序章。
ばたばたばたばたっ。ばんっ!
「フューラっ!」
まだ雀も鳴かぬ早朝……いや、明朝に少女の声はキッチンにいる男性に投げられた。
本来なら横滑りに開くはずの物静かな扉がたてる音ではないのに、男性は気にも止めずにただ閑に笑う。
「ああ、おはよう。まだ貴女は眠っていてもいいのに」
にこり、とした閑な笑みは振り向き様にとても良い匂いを纏っていた。育ち盛り、本来ならば花の高校三年生をやっていたはずの少女の腹はきゅるりと鳴いてその香りを欲する。ホットケーキだ。甘い甘いホットケーキ。
うぐぅ……と鳴き続ける腹を押さえてよろりらと少女は壁に凭れる。この男性……もといフューラが作る料理は絶品だ。基本が絶品だ。
蝙蝠のように大きな翼。緩く結った黒髪。同色の瞳と服。それらを纏ったフューラに少女はぴくりと反応して、しっかりと自身を指差し、訊く。
内心では「何度言えばわかるのか」状態で訊く。
「フューラ」
「ん?」
「あたしの名前は?」
「…………」
僅かの間。なのに少しばかり長く感じる間。
少女は自身を指差したまま、褐色の瞳を反らすことなくフューラに注ぐ。
じぃっと。逃げ場など与えないように。
ほわりほわりとした優しく甘い香りを部屋中に燻らせ、それが漸く部屋を満たそうとしたときにフューラはやっと観念したらしい。遠慮ぎみにその質問にきちんと答えた。
「……深森」
「よろしい」
ふんっ、と何を威張る必要があるのか……少女は、深森は満足げに笑ってフューラの居るキッチンへと足を運ぶ。
どこまでもきちんとしっかりとした彼だ。今朝もまた掃除からはじめたのだろう。キッチンには汚れひとつなかった。
仁王立ちでそれをしっかりと眺めて深森は深い深い溜め息を吐き出す。同時にくたりと瞳と同色のショートカットをうなだらせる。
「今日こそフューラより早起きして……朝ごはん作るつもりだったのになあ……。この女々しいまでにきれいなキッチン見ると一日が敗北感からはじまるよ……」
「…………それを私はどう受け止めればいいのだろう?」
「ああああああっ!ごめんっ!またやっちゃった!」
ごめんっ!と小気味のいい音を鳴らして両手の平を拝むように合わせ、白くきれいな皿に乗せられたホットケーキを持ったフューラに深森は深々と頭を下げた。深森の無意識な悪い癖は「余計な一言」
ただ「きれいなキッチン」とだけ言えば良かったのに、その前に「女々しい」をつけてしまえば嫌味と取る者だっている。むしろそちらの方が多いだろう。
元々居た世界ではそうだった。こちらの世界に来てからだ。怒らない者も居ると言うことを知ったのは。
案の定、フューラは怒らなかった。
「大丈夫。貴女に悪意のないことは知っているから」
気にしなくて良いんだよ、と寂しげな笑顔を携えてフューラは促すように深森の横を通りすぎる。
例えるなら淡い橙色がビーズ程の光を携えて走っていくようだった。
ことり、とこれまた清潔感のあるランチョンマットの上にホットケーキを置いたフューラは「さあ」と控え目に黒い瞳をくしゃりと細めた。
はじめて逢った時には想像すら出来なかった遠慮の消えた笑顔。
「朝食にしよう。深森」
「明日こそはあたしが作って見せるからね」
フューラと言う“北の竜王”の遠慮のない笑顔が見れるようになったのはいつ頃だっただろうか?