腹にパンチをする。が、ガブリエルは余裕で瞬間移動して回避してしまった。やはり天使としての格が違う。俺は少し本気を出すことにした。
『刀を、すべてを切り裂く刀を俺に!』
刃渡り一メートルほどの漆黒の細い刀が俺の左手に出現する。天使の力で顕現させたのは世界最強の刀、すべてを切断する黒刀。
天使の翼で急加速してガブリエルに突撃し、左半身をねじって刀を持った左手を後ろに引くと、体幹、左肩、左腕、左手首の順にすべての力を伝え流し、刀に乗せて、前方に引き戻す反動で思い切り刺突した。
しかし、ガブリエルに当たるはずもない。この憎たらしい天使は瞬間移動することができるのだから。事実、ガブリエルは突如姿を消し、刀は文字通り空を切り裂いた。ゆえに、予測した。ガブリエルならば、一体どこに瞬間移動するだろうか、それは――後ろだ。
右翼を左から右へ払って、俺の体を左回りに反転させると、その勢いのまま後ろにいるはずのガブリエルを引き裂き――あれ、いない?
次の瞬間には、俺の両腕は後ろからがっちりとホールドされてしまった。
「ふふ、私が瞬間移動しかできないわけがないでしょう? 私は時間を司っているのですよ。少し未来へ飛ぶことなど朝飯前です」
くっ、未来に飛ぶなんて卑怯だ。ガブリエルは単にその場で少し未来へ飛んだだけなのだろう、俺はみすみすと背中を見せてしまったわけだ。完全に俺の負けだ。刀が光の粒子になって消滅していく。
怒りと錯乱が消えて、少し冷静になると、突然罪悪感が襲ってきた。俺はなんてことをしてしまったのだろう。恥ずかしいからって、誰かを殺そうとするなんて。俺が自殺すればいいだけの話なのに。
「ごめんなさい……」
「まあ、もし当たっていたとしても、死にたくないと思っている限り天使が死ぬことはありえないんですけどね」
そうなんだ。それなら良かった。天使殺しのイヴエルにならずに済んだ。
「さあ、反省したならさっそく仕事です。人族の国に捕まったエルフを救出に向かってください」
「……その前にガブリエルもちょっとは謝ってよ」
「嫌です」
「なんで」
「私は良いことをしたからです」
「全然してない」
「いいですか、あれは生命の木の実といってですね、食べると幸せになれる実なのです。死にたくなった時は、あれを食べると活力が湧いてくるのです」
「湧いてこない」
「もう一度食べさせましょうか」
「もうやめて、っていうかもう話しかけないで」
「えっ」
「明日から本気出すから」
ガブリエルが驚いて拘束を解くと、俺はその場から飛んで逃げ出した。かくれんぼなら俺の得意競技だ。かつては一度も誰にも見つからずに、気付いたら皆帰ってたことだってあるくらいに得意な競技だ。
俺は影の薄い木を選定すると、その裏に隠れる。いろいろと恥ずかしすぎて、ガブリエルに捕まるくらいなら、死んだほうがマシだとさえ思えてくる。このままガブリエルを振りきって、エルフを助けに行こう。俺はそう決意した。
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結局この数秒後、ガブリエルに見つかってしまった。
……少しでも謝ってくれたなら、きっと俺はガブリエルをすぐに許したのに。俺はもともと人だったから、ガブリエルが実を食べさせてくれたことが本当にいいことだったのか、それを悪と断じていいのかわからなくて、すごく不安だっただけなのに。
だから、俺はしていいこととわるいことの区別がつかないガブリエルに、こう告げた。
"ガブリエルはもともと天使なのだから、善と悪くらい区別できるはず"
そして、
"人は、善と悪とを区別できない"と。