扉の向こうへ <Prologue>
駅へと続く道を半ばまで行くと、青い地平の先が夕暮れに染まった。日中のおわりを悟った小鳥たちが、さえずりと共に電線から飛び立ってゆき、その橙色に小さく黒い影をつけた。
「はあ……」
ため息をひとつ吐くと同時に、夕方五時のチャイムが町に鳴り響く。
ちょっとした奇跡を感じて陰鬱な気持ちが少し和らぐが、やはり気落ちしていることに変わりはない。
「やっぱり文化祭なんて行かなきゃよかった」
そう、今日は高校二年生の秋、高校最後の文化祭だったのだ。
校舎内や、わずかに残暑の残る校庭には、たこ焼き屋、お化け屋敷、メイドカフェ、その他諸々がそろって屋台を構え、店員、すなわち生徒たちが良質な食品やサービスを提供し、屋台に訪れた親や先生方といったお客をすっかり満足させたのだから、今日の文化祭はいわゆる"成功"の部類だったと言えるのだろう。
でも俺にとっては、今年の文化祭は最悪の一言だった。
なぜならクラスメイトたちがたこ焼きとドリンクの屋台を切り盛りしているのを尻目に、俺は一人ぼっちで校舎をうろつく羽目になっていたのだから。
腕時計を時折ちらちら見ながら、人に怪しまれないようにルートを変えて校舎を歩きまわり、昼食は便所飯、少しクラスの仕事をこなしたら、午後は体育館の片隅で演劇部の劇を鑑賞し、閉会式が終わったあと片付けをちょこっと手伝って即帰宅。
これが俺の文化祭だったのである。
ぼっち歴五年の俺でもこれはけっこう辛かった。
まあ、文化祭は今日で最後だから別にもうどうでも良いんだけどね。
「かぁ」
どこからか、哀愁を帯びたカラスの鳴き声。
いつの間にか朱に満ちていた空を見上げると、一匹の黒いカラスが優雅に舞っていた。
だがしばらく眺めていても、その周囲に他のカラスが現れることは一切ない。
だから俺には、その孤独なカラスの姿が自分と重ね合って見え、また今後の高校生活の行く末がそこに暗示されているようにも思えた。
俺はカラスのせいでよりいっそう落ち込んだ気分を晴らそうと、まっすぐ前を向き、一歩踏み出す。
視界の端でいわし雲が夕日に焼けるのが見えた。
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……八、九、十。
電柱を十本数え終えたところで、駅に到着した。
俺はいつも通り改札口を通って、二番線のホームで電車を待つ。
青い長椅子に腰を下ろすと、錆びた椅子の足がぎしりと軋み、線路の向こうから夏明けの肌寒い秋風が吹いた。
線路を挟んで向かい側、一番線のホームをあてもなくぼーっと眺めると、高校生の集団がいくつか見える。俺と同じく文化祭帰りなのだろう、その近くには彼らの親もたむろしている。
その中で、ふと一組の親子連れに目が止まった。
「こら、危ないでしょ!」
叱られているのは男の子のようだ。ホームの黄色い線を越えて線路をのぞきこんでいる。少し離れたところに立っていた、その子の母親らしき人物が早足でその子に詰め寄っていく。
男の子はびくっと驚き、体勢を崩し、そして――
ホームから転落した。
「っ……」
急いで腕時計を見る。
< 9-30 p.m 5:11 Sunday >
時刻表は覚えている。一番線の次の電車が来るのは午後五時十五分だったはずだから、十分助けも間に合うだろう。
念のため、一番線の電光掲示板にも目を向ける。
通 過
電車が通過します
快速電車……! 構内アナウンスを聞き逃していたのか。俺はすぐに左を向く。既に電車は見えていた。
男の子が泣き叫ぶ声、駅構内に緊迫した雰囲気が張り詰め、すべての人が動きを止める。時間が停止してしまったかのように。
母親らしき人物を見ると、体が固まってしまっている。それを見た女子高生が、目にも止まらぬ速さで駅備えつけの非常停止ボタンを押した。
でも、今から急ブレーキをかけて間に合うはずがない。きっと数秒後には、電車が男の子の体をひき潰す。
けれど、ホーム上の人に出来ることはこれ以上何もない。映画やドラマのように、ホームへ飛び込んで男の子を助けようとする者など、誰もいない。当然だ、そんなことをしたって犠牲者が増えるだけだ。今ここにいる人たちだって誰も死にたくないと思っているはずだ。
――ただ一人、俺を除いては。
猶予は数秒、俺はホームの端から全力で飛翔する。男の子が俺から近いところに落ちたのは幸いだった。これならなんとか助けることができるだろう。
線路に着地した勢いのまま、足を無理やり動かして数歩駆ける。足首とアキレス腱に鋭い痛みが走った。足はもう二度と使い物にならなくなるかもしれないけど、知ったことか。
さて、小さい子をホーム下の空間に突き飛ばしたら怪我をさせてしまうかもしれないな。
俺は男の子を抱え上げて、母親らしき人物のいるホームへと放り投げる。
母親なんだからちゃんと受け止めてね。
走ってきた勢いと男の子を投げた反動が釣り合い、俺の体はその場に停止する。大きな警笛が響く。今から電車を避けることなんて、人間には不可能だ。
……それで良い。わかっていた。だからこそ男の子を助けたのだから。どうせ誰かが死ぬのなら、死にたくない男の子の代わりに、死にたい俺が死んだ方が良いだろう?
死にゆく俺が最後に目にしたのは、
子供を抱きとめる母親ではなく、
迫り来る電車でもなく、
空を舞う一匹の孤独なカラスであった。
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天国の門開け放たれしとき、
黄昏は甘き香り、
神は魂を牽きて天上へと昇らしむ。
扉の向こうへ手渡されしその魂、
幻想の小舟で天使の夢を見る。