鍔迫姉弟 後編
〈鍔迫姉弟 後編〉
「どうすればいいんだろうな、俺は……」
ミーティングの――姉ちゃんと口論をした――日の夜。試合の前夜。俺は自室に閉じこもって無意義な自問自答を繰り返していた。
彼女の指示に従って唯々諾々と明日の試合に出て無様に大敗を喫するか、剣道も姉への憧憬もすべて投げ出すか――究極の二択だ。
そして気持ちは明白に、諦念の方向へと傾いている。
――もう、投げ出してしまおう。
悲観ばかりの自分を享受しかけたその瞬間、
「……英次、まだ起きてる?」
扉の外側からノックの音が響いた。
――姉ちゃんだ。
一瞬だけ狸寝入りしようという葛藤がよぎるが、素直に腰を上げる。扉に歩み寄り、部屋の鍵を開けた。
「起きてるけど……なに?」
混乱をひた隠して尋ねた言葉に返事はなく、姉ちゃんは左右を見回し、おずおずと部屋に足を踏み入れた。
こうして見る姉ちゃんの姿は、やけに小さく感じた。背丈は俺と頭半分くらい違う。稽古の最中は、至極大きいと感じていたのに。
入り口近くに立ったままの彼女はじっと俺の双眸を見上げ、
「えっと、午後のこと、謝りたくて」
さらに意味不明な台詞を発した。
「は――?」
午後のこととは、ミーティングの話だろうか? けれど姉ちゃんが謝罪する必要があるような出来事は記憶にない。むしろ俺が平伏して、大会への出場を取り消してくれと頼みたいくらいだ。
「と、とにかく座って。俺もちょっと詳しく聞きたいし」
狼狽しながらもベッドをすすめ、俺たち姉弟は隣同士に腰掛けた。
俯き気味で姉ちゃんが語り出す。
「あのとき、強く言い過ぎたかなと思って……。他の部員の前だから少し強引な言い方しちゃったんだ。英次に試合出てほしいのも、あたしのワガママなのにね……」
予想外に謙虚な言葉に驚く俺と、面を上げた姉の視線が交錯する。なにか訴えるような瞳に、意図せず息を呑む。
「最近なんか調子悪いみたいだし……出たくないなら言ってね。出場者はあたしが調整するから」
出場を辞退――俺が望んでいた方向に話が進んでいく。なのに言葉が出ない。姉ちゃんのどこか寂しげな笑顔に、喉が活動を止める。
そして無言を貫く俺の頭を、優しく撫でる手。
慈愛に満ちた声が、鼓膜と心を揺らす。
「英次が元気になるまで、あたしはずっと待ってるよ」
瞬間、俺の胸裏で渦巻いていた黒い靄が晴れていった気がした。
そして同時に、心を支配していた悪意の源、その正体に気づく。
――俺はもっと、姉ちゃんに剣道を教えていてほしかったんだ。
あの練習試合の日、俺は姉ちゃんに勝った。勝敗を分けた要因の半分は、きっとただの偶然だろう。けれど、俺の実力が少しずつ姉に追いついていることも確かだ。以前までは、どれだけ頑張っても一本すら奪えなかったのだから。
これから時間が過ぎれば、恐らく俺の力量は姉ちゃんよりも僅かずつ上になる。同じ環境で同じ稽古をしているんだ、嫌でも基礎筋力の差が勝負を決するようになる。
姉ちゃんと俺は師匠と弟子みたいな関係でもあった。むしろその関係性が、遥か遠い存在である姉ちゃんとの唯一の接点だと思う。
――このまま俺が強くなれば、もう師弟ではいられない。
だから、本能的に実力をつけることを拒絶していたんだ。弱いままでいようとしたんだ。
けれど――
「姉ちゃん」
不退転の決意を固めて呟く。
――姉ちゃんの言葉で気づけたんだ。師弟じゃなくても、ずっと一緒に剣道をしてきた俺たち姉弟の絆は切れない。俺たちは打ち合いながら、鍔迫り合いながら、互いに精進していく。
どこにいても、姉ちゃんは俺の近くにいてくれるんだ。
だから、もう剣道から逃げない。
「俺、試合出るよ」
「本当⁉」
花開くように相好を崩す姉の表情に、自然と俺も口元が緩む。
大きく頷き、拳を握って口を開く。そして告げる、これまでの贖罪と感謝と、これからの約束を込めて。
「ふたりで優勝を――県大会を目指そう」
「――うん!」
顔を合わせて笑い合う。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、オペラの主役を輝かす照明のように俺たちへと降り注ぐ。
しばらく穏やかな静謐を楽しみ、やがて立ち上がった俺は部屋の片隅の防具袋に歩み寄り、そのすり切れた表面を撫でた。
★
「みんな、準備はいいか」
そして訪れた大会当日、俺たち松葉中学剣道部は会場の脇で円陣を組んでいた。
もう午前の団体戦を終え、現在は個人戦が始まる前の昼休みだ。団体戦では惜しくも入賞を逃したが、まだ県大会へのチャンスは潰えていない。選手も、それをバックアップするために控えている部員も気合充分だ。
姉が全員の顔を見渡して白い歯をこぼす。一抹の不安すら掻き消す、頼り甲斐のある部長の容貌。
そして、
「絶対勝つぞ!」
「「おー!」」
恒例のかけ声の余韻を残し、部員たちは散開した。ある者は防具を手に取り、またある者は選手の背中を叩き激励する。
俺も手拭いを頭部に巻きつけ、面をかぶった。
数分後、会場にアナウンスが朗々と鳴り響く。
“これより男子の部個人戦を始めます。出場する選手は準備をしてください”
俺の――俺たちの戦いが、幕を開けた。
「ヤァ――ッ!」
俺は試合を順調に勝ち抜き、トーナメント表に赤い線を伸ばしていた。
準決勝にて二本目の小手面を決めた直後だ。部員たちが固まっている場所から歓声の波が押し寄せる。
「勝負あり!」
試合後の礼をして仲間の元に戻ると、みんな一様に笑顔で迎えてくれた。松葉中学で勝ち進んでいるのは俺ひとり、言わば――自分で言うと気恥ずかしいけど――最後の希望だ。
座して面紐をほどきながら、姉ちゃんのアドバイスを思い出す。昨晩入念に話し合った末に結論を出した、県大会への面舵だ。
『英次には稽古に身が入らなかった二週間のブランクがあるし、たぶん攻めの読み合いでは負けちゃうと思う』
月光の下、庭先で素振りをする俺に、姉ちゃんは言った。
『だから、短期決戦を狙おう。小学生の頃から鍛えてきた瞬発力で、ひたすら相手に打ち込むの。そして、技を返されるより先に有効打突を決める――後は気勢で勝負よ』
「次は決勝だね」
回想に耽っていると、背後から声をかけられた。振り向けば、姉が神妙な面持ちで仁王立ち、俺を見下ろしている。
「気を抜いちゃ駄目だよ」
「ああ」
口角を持ち上げ、大きく首肯する。
そうだ、もう大丈夫。姉ちゃんとの強固な結びつきに気づいた今、もう剣道から目線を逸らすような馬鹿げた真似はしない。
それからは会話もなく、眼前で繰り広げられるもうひとつの準決勝戦を観察し、分析していた。
勝負あり。決勝戦の相手は、予想通り強豪校のキャプテンだ。腰回りの防具には“津島”と名前が刻まれている。
津島は体格がよく、俺より縦横一回りは大きかった。そして裏腹に動きは俊敏。近隣でも名の知れたかなりの実力者だ。
けれど、まるっきり勝ち目のない相手じゃない。
「もうすぐだ」
姉ちゃんの台詞を合図に、俺は手拭いで幾度か額の汗を拭き、再び面を装着した。
そして防具を確認して立ち上がると、ちょうど決勝戦直前のアナウンスが会場に流れる。
「いってくるよ」
振り向かずに呟き、俺は立ち位置へと移動した。
正面から津島と向き合う。
主審の号令により、俺たちは稲妻走る緊張感の中、一歩ずつ歩み寄った。
礼、帯刀、蹲踞、構え――
審判の旗が翻った。
「始め!」
開幕直後、俺は腹から声を張り上げた。津島も同様に猛獣のような重い咆哮を返してくる。
あまりの気迫と声が運ぶ振動に、腕が、肩が震える。単純な声量では明らかに敵わないだろう。
だが、見逃さない。
叫ぶと同時に、津島の両腕に無駄な力がこもった。数センチ、奴の剣先が上向きになる。それでは咄嗟の反応ができない。
俺は左足の踵に膂力をこめて突貫した。
全力で伸ばした腕、そこから一直線に駆ける竹刀が、津島の頭頂部を捉えた。軽快な打突音が響く。
三人の審判、満場一致で“面あり”だ。
刹那、静まり返る会場。
そして直後に仲間たちの歓声が沸き上がった。
興奮する周囲とは対照に、俺は残心を取りながら背中から冷や汗が噴き出すのを感じていた。右手首には余韻を引く鈍い痛み。
にわかには信じがたいが、津島はあの刹那で反撃してきたのだ。俺の挙動を視認して、的確に小手を攻めてきた。
結果的には判定の差で俺が先取したが、同時に並外れた反射神経を見せつけられた。
――残念だが、奴にもう不意打ちは通用しない。
立ち位置に戻り、二本目。
またも応酬し、激突する雄叫び。しかし今度は互いに微動だにしない。迂闊に動けば返り討ちに遭ってしまう――それだけの緊迫感が、俺たちの間に張り詰めていた。
相手の動向を窺う数秒間。攻め時が肝心だ。
しかし――
『たぶん攻めの読み合いでは負けちゃうと思う』
不意に脳裏をよぎる姉ちゃんの言葉。
そうだ、膠着状態から俺に勝機は訪れない!
「ヤァ――ッ!」
決意して踏み出し、再度面を狙った竹刀が津島の剣と交錯する。奴も同時に打ち込んできたのだ。
激しい衝撃とともに体躯がぶつかり、至近距離で対峙する俺と津島。小手を押しつけ、真っ向から睨み合う体勢。鍔迫り合いだ。
こうなると体格の負けている俺には分が悪い。中学生離れした津島の馬力と剣幕に押され、じりじりと後退を余儀なくされる。膂力を総動員しても、力勝負ではとても敵わない。
絶対的な力の差に意図せず視線が下を向き――
――双眸に、活路が映った。
この状況には覚えがある。あの日、学校の体育館でした練習試合の記憶が、鮮明に蘇る。そうだ、あのときも鍔迫り合いをしていた。脳内で思い描く光景と寸分違わぬこの体勢。
俺は自ら一歩退いた。
その意図に勘づいた津島が焦燥に駆られて距離を詰めようとするが、遅い。“あのときの姉ちゃん”よりも、遥かに。
「胴オォ――ッ!」
遮二無振り下ろした一撃は、予測していた通りの流麗な軌道を描き、相手の脇腹を捉えた。
姉ちゃんから初めて取った一本と同じ、引き胴。
「胴あり! 勝負あり!」
――勝った、優勝したんだ。
それを自覚した瞬間、歓声と拍手の嵐が全身を叩き、脊髄の奥の奥を感動が駆け抜けた。
その後おこなわれた女子の部の個人戦では、当然のように姉ちゃんが決勝戦を征した。
他に女子部員がひとり三位に食い込み、松葉中学剣道部からの入賞者は合計で三人だった。これは剣道部創立以来の快挙だ。
生涯で初めて金メダルをもらう瞬間は、途轍もなく気恥ずかしく――
姉のお陰ですっかり影の薄かった顧問が、俺たちの健闘に号泣していて――
表彰式で隣に立った津島の顔が、面越しに見るよりも遥かに中年顔で仰天し――
とにかく最後まで波乱だらけだった大会は、送迎バスの到着によってようやく幕を下ろした。
学校に戻る頃には太陽も家々の間に隠れ、景色はすっかり夜闇に暗く染まっていた。
俺たち姉弟は部員たちと別れ、家路に向けて並んで自転車のペダルを踏んだ。防具も竹刀袋も、不思議と重量をまったく感じさせなかった。
無言で舗装路を走る。長年ともにいた関係から生じる沈黙は決して居心地の悪いものではなく、むしろ胸中に安息をもたらす、優しい静寂だった。
俺は横目に姉ちゃんの容貌を眺め、夢想する。県大会へ――そして、さらにその先へと続く未来を。
――ずっと一緒に剣道をしたい。
いくらそう願っても、一年経てば姉は中学を卒業する。それまでには、確実に部活動も引退しているだろう。彼女のことだ、きっと進学しても剣道は続けるだろうが、俺の隣は空席になる。努力などでは避けられない、残酷な時間の流れ。
だけど、
俺と姉ちゃんを取り巻く環境が、そして俺たち自身がどれだけ変化しようとも、同じ剣の道を歩んでいるかぎり、その直線上で繋がっていられる。
だから俺は、剣の理法の修練も人間形成もすべて二の次で、尊敬する大好きな姉と鍔迫り合うため、剣道に精魂捧げよう。
そのために今できることは、ただひとつ――
「県大会も、一緒に勝ち抜こうな」
脈絡のない呟きに、姉ちゃんは一瞬目を瞠って俺の顔を見返した。
けれどすぐに表情を塗り替えると、満面の笑みで白い歯を月光に輝かせる。
「うん、頑張ろうね」
そして頷き合うと、不思議と気分が高揚してきて、俺たちは声を上げて笑った。時間も時間だし近所迷惑かもしれないが、今日だけは許してほしい。どうしてか、楽しくて仕方ないのだ。
明日からまた、鬼部長による地獄のような稽古の日々が始まるが、それですら待ち遠しい。数日前まで姉と竹刀を合わせることが億劫だったのに、今は真逆の心境だった。
早く明日になれ。
自宅の屋根が見えるまで俺たちは、ただひたすら笑い続け、
ふたりの首元で、お揃いの金メダルが風に揺れた。
読んでいただきありがとうございます!
ご存じでない方もいるかもしれませんが、剣道って稽古中とかの叫び声がみんな個性的で面白いですよね。
遠征などで他の剣道部などにお邪魔した際は、友人とずっと面白い声を出す人を探していた記憶があります。
ちなみに私は中学時代、面を打つときに「ウゥワアァィヤッタッサアァァイ!!」と叫んでいました。今思うとすごい恥ずかしい。