空夢の終わる時
空を自由に飛びたいな。
それは人類共通の夢。
飛行機では満足できなかった。
俺は生身で空を飛びたい。
イカロスはロウの翼で飛び立ったのだ。
本物の天使である俺が飛べないはずがない!
「ああああぁぁぁ・‥…-」
無理。無理です。
人が翼をもったことなんて、有史以来ないんだよ?
いきなり飛べるわけないじゃないか。
俺は飛べない天使なんだ。
かっこいい響きだろう?
真下には庭園が広がり、その中央には一本の樹が生えていて、樹の周りを囲うように小さく浅い水堀がある。水堀の外側では色鮮やかだがやさしげな花々が咲きほこっている。
ガブリエルに連れられたあと、この庭園の上空で天使としての飛行訓練を受けることになったわけだけど、見ればわかるように俺は今とても苦戦している。
「ほら、ふわっとして、ひゅーんです!」
ガブリエルが身振り手振りをしながら意味不明なアドバイスをしてくれる。どうやらガブリエルは感覚派らしく、俺には言っていることがさっぱりわからなかった。
俺はなんとか翼を制御しようとするがあまりうまくはいかない。なにしろ天使の翼は少し動かすだけで、ものすごい推進力を生むのだ。その速度はロケット花火の比ではない。普通に音速を超えている気がする。
翼を羽ばたかせると、俺はどこまでもすっ飛んでいく。悲鳴を大気に置き去りにして。俺が高所恐怖症だったら、それはもう大変なことになっていただろう。いや高所恐怖症じゃなくてもめちゃくちゃ怖いけど。
「もう、仕方ないですね!」
かなり高いところまで上昇していた俺に、下にいたガブリエルが一瞬で肉薄した。背後を取られる。お父さんにも背後取られたことなかったのに。
そして俺の脇の下から手を回して、胸の辺りでぎゅっと抱きしめる。
そう、まるで親がやんちゃな子供を捕まえるかのように……
俺は急に恥ずかしくなり、じたばたと暴れる。
「はっ、はなしてください!」
「じっとしててください! 体で教えますから!」
「や、やめっ……」
顔がすごく熱くなってくる。
これはだめだ。
顔真っ赤になってるパターンだ。
こんな顔を人に見られるのはとても恥ずかしい。
だから余計顔が赤くなる。
以下無限ループ。
赤面症、せっかく治ってきたと思ってたのに。
ひどいよ。
「行きますよ!」
ガブリエルが掛け声と共に飛翔する。景色が無限に引き伸ばされてゆく。宇宙映画でよくあるワープのシーンみたいだ。っていうかこれ本当に飛んでるのか? 時間を跳んでたりするんじゃないだろうか?
「どうです? わかってきましたか?」
「……!」
ガブリエルは何度も何度も飛翔する。これでなにか理解できると本当に思っているのだろうか? 思ってるんだろうな。
ああ、意識がふわふわしてきた。さっきから何も言えないほど恐怖してるのに、なぜか気づいてくれない。もし排泄器官がついてたらとっくにおもらししてるところだ。両方。今だから言えるけど、実は俺は小学生のとき大も小も漏らした経験がある。だけどもう人間ではなくなったから、悲劇はもう二度と起こらないはず。
天使でよかった。
いや、やっぱよくない。
ああ……意識が。
天使って気絶とかするんだろうか……
☆
……はっ。
わたしはだれ?
いったい何がどうなったんだ。
「目を覚ましましたか」
目の前にガブリエルのかわいらしい顔。透明感のあるスカイブルーの瞳が俺をのぞき込んでいる。俺は気絶していたのか、白い大理石のベッドのようなものに寝かされているようだ。見た目は硬そうだけど、マシュマロのように柔らかい。俺の背中の翼は不思議なことにベッドを貫通している。
「この程度で諦めていたら、天使は務まりませんよ」
ガブリエルの声は突き放すようなものだったけど、その瞳はちょっと大げさなほどに涙でうるんでいた。
それを見たら、ガブリエルを怒る気にはあまりなれなかった。
俺は申し訳なさそうにガブリエルの目をじっと見つめる。心配かけてごめんなさい。これで伝わるといいな。
もし言葉にして言ってしまったら、ガブリエルは自分を責めてしまうだろうから。
ガブリエルは意図をくみとってくれたのか、小さくうなずいて俺から離れる。
「ありがとう、ガブリエル」
俺はちょっと微笑んでそう言った。ガブリエルは恥ずかしいのか、目をそらしてぷいっと横を向いてしまった。すると、ガブリエルの左耳に小さいさくらんぼみたいな髪飾りがついているのが見えた。天使は高尚なものかと思ってたけど、意外とかわいいところもあるんだ。
---
俺が気絶した後、ガブリエルは天使の力に関していろいろ話してくれた。それによると天使の体はありとあらゆる物理干渉を受けつけないらしい。
じゃあなんでものを見たり、聞いたり、地面に立ったりできるのかっていうと、それは天使の持つ力、魔法があるから。
天使というのは世界そのものの一部でもあり、魔法を使って世界を感じ取り操っている。この天球で人間たちが使う神聖魔法だって、天使を介して使っているらしい。
要するに、天使はこの星にて最強だということだ。絶対無敵と言ってもまったく過言ではない。"はい、無敵バリアー"とか唱えればすべての攻撃は通じなくなるのだから。
ちなみに翼が物質を突き抜けるのは、基本的に翼は物質と干渉しないようになっているかららしい。飛翔や念力や透視だって自由自在だし、やろうと思えば質量ある翼にもできるってことだ。
それを知って俺はさっそく翼をさわりたくなった。俺は羽っぽいものが大好きだから。
でも、ガブリエルの前だから必死で我慢する。
ばれてないよね?
「なんでそんなにプルプルしてるんですか?」
ああ、それにしても魔法って便利だなー。天使ってすごいなー。
「まあいいです。それでイヴエルがなぜ気絶してしまったのかについてですが、それは"時間酔い"が原因です。私はかつて"永久の大天使"と呼ばれただけあって、時間をつかさどる天使なのです。さっきのは瞬間移動――つまりある種の時間移動――が原因で、イヴエルは一瞬の時間に詰め込まれた世界を処理できなくなって、気絶してしまったわけです」
確かに世界が引き伸ばされてなにがなんだかよくわからなくなってた。それで俺の足りない頭が処理落ちしたのか。
じゃあ時間酔いするのを知ってて、なんでガブリエルは俺を連れて瞬間移動したのか? 仄暗い闇の底から沈んだはずの怒りが三センチほど浮上するのを感じる。
「……それが分かっていて瞬間移動したのですか?」
「いえ、他の天使に試したことがありますが、その時その天使は少し気持ち悪くなったと言っていただけでした」
「そうなんですか。なら仕方ないですね」
「はい。仕方ないんです」
でもよく考えたら普通に飛んでくれなかったガブリエルが悪いのは自明では? 俺がそれに気づいてガブリエルを見ると、なんだかにこにこしている。しかし一度わざとやったのを疑って潔白を証明されたせいで非常に糾弾しづらい。
それに、もしかしたら普通に飛べないとか深い事情があるのかもしれないし、これ以上追求するのはやめておいたほうがいいだろう。それでも。
「誰かの前で無防備な姿をさらすのは恥ずかしいんです。覚えておいてくださいね」
「わかりました、覚えておきます」
ガブリエルは反省したようにぺこりと頭を下げた。
思い返してみれば、気絶なんて人生で……天生? 少なくとも転生して初めての経験だ。
天使は夢を見るのだろうか、なんて転生してからずっと思ってたけど、気絶してたときに間違いなく俺は夢を見た。空を飛ぶ夢だ。ありふれた夢、空夢、現実にはありえない夢。心理学の夢診断だと、自由への渇望を表すとか。
俺はずっと昔から、空を飛ぶことに憧れていた。だから、それはただ純粋な空への渇望だったんだと思う。
夢の中では、望むままにどこまででも飛べる。飛べるようになろう、と努力する必要もない。すべては思い通り。
そうか。
もしかすると、天使の飛び方も同じなのかもしれない。
いつの間にか俺のとなりにはガブリエルが立っていた。俺のことを見守ってくれているようだ。なんだか飛べる気がした。
今、心から請い願う。
どこまでも自由に飛ぶための力を。風を切り空を駆ける神の御業を。
「神さま、翼をください」
俺は地をけって飛翔する。流れゆく風を感じた。地面が離れてゆく。空を飛ぶのって、こんなに簡単なことだったのか。
心が人間としての束縛から開放される。どこまでも青い空を、俺は自由にかけめぐることができた。
こうして空を飛ぶという俺の夢は叶えられ、空夢は正夢となった。
ついに空夢の終わる時がやってきたというわけだ。
ある程度飛んだら、空中で一旦停止する。さっきまでは余裕がなくて風景を楽しむことができなかった。
ドキドキしながら見渡すと青色、雲ひとつない空。見下ろすと遥か下に雲が広がっている。青い海に散らばる白い流氷を見るような気分だ。飛行機から見たような世界だけど、空と俺を阻む無粋な窓も壁も、ここにはない。
天球の遥か上空に、力を入れずともふわふわと浮かぶ体。人間ならば凍りつかせてしまうような冷たい風も、天使の体ならば涼しくて心地よく感じる。
思い切りばさりと羽根を伸ばす。
すーっと手足の力を抜く。
目を閉じる。
呼吸する必要はないけれど、きれいな空気で深呼吸。天使になったんだ、と初めて実感できた気がした。
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そんなこんなで、俺は飛べるようになった。まあ、まだそこまで完全に自由に飛べるわけじゃないけど、ジェット機と空のレースをすることくらいはできるレベルだ。十分すぎる。いや、別に十分が経過したわけではないけど。自分の力で飛べるようになってから体感ではまだ五分しか経ってないよ。
「おめでとうございます、これでお仕事出来ますね」
自力で空を飛べて感動していたのに、ガブリエルはちょっと無粋だ。仕事だなんて。これでも俺の将来の夢はにーとだったのだ。
"Hi! What do you do?"
"I'm neet."
うん、最高にクールだ。
「怒らせてしまいましたか? すみません。でも、仕方ないんです。エルフの危機ですから」
「エルフ? 俺が守る予定の種族のことですよね。そんなに急を要するほど危ないんですか?」
「はい。今現在も人族に侵攻されています。一秒につきおよそ五エルフがヒトに捕まっています」
「捕まったエルフはどうなるんですか?」
「大体は愛玩奴隷、労働奴隷、見せ物、標本などですね」
「そんな……ガブリエルさんは助けに行けなかったんですか」
「はい、私はどうしてもここを動くことは出来ないんです。申し訳ありません」
ファンタジーのお約束、エルフ。ガブリエルから聞いた話を思い出す。
この世界のエルフは昆虫のような翅を持ち、耳が尖っていて、平均身長はヒトより低く、ヒトに大量捕獲されるくらいの美貌を誇る。また、自然をこよなく愛し、争いを好まないが、非常にだまされやすいという難儀な性質を持っている。
この世界の人間はひどい奴らだ。エルフを奴隷だとか、そんな扱いをするなんて。
奴隷。ニュースとか歴史とかでしか見聞きしたことはない。ずっと遠い世界のことだと思ってた。まあここもいわゆる遠い世界だけど。だって異世界だし。
「エルフを守るのは俺の仕事でしたよね」
「はい、そうです」
俺は人から無理やり押しつけられた仕事は嫌いだ。それでも、自分からやりたいような仕事だってある。
"もし目の前に助けを求めている誰かがいたら、必ず助ける"
霊長類として当たり前だけど、俺のポリシーだ。
エルフにはまだ会ったことないけど、こうして助けを求めてるんだから助けに行かない手はないよね。
幸い、頭の中を漁ると、俺の体には言語と一緒に天球の地図もインプットされている。今いる場所は天使の国。
ヘヴンは空に浮かぶ大陸、ユーラス大陸の上空に地上から隠れるように存在している。そしてユーラスから南へ飛び、とてつもなく高い山脈、天峰を越えたところには大森林が広がっている。
その大森林にエルフの住む国がある、とガブリエルはあの長い話の中で言っていた。
「それじゃあ行ってきます!」
「あ、ちょっと待ってくださ……行っちゃった。まあ、多分大丈夫でしょう」
初めて空を飛んで興奮していたのか、エルフの話を聞いて情にかられたのか。俺はあまり考えなしに、天使としての初めての仕事をするために飛び立ったのだった。
目的地は天球でただひとつのエルフの国、妖精王国。
(数分後)
「はぁー、はぁー。ああっ、羽根の手触り気持いいよう」