僕が天使になった日 <feat.gabriel>
――セツ、あなたは神さまに言い訳をしてはいけませんよ。
母の声が僕の耳朶を打つ。
後ろで、竪琴が軽やかな音色を奏でている。
小川のさらさらとした水音や、草原に吹くそよ風を想像させるような、やさしくて懐かしい音色。
深い記憶の底から過去が浮かび上がる。それは母の竪琴の音色だったはずだ。
――どうして言い訳しちゃいけないの?
小さい頃の僕の声。母に問いかけるその声は、無邪気で、幼かった。
たくさんの不思議と発見で満ちあふれていて、しかし今は色あせてしまった思い出の光景に、少しだけ色彩が差し始める。
――もう二度と、原罪を犯してしまわないように、です。
鈴をふるわすような声で、母は確かに、そう答えた。けれども、その頃の僕には母の言うことを理解できなかった。
だから、僕はもうひとつ質問をしたんだ。
――原罪って、なに?
僕の言葉を聞いた母は、何故かそれっきり黙ってしまった。
当時の僕は、なにか悪いことを聞いてしまったのだろうか、と夜なべしてうんうん思い悩んだっけ。
結局、どうして母が黙ってしまったのか、その答えは出なかったんだけれども。
残念ながら、あれから九百年経った今も、まだ答えはまだ見つかっていない。
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淡い夢から覚めると、白く濁った硝子が僕の視界を覆っていた。
そう思えるほどに、世界は真っ白で、なにもなかった。
それゆえに、ここはきっと天国なのだろう。
僕はそう直感した。
……思えば、長い時を生きたものだ。
精を出して土を耕し、けものの肉を食べ、闇の帳が下りる時間になると、小麦を乾燥させた藁を土に敷いてぐっすりと眠る。
そんな生活を続けていくうちに、幸福も、もちろん不幸も、数えきれないほどに経験した。
二番目の兄が一番目の兄に殺されたり、妻が子供を産んだり、父が亡くなったり、母が突然いなくなったり。
人生における大きな出来事といえばそれくらいで、僕自身は大したことは成していない。むしろ、飼っている羊のほうが多くのことを成したかも知れない。
それでも、僕はじゅうぶんに生きたと思う。
だから神さまに牽かれ、天上へ昇り、神さまの住まう地で過ごすのも、良いかも知れない。
僕は無辺の白世界を真っ直ぐに見据えて、うん、とひとつ頷いた。
「これでいい?」
予期しない、透明な声。その、男とも女ともつかない、深山幽谷のさらに奥の砂礫で長い時をかけてろ過された泉のような、なんの混じり気もない透き通った声は、ともすれば聞き逃してしまいそうになるほどに透き通っていた。
人の喉を通って出る声とはとても思えない。神さまか、それに準ずる者にしか出せない声だと僕は思った。
体をめぐる衝動のままに、僕は声の来た方を振り向く。まず目に飛び込んできたのは、光のように白い翼。光そのものである輪。
しかしそのふたつの部分以外は、おおむね人と変わりないと言えなくもなかった。
人の頭があるし、人の腕があるし、人の足がある。朧気ながら、それだけはなんとなく分かっていた。
僕が人のかたちをしたソレを呼吸を忘れるほどに凝視していると、ソレはこちらを一瞥してから、白い空っぽの空を見上げた。
すると、瞬きもしないうちに、突如、紫水晶の門が天にあらわれて、開いた。
そして、人が門を通って、落ちてくる。
「セツ!」
落ちてきた人が僕の目前まで迫る。慌てて回避しようとした瞬間、僕の名を呼ぶその声にどこか懐かしい郷愁を覚え、思い直して立ち尽くす。これは――幾星霜の時を経て忘れもしない、母の声だ。
「お母さま!」
僕は両手をめいっぱい広げて、母を迎え入れる。間隙なく、重たい衝撃、肌の温もり。少し遅れて、数滴の雫が顔にかかる。
天国で再開した僕と母は、時間を忘れてしばし抱きあった。数百年分の時が開けた心の虚を、互いの涙で満たしあうように。
「あー……そろそろ離れてくれる? 創造神もあんまり暇じゃないから」
僕らの抱擁に割り込み、ソレが不機嫌そうにそう吐き捨てた。
心地よくやさしい空気はどこへやら、周囲に気まずい雰囲気が漂う。
僕は母との再開を冒涜された気がして、ソレに咎めるような視線を送る。
だが、邪魔された当事者であるはずの母は、少し慌てて言った。
「セツに会わせて頂き、本当にありがとうございます、主よ。セツ、この方は神さまです。覚えていませんか?」
神さま? いつも僕たちの側にいた、あの神さまだろうか。
僕はソレを見透かすようにじいっと見る。記憶の海に漂う神さまの姿が、正面のソレの姿に焦点を結んだ。確かに、ソレは神さまだ。
慌てて地に伏せ、許しを乞う。
「失礼しました、神さま。急にいらっしゃられたので、平静を失ってしまいました」
「うん、別に謝らなくてもいいよ。あなたは罪を犯していないのだから」
神さまはそうおっしゃって、もう一度天を仰ぎ見られた。
天心に浮かんだ門が再び開き、ふたりの人が門を通って落ちてきた。
目を細めて見ると、ふたりの人は僕の兄たちだった。
「久しいな」
一番上の兄、カインが軽やかに着地し、母に視線を送り、昔を懐かしむように言った。
しかし、僕は彼のことが好きではなかった。
理由は言うに及ばない。彼が二番目の兄を殺したからだ。
そしてその二番目の兄も、門を通って落ちてきていた。
二番目の兄、アベルは静かに着地し、それから後は黙っていた。
僕は彼に初めて会ったが、彼は僕をちらりと目の端で見て、それっきりだった。
母から聞いた話では、カインが彼を殺したそうだ。それを聞いたときはとても悲しく思い、涙を流したのを覚えている。
カインも、あれから長い時を経て、反省しただろうか。そう思ってカインの方を見る。
だがカインは僕の期待を裏切り、彼に向かって、憎々しげに言った。
「アベル、お前も居るのか」
「……」
その言葉に対し、アベルは沈黙を以って返した。
予想に反し、彼は無口な人なのかもしれない、と僕は思った。
それに対し、カインの傍若無人な物言いは、全く想像通りだった。
自らの殺した相手に、気安く語りかけるとは、人として正しい姿だとはとうてい思えない。
僕が憤りを感じて、なにも言い返さないアベルの代わりに抗弁をしようとした時、神さまがひとつ手をならされた。
「言っておくけど、言い争いは無しだからね。あなたたちには、為すべきことがあるんだから」
神さまはそう言われて、続けてこう述べられた。
「あなたたちには、世界を創ってもらおうと思ってね。ほら、この世界にはまだ何もないから、寂しいでしょう。前の世界ではわたしがすべてやって、失敗してしまったから、今度はあなたたちにやって欲しいんだ」
僕たちは静かに耳をすます。
神さまは続けてこう述べられた。
「そこで、あなたたちには神の力を与えたいと思う。この世界では、まだ虚無と混沌が入り混じっているから、あなたたちが想像しさえすればわたしのようになれるはず。だから、さあ、わたしを見てどんな容姿か想像してごらん」
僕たちは神さまの言うとおりにする。
僕がおぼろな神さまのみ姿をとらえようとして、一心に見つめると、その輪郭が徐にはっきりとしてきた。
翼、光の輪、そして……少女?
神さまの髪は黄金のいろ、背はそれほど高くなく、華奢な肢体、少女のような外見だと僕は思った。
――ふと気づくと、僕の容姿は、僕の思い描いた神さまの容姿に変わっていた。
黄金のいろの髪、背はそれほど高くなく、華奢な肢体、少女のような外見。
その背には翼が、その頭には輪があった。
それは、欲しいと思ったその瞬間に自ずとあらわれた鏡によって、それと知れた。
「まあ、上出来、かな。とくに、アベル。あなたはわたしとあまり変わらないように思える」
「……」
アベルが神さまに祝福を享けると、カインは彼に憎しみの目を向け、その後すぐに顔を伏せた。
神さまは、続けてアベルに向かってこう述べられた。
「アベル、あなたは一番うまくやった。ゆえに、あなたはこれから、<神に似たるもの>と名乗ると良い」
アベル――いや、ミカエルは頭を下げて、後ろに下がった。
その容姿は、しぐさは、幼女のようであった。
僕の思い描いた少女よりも、だいぶ小さい。
神さまは、次に僕にこう述べられた。
「セツ、あなたは一番へた。わたしは、そんなに大きくはない」
僕はそのみ言葉を聴いて、気が沈んだ。
すると、母は僕を見て、励ましてくれた。
「気落ちしてはいけませんよ。神さまはあなたの頑張りを見ていらっしゃいます」
神さまはそんな母の姿を見て、言われた。
「イヴ、あなたは癒やしの力をもっている。ゆえに、あなたは<神の癒やし手>と名乗ると良い」
「ありがとうございます、主よ」
母はそう言って、後ろに下がった。
神さまは続けて言われた。
「カイン、あなたは弟殺しの罪をつぐなう気はある?」
「はい。あります」
「わかった。ならば、あなたは<光をもたらす者>と名乗りなさい」
「感謝致します」
カインはそう言って、後ろに下がった。
神さまは最後にもういちど、僕に言われた。
「セツ、あなたは一番へた。わたしは、そんなに大きくはない。されど、あなたは最もわたしに忠実に、それを為そうとした。そのゆえに、あなたは、<神の人>と名乗ると良い」
「ありがとうございます、神さま」
僕はそう言って、後ろに下がった。
神さまは腕を高く掲げられて、僕たちに声をかけられて、それでひとまずの終わりとなった。
「四人のわたしの使い、天使たちよ。地と、天の星と、海と山と野を創造し、地のすべての生き物を創り、それらを従わせよ。逆らうものは、必ずその報いをうけるであろう。あなたがたに従うものには、わたしは祝福を授けるであろう。さあ、行け、天地創造の七日を、今度はあなたがたの手によって為し遂げよ!」




