孤児院送りの天使
*後半失禁描写あり
幼女をひとりきりにしてはならない。
これは世界の掟である。
幼女を泣かせてはならない。
これは大人の義務である。
だからといって、みだりに幼女に声をかけてはならない。
それは声かけ事案である。
――長く、絶え間ない夜だった。普通の人間なら、夜に絶え間、すなわち睡眠の時間があるものだ。でも、天使は眠らなくていいから、ずっと考え事をし続けていた。
窓のついた、六畳ほどの大きさの部屋。一時的に門の詰所で保護されることになった俺に与えられた場所だ。部屋の真ん中くらいにある質素なテーブルの上、ゆらゆらと空気をたゆたう火が燭台に灯されている。部屋は暗く、ところどころに暗い影が落ちている。
テーブル横の木椅子に座って、ひとつため息をつく。考え事、それはエルンのことだった。
転生という衝撃的な体験をしたのだから、普通の人なら地球へのホームシックにでもなるのかもしれない。
けれど、俺はそうじゃなかった。エルンのことで頭がいっぱいだった。なんせ、この世界で唯一の友達だから。もしかしたら、転生する前を含めても、そうかもしれない。
だから、俺はエルンに依存しすぎているのかもしれないと思った。
彼女がいなくなったら、心を折れてしまうだろう。そうも思えるほどに。
心が痛い。寂しい。たった少し会えないだけで。
気づくと、部屋の中には高揚を感じさせる黎明の光が差し込み始めていた。
---
早朝、小鳥が飛び立ち始めるころ、俺は思い立った。いや、思い立ってしまった。
「天使が何にでもなれるなら、体を本物の幼女らしく作り変えることだってできるよね?」
そう、ぺったんこ極まりない天使の基本容姿ではなく、少し膨らみを持った、幼女の体に。
眠気とか、空腹とか、尿意とか、そういう要素を体に組み込むのだ。
亜人差別の激しいこの街で、もし亜人族だと疑われたら、潜入もパアになってしまう。
だから、人間の体に変化することによって、人らしくない不自然な挙動を極限まで抑えこむべきだと思う。
もちろん、翼を一旦なくすのは、とても惜しいけれど。
そうと決まれば試しにやってみよう。俺は目を閉じて創造する。
人体構造を自分の体につくり、天使の体を血の通った人間へと変化させる。
……自己人体錬成、100%完了。
目を開くと、なんとも頼りなさげな視点の狭さと低さだった。テーブルがやたらと高く見えた。
いつもは空に浮かんでいて、ずっと視点が高かったからだ。
天使の五感を制限していたとはいえ、ふだんは空を飛ぶのに十分な広い視界も確保していたけど、今は見える範囲が人の範囲に収まっている。
人間の視界ってこんなに小さかったのかと、ちょっとした驚きを感じた。
コンコン。ドアが二回ノックされる。
「おい、支度できたか」
セム――荷車に積まれた俺を見つけ、冒険者Aを連行した門番――が、ドア越しに声をかけてきた。
うん、支度は万端だ。そもそも何も着てないし、人間の体になって必要になるであろう歯磨きとかだって、まだ何も食べてないので問題ない。
鏡の前に立っても、そこには翼と光の輪が無く、髪が黒いだけの天使イヴエルが映っている。いつもどおりハダカで、左耳に赤い実をひとつつけている。
なので俺は相変わらず高く澄んだ声で、幼女っぽく返事をした。
「はーい」
それで、土に薄い木の板の貼られた床をとてとて走ると、ドアノブをひねって開ける。
正面には、立派なひげをたくわえた中年男性、すなわちセムが立っていた。
「ほら、服だ。俺はあっち向いてるから、さっさと着ろ」
服。そういえば、昨日頼んだんだった。
街に出るなら服を着なきゃいけない。
至極当然のことだ。
天使の力で創りだしてもいいけど、急に服を着ると怪しまれるので、セムに頼んで服を借りることにしたのだ。
セムが俺から目をそらして差し出したその服は、麻のような材質でできたベージュ色の質素なものだった。
ごてごてに装飾のついた現代日本の服とは違って、その服は男が着ても違和感のあるものではなかったため、俺は抵抗もなしにそれを着ることができた。
これでどこからどう見ても、立派な人間の幼女になった。
「すまないな。それしか無かった。昼になったらちゃんとしたものを買ってこよう……朝食はここに置いとくぞ」
セムはテーブルの上に、皿に乗せられたライ麦の黒パンと、木のコップに入った濃い白色のミルクを置いて、部屋を立ち去る。ドアは静かに閉められたので、なかなか気遣いのできる男だと思った。
俺はパンをひと欠片ちぎってミルクにひたして、口に放り込んだ。
おいしい。素直にそう言える食事だった。
顔がほころび、目から一筋涙が流れた。
天球に来てからろくなものを食べた覚えがない。
邪悪な木の実、天使を狂わせる梨、葉っぱ。
もちろん、そのどれよりも、このパンはおいしかったのだ。
「あむっ、んぅ……ごくっ、ぷはー」
俺は一気に朝食を食べきると、涙をぬぐって、そっとドアを開けた。
皿とコップを返さなくちゃいけない。
木張りの廊下を左に曲がって少し歩くと、台所のような、石や木の調理器具がたくさんある場所についた。
魔法があるはずなのに、妙に原始的だ。
俺はせめてものお返しにと皿とコップを洗って、食器の積まれた棚に置いた。
もと来た廊下を戻ると、セムに出くわした。
「さっきは朝食ありがとう」
「これくらいは当然だ……む、厨房へ皿を返しに行ってくれたようだな、すまない」
---
俺は、いつの間にか孤児院へと連れて行かれることになっていた。
"お母さんやお父さんはいるか?"とセムに聞かれ、"ずっと遠いところにいる"と答えたのが原因だろう。
俺のその言葉を聞いて、彼は"すまない、悪いことを聞いたな"とか謝ってきたわけだし。
たぶん、孤児院に引き取られても、エルフ救出には差し支えないだろう。
外を出歩く自由さえあれば、きっと問題はない。
「孤児院は白塔の二階にある。塔までは、馬車で行くことにしよう」
セムがそう言ったので、俺は馬車の後ろに乗り込んだ。幌の中、椅子に腰掛けた。御者台を見ると、セムの後ろ姿が見えた。
彼は今日は非番であり、本来なら彼も寝ている時間のはずだが、俺のために起きてくれたのだ。
彼にはいろいろと感謝しなければいけないと思う。
「いろいろ、ありがとう」
「うむ。これが仕事だからな」
馬車が出発すると、白い街並みが視界を流れ始めた。
白い直方体に色とりどりの屋根がついたような家々が立ち並び、レストラン、武器屋、道具屋、薬屋などの看板が出された建物もあった。
街道にはごみもなく、整然として、規律の守られた街だと俺は思った。
地球で言うと、この街はエーゲ海の島々に似ている気がする。
きっちりと石で舗装された大通りは昨日空から見たとおり、大変に人で賑わい、さまざまな種類の人が大勢行き交っていた。
荷馬車、旅人、冒険者、騎士、商人が道を流れていくのが見える。
しかし、その中には、首輪をつけた亜人はいなかった。
どうやら亜人は街の中心のほうにいるようだ。
「まずは服を買いに行くとしよう」
セムはそう言って、大通りをいくらか馬に走らせると、"服屋"と書かれた看板のある建物の前で止まらせ、俺を連れてその店へと入っていく。
「あら、いらっしゃい」
少し装飾過多な服を着たふくよかなおばさんの挨拶が、俺たちを出迎える。
セムがおばさんに服を注文する。
「女児向けの服をくれ」
「どんなのが欲しいの?」
「なんでもいい。とりあえず一式だ」
「わかったわ。その子に着せる服なのよね? それなら……」
おばさんは、たくさんの子供服がかかった木製のハンガーラックから、無造作にも思える手つきで、一着の服を取り出した。
「白いワンピースなんかどう?」
服のことなんてよく知らないけど、それで良いと思う。そのワンピースを見て、セムは俺に聞く。
「これでいいか?」
「うん」
「ならば良し。これを頼む」
得てして男はファッションに興味無いものだと思う。試着なんて、いらない。服なんて、フィーリングで適当に決めればいい。なにか言いたげにしながらも、会計を済ませるおばさん。服を受け取る俺。試着室で白いワンピースに着替えて、店を後にし、孤児院へと向かうために再び馬車に乗り込んだ。
セムになにもかもやってもらってばかりで、自分が少しだけ嫌になる。
---
また少し馬車に揺られていると、吐き気がしてきた。乗り物酔い、人間の体なら当然のことだ。
でも、天使の力でこれを治すのは負けたような気がするので、しない。
大丈夫、ぜったい吐いたりなんかしない。
「おい、顔が青いが、酔ったか」
後方確認のために振り向いたセムが、俺の状態に気づいて声をかけてくる。
「いや……だいじょぶ……」
「そうは見えん。少し休憩していくとしよう」
馬は街の噴水のそばで停止する。この世界にも噴水はあるのか。魔法で水を吹き上げているのだろうか。
馬車から降りて見ると、水が吹き上がって人間やエルフ、魔物たちを形作っている。そのまわりで水が空を流れ踊る。球形になったり、ベールになったり、長く伸びて螺旋を描いたりしている。
そしてこれは、さっきまでの俺と同じように質素な麻の服を着た、エルフ少女の精霊魔法によるもののようだ。
彼女は噴水に向けて指揮するように右手を振っている。
その首には奴隷の証、赤い首輪。間違いない、エルンの見たあの少女だ。
その少女の近く、噴水のある広場の椅子に腰をかける。
少しのあいだ体を休めて吐き気が落ち着いたあと、俺はエルフ少女に近づくと、ためらいなく話しかける。
「こんにちは、エルフさん」
「……! はっ、はい。なんでしょうか」
「(あなたは、今の境遇に、満足していますか)」
いきなり聞く質問にしてはかなり変だけど、この街のエルフがどんな扱いを受けているのかは知っておく必要がある。
もし、この街から離れたくないっていうのなら、俺は無理やり開放したりはしないし。
エルフ少女は、シルフに認められた者か、あるいは天使にしか使えないであろう、風による高度な会話法で気を許してくれたのか、正直に答えてくれる。
「(いいえ、自分の住んでいた里の仲間が捕まっているのに、満足なんてできるはずもありません)」
「(そうですか、ありがとうございます。ところで、その仲間がどこに捕まっているのかは知っていますか?)」
もしそれがわかれば、大きな助けになるだろう。
最悪、直接乗り込むという手段も取ることができるようになるかもしれない。
「(……貴族の屋敷、あるいは冒険者や商人のところです。妖精の奴隷の希少性を考えると、人の庶民に手の出せるものではないのでしょう。奴隷商人が妖精をそれらの人たちに売るのを私は見たことがあります)」
「(わかりました、必ず助けます。あなたのお名前も教えていただけますか)」
「(ピュラ・セントリバーです。どうかエルフたちのことをよろしくお願いします)」
ピュラ・セントリバー。かつての妖精王のひとり、か。
それだけの力を持っていても街から逃げるのは困難なのかな。
俺は前途多難なこれからのことを思いながらも、セムのところへと戻る。
「もう大丈夫か」
「うん、大丈夫」
そうして、俺は再び馬車に揺られていく。
---
「う……」
少しだけ尿意を感じた。白い塔はもう見えて、孤児院までは後少しのはずだから、たぶんそれまではもつだろう。
そう思って、心を落ち着けたとき、馬車ががたんとゆれた。
「っ……」
背筋がぞわりとした。思わず手が股間にすばやく向かって、ぎゅっとおさえる。
白いワンピース越しに、柔らかいぷにっとした感触が、そこにはあった。
……すこし、濡れている。
馬車の木の椅子におしっこの臭いがついてしまったかもしれない。
おちびり。顔がかあっと熱くなるのを感じる。
さっきは余裕だと思ってたけど、だめだった。この体の膀胱は、思った以上に小さいらしい。
尿意を少し感じたかと思えば、雪だるま式に際限なく高まっていって、ほんの少しの揺れでも漏らしそうになってしまっている。
足をきつく組んで、両手を股のあいだに差し込んで、おさえる。
とん、とん、と急かすように足踏みをする。
溢れ出しそうな液体から少しでも気を紛らわすために、椅子に腰をすりつけるようにして腰を揺する。
けれど、いくら手でおさえても、いくら足踏みをしても、腰を揺すっても、もうほとんど我慢の余地は残っていない。
最初あった余裕はだんだんとなくなっていき、限界が近づいてくる。
おもらし。それが、すぐそこまで近づいていた。
「ま、まだつかないの?」
耐え切れず、セムに質問する。セムは答える。
「あと数分もあればつく。降りる準備をしておけ」
数分……それなら、たぶん大丈夫。
必死で股を押さえつけながら、尿をこぼさないように我慢する。
トイレにいきたいと、口に出すことはできなかった。
一分が、一秒が、果てしなく長く感じる。
ごとん、ごとんと体の芯を揺さぶるような揺れに、膀胱が悲鳴をあげる。
やがて、押さえ付けている股の内側から、液体がじわりと滲みだすのを感じた。
……っ! もう漏れ――
「あ、あっ!」
「ついたぞ。……どうした?」
馬車が白い塔の側面につくと、人の体で出せる全速力で馬車から飛び降り、脇目もふらずに塔の開いた門をくぐって、飛び込む。
走りながら左手で押さえた股間から、水の吹き出しはじめる感触を感じる。
目の前にトイレがありますように、そう心から願って前を見ると、代わりにこちらを見る無数の視線があった。
「や……やっ! だめ、みないで!」
狂ってしまいそうなほどの羞恥心が心の奥から沸きあがる。
天使になって、もう忘れたと思っていたのに。
冷静に考えることができるようになったと思っていたのに。
体を人に近づけてしまったから、恥ずかしいと思う気持ちがあふれだして止まらなくなる。
顔がとても、とてもあつくなっているのを切実に感じて、余計に恥ずかしくなっていく。
もう、幼女を演じるとか、そんなこと言ってる場合じゃない。
ここで漏らしてしまうなんて、絶対いやだ。
だから、天使の力を――
――もし、漏らしてしまったら、どうしよう。
「あ、れ」
使えない。
どうして?
こんなのおかしい。なんで、こういうときに限って使えないの?
いやだ、見ないで、おねがいだから、こっちみないで。
出ないで、買ってもらった服を汚すなんて、そんなのぜったいだめ!
だれか助けてっ、ああっ、やだ、やだっ!
---
気がつくと、人に囲まれていた。
建物の内装は全体的に白っぽく、簡素な革鎧、騎士のような鉄の鎧など、さまざまな格好をした人たちに囲まれていた。
その中には、昨日出会った冒険者B、C、それになぜか投獄されたはずの冒険者Aもいた。
そして、かつてエルフの里を襲ったドラゴンに乗っていたひとり、かっこいい鎧を着た黒髪黒目の少年もいた。
彼はこっちを見て言う。
「こいつ、あのときの天使とほとんど同じ容姿……? もしかして――」
「ぐすっ……ふぇ……うぇえええん!」
ほんとうに、幼い女の子であるかのような、高い声で泣きじゃくる声が自分の喉から出る。それが余計に悲しかった。
たくさん、泣いたのに、まだ涙はとまらない。
視界がゆがんでいる。もう、恥ずかしさのメーターが振りきれて、なにもかもがよくわからない。
「な、わけねえか。おい、誰か着替え持ってきてやれ」
彼がそう言うと、周りの人がよってたかって俺の服を着替えさせた。
セムも駆けつけてきたようで、彼も着替えを手伝う。
いろいろ、見られてしまった。
絶望感と狂おしいほどの羞恥心に苛まされながらも、次の瞬間には、この世界で初めて感じた眠気に耐え切れず、意識は心地良いまどろみの中に沈んでいった……




