今日から本気出す
昔の俺だって、犬とか、猫とか、人以外の動物たちの権利についてはそこまで深く考えていなかった。
ペットだとか、家畜だとか、そういう扱いに疑問を抱いたことなんて今まで一度もなかった。
だから、きっと彼らが亜人を奴隷として扱うのも仕方のないことだったんだろう。
とくに、この世界は地球よりも弱肉強食で、人間にそれほど余裕がないのだから。
自分たちに余裕がないのに、誰かに手を差し伸べることなんてできないからね。
自分たちの仲間を優先するのは当然のことだ。
でも、それって良いことなんだろうか、悪いことなんだろうか。
ある人は、それを善だと言うだろう。
しかしある人は、それを悪だと言うかもしれない。
彼らふたりのどちらが正しいかは神のみぞ知ることだ。
つまるところ、人は善と悪とを区別できない。
そういうことなのだ。
だからといって、思考を放り投げて良い訳じゃない。
"人間は考える葦である"と偉い人が言っていたけど全くその通りだ。
人は、もちろん俺もだけど、この事について考え続ける必要がある。
どこまで手を差し伸べるのか。
そして、どこまでを切り捨てるのか。
世界の一部である天使だって、すべてを救うことはできないのだ。
人はもっと救える範囲が狭いだろう。
だけどやっぱり誰かを切り捨てるとき、自分が良いことをしているのか、悪いことをしているのか、とても不安になる。
もし願いが叶うのなら、善と悪の区別を知りたいな。
俺はそんなことを考えながら天使の国へと飛んでいくのであった。
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――天球の遥か上空、ヘヴン、夜明け。群青色の世界。天上に差す黎明の光。
俺が一番始めにこの世界にやって来たときと同じく、七本の白い柱のすぐ側で、俺とガブリエルは向き合って立っている。
「……ガブリエルって人を虐殺したことがあるの?」
カイトの記憶を覗いたとき、ルシフェルが言っていた言葉。
ガブリエルが人を虐殺したことがある、というその言葉の真偽を、俺はまず始めに確かめずにはいられなかった。
しかし俺の考えとは裏腹に、ガブリエルはごく気楽な口調で答えた。
「え? ありませんよ」
「……本当に?」
「ええ。もちろん」
なんだ、よかった。それなら安心だ。
ルシフェルが嘘をついていただけだったんだね。
俺はほっと息を吐く。
もう懸念事項はない。
ああ、長く苦しい戦いだった。
だが世にはびこっていた悪は去った。
人はすべての奴隷を開放し、世界に平和がもたらされたのだ。
俺の仕事、すなわちエルフやビーストの解放は完遂されたというわけだ。
これにて契約は満了、俺は晴れてニートになるのである。
「さて、次の仕事ですが」
「は?」
ガブリエルの残酷な宣告に、若干ドスの効いた声で返す。
「さて、次の仕事ですが」
「いや聞こえてるから。二回言わなくていいから。で、仕事がなんだって?」
「地に落ちたもうひとつのヘヴンズゲートを探して下さい」
「はい。お断りします」
俺は仕事から開放されて、地上で好き放題遊びたい。エルフといちゃいちゃしたい。
それに、誰かが助けを求めているわけでもないのに、ただ働きさせられるなんてごめんだ。
「きちんと給料は出しますよ?」
「いらない」
どうせまたあの木の実なんだろう。無料だとしても、もうあんなもの二度と食べたくはない。
「なんなら前払いでもいいですよ?」
「もっといらない」
「そうですか……」
ようやく諦めたのだろうか。そう思ってガブリエルの顔を覗き込んでみる。
その瞳には思考すら伺い知れないほどに澄んだ空色があるばかりだった。
だがガブリエルが顔を上げた瞬間、俺の背筋にとてつもない悪寒が走る。
『時の幻想牢獄』
上空からネオンのような青い光線が無数に降り注ぎ、俺を光の中に閉じ込める。
俺は慌てて飛翔し、脱出しようとするが、光の牢獄に弾かれて、地に叩きつけられた。紫の燐光が散る。
「いったい何をっ……!?」
俺は光の向こうへと問いかける。答えはすぐに返ってきた。
「働くと言いなさい。さもなくば貴方は永劫の時をそこで過ごすことになるでしょう」
クソッ……嵌められた。
働かなければ家から叩きだされるニートとは真反対に、働かなければ出られない。
でも俺は働きたくない……はっ、そうか。この中に引きこもってれば良いのか。
「言っておきますけど引きこもるのはナシですからね」
「へー。あっそう」
知ったことではない。俺は引きこもるのだ。
「……本当に引きこもってしまうのですか?」
「……」
沈黙は肯定の証。俺は体育座りをしてただじっと待つ。
さあ、ガブリエルとの我慢比べだ。
俺が先に音を上げたら負け、ガブリエルが諦めたら勝ち。単純な勝負である。
「早く出てきてください。天使はテンション上げてこそですよ」
「……」
テンションなど全く上がらない。ガブリエルがどこかへ行ってくれるまでは。
「天使とテンションをかけたのですが」
「ふふっ」
ちくしょう、笑ってしまった。何故だ。ここはどう考えても笑うところじゃないだろ、俺のギャグセンス。
だが出ない。ここからは絶対に出ないぞ。
「……仕方ないですね。確か、ナシ、とか言ってましたよね?」
「……?」
俺が梨美味しい美味しい言ってるのを聞いてたのか? でも、梨がどうしたんだろう。
「さて、これを……『零時間転送』」
「……!?」
ガブリエルの言葉と共に、口の中に突如木の実が現れた。梨、そういうことか!
これは食べちゃだめなやつだ。慌てて吐き出そうとする。しかし、のどギリギリに転送されてしまったので、うっかり飲み込んでしまう。
あっ、これは、やば――
・
・
・
白い石に座って眺めると、突き抜けるような天使の国の空を青い小鳥が飛んでゆく。
この天高く浮かぶ島は、一種の鳥かご。
小鳥はこの島から出ることができない。
ここで生まれたら、ここで生き、そしてここで死ぬ。
もしかすると、それは天使も同じことなのかも知れない。
つまり、ここで生まれたら、ここで生き、そしてここで死ぬ。
だけど、鳥かごの中の自由というものもきっとあるはず。
だってそうじゃなきゃ、この世界は残酷すぎるから。
青い小鳥は俺――強い違和感。自分は男だっただろうか。記憶を探しても、混濁していて良くわからない――わたしの頭の上にやってきて、止まる。
右手を頭のてっぺんにかざすと小鳥が手にぴょん、と飛び乗った。ほんの少しだけ右手の重さが増す。
手をひざの上に戻すと、小鳥はクチバシを小さく開けて、ピィ、と鳴いた。かわいい。
空いている左手で髪を梳く。雲の合間から差す、天使の階段の光をいっぱいにためたような神聖な金の色合い。
その手触りはとてもさらさらしていた。
「ふたつめの生命の実でここまで似てきましたか。いい傾向です」
「えっ? どうしたの、ガブリエル?」
ガブリエルが良くわからないことを言っている。
「……ところで今思ったんですけど、あなたの頭の中って花畑が広がってそうですよね」
お花畑? うーん、急にガブリエルはどうしたんだろう。
よくわからないけど、わたしは答える。
「うん、広がってるよ。お花畑、すてきだよね」
「返答もラファエルと全く同じですか。これはもうラファエルといってもいいのでは……」
「……? さっきから変だよ、ガブリエル。それに、わたしはラファエルじゃなくてイヴエルだよっ」
わたしはにこっと笑ってガブリエルに教えてあげる。
ガブリエルは無言でわたしをじっと見つめる。そのきれいな金色の髪を朝風になびかせながら。
あれ、よく見ると、ガブリエルが見つめているのはわたしじゃない? わたしのさらに後ろのほうを見つめてる。
だからわたしは、つられて後ろを振り返る。
「わあ!」
群青色の世界の底を、黎明の光が明るく照らしている。
まるでブルーハワイのかき氷に、ちょっとだけいちごシロップをかけてひっくり返したような空だ。
「ガブリエル、空きれいだね!」
「空くらい、いつも見てるでしょう……」
ガブリエルは呆れたように、それでも楽しそうに、わたしを見守っていた。
わたしは嬉しくなって、白い石から立ち上がり、空へと舞い上がる。青い小鳥もわたしと一緒に飛んでいく。
そして思い切りばさりと羽根を伸ばす。
すーっと手足の力を抜く。
目を閉じる。
呼吸する必要はないけれど、きれいな空気で深呼吸。
うん。いい気持ち。
小鳥のさえずりも耳に心地いい。
だから、きっと次に目を開いたら、もう夜が明けて朝がやってきているはずだよね。
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――寂寥、憧憬、歓喜、それらが二度明滅して、心の深いところに灯された。明日という輝ける光が果てのない大地と海を照らしだしている。
その朝の光の中、ガブリエルがわたしに頼みごとをする。
「地に落ちたもうひとつのヘヴンズゲートを探して下さい」
「わかった!」
仕事なら任せて欲しい。誰かを喜ばせるために仕事をするのは、とってもいいことだから。
わたしはガブリエルに喜んで欲しい。だから元気よく答える。
「じゃあさっそく探しに行ってくるね!」
「ちょろ……いや、よろしくお願いしますね」
「うん、今日から本気出す!」
天使の翼を大きく羽ばたかせる。体が不思議な重力でふわっと浮かんで、明るい朝の空の風景が流れていく。わたしの大好きな羽。それが大空に舞い散って、風に乗ってどこまでも飛んでいく。
もしかしたら、この羽も誰かに届くのかもしれない。そういう奇跡も、あってもいいんじゃないかな。あ、どうせなら、エルンに届くといいな。
そんなことを思いながら、飛んでいく。
風を切って、飛んでいく。
こういうふうに、わたしは天使として飛び続けるんだと思う。
いつしか世界がやさしさと愛で満ちる、その日まで。
Story2 end




