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神の原罪 -そらかける幼女天使の物語-  作者: 幻想艇
SideStory そらかける少女天使の物語
25/31

命は世界を巡る

 あしの葉が風にそよぎ、一日の始まりを囁く。

 どこからか聞こえる。大地に生きる動物たちの歌が。灌木かんぼくの枝の絡まりあった、深い茂みの奥でせせらぐ小さな川の水音が。

 天使の翼がはためくと、完全な白色をした羽が樹間を舞う。


 ――空の黒が群青に押しつぶされつつある。空が海と同じ色になる時刻。僕は木立で追憶にふけっていた。


「それにしても、この世界に来てから随分と経ったなあ」


 木に向かって呟く。当然のことながら答えはなかった。

 けれど自分で首肯する。確かに長い時を生きたのだ、と。

 人としての寿命を全うし、その上天使として転生して、何千年経っただろう。

 さすがに、少しだけ疲れてきた。時折脳裏をよぎる死が、もはや恐怖の対象ではなくなってしまうほどに。


 天使は自ら望まなければ決して死なない。でも、望んで死ぬ者が果たして存在するのだろうか。

 目の前にある現実を恐れて、そこから逃げ出して、死を選ぶ。この世にはそういう死しか存在しないんじゃないか。

 だとすれば、僕はもう決して死ぬことは叶わない。天使にとって恐ろしい現実なんて、世界のどこにも存在しえないのだから。

 ふと、永久を想像する。世界が滅んでも、生き物がみんな死んでも、永遠に生き続ける、天使の姿を。


 心の底から突き上げてくる恐怖が、僕の体を突き動かす。目一杯大きく翼を羽ばたかせた。

 つるの芽吹く森を飛び、精霊めいて美しい湖が目の端をよぎる。もう湖の底は透けたらしい。


 湖のほとりで妖精が漂い流れ過ぎて行く。

 恐れる心がその後を追って行った。

 そして天使の翼は恐ろしい死を覆い隠す。

 黎明の光を喜ぶ者がいる。恐れる者もいるし、悲しむ者もいる。

 だがすべては終焉へ、星屑の集まる終焉へと向かう。




---




 光が森をあまねく満たす頃、それは起きた。

 妖精の次は、獣人を助けなければ……と考えている最中、ルシフェルが僕の目の前に現れたのだ。その翼は見たことのない漆黒の色をしていた。

 そして、その手には妖精の子、リーンちゃんが抱えられている。彼女に意識はなかった。眠らされているらしい。

 ルシフェルは僕と出会って第一声、


「こいつを助けたければ俺の言うことを聞け」


 とのたまった。

 冗談じゃない、誰が弟を殺すような奴の話を聞くものか。

 力ずくでもリーンちゃんを助け出したいところだが、天使同士の戦いで彼女を守れる気はしない。

 僕は時間を司る天使としての力を発動し、時間を跳んで過去を改変しようとする……が、その前にルシフェルに遮られる。


「言っておくが、時間を跳んでも無駄だ。俺はこいつを何処に隠そうと必ず見つけ出すことができるからな」


 それはその通りだろう。リーンちゃんを過去に戻って隠しても、全知であるルシフェルに対しては全く意味がない。

 けれど、過去の自分に彼女を守れと伝えることはできるはず。

 ……いや、それを狙っているのか?

 僕自身は絶対に殺されることがなくても、ルシフェルからリーンちゃんを守り切ることは恐らくできないだろう。

 過去を変えようと時を重ねるごとに、僕の中で彼女の存在感が増し、やがて途方もなく大きな存在になった時彼女を殺されたら――僕は死を選んでしまうかも知れない。


 ……嘘をつこう。

 絶対であるはずの時間支配能力でも天使に関しての未来を読むことができないように、全知であるルシフェルもまた僕の思考を読むことはできないはず。

 だから僕は笑って、吐き捨てるように言う。冷酷を演じて。


「……彼女を人質に取っても意味ないよ。僕は彼女を大切に思ってなんか無いんだから。ただ、世界の調和のためにこいつを利用しただけ。全知なら知っているだろ? 僕が人族の間引きのために、こいつを妖精共にけしかけたのを」


 人族の間引き、これは嘘じゃないのかもしれないな。僕は結局、妖精のために彼らを殺させたのだから。

 僕の言葉に対し、ルシフェルは本当に冷酷な表情と言葉で返す。


「そうか、ならこいつは殺しておこう」


 闇がルシフェルの翼からあふれだす。その闇はナイフの形を取ってリーンの胸に突き立てられる。

 このままでは彼女が殺される。これがルシフェルの演技だったとしても、これ以上見ていられなかった。

 僕は声を荒らげて口走る。


「待って! ……聞く、言うこと、聞く……から」


 ナイフはリーンの胸を引き裂く直前、黒い霧となって霧散した。僕の心を締め付けていた紐がするりと解ける感じがした。温かい安堵が心の器を満たす。

 ルシフェルが少し笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。


「そうか、ならば聞け。母、ラファエルに向かって俺が指示する通りの言葉を言え。そうすればこいつは開放してやる」


 何でそんなことを……母だって天使が死のうと思わなければ死なないということを知っている。

 脅される演技をしても騙されるわけがない。騙されるほど彼女は愚かではないはずだ。

 仲間になれ、だのそういったことを要求されるかと思っていたけど、拍子抜けだった。

 だから僕は直ぐに承諾する。


「わ、わかった」


 その言葉を聞いて、ルシフェルは「母のところに案内しろ」と僕に命令する。

 ……絶対に許さない。いつか必ずリーンを取り返してやる。そう胸に秘めて、僕は翼を打拡うちひろげ、大空へ向けて飛び立つ。




---




 西へ飛ぶ。

 太陽から逃げるように飛んでいく。

 森を越え、湖を越え、けわしい山を越えて。

 眼下に白銀の川が流れる幽谷が表れ、頭上では翼を拡げた鳥型の魔物が、僕を目視することもできずに飛び漂っていた。

 川上の方へ行くと、白いかすみが出てくる。涼しいせせらぎ。森はいっそう深く、川は浅くなって、魔物の気配が強くなる。

 この世界でも上位の力を持つ魔物たちが潜んでいるのだろう。獣の声さえ聞こえない。谷は森閑としている。


 母はこの辺りにいるはずだ。彼女のことだから、探し人をするときは霞に覆われた森や暗く深い洞穴を探すに違いない。

 そう考えながらルシフェルを背後にして飛んでいく。


 ……案の定、母はすぐに見つかった。川岸の苔むした岩に座っている。頭に手を当てて、何か思い悩んでいるらしい。

 彼女がため息を吐いて、静かに呟く。


「はあ……迷いました」


 そんなことだろうとは思っていた。彼女は後先考えずどんどん深いところに入っていく癖があるから。

 僕が彼女の目の前、砂礫にふわりと着地すると、純白の羽が舞って、彼女が目を上げた。

 その瞳は僕を見て、そして僕の後ろのルシフェルを見る。


「ガブリエル? ……とルシフェル?」


 母がそう言って、首を傾げる。その表情は嘘偽りない純真無垢だった。

 僕はこれから彼女に嘘をつかなくてはならない。胸に棲む侏儒こびとがチクチクと心臓を刺しているようだ。心が強く痛む。

 しかし、そんな僕の内心とは真反対に、彼女はルシフェルを指差して満面の笑みで言う。


「ガブリエル! ルシフェルを見つけましたよ!」


 ……これから僕が話すことを、彼女は演技だと気付いてくれるだろうか。

 若干不安になってきたが、僕はひとつ深呼吸して、告げる。


「ごめんお母さん。僕、ルシフェルに捕まった」


 時が固まる。母は身をかがめ僕の瞳を下から覗き込んで、数秒後、言葉を漏らすように言った。


「そう、ですか」


 不思議そうな表情。それは僕の言葉を信じていない時の表情だった。良かった、演技だとは分かってくれたようだ。

 続いて、ルシフェルも強い語調で母に問う。何かを要求する気なのだろうか。


「二度と俺の邪魔をしないと約束しろ。共謀する可能性があるから、今後ガブリエルと会うことも許さない。もし約束しないのなら、俺はガブリエルを殺す」


 約束は守る。母はそういう人物だ。だから、僕が囚われの天使を演じていたとしても、きっと彼女は一度結ばれた約束を守り続けるだろう。少なくとも守れない約束をする人物ではない。

 母が目を伏せ、悲しそうな表情をして言葉をこぼす。


「……ガブリエルと、二度と会えないのは、嫌です。私は彼を必死の思いで産んだのですから」


 ルシフェルが言葉を風に乗せて、僕に伝えてくる。

 その言葉は、僕が今、絶対に言いたくない言葉だった。無理だ。これだけは、絶対に!


 ――瞬間、ひとりの妖精の姿がちらつく。それを言わなければ、殺されてしまうであろう妖精の姿が。

 だが、もし今それを言えば、その妖精の死は回避される。母には少しのあいだ嫌われてしまうだろうけど、この場合は取りかえしがつくはず。いやむしろ、言ってしまった方が良いのかも知れない。……きっと神さまも、許してくれる。

 短い逡巡の後、僕はついに重い口を開き、それを口に出して言う。


「僕は、生まれてきたくはなかったよ」


 それを聞いて、母は目を大きく見開いた。彼女はしばらく呆然とする。その頬をひとすじの暖かい涙が伝った。そして迸る感情を抑えこむように無理やり微笑んで、心底辛そうに口を開く。


「その言葉が嘘だったとしても――私はとても、悲しいです」


 近くにいるはずなのに、母の言葉がずっと遠くに聞こえた気がした。魂が握りつぶされるような衝撃を受ける。

 今初めて理解した。嘘だとしても決して言ってはならない言葉だったのだ、と。

 いくら言い訳をしても、正当化できる言葉ではなかったんだ。

 見ると、母は悲しみを通り越して、何かを諦めた虚ろな表情。彼女は誰かに向かって口走る。


「そろそろ世界を去るべきだとは思っていました。神さまも……どこかにいなくなってしまいましたし。それでも、私はもう神さまに言い訳をしたりはしません。自ら死を選ぶのは悪いことです。今から私は悪いことをします。ごめんなさい、ガブリエル。私は、死を以って貴方に償わなければいけません」


 彼女は殉教者のように、胸に両手を当てて、ゆっくりと目を閉じる。強い死の気配。嫌な予感がする。

 僕は叫ぶ。ことの真実を、後悔を、"ごめんなさい"を。すべては遅すぎた。


「さよなら、ガブリエル。……あ、友達はちゃんと大切にしてあげて下さいね?」


 ――天使は自ら望まなければ決して死なない。


 光が散る。白い、とても白い光が。それはとても美しかった。

 色を持たない魂が天上へと昇っていく。僕はそれを捕まえようとするが、手の間からすり抜けて、消えてしまう。

 後には魂の抜けた彼女の体だけが残されている。今すぐにすがりついて泣きたいが、ルシフェルのいる前ではそうもいかない。

 僕は母の遺体を抱え上げて、振り向き、ルシフェルを睨む。


「……死んだか」


 ルシフェルがそう呟く。荒れ狂うような怒りを感じる。だがその怒りはすぐに自分へ向かう。

 僕が言わなければ、脅しに屈しなければ、こうはならなかったはずだ。下唇を強く噛みしめる。


 まだ。まだ終わっていない。

 僕には時の力がある。過去へ戻りさえすれば――


 その瞬間、ルシフェルが空へ向かって飛び立つ。リーンは地面に横たえられていた。逃げる気か?

 いや、違う。ヘヴンの方角に向かっているみたいだ……そうか、ふたつ目の木の実を食べる気か!

 ルシフェルは全知だが、神さまは全知を騙す方法を知っていたのかもしれない。だから神さまがいなくなったことは今までルシフェルには隠蔽されていたんだ。僕も母に教えてもらうまで、神さまの不在を知らなかった。


 だが、それももう意味はない。母が教えてしまった。このままではルシフェルが神になってしまう。

 たったひとつの時間軸でも、ルシフェルが神になってしまえばきっと他の時間軸にも干渉してくるだろう。

 過去に戻って未来を変えても、そうなればすべては水の泡だ。

 僕はすぐに詠唱する。


零時間転移テレポーテーション!』


 その瞬間、木立から一体の精霊が顔を出す。そこにいることは最初から分かっていた。母に話しかける機会をずっと伺っていたのだろう。

 ……僕は彼女に謝らなければならない。だけど、今は時間がない。

 僕がこんなことを言う資格はないと思うけど、リーンをお願い、シルフ。

 精霊なら、天使を相手にしても逃げることができるはずだ。

 無理ならば天竜イヴニールに助けを求めて欲しい。

 恐らくルシフェルはもうリーンを捕まえたりはしないから、大丈夫だとは思うけど。

 母を排除するという目的は達せられたのだから。

 それに、僕も二度と同じ手は食わない。

 やっぱり、天使が直接に誰かを救ってはいけなかったんだ。




---




 七本の白い柱が立っていた。

 懐かしいヘヴンの土地だ。


 僕は母を七本の白い柱の中心に横たえる。

 いつルシフェルが来るかもわからない。

 意味があるかは微妙なところだけど、一応ヘヴン全体に結界も張っておく。


時の幻想牢獄(クロノスクオリア)……時空結界リジェクション…………聖絶ハーラム


 時間ごと閉じ込め、外界と隔絶させ、最後にここを僕の領域にする。

 これなら、少なくとも天使以外が破ることは絶対にできないはずだ。


 さらに僕は庭園に飛び、今なっているすべての生命の実を取った。

 新しい生命の実がなるまではしばらくかかる。ルシフェルが狙っているのは生命の実だから、もしヘヴンに侵入されても、これを持って逃げれば時間を稼げる。


 ……もし、僕が神さまになれば全部上手くいくのに。

 そんな考えが頭に浮かぶが、頭を振って振り払う。神さまになるってことは、世界のすべての責任を負うっていうことだ。

 僕にはそんなこと出来そうにはない。それに、そんなことをしたらルシフェルと同じになってしまう。

 僕は恐ろしい誘惑に耐えながら、身構える。


 だが、一分、一時間、一日、いつになってもルシフェルはやって来なかった。

 諦めたのだろうか。いや、そうとも限らない。

 いつどこで襲撃されるかわからないのだから、ここを離れることはできないだろう。


 ……その間、僕にもやるべきことがある。僕は母の復活を諦めたわけじゃない。

 魂は、僕の元いた世界を経ていずれ戻ってくる。その時まで待って、母の記憶を呼び覚まそう。

 生命の実には魂の記憶を呼び起こす力があるから、それを使えばきっと上手くいくはずだ。




---




 終焉は美しい。誰もがそれに惹かれて、無意識に死へと向かっていく。

 透明、黒、白。死が何色であろうと、命は終焉のトンネルを抜けると、虹色に輝いて弾けるのだ。


 十六年の歳月が経ち、母の魂は再びこの世界に戻ってくる。

 僕はその魂を母の亡骸に入れた。彼女が、母の魂が、長い旅を経て再び目を覚ます。忘れもしないやさしい声。

 そして、彼女は自らに名付ける。それは奇しくも母の古い名をもじった名だった。彼女の名は、イヴエル。


             SideStory end

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