廻転怨鎖
この小説は、秘密基地で有志を集った「夏ホラー2007」の参加小説です。
さあ、空虚な夜話を始めよう。
望んだ世界は、華色。
誰も憎まず、誰も陰せず、円満な世界。
望めば蹴られ、口に出せば殴られる。
そんな現実に嫌気がさして、願うことにした。
私を、代えて。
世界を、換えて。
そうすれば、きっと、夢物語が現実になるから――
「――ぁ――あ」
……鈴虫の音に紛れて、何かよくないモノが聞こえた気がした。 クーラーの冷気が消滅してしまった部屋で、アタシは目を覚ました。汗で下着が体にくっついていて、すごく気持ちが悪い。
「……姉貴?」
薄い壁の向こうにいるであろう姉貴に、確認するように問い掛けた。
そういえば、最近姉貴は彼氏にフラれたとかなんとか。毎日お泊まりしていた姉貴はきっと体を持て余しているのだろう。
若さってのは恐ろしい。例え自分を囲む環境が変わろうとも、体に根付いた習慣は捨て去れない。だからまあ、人間ってのはその環境に順応するしかない。つまり、自らを慰めるしかないわけで、ここんところ毎日と言っていいほどに、姉貴はその行動に没頭している。
けど、それにしたって今夜は派手過ぎやしないだろうか。昨日までは微かに吐息が聞こえる程度だったが、今日は喘ぎ声までくっきりだ。聞かされる方の身にもなってほしい。
「――は、うぅ!あっ!」
姉貴ますますヒートアップ。アタシますますアングリーアップ。ついでに目まで冴えてきた。
いい加減文句を言いに行こうかとベッドから起き上がろうとしたとき、
メキリ。
それは、ベッドの軋みだっただろうか。たぶんそうだろう。アタシが使ってるベッドは相当古いもので、姉貴が昔使っていたヤツが回ってきたので、仕方なく使っている程度の、質なんてはなから期待してない三流品だ。そんなベッドが悲鳴を上げるのに一々反応していたらキリがないのはわかっているのだが、何故かさっきの悲鳴は、いやに耳に残った。
「……アホらし。なにビビってんだろ」
興冷めだ。一つは聞こえなくなった姉貴の嬌声に、もう一つは、いつもなら取るに足らないベッドの軋みに怯えた自分に。
「……寝よ」
もう真偽なんてどうでもよくなった。例え姉貴が本当に自分を慰めていようが、人外の生命体に謎の金属片を埋め込まれていようが、所詮は他人事。しかも既に納まっているのだから、わざわざ足を向ける必要もない。
そうやって自分を納得させると、睡魔はあっという間にアタシの意識を刈り取っていった。
ジリリリリリリ。
「……ぅ、ん」
うるさい。
目覚時計は絶好調。しかしアタシの斜め四十五度からの鋭い手刀によって、朝のお勤めを終えた。
ゆらりと生気なく立ち上がると、とりあえず背伸びをした。体のこっている部分がバキバキと叫び、体が健在だと確認する。
「ねむ……あと五分ぐらいならって、母さんがうるさいか」
ただでさえ寝起きで機嫌が悪いのに、そこから更に怒られてテンションを下げたくない。渋々と服を脱ぎ始める。その途中で、ふと、
「……あれ?」
今までなかったものを発見した。
それは、左胸の上の辺りにあった。タンクトップの胸の隠れる部分のやや上で、その部分だけ薄くだが、浅黒く変色し、その中央にはほくろみたいな黒点があった。
ひどく気味が悪い。なんだかその一部分だけ自分の体ではないような違和感がある。
「ま、寝ながらぶつけたのかな。アタシ寝相悪いし」
こういうのは慣れているわけではないが、前に経験がなかったわけではない。特に気に止めるでもなく、アタシは着替えを再開することにした。時間のロスは約三分。まだ間に合うだろうと、緩慢な動作で制服のリボンを手に取った。
「おはよー」
「ああ、霞……オハヨ」
髪を梳かしながら一階へ降りると、キッチンでは母さんがテーブルにうなだれていた。トーストとコーンスープの匂いがするあたり、きちんとすべきことはした後らしい。そんな母の隣りにはビール缶が転がっている。
軽く溜め息をつきながら、冷蔵庫に足を向けた。確か昨日買っておいたオレンジジュースが確かこのあたりに……あったあった。
「かすみー。水ちょーだいー」
と、後ろから明らかにつっぷしたままの体制から発せられたであろう声が聞こえた。
……ホントこの人はどうしたもんか。
「はあ、また朝から酒?いい加減にしなよ。アタシは飲酒運転で捕まるようなアホを家族に持ちたくなんかないからね」
毒づきながら、ジュースを一口。うん、やはり寝起きには冷たい飲み物がうまい。
「いや、今日は元々飲むつもりじゃなかったんだけどねー。実は、朝起きたらなんか体ダルくてさ。だから酒でも飲んだら治るかな、と思ったの。画期的じゃない?」
「じゃない。そもそも、朝から以前に酒なんてなんで飲むのかがわからないし。なによ、要はそれ薬物じゃない」
まったく。いずれ依存してしまうようなものにすがって何になろうか。そんなもの、いずれ自分の足枷になるなんて目に見えているじゃないか。
不機嫌気味にジュースをもう一口。コップをテーブルに叩き付けるようにして置き、ふと、階段から聞こえてくる足音に耳が向いた。
「ありゃ、楓起きちゃった。やば、さっさと朝ご飯作ってやんないと」
母さんはビール缶を手早く処理すると、通りざまに冷蔵庫から卵を取り出し、手早く目玉焼きを調理し始める。
そんな母さんの変わりようにあきれながら、階段の上にいる姉貴へと視線を上げ――
「あら、おはよう。霞」
――しばらく、絶句するしかなかった。
「あ、姉貴?なんなの……その格好」
「なんなのって、ただの私服だけど、私なにかおかしい?」
「い、や。おかしいって言うよりは……」 姉貴は慌てて自分の格好を確認し直しているが、『し直す』時点で、既に姉貴はおかしい。
そう、昨日までの姉貴ならば、大学に行くための準備にまったく余念がなく、化粧に一時間。服選びに三十分かけるほどの、典型的なケバい女子大学生だった。のだが、今の姉貴はどうだ。化粧は元々の顔自体を引き立たせるためのナチュラルメイクだし、服装は白のワンピースに、水色のカーディガンを羽織っている。もともとが童顔なのを気にしての化粧だったが、こうして見てみると、姉貴はなかなかかわいい顔をしている。
実質的にも体系的にも、昨日までとは、天と地ほども差が開いた姉貴が目の前にいた。
「霞?どうしたの、ぼーっとして」
突如にして美人と化した姉貴は不思議そうにアタシの顔を覗きこんでいるが、そんな顔をしたいのはアタシだって同じだ。
「あの……姉貴。何があったの?」
「何があったって、随分ご挨拶ね……特になんにもなかったけど、如いて言うなら昨日やってたゲームでこの格好をした主人公が」
「……はいはい。わかったわかった」
結論。姉貴はなんでもなかった。ただ寝坊をしてなくて、厚化粧がナチュラルメイクに変更された程度だ。根本的な部分はなにも変わっていない。たぶん。
……まあ、そのたぶんってのが引っ掛かる所だったんだけど、元来細かい所まで気にしない性格なので、深く追及しないことにしたい。
……でも、なにかが、おかしくないだろうか。姉貴の一人称は『私』だったか。『あたし』ではなかっただろうか。いや待て、それ以前に姉貴の服って全部黒くてテカってる革ばかりでは――
「霞……?どうかしたの?」
「あ……ううん。なんでも、ない」
チクリと刺すような痛みが、こめかみに走る。普段から使わない頭をこんな所で使っているからだろうか。
「ならいいんだけどさ。つーか、時間」
姉貴が時計を指差す。それに倣って視線を移すと、時計はいつもの出発時間よりも五分先を示していた。
あ、ヤバ。遅刻する。
「……えらく余裕じゃない。なに、サボるつもり?」
「いや、行くけどさ。なんで姉貴も余裕あるのかなって。かーさーん!アタシ朝ご飯いらないから!」
一方的にこちらの要求を突き付けると、一気に玄関まで駆け抜ける。家の奥で母さんが何か言っているが、とりあえず無視しておくことにする。靴を履き終えると、扉を突き破らんばかりの勢いで開け放ち、後ろを振り返らずにドアを閉めた。
その間に、
「私?サボるよ」
と小さく聞こえた声に、軽く殺意を覚えた。
「ただいまー」
アイスキャンディなんぞをたしなみながら、玄関のドアを開ける。
今日はとにかく暑かった。話だと、今年一番の暑さだったとか。
靴を揃えるのももどかしく、服を散らかしながら風呂場へなだれ込む。冷たいシャワーが気持ちいいだろうと、ささやかな幸せに期待を寄せて――
「あら、おかえり。霞」
その淡い期待は、本日学校をサボりになった姉貴が打ち砕いた。姉貴はあろうことか、熱いシャワーを浴びていたのだ。
「あ、ゴメンゴメン。あんまり暑いもんだからさ、こうなったら汗かくついでに流しちゃおうかな、と思って」
「ッ!そんな理由はどうでもいいから、早く変わってよ!暑いんだから!」
「む、少しぐらい私の美容に対しての関心を」
「だから、そのお湯が熱い!姉貴シャワー浴びたんなら、早く交替してよ!」
「……はいはい。それじゃあシャワー浴びたら私の部屋に来てね。いつも通りゲームでもしよ」
姉貴は特に気にするでもなく、悠々と風呂場から出て行く。
その、姉貴と擦れ違う一瞬。姉貴の左胸に、なにか痣のようなものを見た気がした。
「姉貴ー入るよー?」
「どうぞー」
姉貴の部屋の前、中に確認をとり、ドアノブを捻る。
ドアが開くと同時に、中から季節感皆無の冷たい風が流れ出てきた。ささっとドアを閉め、姉貴の隣りに腰掛ける。
まだ空も完全に暗くないというのに、姉貴がクーラーをつけている理由は一つ。ズバリ、今日は母さんが町内会に呼ばれて温泉旅行へと旅立ったからだ。くそう、大人の特権を使いやがって。この屈辱は明日の家の散らかしっぷりで報復してやる。
脳内で暗黒会議をしていると、姉貴が無言でコントローラーを渡してきた。どうやら今日は格ゲーをするらしい。
ふ、姉貴も墜ちたものだ。アタシのテリトリーで勝負しようとは、片腹痛い。
「いいの?姉貴。アタシ絶対に負けないよ」
「大丈夫。なんとなく今日はやりたい気分だったから」
会話してる間に、試合開始。姉貴が目を離してるうちに、とりあえず空中コンボに持ち込む。バキバキと軽快な音と共に、蹂躙される姉貴サイド。あっという間に第一ラウンド終了。第二ラウンドがすぐさま開始される。
「ねえ、霞」
お互いに拳を交えながら、姉貴が口を開いた。
「んー?」
一歩も譲らない攻防。試合が進むにつれて、更に展開は熾烈を極める。
そんな場だったからだろうか。姉貴の、
「呪いって本当にあると思う?」
そんな、普段はしないような会話に、必要以上に反応してしまったのは。
「姉貴……いったい、何を」
「ん……なんとなく、ね」
勝負に変化が起きた。姉貴が防御から一転して攻撃へ、姉貴のキャラが空中へと跳び、霊体のようなものを放出して、アタシのキャラを葬り去った。キャラの色が変色し、動かなくなる。その光景に、いやに吐き気がする。
「ちょっと……霞大丈夫?顔色悪いけど」
姉貴がアタシの顔を覗き込んでくる。その表情からして、アタシは相当青い顔をしているらしかった。
「……ゴメン。アタシ、もう休むね」
姉貴にそう告げると、足早に部屋を後にする。
姉貴が呪いの話をしてから、左胸にある痣が疼くような痛みを感じた。
「う――ん――」
眠れない。
暑いというのも理由の一つだろうが、クーラーはちゃんと稼動しているし、格好もけして厚着ではない。だから、寝付きが悪いなんてことはないはずなのに、目が冴えてしまう。
携帯を手元に寄せる。暗闇の中に、液晶の明かりがやけに輝いて見える。時刻は深夜二時。かれこれ四時間ほど布団の上で寝転がっていたらしい。
「ぅ――」
眠れないのは、何か原因があるのだろう。それは仕方ないと割り切ることができる。けど、さっきから、体が、暑いのではなく、熱い。
「は――ぁ」
辺りに感じるのが熱気なら、吐息はその元凶に違いない。だって、こんなに熱を持った体から出るものは、冷たさではなく熱さ以外に他ならないだろうから。
しばらくすると、今度は熱さではなく、違和感が襲ってきた。自分の体が、確かにここに在ると、確信できない。その違和感は、あの黒い痣からどんどん体中に広がって――
ズチュ
「……え?」
その響は、すぐ側から聞こえてきた。きっと何かが、肉を断った音。不自然に盛り上がった胸元に、自然と手が向かった。
ナニか、固いものが、そこには存在している。
意を決して、薄布一枚の上着をはだけた。
「――ッ!」
言葉が出ない。声にできない。
確かに、それは固かった。肉を断ってもいた。
ただ、その姿があまりにも、歪で、恐怖で熱さを忘れてしまうほど。
「なん、で」
なんとか絞り出した言葉は、誰かへの問い掛け。その問いは、何故、こんな所から、人の指が――
存在を認識したからなのか、その指は、激しく動き回り始めた。
「あ……あ、ぁ」
怖い。怖くて声が出せない。喉が萎縮して、ただ目の前の、悪夢から目が離せない。母さんはいない、ならば、せめて姉貴を――
「あらあら、痛そうねぇ」
「ひいッ!」
姉貴は、いつの間にかアタシの隣りで、まるで何か遠くの出来事を見ているような、そんな、全く自分に関係なさそうな表情で立っていた。
「姉貴……!姉貴!助けて!助けて!」
必死に助けを求め、足掻く。しかし、感覚が乖離した体は満足に動かず、ただその場でのたうち回るだけ。
「霞。静かになさい」
姉貴は、まだ冷静なままだ。こんな状況下でも、まだ取り乱したりしていない。
アタシの血が上った頭にも、ようやく思考回路が戻ってきた。落ち着け、よく指を見ろ。あれから何も変わりないじゃないか。だから、きっとそのままの筈だ、だから……落ち着け。
「……姉貴。ありがとう。落ち着けた」
「そう。じゃあ、これから私が治しますから、霞はずっと目を瞑っててね」
姉貴の指示通りに瞼を降ろす。これ以上心強いことはない。だって、こんな状況を目の前にして、冷静でいられるような人が、一番身近にいるのだか――
ズチャ
……え?
「姉……貴?な、にを」
目が開けられない。怖くて、目の前に広がる光景が怖くて、瞼を開きたくない。
「ああ、もういいですよ。霞さん。どうぞ目を開けてご覧になってください」
見たら、何かが、変わってしまう。きっと、何かが違っているのだから。けど、見なければ、何も変わらない。
唇を噛み締める。今更と言うべきか、それともやっと、と思うべきか。姉貴は決して更生するような人格じゃなかったし、黒革以外持ってないし、自分のことを『私』なんて言わないし、さっきみたいに、敬語を使うなんて……有り得ない。つまり、アタシの目の前にいるのは、姉貴じゃない、誰か。
「姉貴……姉貴は、姉貴だよね?」
「なにを言ってるんですか?当たり前でしょう」
ああ、やっと踏ん切りがついた。こんな堂々と偽者宣言されたら、逃げるわけにはいかない――!
「きゃ!」
目を開け、同時に姉貴がいるであろう方向に手を伸ばし、突き飛ばした。手応えがあったところをみると、どうやら成功したらしい。胸元を見ないようにして、ベッドから起き上がる。
「……アンタ、誰?」
尻餅をついたままの姉貴に訊く。姉貴は答えずに、下を向いたまま。
「答えろ!アンタは誰なのよ!」
声を荒げ、姉貴の肩を揺する。すると、ようやく姉貴は顔を上げた。
「ふ、ふふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふ……!あははははははははははははは!」
もうそれは、姉貴の殻を被るのを止めた。三日月のように、歪に形どられた口許からは、心底愉快そうに、笑い声が沸いてくる。
「あ、はッ、はぁはぁ。ふふふ、笑わせてもらいました。まさか、」
マダ、ソンナコトヲイッテイルナンテ。
「……なによ。それ、アンタなんか姉貴じゃない!」
「いいえ、私は楓。正真正銘。本物の楓」
「だから、アンタは姉貴なんかじゃ――」
「霞。呪いを、信じますか?」
「……信じたからって、なんなの。この胸から生えてるのが、呪いだって言うわけ?」
「正確には、反転衝動から成る思念昇華のプロセスを四つ超越した、祟り」
姉貴は、アタシの問いには答えない。ただ、空ろな瞳で、空虚を見ているだけ。
「我らが始祖は恵まれなかった。外見、性格、家族構成、学校、全ての外部要因。個人が形成されるべき環境が、破綻していた。
いつしか、彼女は自らの殻に閉じ籠った。誰とも触れず、話さず、会わず、生きていた。そんな中でも、彼女は願った。変わりたいと。そうすると彼女は、自らの理想を具現化することに成功した。
代償は、自らの肉体」
……ここまで聞けば、さすがのアタシでも分かる。つまり、アタシの胸から生えているこれは、アタシの理想像。
「一つ、訊いてもいい?」
「なんですか霞。言ってみてください」
「なんで、アタシと姉貴が、祟られたの?」
最も根底的な部分。何故ここに至り、ここまでならなければならなかったのか。
「呪いや、祟りは、力の権化です。ですから、力を使い切るまでは、無作為に人々に転移します」
……ではなにか、アタシは、ただの他人の妄想に付き合わされ、こんな目にあっていると。バカバカしい。もうたくさんだ。
「最後に……一つ、よろしいですか」
姉貴が、口を開く。
「……なによ」
「貴女は、何故自分が呪われたのかを気にしていましたが、それは、間違いです。貴女の疑問は、最初から問いの中にも入っていない」
それは、
「……それ、どう言う」
言い切る前に、姉貴の体が爆ぜた。アタシの体は床に押し倒され、姉貴は馬乗りの体制で、アタシを見下ろしている。
「つまり、貴女が悔やむべきは、何故自らが呪われたのか、ではなく、何故ここに生まれ出たのか、と悔やまなければならないのですよ。
故に、貴女の疑問は始まりからズレている。でも安心なさい、すぐにそんな不出来な蛮脳からは生まれ変われるのだから――」
再び、歪な笑顔。姉貴の指は、アタシ左胸から突き出ている、あまりにも滑稽な腕へと――
「ただいまー」
本日、温泉旅行から帰ってきた主婦、奏は玄関で大きく溜め息をついた。 温泉旅行だからと聞いて、行ってみたのはいいものの、所詮町内会という狭い世界でのお互いのご機嫌取りだった。 奏は帰るころにはすっかり元気を失い。流されるままに帰ってきたのだった。
「おかえり。何か疲れてるっぽいけど」
声をかけたのは、娘の霞。とりあえず心配してくれているらしかった。自然と奏の顔に笑みが戻る。
「大丈夫よ。それよりも水ちょーだい。喉渇いちゃった」
「ん、わかった。姉さーん!お水持ってきてー!」
奏は、靴を脱いでいたため、気がつかなかった。霞の、楓の呼び方が違っているということと、その霞の口許が、醜い三日月のように、歪んでいたということを。
「あ、そうだ。母さん。一つ聞いていい?」
「ん、なに?」
「呪いって、本当にあると思う?」