人と妖精 <feat.eln>
人間さんは森へ入ってエルフを捕まえるのが好きだ。エルフを捕まえるためならば、森の奥地へだってどんどん踏み込んでいく。でも、そのせいで最近は世界森林――天球最大の森林であり、エルフに残された最後の安住の地――も安全とは言えなくなってきていた。
だから、私はエルフを無理やり捕まえるのをやめてもらうために、エルフの使者として人間さんの街を訪れた。
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街路上を飛んでいくと、きれいな街並みが視界を流れてゆく。街には白くて四角い建物が多く、街の中心近くには泉もある。水が吹き上がって人間さんやエルフ、魔物たちを形作っている。そのまわりで水が空を流れ踊る。球形になったり、ベールになったり、長く伸びて螺旋を描いたりしている。水の精霊魔法だ。
泉の上を通り過ぎると、背後でばしゃんと水の落ちる音が聞こえた。
「だめです! 森に戻ってください!」
誰かが高く叫んだ。後ろを振り返る。水しぶきが作る虹の向こう、日の光を浴びてきらめく翅が見えた。泉の水を操っていたのはエルフの少女だったんだ。奴隷の証、赤色の首輪がその首に光っている。
けれど私はその叫び声を無視して飛んでいく。
大丈夫、私が人間さんに捕まることは絶対にないから。貴方もすぐに助けてあげるからね。
さあ、そのために使者としての役割を果たさなきゃ。
途中で何度も首輪をつけたエルフに遭遇しながらも、街の中心部に到達する。偉い人間さんが住んでいそうな、白くて大きな建物の窓に入る。
すると目の前には、驚きの表情を浮かべたひとりの人間さんがいた。
「aspl. xivose je elf grenglt. (驚いたな。エルフがこんなところにいるとは)」
黒い短髪、黒い瞳で、優しげな顔立ち。人間さんの言葉はわからないけれど、彼は私を追いかけまわしたりしないということはわかった。やっぱり人間さんの中にも良い人がいるんだ。私は草を編んで作った服の中から小さい緑色の種をひとつ取り出す。それを親指でぴんと弾いた。
『精霊さん、この街周辺の地図をお願いします』
空中で種が発芽し、ツルが伸びて地図の枠を作る。枠の中でツルと葉がうごめいて地図を形作っていく。地図が落ちてきて私の手に収まった。
「aoisen jois. weg fau panit? (地の精霊魔法だな。これは地図か?)」
彼が驚いたように言う。
私は彼に地図を見せると、一点を指さした。人間さんの街の近くの草原、ここでひと月後、エルフと人間さんの話し合いを行う予定になっている。
「wol je q? (ここに来いってことか?)」
うん、多分理解してくれているだろう。私は腰から木の水筒を取り出し、ふたを開ける。
『ひと月ぶんの時計をお願いします』
水筒から水が飛び出して球体を形作る。この水球はひと月かけて蒸発するから、簡単な時計の役割を果たしてくれると思う。
「borlaw? (ウォーターボール?)」
私は水球を指さす。
次に地図上のこの街に指を当てると、話し合いの場所へと地図をなぞった。
「uwel, fau siglok. (うーん、時計ってことかなあ)」
きっとこれでわかってくれたはず。
私は地図と水球を彼に手渡したあと消滅した。
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「うまくいったよ」
目の前でふわふわ浮いてるおじいちゃんに報告する。
「それは良かった。エルン、あとは休んでていいよー」
私はその言葉を聞いて、葉っぱのベッドにうつ伏せになった。
ふう、ちょっと休憩。
幻を作り出す魔法はすごく集中力を使う。でも、私にできることなんてこれくらいしかないし、皆の役に立てたなら嬉しい。できればひと月後の話し合いには私も参加させてもらいたかったけど。
寝転びながら横目で見ると、おじいちゃんが家から出ていくのが見えた。今から出発の準備をするのだろう。おじいちゃんは人間さんの言葉を理解できるから、きっと話し合いでも重要な役割を果たすに違いない。
「エルン、リーン草をもらってきたよ」
おじいちゃんと入れ替わりに、お母さんが家に戻ってきたようだ。その手にはたくさんのリーン草をかかえている。
「ありがとう。でも今はちょっと疲れてるから後で食べるね」
それにしても、人間さんの街には首輪をつけたエルフが多く見えた。その全員が奴隷のように扱われているわけじゃないとは思うけど、ひどい扱いを受けているエルフもいるらしい。
あのエルフ少女の森へ戻れという悲痛な叫びには、他のエルフに同じ思いをさせたくないという強い感情がこもっていた。見た感じは特に傷ついてはなかったはずだ。彼女はいったいどんな扱いを受けていたのだろうか……なるべく早く助けてあげなきゃ……
「おやすみ、エルン」
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――ひと月後、日の出の少し前。本来なら薄暗いはずの森は真昼のように明るい。
「逃げろ! 火だ!」
エルフの少年が叫ぶ。世界森林の巨大な木が燃えている。木の上にある私たちの家が燃えている。自分の見ているものが信じられない。信じたくない。
「なにしてるの、早く!」
お母さんが私の手をとって空へと飛翔する。私はお母さんに引っ張られて火の燃え盛る森を飛んでゆく。
どうしてこうなったのだろう、昨日まではずっと平穏だったのに。
頭が真っ白になりながらも、私たちは火をかいくぐりながら空へ空へと逃げてゆく。
森を抜け出せれば、火に巻き込まれることはないはず。
幸い、私とお母さんは世界森林の樹冠を抜けることができた。私たちに続いて、他のエルフたちも森から飛び出す。
良かった。皆生きている。
「生きている者は、深刻な怪我人から治療してくれ!」
先ほど逃げろと叫んだ少年、ヴィルが皆に呼びかける。
おじいちゃんや里の偉いエルフが人間さんとの話し合いでいない今、ヴィルが里長代理になる。ヴィルはアルヴヘイムでも指折りの治療術士で、ありとあらゆる怪我や病気を治してきた。だからきっと怪我は誰にも残らないし、誰も死なない。
「娘のティリが左足を怪我した!」
「こっちも頼む! アウルが目を覚まさないんだ!」
「私のところもお願い!」
次々と助けを求める声が届く。
ヴィルはそのすべてに対応し、手の回らない場合は他のエルフに指示を出していた。てきぱきと行動し、エルフを助けていくヴィル。彼はこの災害時においてとても頼もしく見えた。
森を焼く炎は今もなお勢いを増している。
何百年にも渡って先代のエルフたちが築き上げてきた里が燃えてしまったのはとても残念だけど、民が残っていればまた国を作ることだってできるはず。
私たちは悲しみに打ちひしがれながらも、まだ希望を持っていた。
そんな時だった。
上空を駆ける赤いドラゴンが、急降下してこちらに向かってきたのは。
「ドラゴンがこっちに来る!」
誰かが慌てたように言う。
ドラゴンは凶暴で、たまに気まぐれにエルフを襲うことがある。皆が混乱におちいるのは無理もない話だった。
今回の森火事も、このドラゴンが引き起こしたことかもしれない。私だって、お母さんがいなければきっと取り乱していただろう。
「シルフィアさん!」
ヴィルがお母さんに呼びかける。お母さんはそれに応えて右手をドラゴンに掲げる。やさしい風が吹く。目の前できれいな銀の長髪がなびいた。ドラゴンは今にも火を吐き出さんと大きく口を開けて、空気を思い切り吸い込む。
『火の精霊よ、その気高き流儀を以って悪しき火を鎮めよ』
お母さんが精霊魔法の詠唱を行うと、ほのかに赤く光るベールが私たちを包み込む。
火精霊の聖域。
誰かを護ることに特化した精霊魔法のひとつの極地。悪意の火を拒絶する絶対の結界が、ドラゴンの吐く火炎の息を防いだ。
しかしドラゴンは意に介さず、そのまま私たちに向かって突っ込んでくる。火を介さない攻撃に火の精霊絶域は意味をなさない。お母さんは続けて詠唱する。
『風の精霊よ、そのやさしさを以って悪しきものを風で覆え』
風精霊の聖域。
お母さんの得意とする風の精霊魔法。ドラゴンの飛ぶ速度が急激に低下する。
『精霊たちのはたらきにより、悪しき霊はその力を失うだろう』
二重精霊聖域。
詠唱が終了し、精霊魔法が安定化した。これでドラゴンのブレスは無効化され、飛行速度は小鳥と同じほどになった。
この勝機に、戦えるエルフたちが魔法でドラゴンを捕縛する。
「グギャァアアアア!!!!」
ドラゴンが慟哭する。
その巨大な体にはツタや水の鎖が絡まり、動きを封じている。ドラゴンは地面へと墜落していくが、地の精霊魔法で操られた森がその体を優しく受け止めた。
エルフたちは歓声を上げる。
ああ、誰も傷つけずに済んで良かった。
私とお母さんも喜びの声を上げた。
しかし、その喜びの声も長くは続かなかった。何百もの咆哮が重なったような、耳の良いエルフたちにとってはあまりにも耳障りな轟音が鳴り響く。
「……っ」
私は顔をしかめて耳を抑えながらも、轟音の発生源を探す。
……見つけた。
上空から、森から、膨大な数のドラゴンが、百匹、二百匹、三……
わぁあああっ!!!
冷静に数えてる余裕なんてないっ!!
私たちが油断するのを隠れて待ってたんだ!
「……ひぃ……っ」
怖い、助けて、誰か助けて、おじいちゃん、お母さん! これは夢? 熱い、夢じゃない。逃げなきゃ、どこに? 森、森は燃えてる、空、ドラゴンがいる、わかんない、わかんないよ! 翅、力入んない、どうしよう。どうしよう。どうしよう。
痛っ、お母さん、強く掴みすぎ、あっ、景色が流れてる、私お母さんに引っ張られてるんだ。あははっ、面白いっ♪ びゅんびゅん飛んで気持ちいい。こんなに楽しいのは久しぶり。あれ?なにか忘れてるような。
そうだ、私は空を埋め尽くすドラゴンを見て……その牙は私の体を貫いて噛み砕くためにある、その爪は私の体を引き裂いて、目玉を抉り出すためにある。私ドラゴンに食べられちゃう?
やだ、いやだ、やめて、怖い、誰か助けてよ!
死にたくないよ!
あっ、目の前に口を開けたドラゴンが。私死ぬんだろうな。もうどうでもいいや。なにもかもどうでもよくなると、急に冷静になった。見えるものがすべて止まっているかのように遅くなる。思い出が頭を走る。死ぬ直前に思い出しても意味ないのにね。
ちらりと周りを見ると、逃げまどって飛び回るエルフたちが見える。勇ましく戦っている者たちもいるが、ドラゴンは戯れるようにエルフを翻弄して頭から食べてしまう。けれど私はもう何も感じない。だってもう絶望したから。どんなことだって受け入れられる。
前を見ると、お母さんの背中が見える。綺麗な翅。綺麗な髪。ねえ、お母さんも一緒に死んでくれるよね?
よく見ると、ドラゴンの背に誰か乗ってる。人間さんかな? どのドラゴンにもひとり乗ってるみたい。目を凝らして見ると、目の前のドラゴンにも人間さんが乗っている。
っ……あれは……あの時の人間さん……
どうして? 絶望したはずなのに、もう全て諦めたはずなのに。とめどなく涙が出る。この世界は、おかしいよ。
森の火事で焼きつくされたはずの私の心。くすぶっていた炎に黒い絶望がそそがれる。そして、私は皆の幸せを願っていたはずなのに、
「みんな死ねばいいのに」
私はドラゴンに食べられる直前。つい、そうつぶやいてしまった。こんな残酷な世界は、無くなったほうが良いのかもしれないから。
『天使、聖イヴエルが命じます。すべてを捧げなさい』
ふと、少女の歌うような声が聞こえた。少女の無邪気な歌声のはずなのに、その音を聞くと背筋がぞっとする。
『停止しなさい』
目の前のドラゴンが突如停止する。ドラゴンもヒトも落ちていく。
『風は彼らを受け止め、火は鎮まりなさい』
風がドラゴンとヒトを受け止める。燃えていたすべての炎が消える。きっとどんなエルフにもこんなことはできないだろう。私は声のした方を向く。
すると、そこには羽の生えた幼女がいた。
エルフのような翅じゃない。鳥のような翼、けれど鳥よりずっと大きくて美しい翼。頭上には光の輪が輝いている。太陽のような金色の長い髪、晴れた空のように青い瞳。少しとがった左耳の上にはちょこんと小さな赤い木の実の髪飾りを付けていた。
そこまで見て私は限界になって目をそらした。意味不明なほど美しい容姿と、まぶしい輝きも原因だけど、彼女が生物とは思えないほど冷たい目をしていたことに対する本能的な恐怖が一番の原因だ。
『お願い、少しだけ記憶をちょうだい』
目をそらしたのが悪かったのか、光のような速さで私の目の前に移動する羽付き幼女。ドラゴンよりもずっと怖ろしいその目が私を――