第二話 帰国祝賀会
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マニラ市郊外のザ・フォートと呼ばれる地区にケイトの住まいは在る。
マニラ第一空港からメトロマニラ中心部へと向かう丁度中間の右手山側にはマカティと言うフィリピンに於ける新宿とも言うべき高層ビルが立ち並ぶ商業地区があるのだが、ザ・フォートはその少し手前の山手側、空港寄りにあった。元は米軍の基地があった場所で、今も地域内には米軍記念墓地がある。
フィリピン唯一の鉄道がメトロマニラには走っているのだが、その全長は40キロ程度しかない。
平地が少なく海岸線間際まで山間部が迫ったこの国では鉄道は交通手段として発達し得なかった。
故にフィリピンの国軍は戦車を保有していない。戦車の活躍するべき平地が極端に少ないからである。 正規軍を有するのに戦車を持たない数少ない国のひとつだ。
話を戻そう・・・ケイトの自宅はマカティに程近いザ・フォートの高級住宅が建ち並ぶ一角にある。
2001年に完成した現在の首都圏鉄道、ブエンディア駅からさほど離れていない場所で、ケイトの父親は結婚するに当たりその地に2000坪程の土地を買い、豪邸を建てた・・・。しかし、物語はこの鉄道の出来る前の1988年9月の時点だ、ブエンディア駅はまだ存在していない。
後にフォークマン家の周辺には競うようにして高級住宅が建ち並び現在に至った。
東西70メートル、南北90メートルの6300平方メートルの土地は坪数に換算して1945坪。
地区内では三番目に広い敷地面積を持っている。
屋敷自体は部屋数20あまりで東西に40メートル南北に10メートル程の総二階建てで、母屋の総床面積では断トツ、地区内一位である。土地は周囲を3メートルあるスティールフェンスで囲まれており北側に正門、庭に面した南側に裏門がある。
正門を入って右側には車四台を楽に収納できる平家造りの車庫があり、その車庫だけで日本の平均的な建売住宅一軒分の広さがゆうにある。
母屋は正門の正面10数メートルの位置に建っている。正門から母屋までの土地はコンクリートで舗装がなされていて乗用車ならば20台は楽に停められる広さがあった。
母屋部分は土台そのものが周囲の地面より70センチ程高くなっていて広くなだらかな階段を登ると玄関となる。
屋敷は約50畳のリビングを中心に東西に長く庭に向かって凸字構造で、オープンスペースの多い贅沢な造りだ。南国故に通風構造に対する工夫が随所に見られ、普段ならば空調を使わなくともかなり快適に過ごす事ができる仕組みとなっている。
日本文化に造詣の深いダニエル・フォークマンは屋敷を建てるに当たり、わざわざ日本から建築家を呼び寄せて設計・施行をさせた。その為、各部屋の造りは坪計算が基準になっている。二階には茶室と隣り合わせに和室があり、庭の西奥には100坪程だがちょっとした日本庭園も造らせていた。
庭の東側母屋寄りには25メートル級のプールがあり、フェンス側に建つポンプ小屋が給排水をする。
プール周りには椰子の木が数本植えられていて毎年いくつかの実をつける。
周囲のスチールフェンス内側には多様な亜熱帯性植物が植えられていて、ぱっと見には公園の広場にでも居るような空間を演出している。
母屋の造りがこれまた非常に奇抜で、玄関ホールのある正門側は黒のタイル張りによる近代的なビル・デザインとなっていて、これは日本の町の小ホールとか町役場をイメージすると判り易いかも知れない。
ところが庭に面した建物南側は白を基調としたバロック様式を取り入れた木造建築風宮殿造りとなっていて二階部分に張り出した広いバルコニーと相まって、さながら南国の高級リゾートホテルの様なデザインとなっているのである。
ケイトの父親はこの奇抜なデザインがお気に入りであった。
近所では“将軍の屋敷”と呼ばれている・・・・・・。
マニラ署からフォークマン邸への道程は、道路状況にも依るが概ね車で30分から40分程度と言ったところであろうか・・・・・・。
7時前にはケイトは自宅に戻っている。
愛車をガレージの4つ在る扉の右からふたつ目・・・いつもの場所に収め、一番右の扉を開けて玄関へと向かった。扉は電動で動く、緩やかに90度手前に跳ね上がってから奥へとスライドするタイプの扉だ。
一番右の扉を開けたのはメリッサ夫妻の為である。その場所がメリッサがケイト邸を訪れた際の決まった駐車位置となっているからである。
ケイトの母親とメリッサは従姉妹の間柄。
一族としてはメリッサの家がレガスピ姓を継ぐ本家で、長女メリッサはケイトよりひとつ年上である。二人は幼い頃から実の姉妹のように仲が良くケイトはメリッサをメリィと呼んできた。
ケイトのふたりの妹、ターニャは17才でアイリーンは7才だがこの二人はメリッサをメー姉さんと呼んでいつも甘える。
メリッサの夫、白田はケイトにとっては剣の師匠であるからマスター“師匠”だ。
その為、妹達もそれに習って白田の事をマスターと呼ぶ。
ケイトの母親シャローンはフィリピンに於ける実力派人気歌手の一人であり、家柄も経済面もフォークマン家はフィリピンに於ける上流階級に属している。マニラ銀行には両親が姉妹三人の為に日本円に換算して約4千万円分の預金を預けており、これはフィリピンなら利息だけで充分生活してゆける金額だ。
フォークマン家の総資産はざっと9千万円と言ったところであろう。
フィリピンの物価は日本の1/10程度なので日本であれば9億円に相当する額となる。
従ってケイト達の生活様式は庶民とは大分事情が違っている。
レガスピ家はさらに数倍以上の富豪であった。
重厚な造りのオーク材の両引き戸を開けて玄関を入ると約16畳のエントランスホールとなる。
ほぼ総二階建ての造りとなっている屋敷のエントランスホールは吹き抜けで、総ガラス張りのために明るい印象だ、床面には黒い大理石が使用されている。
入って正面・・・東西に走る廊下を隔ててリビングとなるが、その手前右奥の壁には吹き抜けの二階部分へと続く踏み板だけが壁面から突き出たシンプルながら洒落た造りの階段がある。
廊下とリビングの堺はリビングに向かって右からほぼ真ん中あたりまでの西側二間が造り付けの飾り棚となっていて、廊下側に曇りガラスが貼られている。残りの左側、東半分は白いモルタルの壁面となっていて飾り棚寄りにアーチ型の扉がない出入り口となっている。
廊下に少し突き出た形となるリビングへの出入り口はここを含めて3箇所あって、アーチ型の出入口を入った東側と今一つは飾り棚の端に当たる西側にある。同じく扉のない素通しとなっていて、玄関、東西の廊下のどこからでも最短距離でリビングに入れるように設計されているのである。
リビングには普段ならオレンジ色をしたバックスキン張りのソファーセットが置かれているのだが・・・今日はパーティーがあるので片付けられていた。
リビングは明るい木目の杉材を基調とした内装でほぼ全体が吹き抜けとなっていて開放的な空間を演出している。
二階部分にはリビングの西側に庭面のテラスへと続く廊下が走っていて、そこからはリビング全体を見下ろす事が出来る。リビング庭面にあるみっつのガラス戸は今日は総て解放されていて家人や手伝いの者たちが忙しそうに出入りしてはパーティーの準備をしている処であった。
次女のターニャがリビング右手前にあるバーカウンターの中に居た。
亜麻色髪のセミロングで姉に劣らぬ美人である。ケイトより柔らかい印象の顔立ちをしている。背丈はケイトより幾分か高い。
カウンターは紫檀材で天板には見事な木目のマホガニーが使用されている。シンプルではあるが豪華な造りで、よく磨き上げられていて1間半ほどの長さがあった。
壁面には同じく1間半ほどの紫檀材のキャビネットがあり酒ビンやグラスが所狭しと並んでいる。
棚にはウイスキーやブランデーもあるもののテキーラの種類が圧倒的に多いのはケイトの好みからだ。
キャビネットの中央には半地下室となっているワイン貯蔵室への小さな扉があってそれは腰を少し屈めないと出入り出来無い位の大きさである。室内は間口が一間半、奥行が半間程の広さでストッカーには200本近い収納力があり、普段でも50本位のワインがストックされている。室内は他とは独立した空調装置が温度と湿度を常に一定に保っている。
ターニャはつい先程までそのワイン貯蔵室で客に出すワインを見繕っていた。チェックを終えて出てきた処で、ケイトに気付いてカウンター越しに声を掛けた。
「姉様、おかえりなさい」
「只今、ターニャ。・・・アイリーンはどこ?」
ケイトは末妹の姿を探しながら訊く。
「アイリーンなら自分の部屋よ・・・着る物が決まらなくてマリアを手こずらわせているわ」
「まったく・・・あの娘ったら・・・」
ケイトは苦笑いを残してアイリーンの部屋へと向かった。
住まいの西側が家族の住居スペースに使われていて東側は客室がその大半を占める。一階の奥からケイト・ターニャ・アイリーンの部屋となっているのでターニャの部屋は書斎を挟んでリビングから一番近い場所となる。
「マリア。ここは私が見るからいいわ・・・会場の方を手伝ってあげて・・・」
部屋に入るなりケイト・・・・・・。
マリアはベットの上に山積みされたアイリーンの衣装と格闘をしている。
「お帰りなさい、ケイト。アイちゃんは衣装を持ちすぎですよ・・・ありすぎるから中々決まらない。ピンクのドレスかブルーかまでは絞ったから・・・・・・後は貴女に任せるわ・・・」
そういい残して部屋を出たマリアはキッチンへと向った。
マリアはケイトより二歳年上で、ケイトに対し奉公人としての礼儀は尽くすが名前は呼び捨てにする。
彼女は料理が得意で、その味は一流店のシェフが絶賛するほどの腕前だ。
「ケイトお姉様、おかえりなさい」
鈴の音の様な愛くるしい声が嬉しそうに響く。
下着姿で鏡の前に立ち、ピンクとブルーのドレスを交互に身体に重ねては選びあぐねている・・・。
「ねぇ、お姉様。ピンクとブルーどっちがいいかしら・・・?」
「ブルーが似合ってると思うわ」
ケイトは“心にも無い事”を即答した。
姉の言葉にブルーのドレスを身体に当ててしばし鏡に見入っていたアイリーンだが、
「やっぱり、こっちのフリルの方が・・・私にはお似合いだわね・・・」
などと言ってブルーのドレスを放り出してピンクのドレスを手にした。
とっとと袖を通して、
「お姉様、ファスナーをあげてぇー」
と甘えた声で背中を見せている。
ケイトはしてやったりと微笑みながら、彼女のファスナーをあげてやった。
色白で金髪に緑色の大きな瞳を持った少女で唇の左上にハッキリとした黒子が見える。
「アイちゃん、エンジェルはもう来ている?」
「うん。お姉ちゃんならもう来てるよ。・・・さっき会ったもの」
とアイリーン。
エンジェルはケイトと同い年、メリッサが白田と設立した写真スタジオの専属メイクで、メリッサと白田が出逢うきっかけとなった娘だ。
「よし。じゃあ、エンジェルに御髪のセットをしてもらおうね」
ケイトはそう言ってアイリーンの手を引いてリビングへと向かった。
繋いだ手を大きく振ってアイリーンはとても上機嫌である。
リビングでは当のエンジェルが丁度アイリーンを探しているところだった。ケイトに連れられた彼女を見つけ、ケイトに挨拶をしながら小走りに駆け寄って来た。
いかにも南国娘といった感じで、日に焼けて色は黒いが垢抜けており小顔で快活そうな可憐な顔立ちだ。腰まであるストレートの黒髪も絹のように艶やかで美しい光沢があり軽やかである。ケイトでさえ少し嫉妬を覚えるほどの見事な黒髪は彼女が動くたびに、少し甘いが爽やかな芳香を放っている。
彼女は貧困層のそれでもまだ程度は良い方といった家庭の出で、母親は昔メリッサの家のメイドとして奉公していた。その為、年の近いエンジェルとメリッサは親友の間柄であった。
エンジェルは看護婦を目指していて、その学費を稼ぐために日本へ出稼ぎに行き白田と出遭うのだが。その費用を援助したのはメリッサだった。
帰国した彼女の元を訪れた白田がメリッサと出逢い結ばれる経緯の中、メリッサの薦めもあって写真スタジオの専属美容師となった。
輝かんばかりのこの南国娘はヘアー&メイクの技術者として並みならぬ素養を持ち、ずば抜けた色彩感覚は最近ではスタイリストとしての才能も開花させている。
ベルスタープロモーションと言うフィリピンでも一流の芸能事務所の若手人気タレントであったメリッサにはベテランのヘアーメイクとスタイリストが付いていたのだが独立後はエンジェルがその二人の後釜となりなんら遜色ない仕事ぶりを見せている。
「まぁ、可愛いドレス。アイちゃんにお似合いだわ・・・じゃあこのドレスに会うように、御髪をセットしましょうね」
優しさに溢れた笑顔でそう言ってエンジェルはアイリーンの手を取った。
エンジェルの後姿はウエストが見事に括れて形のよいヒップにジーパンがよく似合っている。
小柄だが中々のプロポーションで、白田がモデルとして使う事もしばしばあった。
「ターニャは済んでいるので、次は貴女の番よ。着替えが済んだら二階のクローゼットへ来てね」
ケイトに告げるとアイリーンを連れてカウンター横の螺旋階段から二階へと向かった・・・・・・。
「外の様子を見たら、着替えて行くわ」
ケイトはエンジェルの背中に返して、テラスへと向かった・・・。
テラスでは、すでにパーティーの準備がほぼ整っていた。
テラスはかなりの広さがある。テラス自体二階構造となっていて、二階の庭側に面した西棟と東棟の各部屋を1間ほど張り出したバルコニーが貫いていて、それがリビングの二階部分に少しかぶるような容で中央で広い二階テラスとなっている。それはリビングとほぼ同じ広さがあって両脇にあるかなり広い階段で一階部分と繋がっている。
一階テラスの端はそのまま庭への数段の階段となり、これは庭が低い為ではなく建物の基礎が70センチ高くなっているからであった。
リビングから見てテラス左奥に有楽園、その反対側の右奥にカーサ・アルマスの仮設調理場が設置され、それぞれの店舗から派遣された調理人達が料理をしている最中だ。
有楽園はマニラ市内のホテルに入いる日本料理店で、客に多彩な日本料理や家庭の味を提供している。
カーサ・アルマスはマカティに店舗を持つ本格スペイン料理店でパエリアに定評がある。
ちなみに、カーサとはスペイン語で“家”を意味する。
有楽園はケイトの父が、アルマスの方はケイトの母がそれぞれ馴染みとしており、以前は家族揃ってよく訪れ食事を楽しんだ店であった。
マニラには日本料理の店が思いの外ある。
アジア圏にあって、フィリピンの料理は以外に素朴な味付けなものが多い。
したがって大抵の郷土料理も日本人にはさほど抵抗なく楽しめると言える。裏を返せば、大抵の日本料理はフィリピン人にはさほど抵抗なく受け入れられると言う事だ。
有楽園のブースには花板、杉田の姿が見えた。
彼は店のオーナーの知り合いで、元は銀座の一流割烹の板前をしていた人物らしい。
その彼をオーナーが引き抜いてこちらで一緒に仕事を始めた。
細身で背が高く、割烹着が板に着いている。まだ若いが腕は一流だ。
「まぁ。わざわざ杉田さんが来てくれたのですね?・・・今度お店に行ったらオーナーにちゃんとお礼を言わないといけないわね・・・」
出張料理に花板を遣すとは・・・オーナーがどれ程ホークマン家を大事な客として扱っているのが窺い知れる。
「半端な者には、御当家の料理は任せられませんよ。何しろ皆さん舌が肥えてらっしゃる」
花板の杉田はそう言って笑った。
「それに、今日は皆さんをビックリさせる趣向も用意されている様ですし。・・・こんな面白い事すると知っては、店の板場で包丁を振るってる場合じゃない・・・ってもんです」
杉田の言葉はケイトには思い当たる節がなかった。
何だろう?とは思ったもののそこは聞き流してしまった・・・。
当の杉田は今夜出す船盛りに添える物であろう・・・刺身のツマを造るのに余念がない。
大根を見事な包丁さばきで薄剝きにしている。その手つきの見事な技に思わず見とれていると、
「おかえり、ケイト・・・」
日本語で聴き慣れた白田の声がした。
振り向くと藍染の作務衣に身を包んだ白田の姿が目に留まった。素足に雪駄を履いている。
白田は平気な顔をして作務衣や和服の着流しでマニラ市内のショッピングエリアを彷徨くらしい。
仕事〔写真撮影〕にもその格好で出掛けてしまう事があるとメリッサに聞いてケイトは呆れたものだ。
白田とメリッサは全編を通して重要なサブキャラクターとなるので話が少し横に逸れるがあえてここで紹介をしておく事にする・・・・・・。
1983年の2月下旬、東京は蒲田東口商店街の線路側に近い場所に在る雑居ビルの地下にあるマカティと言うフィリピンパブに、エンジェルはダンサーとして出稼ぎに訪れた。
その店での最初の客が、当時23歳で既に写真界では頭角を現し銀座に写真スタジオを持つオーナーカメラマンの白田であった。
エンジェルは18才と言う触れ込みで来日していたものの実際には当時まだ16才だった。
素直で明るい彼女を白田は直ぐに気に入り、一人っ子だったせいもあって妹のように可愛がった。
エンジェルも誠実な白田を実の兄のように慕う様になる。
この年の8月にアキノ元上院議員暗殺事件がフィリピンでは起きている。
日本では任天堂から“ファミコン”が発売となった年のことだ。
翌年4月、フィリピンに帰国したエンジェルを白田が訪ね、そこで当時19歳のメリツサと運命の出逢いをする。
パグサンハンのリバーリゾートへ遊びに行った際、エンジェルがサプライズゲストとして親友のメリッサを呼んでいたのである。
その年日本ではグリコ・森永脅迫事件が起きた。
翌1985年、筑波万博が開催され。日航機墜落事故では520人が死亡するという痛ましい事故があった。その飛行機には歌手の坂本九も搭乗していた。
鹿児島では桜島がかなり大規模な噴火をした。
18才のケイトが米国陸軍士官学校へ留学した年でもあった。
その春先、フィリピンでは製作予定のあったメリッサの写真集を撮影する筈であったフィリピンの有名写真家が老衰で突然に死去してしまった。
これが、メリッサと白田の運命を大きく変えることになる。
白田が撮影を担当する事となり、ほぼ1年を費やして写真集が完成し翌年の1月に発売となったのだ。
白田は『自分が撮影をするのなら…。』と事前のコンセプトを全て無視、あえてフィリピンではあまり馴染みのない季節感を取り入れた写真集の撮影をする。日本とフィリピンとでほぼ1年をかけて撮影したのである。
その出来栄えに一番感動したのはメリッサ本人だった。
彼女は白田の人柄と才能を深く愛する様になる。と言ってもメリッサと白田はお互いに出逢った瞬間からお互いを運命の相手と感じていたのだが……。
1987年、日本では国鉄が分割民営化となってJRが営業を開始した。
年末にはメリッサのセカンド写真集の撮影が完了し、セブ島でクリスマスに行われた打ち上げパーティーに於いて当時28才の白田と21才のメリッサがスタッフに婚約を宣言したのであった。
1988年は日本ではリクルート事件が勃発。青函トンネルと瀬戸大橋が開通した年に当たる。
この年の初め、白田とメリッサは役場に届けを出して正式に夫婦となったが、挙式の会場となるマニラ大聖堂の予約が満杯で年を越した3月20日が晴れ舞台となる予定だった。
レガスピ家はかつてフィリピンを征服し初代総督に赴任したレガスピの末裔である。
メリッサの母親はフィリピンでは屈指のバイオリン奏者でスペインの血を濃く引いていた。
その母はスペインの血統を守るべく一族の強い希望もあって本国スペインから夫を迎える。
故にメリッサの父親は生粋のスペイン人で外交官である。
レガスピ家とは遠縁にたるスペインの名門一族の出身で、父の父は政治家であり外務大臣を務めたこともある人物だった。従ってメリッサ自身フィリピン人ではあるが血統的にはスペイン人に近いと言える。
メリッサには弟と妹が一人づつ居る。18才のショーンは白田の影響を強く受け、現在映像短期大学に通いながら白田の助手としてさらに映像技術を学んでいる。12才の妹ソフィアは母と共に、スペイン大使としてアフリカ大陸のナイジェリアに赴任した父に同行をしており、二年前からフィリピンには不在であった。
メリッサの自宅はケイトの家からはケソン市を抜けて大分先で、距離にすると30キロ程の位置にあり、そこはメトロマニラの外れにあたる。
標高300百メートル程のなだらかな山ひとつと隣接する山の半分程が所有地で、山の7合目当たりに旧スペイン大使館の別荘として使われていた洋館を移築して屋敷としている。
山の麓には小さいながら湖がありその湖の半分程までがメリッサの自宅の土地である。ただし、周辺も一族の住む土地であるので湖の周辺一帯はレガスピ家の土地と言ってしまってもよかった。
屋敷の部屋数は40を越え・・・屋敷と言うよりは宮殿である。
両親不在の屋敷はいつの頃からかメリッサにちなんで“メリッサ御殿”と呼ばれるようになっていた。
メリッサ自身は仕事柄ケソン市内のマンションに滞在する事が多かったため、白田も婚約をするまではその実家の存在はまるで知らなかった・・・・・・。
「あらぁ、マスター・・・メリィもご一緒?」
「いや、メーは後から来るよ。私はとりあえず空港に寄って、日本からの食材を運んで来たんだ。・・・道が混んでいて少し遅くなってしまったがね」
そう言う白田の背後からは、レガスピ家の使用人達が続々と食材を運び込んでいる。
その中には中国人シェフ、黄〔ファン〕料理長の姿もあった。
「ケイトさんお久しぶりアル。今日は若旦那がケイトさんの為に包丁使うアルよ・・・」
本日の主役に、中国訛りの・・・流暢だが怪しい日本語で挨拶をした。
「お嬢さんの思いつきアルね。日本料理出す聞イテ有楽園電話シタよ・・・」
白田はペラペラと喋りだす黄料理長に驚いて慌てて言葉を遮った・・・。
「おーい、黄料理長。全部喋ってしまったらサプライズにならないだろう・・・」
白田の慌てぶりにケイトは思わず笑顔となる。杉田も笑って遣り取りを聞いている。
「黄料理長は正直者だものねー。隠し事なんか出来ないのよねー」
そう言って大きく右に傾くケイト、
「そうアルねー。中国人嘘ツカナイ・・・ダ、もんねー」
と、ソレに合わせる黄・・・・。
内心では、どうやらメリッサがまた何か仕込んだな・・・とケイトは思った。
白田は二人の遣り取りに笑ってはいるものの、
『だけど・・・中国人“本当の事”も先ず言わないもんネー』
と心の中で呟いていたのは著者しか知らない事である・・・・・・。
葛葉流古武術の使い手、白田の剣の腕前は相当のモノだが、大の釣り好きで包丁の腕前も相当だ。
レガスピ家には黄の他にも数名の料理人がいるが、白田自らがキッチンに立つ事も珍しくは無い。
その白田は杉田と打ち合わせをして料理の段取りを決めている。
「そうだ・・・、悪いがケイト、キッチンから氷を運ばせてくれないか。・・・そうだな、量は多いほどいい」
ケイト邸のキッチンには小型ながら優秀な日本製の製氷機がある。白田はそれを承知で言っている。
「いいけど・・・何が出来上がるのかしら?」
ケイトは師匠の顔を覗き込むようにして訊いた。
「秘密だよ。秘密・・・始まってからのお楽しみだ。・・・マリアにでも運ばせてくれ」
白田はそうもったいをつけて言って悪戯っぽい笑顔を見せた。
準備は順調の様子だし、そろそろ自分も着替えを済まそうとケイトは考えた。
「師匠がいれば安心ね。こっちはおまかせましましたよ・・・・・・」
そういい残して、カーサ・アルマスのブースにも一通り挨拶をしてから母屋へと引き上げていった。
フィリピンの電気代は高い。電話代は国内であれば何時間話しても定額と安上がりだが電気代となると話は別である。下町の家庭では電気代を一番にケチる。従って扇風機はあるがクーラーは使わないのが普通だ。勿論ショッピングモールの家電売り場でクーラーは普通に売られている、値段も日本と比較してそう高くも無いが物価が日本の1/10程なので庶民にはそれなり高嶺の花ではあった。
しかし品物の値段以上に電気代が大きな家計への負担になってしまうのである。
大抵の家庭にはテレビ・ビデオ・洗濯機などの品は一通りあるのだが、冷蔵庫のコンセントが抜かれている家庭も多い、こちらも日本の一般家庭に在るような冷蔵庫がちゃんと在るのだが、電気は通さず氷を入れて使うのだ。
日本でも昭和の中ごろまでは普通に見られた一貫目の氷板・・・アレである。
脱線のついでに、水道はあるが日本のように生水は飲めない。
一度煮沸してから飲食には使われる。
氷も衛生管理が余程しっかりとした店のもの意外はまず注意をする必要がある。
氷の入ったドリンクなどは氷が解け出す前に飲んだほうが安全なのである。
ホテルや裕福な家庭では水洗トイレだが下町の多くは日本の昔同様にドボンであるのが普通だ。
シャワーも普通にあるが温水が出る家庭はまず少なくバスタブは希にしか見かけない。
台所のガスはプロパンだ。
下町の生活様式はまさに昭和初期の日本並みなのである。
しかし裕福な家庭は現在の日本と大差がない。
言い換えればこの国の貧富の差は50年分に近い開きがあるという事だ・・・。
「杉田さん、こちらが例の黄料理長です・・・・・・」
杉田と白田は顔見知りである。
白田はメリッサに連れられて彼の店に何度か食事に訪れていたからだ。
メリッサは杉田の店のすき焼きと鯖の味噌煮が大好物である。
フィリピンでも鯖は食用として市場に並ぶ、現地では“ハサハサ”と言う。
彼女は寿司や刺身も平気で口にしたし、梅干や漬物も食する。
しかし唯一納豆だけは苦手であった・・・・・・。
杉田は、黄料理長を白田との会話の中で聞き知ってはいたが、本人とは今夜が初対面である。
黄は元々は中華の料理人だが、京都は嵐山の料亭で5年ほどの間、京本膳の修行をしている。
白田と結婚するにあたりメリッサが知り合いを通して探し、新夫の為に雇い入れた料理人だった。
その為、黄は他の料理人とは違って住み込みでレガスピ邸の料理人をしている。
「今日は、私が天婦羅を担当するアルよ」
黄料理長は張り切っている。
彼は訳あって中国を離れ、京都嵐山にある料亭の下働となった。
料理人としての舌と腕は確かだった様で、4年を待たずに板前の端くれになったものだ。
料理好きで、努力家であり・・・料理に対して研究熱心でもある。
寝ている時間以外は大抵調理場か庭先に勝手に造ってしまった畑にいる。
知り合いからの誘いに、当初は『何処で作っても料理は同じ・・・』程度のつもりで、給料と待遇がよさそうな事からなんとなくフィリピン行きを決意したのだが、お茶目なメリッサと白田の人柄に触れて好意を抱き、今ではすっかりメリッサファミリーの一員となっている。
黄が来るまではメリッサ邸の調理場は本格フレンチを学んだヤン料理長が仕切っていた。
ヤンの父も、祖父もまた、代々メリッサの家の調理人として勤めた家柄で、ヤンは黄より若い。
黄は今年で45才、小柄で一重目蓋に白髪交じりの頭髪を三部刈りにした何処か猿に似た男である。
メリッサ邸では本来ヤンが料理長なのだが、そのヤンも他の料理人も、黄が造る料理に文字通り舌を巻いた状態で、今ではすっかり黄から料理を学ぶ格好となっている。
中華と日本料理を学んだ黄の造る料理は、味は勿論の事、見た目も繊細かつ優美である。
いつしか調理場の誰もが黄に料理長を付けて、黄料理長と呼ぶようになっていた。
「今夜は、この黄料理長には届いた食材で天麩羅を造ってもらいます。メインは車えびとキス、それと舞茸に獅子唐・・・ウベと言ったところですかな。車えびは私の田舎から・・・キスは日本の釣り仲間に頼んで送って貰ったネタです。母方の実家が伊勢志摩は浜島の海女の網元なので海鮮のネタには事欠かないのですよ」
と白田は杉田に説明した。
ウベはタロ芋科の紫芋の一種でフィリピンではデザートなどによく使われる。
鮮やかな紺に近い紫色をした芋である。
ソレを輪切りにして蜂蜜を薄く塗り黒胡麻をまぶして天麩羅にするつもりでいた。
「後は、変り種として梅の天麩羅を出してみます」
「梅・・・ですか?」
杉田は少し驚いて白田を見た。
梅と聞いて一瞬本気で『梅干を天麩羅にする気か?』と思ったからだ。
「ええ。梅酒に使った梅です、ちょうど当家で梅酒を造ったのがあったので砂糖漬けにして持って来てみました」
「なるほど・・・」
梅酒の梅の天麩羅なら上手いかも知れない・・・と杉田は思った。
「いゃあ・・・しかし白田さんは料理に詳しいようだ・・・驚きました。」
「なあに、見覚えだけで調理のほうはからっきしですがね。一時期、料理誌のカメラマンをしていたので、その折りのね・・・」
などと言いながら、食材の整理をしていた白田が何かを見つけたらしく、
「おお!オコゼだあー!」
と驚きの声を発した。
杉田が覗いて見ると成る程見事なオコゼが10匹程・・・・・・。
「黄料理長。こいつはから揚げにして下さい。肝と鰓と背びれを除いて丸揚げでいい・・・揚げたら軽く塩を振って・・・・・・ビールのツマミには最高なのですよ」
「丸揚げでいいのか?・・・ホィ、任せるアルよ」
黄は白田から受け取った魚を天麩羅の食材用クーラーボックスに並べて入れた。
オコゼは一昔前なら瀬戸内の食堂なとでは普通に見られる大衆魚であった。
最も最近では高級魚として並ぶようになり庶民には滅多に口にできない魚のひとつとなってしまった。
白身で癖がなく、見た目の強面に反してとても美味な魚である。
白田が空港から運び込んだ食材は日本の伊勢と尾道から直送された魚介類が主だった。
それと、フィリピンでは手に入らない日本の野菜類である。
「杉田さん、今日は日本料理の職人として腕の見せ所だ。・・・頑張って下さい」
言われなくても杉田自身、食材を眺めただけで料理人としての腕が疼いていた。
真鯛・平目・イナダ・鯵などの魚をはじめ、伊勢えび・アワビ・サザエ・牡蠣などの貝類、新鮮な日本の野菜や茸などどれもこれも、超一級食材が大量に揃っている。どれ程、金が掛かっているのか見当もつかない程であるが、実は総て白田の実家や知り合いから送られてきた品物で、運賃の他にはこれといって金はかかっていなかった。
「船盛りの方はお願いします。食材は好きに使って下さって結構です。・・・私は、アサワ〔妻〕を迎えがてらその辺を一回りチェックして廻ります。メインのイベントまでには戻りますから・・・・・・」
白田はそういい残して、後の事は黄料理長と杉田に丸投げにした・・・。
アサワはタガログ語の夫婦の“連れ合い”を指す言葉だ。夫が妻・妻が夫を指す場合アサワと使われる。
すっかりドレスアップしたケイトがキッチンに顔を出した。
キッチンではカーサ・アルマスから派遣された調理人が二人、デザート造りに精を出していた。
キッチンテーブルの脇ではマリアとミランダが丸椅子に腰掛けてビールを飲みながら一休みしている処だった。二人はつい先ほどデザートの大きな焼きプリンをオーブンに入れて焼き始めた。焼きあがるまでは差し当たって用事が無くなったので一休みに入ったところであった。
ケイトはカーサ・アルマスの調理人に挨拶をして労をねぎらって、思い出したように、
「そうだ。悪いけれどパエリアを十人分程追加出来るかしら?」
と聞いてみた。
「大丈夫ですよ、あと三十人前は作れるはずです」
背の高い方の青年が笑顔で答えた。
「よかった。ゲストの数が増えそうなので追加をお願いするわ」
「わかりました。まかせてください」
彼はもう一人の調理人にワゴン車から食材を持ってくる様、指示をした。
「サンドウィッチの方も追加しますか?」
マリアがケイトに聞く、
「そっちはいいわ…それより、氷を師匠に届けて貰えるかしら、量は多いほど良いと言っていたわ」
とケイト…ミランダは直ぐに製氷機の氷をかき集めてキッチンを出て行った。
ケイトは長年務める二人のメイドに対してあまり口煩いことは言わない。
仕事中の飲食も割と自由にさせている。
他人から見ると使用人なのか家族なのかよく判らない…それほど仲がいい。
しかし、二人は自分たちがこの家の使用人である事を充分に認識している。ケイトはそれで良いと思っていた。
着替えを済ませた彼女は髪をアップして七分丈の黒のドレスを身に纏っていた。
ドレス左の腰のあたりまで入ったスリットからは、彼女が歩くたびにスラッと伸びた脚が露わとなる。
「うーん・・・そのドレス、とってもセクシーだわぁ・・・」
マリアがケイトをひやかした。
「そう?いい殿方が来たら誘惑しょうかと思って……」
ケイトは言いながら左足を一歩踏み出してシナをつくって見せた。スラリとしたカモシカの様な美脚が内腿のかなりきわどい部分まで露出した。カーサ・アルマスの調理人がドキとして思わず手にしていたボウルを落としてしまった。慌てて拾おうとしてさらに自分の足で蹴ってしまい、それは調理場の隅まで吹っ飛んだ。 ケイトとマリアは目を大きくして見つめあったがどちらからともなく大爆笑となった。
「お兄さん、ひょっとしてチェリーボーイ?」
マリアが追い打ちすると彼の顔は火を吹いたように赤くなった。
「何?随分と楽しそうね……」
ターニャである。彼女は両親が今しがた到着した事をケイトに知らせに来たのだった。
「リビングに居るわ。驚いた事にケイン兄さんも一緒に来たわよ・・・」
ケイトは急いでリビングへと向かい、ターニャがすかさずその後を追った・・・・・・。
ぼちぼちと気の早いゲストがケイト邸を訪れ始めていたが、玄関にはレガスピ家の執事“アントニー”ことアレックス・アントニオ・オブライアンが立ち、ゲストたちを出迎えていた。
アントニーの家は代々メリッサの父の家の執事として生計を立てて来た。
生粋のスペイン人である。レガスピ家に婿に入った父親が本国から連れて来た唯一の先代から仕える使用人であった。
ケイトはアントニーと無言で挨拶を交わし両親の元へと急いだ。
急ぎながらアントニーが居ると言う事はメリッサも既に来ているなと判断をした。
ケイトの読みはあたっている。
リビングではケイトの父ダニエルがレガスピ家の私設警備隊を取り仕切るビル・ベクターと話しているところであった。
ビルはアメリカ人で、元は米国陸軍グリーンベレーの教官をしていた人物だ。
レガスピ家にはマニラの警備会社から警備員が派遣されていたのだが、何かと問題が多かった。
メリッサが写真スタジオを設立し自分のプロダクションを開設すると、白田は広告代理店と警備会社も創ってしまえとメリッサに勧めた。その相談を受けたケイトの父が紹介したのがビルだった……。
ビルは軍をやめた後、当時の部下二人と共にセブ島で観光客相手にリゾートスポーツを提供する仕事をしていた。それなりに仕事は順調ではあったのだがダニエルの口添えもあってセブを引き払い部下と共にレガスピ家の警備会社設立に尽力したのである。
現在では広大なレガスピ家の敷地内を三個分隊の私設警備員が警護している。
ビルの後ろに控える四人の男、内二人はアメリカ人で二人はフィリピン人であるが、アメリカ人の方は元部下のジェームズ・イェーガーとライアン・フィリップでそれぞれ施設警備隊の第一分隊長と第二分隊長である。
二人のフィリピン人は、今年増設した第三分隊の分隊長サミエル・ボルボッサとその弟のハンク・ボルボッサで、この兄弟はレガスピ家の所有する農場の小作人の息子達だった。
ビルが訓練した警備員の仕事は確実で、ガイア・セキュリティー社は今ではメトロマニラ近郊に7つの支社を持つに至っている。メリッサ御殿の警備隊はその中でもよりすぐりのエリート集団で編成されていた。
「皆さんお揃いで…元気そうで何よりです…」
「やぁ、ケイト!暫く見ない間に…また一段と綺麗になったんじゃないか?」
ケイトの声に父親が振り向きざまに言った。
「お父様。娘にお世辞を言っても何も出なくてよ。」
ケイトは久方ぶりの父親にハグをした。続いて兄のケインと再会を喜んだ。
「まさか兄さんまで来るとは思わなかったわ!」
「ああ。思いがけず3日程休暇が取れたので、こうして顔を見に来たよ・・・」
ケインは空軍士官の軍服姿である。
「ところでお母様は何処?」
挨拶をしょうと思ったのだが母の姿が見えないので聞いてみた。
「シャローンならアイリーンと庭の方へ行ったよ」
ダニエルが言った。
「あら、そおなの…」
とケイト。後で挨拶すればいいやと考えてからビル達に向かって、
「皆さんご苦労さま。半分は仕事だからアレだけど…楽しんでいってね」
一同がケイトに挨拶を返した。
「どお、お二人さん…警備の仕事には大分慣れたの?」
ボルボッサ兄弟に尋ねた。弟の方は元警官でケイトにとっては同僚であった。
「仕事は大分慣れたけど…中佐のシゴキはフィリピン軍の訓練以上に厳しいですよ」
フィリピン陸軍に居たサミエルが答えた。
「こら、訓練と言え、訓練と…シゴキなんて、まるで私が虐めているみたいじゃないか」
ビルが冗談混じりに叱ると、
「いやいや、確かに中佐のシゴキはグリーンベレーの教官当時から趣味みたいなモンだからな…」
とジェームズ、
「自分なんか、動きが悪いと言ってなんど尻を蹴られた事か…」
とライアンが続ける。
「おいおい、あの頃キツチリ指導してやったからこそ、今もこうして生きていられるんだ…」
ビルの言葉にライアンが参ったという仕草で肩をすぼめて見せながら、
「確かに・・・・・・中佐の言うとおりだ」
と呟いた……。
「ベクター中佐も現役時代に比べると大分人間が丸くなった様だな・・・・・・」
ダニエルがビルをひやかす。
「中将!こいつらの口の悪いのは現役当時からであります!」
ビルがワザと芝居掛かった敬礼をしながらダニエルに返した。
「うむ、どうやら君の部下はこのところ弛んでいる様子だな・・・・・・罰として庭を30週ほど走らせろ!・・・・・・一週ごとに尻を蹴飛ばすのを忘れるな!」
思いの他ダニエルが悪乗りをして軍隊ゴッコに乗った様である。
「中将!お言葉ですが・・・今の・・・こいつらは10週も走ればくたばると思われます・・・」
「いや、中将簡便して下さい!一週毎に教官の蹴りを喰らったら3週目くらいで尻が腫れ上がって・・・・・・走るのは無理であります!」
ライアンがダニエルに敬礼をしながら言った。・・・・・・教官時代のビル・ベクター中佐はデビル中佐と恐れられた鬼教官であった・・・二人はそのビルが特に可愛がった部下であり、優秀な兵士だった。
ダニエルも現役当時を懐かしく思い返している様子である・・・・・・。
「ところで、会社のほうはどうなんだ?」
「軍に居た頃に比べると天国ですよ」
とライアン、ジェームズも、
「セブで観光客相手に商売するより自分達には合っているようです・・・特にレガスピ家の3個分隊は自分達が鍛えたのでグリーンベレー相手でも引けは取りませんよ・・・・・・」
と自慢した。
「それは凄いな・・・・・・ならばウチもガイアセキュリティーに依頼をしてみるかな・・・・・・ただし仕事は庭掃除と野菜作りだがな・・・・・・」
ライアンとジェームズがあきれて、しばし互いの眼を見つめあったがどちらともなく、
「当社は警備会社なので、その様なご依頼はお引き受けしかねます・・・・・・」
と真面目な顔で答えた・・・・・・。
「じゃあパパ、ゆっくり楽しんで行ってね」
頃合と見てケイトは昔の仲間と楽しそうな父親を残して庭へと向かった・・・・・・。
吹き抜けとなっているリビング東側の壁面には、二階部分にテラスへと続く廊下が半間ほどの幅で張り出しているのだが、その下の一階部分には造り付けのサイドボードが手前から奥まで繋がっている。今日は其処に白い布が敷かれカーサ・アルマスと有楽園の料理がバイキング形式に並べられていた。
リビングから庭に出て白のタイル張りのテラス部分には丸テーブルが10ほど於かれ、それぞれに6席から10席のテラスチェアーが用意されていた。それらはリザーブシートとなっていてゲストの中でもケイトにとって縁の深い人々の為に用意されたものである。各テーブルにはネームプレートが置かれ、賓客の名前が記されている。
テラスを一段降りた庭側にもタイル張りの床面が10メートル程広がるのだが其処には椅子のない丸テーブルが幾つか置いてあった。こちらは誰が使っても良い共有スペースとなっている。
その先は裏門までの間に手入れの行き届いた芝生が広がっていた。
母、シャローンの姿は有楽園ブースの前にあった。どうやら白田と杉田を相手に世間話をしている様子である。白田にアイリーンが張り付いて甘えている姿が見える。
ケイトは近づいて母に挨拶をした・・・・・・。
2
「セス起きろ、もうすぐ着くぞ・・・・・・」
助手席で船を漕いでいたセスはシージェイの声に我に返った。
二人は会議室の片付けを済ますとシージェイの車で署を後にした。
シージェイはセスに着替えるかと訊ねたが・・・セスがそのままで良いと答えたのでケイト邸へと真っ直ぐに向かって来たのだ。
すでにゲストの半分位が訪れていた頃に車はケイト邸へと到着した。
シージェイの車が正門を潜った時、セスはその車内で目を皿のようにして驚いた。
「凄いなこりぁ、下手なホールよりデカい!」
セスの父親は陸軍将校で、自分は中流階級の出だと思っていたセスである。
しかし、ケイトの家の大きさは彼の常識を超えるモノだった。
「セス・・・・・・こんなんで驚いていたら身が持たないぞ」
シージェイはそう言って笑った。
玄関正面に車を停めて、二人して車を降りた。
アレックスが親しみのこもった挨拶をしてくる。
「ラゴス刑事部長もつい先ほどお見えになりました・・・」
そう言ってシージェイの車の鍵を受け取ると隣に居た警備員に手渡した。
「ガレージに空きがある・・・・・・彼の車はそこにまわしてくれ」
警備員は頷いてシージェイの車を車庫へと回送した。
「そうだシージェイ・・・ケイン様もお見えですよ」
「おっ!・・・わかった、ありがとうアレックス」
そう言って、ケインとは何年ぶりになるか・・・と考えるシージェイだった。
幼馴染の帰宅を知ってシージェイの歩みは自然と速くなる。
「先輩、今のは誰です?」
「アレックスか?彼はレガスピ家の“執事”だよ・・・・・・」
「ほぇ、僕は執事なんて人種初めて見ましたよ・・・・・・でも何でタメ口なんだ?」
とセス。
「彼の方が年上なので敬語は止めてくれとお願いしてあるからさ・・・なんか、こっちが逆に気を使うからな・・・・・・」
「ふーうん、先輩も意外と庶民なんですねー」
セスは意外に感じたようすである。
「僕も君も、ケイトからすればどっちもどっち・・・同じ“庶民”さ・・・・・・」
シージェイはそう言って笑った。
エントランスホールを抜けてシージェイはリビングへと真っ直ぐに進んだ、その直ぐ後ろを歩きながらセスはきょろきょろと辺りを見回しては一々感心したり驚いたりしている。
「堂々としてろ。田舎者だと思われるぞ・・・・・・」
シージェイは笑いながら忠告してやった・・・・・・。
リビングは既に多くの人でごった返していた・・・・・・。
裕福そうな着飾った者もいれば、どう見ても普段着の者も居る。制服姿の警察官も少なからず居た。
悪く言えば出鱈目で良く言えば開放的だ。
子供連れのご近所さんやターニャの大学の友達に始まってケイトの同僚や知り合い、両親の友人とか親戚などなど…それに混じってメトロマニラの政財界の有力者の姿もチラホラと見受けられる。
ゲストの殆どはフィリピン人の様だが外人の姿も少なくはなかった。
「なんか国際色豊かだなぁー」
セスは博覧会の会場か観光地にでも来たような気がしていた。
若い整った顔立ちの軍服姿の青年将校がシージェイを見つけて声を掛けて来た。
「よーお、シージェイ久しぶりだな!」
ケイトの兄のケインであった。
数年ぶりの竹馬の友は互いの肩を小突きあってからハグをした。
「セス、コイツはケイトの兄のケイン。俺の親友だ。ケイン、こっちは同僚のセスだ。」
「そうか・・・よろしく!」
ケインはセスと握手をしながら、
「ケイトの兄のケインだ・・・楽しんでいってくれ」
と告げた。甘いルックスの美男子である。軍服姿が好感度を更に増している。階級章から中尉であることが見て取れた。
「コイツわなぁー、ジェット戦闘機に乗りたくて空軍に入ったんだ…ところがだ、我が国の空軍には使い古しの中古が6機あるだけでな…3機で1個中隊の2個中隊って事には成ってるんだが…こいつが燃料不足でロクに演習も出来無いときてる…そこで、何をしてるかと言うとだな…来る日も来る日もフライトシュミレーターで“ダダダダダ”だ……」
シージェイは機関銃を打つ真似をしながら、
「いい大人が毎日ゲームして遊んでるってわけさ……」
と言って笑った。
「おいおい、遊んでるとは酷いな…これでもフライトタイムは1万時間を超えてるんだぜ。但しシュミレーターでの話しだけどな…実践は140時間てトコか…」
ケインはそう言って笑っている。
「それとシージェイ、今は軍のF―15は6機ではなく5機だ!」
とケイン。シージェイがオヤっという顔でケインを見た。
「先週パグサンハンの上空で渡り鳥を吸い込んで1機が中学校に墜落しちまった……」
「それで?死人とかは出なかったのか?」
「学校は休日だったから生徒はいなかった、そのかわり、まともに校舎を直撃したので4クラス程がふっ飛んじまった!」
ケインは身振りを加えてその様子を再現しながら話している……。
「で?パイロットは無事だったのか?」
「おうとも…ピンピンして今ここにいる!」
ケインが自分を指差しながら笑った。
「お前が落としたのかー!!」
シージェイは大笑いしながらケインの肩を抱いた。セスも思わず笑顔に釣られた。
「12億円が渡り鳥のせいで一瞬にしてパァだ…」
ケインが笑いながら続けている、
「交通事故なんてそれに比べれば安いもんだなー」
シージェイが素っ頓狂な比喩をした。
「そうさ・・・ポルシェだって100台以上も潰せる額だぜ!」
ケインもシージェイも大喜びである。腹を抱えてキャハキャハ言っている。どうやら二人は学生時代の悪ガキ共に戻っている。
12億と聞いてもピンとこないセスだったがポルシェ100台はピンときた。ジェット戦闘機1機はポルシェ100台以上にも匹敵するのかと改めて感心していた。
一機分の予算を“貧しい子供たち”の為に国が使ってくれていたならば、それだけでどれだけ起きなくて済む犯罪が減るだろうか?なとどと真剣に思ってみたりしている……。
ケインはセスのどことなく落ち着かない様子に鋭く気付き、
「家に来たのは初めてか?」
と訊ねた。セスがそうだと答えると、
「トイレはリビングを出て右と左の両方に在る。左は書斎を挟んでその向こうだ・・・」
と教えてくれた。
教えながらもすでに庭に向かって歩き始めていた。
ケインは二人を手招きして、
「こっちだシージェイ。部長はシラータ〔白田〕の処に居る・・・・・・」
と言った。
シージェイはセスを連れケインの後に続いた・・・・・・。
3人が揃ってテラスに出ると有楽園のブースに居たラゴスが直ぐに気付いて声を掛けた。
「やっと来たかシージェイ、テーブルで待っていてくれ・・・今戻る!」
相変わらず雷の様にデカイ声だ。
ラゴスは作務衣姿の日本人と数言の言葉を交わし引き上げて来た。
シージェイは『あれが白田か…』と作務衣の日本人を見た。
どこにでもいそうなごく普通の日本人だった。武道の達人と聞いていたがそれ程強そうにも見えなかった。
割烹着の料理人達と談笑する姿は好印象ではあったが取り立てて男前と言う訳でもない。
メリッサが婿に選んだ男なのでもっと男前を想像していたのである。
ケインが案内してくれたテーブルには既にオーデン、チャンプ、マーノ、三人の同僚の姿があった。
思い思いのソフトドリンクを飲みながらくつろいでいる。
「相変わらずケイトの家のパーティーは豪勢だな。先ほどはコミッショナーの姿も見かけたよ」
とオーデン。
コミッショナーとはケソン市の警察相談役の事だ。フィリピンの警察機構はアメリカと同じで各地区毎に構成された警察機構となる。一般の警察署と国家警察は別物で指揮系統がまったく違う。
「何か飲み物は?」
ケインがシージェイとセスに訊ねた。
シージェイはケインにカラマンシージュースを頼み、セスはブコジュースを頼んだ。
カラマンシーはスダチに似た柑橘系の小さな果実で、ブコジュースはココナッツ水。どちらもフィリピンでは一般的なソフトドリンクだ。
「もうじきパーティーも始まるだろう。僕は手伝いもあるだろうから・・・シージェイ、積もる話はパーティーの後でな・・・・・・」
ケインは中座をシージェイに詫びると屋内へと戻って行った。
暫くしてメイド姿の若いウエイトレスがシージェイとセスに飲み物を持って来てくれた。
彼女は二人の美男子を交互に見比べてから楽しそうに愛想笑いを残して戻っていった。
途中仲間の一人と何事か囁き合いながら二人してチラチラとシージェイたちのテーブルを盗み見ている。その事に気がついたセスに先ほどのウエイトレスが微笑みながら小さく手を振った…どうやら“囁き”の中身は悪口ではなさそうであった。
あらためて注意して見ると会場のあちこちに同じようなメイド姿のウエイトレスが居る。
全員が二十歳前後と若い。一様に黒を基調としたフリル満載のコスチュームを身に着けている。
「変わったユニフォームだな・・・・・・」
とセス。マニラのどの店でも見た事のないユニホームだったからだ。
「彼女たちはレガスピ家のメイド達だよ・・・・・・正確にはアルバイトだがな・・・全員がレガスピ家の学生寮にいるマニラ大の女学生だ・・・殆どがメリッサの知り合いの女優やタレントの娘達だ。彼女の屋敷は広いから半分を女子学生寮として使っているのだよ」
とシージェイが教えてくれた。
そういわれて改めて見るとどの娘も育ちが良さそうである・・・・・・。
ベスとハーラがカーサ・アルマスのブースの前に居た。
ベスは例のぶっ飛んだ格好で・・・ハーラは着る物が思い当たらず制服姿で訪れていた。
今しがた丁度各テーブルに出す子豚の丸焼き〔コチニーリョ・アサード〕が出来上がったところで、ソレを眺めては何かとワイワイ楽しそうにしている。コチニーリョは生後1・2週間の子豚を使ったスペイン料理で子豚版北京ダックと言ったところか、皮はパリパリで肉は柔らかくジューシーに仕上げる。
パエリアも今日は元来のレシピ通りに焚き火で造られている。パエリアは本来スペインの漁〔猟〕師料理の一つで底の浅い鍋を使い野外で作られた。具材を炒めそれに米を加えて煮込んだ料理で色つけにサフランを加える。
パエリアとはそもそもバレンシア語でフライパンの事を指す。焚き火の上に直径1メートルはあるであろうパエリア鍋が二つ並び、バレンシア風の鶏肉を使ったものとネグロと呼ばれるイカ墨を使った黒いパエリアが調理されていた。ほのかなお焦げの香りが食欲を誘う。
「あらあらお二人さん・・・今にも涎が落ちそうよ・・・・・・」
ケイトの声に二人はほぼ同時に振り返った。すっかり着飾ったケイトが微笑んでいた。
二人は異口同音にケイトのドレスを褒めた。ケイトは笑顔で礼を返して、
「ぼちぼちスタートよ。署長がお見えになったら始めるから二人とも席に戻って」
とベスとハーラをテーブルへとエスコートした。
二人が席に着く頃、リビングからはゲストの面々がテラスへ続々と押し出されてくるのが見えた。
アレックスが奥から、
「ゲストの皆様はテラスのほうへお願いします!」
と呼びかけながら誘導していた。
特捜の同僚が囲むテーブルの右隣は科捜研の面々でその奥に市の有力者の顔ぶれがあった。
セスの視線はケイトに釘付けである……。
昼間のケイトとはまるで別人の様だ。優雅で気品に満ちている……。
ケイトに見とれるセスに気づいて、
「あらやだ、此処にも涎を垂らしそうなボーイが居るわよ」
とベスが冗談を言った。セスは話が見えずにキョトンとしている。
その様子がハーラのツボに入ったらしい……。
ふと、テラス先にある二階テラスからの階段の辺りがざわついた。
目をやるとアクション俳優エストラーダにエスコートされて和服姿の若い女性が階段を降りてくるのが見えた。紫を基調に渋くまとめた染め地に桜の模様の入った大振袖で現れたのはメリッサだった。
周囲の人々がその和服姿に感嘆の声を漏らしているのだ。
階段下で二人は一度止まりメリッサがエストラーダに何事か囁いていた。
ケイトがすかさず近寄って叔父エストラーダを迎え席へと案内をした。
席は特捜のテーブルのすぐ左横だった。
エストラーダは席に着く前にラゴスと親しそうに挨拶を交わしてから、特捜の皆にも会釈をして席に着いた。
「部長、彼とお知り合いなのですか?」
ハーラは小声でラゴスに尋ねてみた、
「そうとも、何しろ私は彼のファンクラブ会長だからな・・・・・・」
ラゴスが冗談交じりに答える。
メリッサはエストラーダと別れるとそのまま白田のもとへと向かっていった。
見事な牡蠣を目の前に白田と杉田は頭を抱えていた。
「白田さん、どうしますこの牡蠣?」
杉田の問掛けに白田は腕組みの右手を上げた格好で親指を顎につけて人差し指の横腹で唇を摩っている。彼の考え事をするときの癖である。集中力を高めようとする時は決まってその仕草をするのだ。
「ウーン・・・我々日本人ならば生食にしたい処だが・・・・・・」
「ですよねー、これだけ生きがよかったら、生で行きたい処ですよねー」
そこへ和服姿のメリッサが現われた。白田は妻の着物姿をしみじみと見て、
「うん、綺麗だ・・・柄も髪型もよく似合ってる・・・・・・」
言いながら帯止めを少し手直ししてやった。その下の帯を見た杉田が、
「ほう!その帯は西陣と見ましたが・・・・・・」
「判りますか?流石ですね、帯は西陣で着物は正絹の手描き京友禅です。結婚式用に買い求めましたが、私の貯金の半分がすっ飛んでしまいましたよ・・・・・・」
結婚式で色直しに和服を着たいと言いだしたのはメリッサだった。白田はメリッサを連れて当初浅草の呉服店を何軒か回ったが気に入った品が中々見当たらなかったのでいっその事と足を京都まで伸ばし京友禅の店を何軒か回ったのだった。いざとなったら染め地からオーダーメイドする積もりでいたのだが3軒目の店で彼女にぴったりの生地を見つける事が出来た。正絹の手描き友禅は生地だけでも相当に値が張った。
着物の善し悪しは仕立ては無論のこと合わせる帯で決まってしまう。写真家としてその事を充分理解していた彼は先ず着物を仕立てさせ、仕立て上がりの連絡を受けてから再度京へと彼女をつれて赴き西陣で着物に合った帯を探したのである。帯は着物のさらに数倍の値段がした。小物を含め一式を買い揃えたときには旅行代を含めて三千万円近くあった彼の貯金はほぼ半分に減っていた。
「でも白田さん。奥さんの為なら安い買い物ですな・・・・・・実にお美しい」
杉田は心から言っている。メリッサ程の女性であるのなら自分の嫁もフィリピン人でもいいな・・・と、これまでにも何度か思った事が在る。その度に杉田にはほんの少しだけ白田が羨ましいと思えた。
「処でメリィ、コイツを見てくれ・・・生で出そうと思うんだが、皆んなは食べれるだろうか?」
白田の言葉に彼女はクーラーボックスにいっぱいの牡蠣を覗き込んだ、少しの間何事か思案する様子であったがやがてカーサ・アルマスのブースに向かって手を揚げて誰かを呼んだ。
カーサ・アルマスのチーフがそれに気付いて急いで此方へ向かおうとした。
「オイルを持ってきてオリーブオイル! それとガーリックオイルもね!」
メリッサの言葉にチーフは一度引き返して言われたものを慌てて手にして有楽園のブースを訪れた。
メリッサがチーフから渡されたオリーブオイルとガーリックオイルをテイストする。香りを確かめてから少量を口に含んで味を確かめている。まるでワインをテイストするかの様だ。
「ガーリックオイルの方はこれでいいわ。でも、こっちはこれじゃ駄目」
と呟いて、
「黄料理長。オイルの箱を持ってきて頂戴・・・・・・」
と黄に命じた。黄はプール脇に停めてあるガイア・セキュリティの本部トレーラーからメリッサに指示された物を抱え急ぎ足で戻ってきた。メリッサが黄に命じて厨房から持ってこさせていた木箱にはオリーブオイルの瓶が10本ほど入っていた。オイルはどれも銘柄が違い彼女は片っ端からそれらをテイストし始めた。
「一体何が始まったんだ?」
一同は興味深気な面持ちで彼女の仕草を見守った。
「お嬢さんのマジックが始まったアルよ」
黄料理長は心得ていてニヤニヤしている。実はレガスピ家の厨房にはこれらの何倍ものオリーブオイルがあるのだがそれらの中から日本料理に合いそうな物を黄が選んで用意してあったのだ。
レガスピ家では和、洋、中に関わらず料理に合わせてそれらのオリーブオイルを使い分けている。
どうやら4本目にテイストしたオイルがお眼鏡に適った様子で、彼女はそのオイルを二枚の小皿に注いで一つをアルマスの料理長に渡し、残りの一つを杉田に渡した。
「どうかしら?」
「ウチのオイルより、フルーティーだ!渋みも少ない・・・・・・」
カーサの料理長が言うとメリッサが満足そうに頷いた。杉田はカーサ・アルマスの方のオイルも少し別の小皿に分けてもらい両方を比べてみた。確かに味の方向が全然違っている。カーサのオイルは爽やかな木の香りがして少しサラッとしているのだが後味に少しの渋みが残る、嫌な味ではないのだが生の牡蠣とでは牡蠣の味を殺してしまうと思われた。それに比べメリッサの選んだオイルは少し粘度が高く微かに果実の・・・まだ熟しきっていないリンゴの様な風味があって後味がサッパリとしていた。味の違いをしっかり見極めたあたりさすがは職人であると言えよう。
「同じオリーブオイルでもこうも違うのか!」
杉田は驚いた。メリッサはブレンドをしながら杉田の為に説明をしてあげた。
「スペインは、実はオリーブオイルの生産では世界一の国・・・そしてそのオイルの使い方を熟知しているのも多分スペイン人だわね、一口にオイルといってもこのように色々な味と風味があるのよ」
「私も最初驚いたアル・・・ウチの厨房には沢山の種類のオリーブオイルがアルよ。お嬢さんに何でこんな種類アルか訊いたら、使い分ける・・・教えられたネ! オリーブオイル使いこなす。料理の幅うーんと広がるアルよ!!」
黄が横合いから口を挟んだ。メリッサは目分量で自分の選んだオリーブオイルとカーサのガーリックオイルをブレンドしている。ガーリックオイルはオリーブオイルに摩り下ろしたニンニクを漬け込んである代物だ。8対2弱ほどの配分であろう。空気を混ぜないようにゆっくりとスプーンで撹拌をする。
ほどよく馴染んだ頃、風味と味を確認し、
「出来たわ。」
そう言ってから、白田にクーラーボックスから手ごろな牡蠣をひとつ取り出して塩水で洗うように言った。
「塩水は、海水の濃度でね・・・・・・」
白田は妻の要望通り、先ず牡蠣を殻ごと塩水に漬けて中で数回手早く振った、次に身を殻から外して殻と身を綺麗に洗い軽く水を切ってから身を戻してまな板に載せた。メリッサがその牡蠣に先ほどのオイルを少量だが満遍なくかけてから粗塩を一摘み指先で拾って牡蠣の身の中央へと載せる。
「アナタこれに薬味ネギを加えて」
メリッサの指示に白田が薬味ネギをみじん切りにして適量散らせた。
「テイストしてみて・・・・・・」
カーサ・アルマスのチーフに差し出す。彼は一瞬たじろいだ顔をしたがこちらもさすがに調理人である恐る恐るだがソレを口にした。
火を通していない牡蠣など勿論始めて口にしたのだ。口に入れた途端、なんとも言いがたい表情を見せたが直ぐにそれが驚きの表情へと変わった・・・・・・。
「美味しい。生の牡蠣って・・・・・・こんなに美味いのか!」
メリッサは微笑んでいる・・・・・・。
「どれ、私も・・・・・・」
そう言うと杉田はメリッサを真似てふたつの牡蠣を調理するとひとつを白田に渡し、一つを自分で試食してみた。日本人には馴染みの無い味であった、しかし生牡蠣の味であり微かに大蒜の風味があって爽やかな後味としてその風味が生きていた。瀬戸内の天日造りの粗塩と相まって海の香りが生きている。
オイルに包まれた牡蠣の舌触りも悪くない。
「ほう・・・なるほど!この味ならレモンよりカラマンシーの方が合うかも知れないな!」
和食の料理人である杉田にはオリーブオイルの使い分けなど思いもしない調理法であった。
「いや!料理の世界は本当に奥が深い! 白田さん・・・これで行こう!」
白田も笑顔で杉田の意見に同意を示した・・・・・・。
「メリッサさん、勉強になりました・・・自分もこれからはオイルの使い分けを試してみますよ!」
カーサ・アルマスのチーフもそう礼を言って自分のブースへと戻って行った。彼もスペイン料理店のチーフと言えどもフィリピン人である。オイルの使い分けなど気にしたこともなかったのだ。
メリッサの父親は生粋のスペイン人であったから彼女はその父親からオリーブオイルの使い方を教えられて育っていた……。
「スペインの伝統は闘牛とフラメンコばかりじゃなくてよ」
メリッサは杉田にそう言って微笑んでから彼を手伝う白田に、
「そろそろ私達も席に着かないと、パーティーが始まる頃よ」
と釘を刺した。
杉田が、
「後は自分達で調理しますから・・・どうぞお席へ・・・・・・」
と言ってくれたので、白田は妻を伴って用意された自分達の席へと向かった・・・・・・。
寄り添って歩く二人の後姿を見送りながら杉田は、
「何時見ても二人は仲がいいな・・・」
と呟いた。
「お嬢さん、若旦那のコト本当に大事ヨ。若旦那淋しくならないように屋敷のナカ、使用人にも日本語教えて使わせてるアル。若旦那のヤリタイ事ヤリタイヨウにヤラセテあげる。ソレ手伝う、出来ルがお嬢さんの幸せネ。若旦那も歳の割にはスゴい人あるけどヨ。あの二人ホントお似合いネ、黄も自分の作った料理食べて二人が元気スル、それ黄ノ幸せアルね・・・・・・」
黄料理長は喋りだしたら止まらない口らしい・・・・・・。
「黄も中華と和食とフィリピンの料理できるアル…スペインの料理もフレンチも少し覚えたアルよ…コレ凄い料理人ね。今に世界中の旨いもの造れる料理人なるヨ……」
自我自賛している。
「若旦那凄い写真家。でもお嬢さんはもっと凄い女優アルな。可愛いし頭いいヨ。タガログ語とビサヤ語と英語・日本語・スペイン語・ラテン語・イタリア語と北京語。七つの国の言葉出来るアルよ。」
「黄さん、それって8カ国語だろ?」
杉田が突っ込んだが、
「杉田さん、ナニ人の話聞いてるアルか!タガログ語とビサヤ語はフィリピンの言葉アルよ!」
と黄料理長は少し苛立って返した。
どうやら黄料理長の人物は好きになれそうだな・・・と杉田は微笑んで黄の話に付き合う事にした。
メリッサが白田と手を繋いで何事か小声で話し合いながらテラスへと歩いてくるのが見える・・・。
シージェイは彼女の表情がそれまで自分が知っているメリッサとは全く別人である事に少し驚いた。
なんであろう・・・そう、満ち足りた微笑を浮かべている・・・その幸せそうな微笑が彼女の魅力を以前にも増して一段と輝かせており、その微笑を見ているだけでこちらまでもが自然と笑顔になれるそんな慈愛に満たされたオーラを放っているのだ。
「やっぱりメリッサは可愛いわね! 同性の私が見ても可愛いもの・・・私は彼女の棘のない処が好きだわ、いかにも女性って感じのまろやかさ・・・顔立ちも身体のラインも・・・・・・でも何で彼がご主人なのかしらね?・・・彼女ならもっと美男子でも、いくらでも相手は居るだろうに・・・・・・セスやシージェイ、ケイトのお兄様だって彼より好い男前だわ!」
セシが好き勝手に自分の思うが侭を言っている。隣の席にもそれは聞こえシージェイは苦笑いした。
「どうだろうな・・・でも、日本人のアレは凄いらしいぞ!」
チャンプが下ネタで返した。ハーラにはピンと来なかった様子だが隣に座っているベスがチャンプの膝を平手で叩いて、
「何チャンプ、お酒を飲む前からもう酔っ払っちゃったの?下品よ・・・・・・」
とたしなめておいてから、
「ところで何が凄いの?」
と小声でチャンプに訊ねてみた。
「何だ知らないのか?」
チャンプはわざとさも驚いたという顔をして見せて、
「日本人のナニはブロック並みに硬いらしいぞ・・・・・・」
と教えてやった。セスが思わず飲もうとしていたジュースを吹いてしまい慌ててフキンで拭っている。
「嫌だもお、あんまりふざけた事言ってると逮捕するわよ」
とベスはケラケラと笑った。やっと話が見えたらしいハーラは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「何だお前たち随分と楽しそうだな」
執事に案内されてきたマニラ市警のカルロス署長がそう声を掛けながらすぐ隣の科捜研のテーブルの空いた席に腰を下ろした。一同は起立して挨拶しようとしたのだが署長はそのままでいいとそれを辞退した。
「直ぐに始まります。最初に署長のスピーチですのでご用意を」
執事のアレックスは署長に小声で耳打ちをしてからそっとその場を離れた。
3
「皆様。大変長らくお待たせ致しましたこれよりフォークマン家長女、ケイトの帰国祝賀会を開催したいと思います」
庭先に一人の青年が立ちワイアレスマイクでそう挨拶をした。
青年はメリッサの元マネージャーで今はガイアプロモーションのジェネラルマネジャーを務めるフランク〔23才〕である。
「ケイトは皆様ご存知の通りマニラ市警内にある特捜の刑事です、この度お父上の祖国であるアメリカにおいて半年に及ぶ最新の捜査技術の研修を終えて無事帰国しました。今宵のパーティーは彼女と家族の無事再会を祝うと共に、不在の間の皆様からの家族への日頃の暖かいお心遣いに対して感謝の気持ちを込めて開催致しました。どうぞお時間の許す限りお楽しみ下さい。なお、賓客の代表としてマニラ市警の署長カルロス氏から一言頂きたく存じますので、皆様今しばらく御静聴の程よろしくお願い申します。」
フランクの紹介に拍手が起こり彼はマイクを手にカルロス署長の席へと赴いた。
カルロス署長は席を立ってフランクからマイクを受け取ると、手短ではあるがいかにも警察署の署長であると言える演説を述べた。
ここ数年凶悪化・組織化する犯罪に触れ市民の生活を守るべくいかにマニラ署の警察官が日々健闘しているかを述べ、メトロマニラを住み良い街にする為には市民の協力が必要であると続けた・・・その上で今回のケイト刑事のアメリカでの研修が、いかに自国の警察レベルの向上に必要不可欠な事柄であったのかを説き、その大役を無事果たして帰国した彼女を称えたのである。
流石にマニラ署の署長だけの事はある。話には淀みが無く聞くものを飽きさせなかった、
「さて、警察官というモノは因果な職業でありまして。真面目に頑張ってはいるものの市民の皆様にはいまひとつウケが悪い。私があまり長話をしていると折角のご馳走が冷めてしまい、余計に市民の皆様からの評判が落ちてしまうのでこの辺で終わりにしたいと思います。最後にケイト刑事、半年間・・・本当にご苦労さま!」
マイクをフランクに返して席に着いたカルロス署長だった。
「どうだった・・・」
腰掛けながら隣の席のセシに自身のスピーチへの感想を小声で聞いてみた。
「素晴らしいスピーチでしたわ・・・・・・」
セシは心から言った。署長は無事大役を果たした安心感とセシの言葉で緊張気味だった表情に安堵の笑みを浮かべている。
「さて皆様こちらをご覧下さい・・・」
最初の位置に戻りながらフランクがマイクで皆に注目を呼びかけた。
「ケイト。私のところへ来て下さい・・・・・・」
庭先には花束を抱えた少年少女が6名整列をしていた。8才から15才程度であろうか・・・・・・
子供たちはケイトが師範代として指導をする“明風館”の少年剣士達である。
ケイトは席を立ってフランクの元へと向かった。
「こちらの少年少女達はケイト師範代が白田師範と共に日本の武道である剣道を教えている“明風館”の生徒達です。ケイト師範代にぜひ帰国の挨拶をしたいとのことで私どもの社長〔メリッサ〕が連れてまいりました。実は、ケイト師範代がアメリカにお出掛けの間に白田師範と日本のお知り合いの先生方の働きかけで“明風館”が全日本剣道連盟から正式に“マニラ剣友会”道場として認可されました。次回の日本での剣道大会への招待参加も決定致しましたのでこの場をお借りして皆様にご報告申し上げる次第です。」
フランクの言葉の後半の部分はケイトも初耳であった。元を糺せばケイトが白田に弟子入りした事が切欠であった。当初は庭先にてケイトに剣術を指導していた白田であったのだが、その稽古を見るうちにガイア私設警備隊のメンバーの中にも教えてくれと言う者が現われた。次第にその数が増え今ではすっかりガイア警備隊の必須科目のひとつとなっている。
その様子にメリッサが武道場を造ろうと言い出して、屋敷から程近い風通しの好い林の側に場所を決め隊士達と共に道場を建てたのである。白田は道場に南国をイメージして“明風館”と命名をした。
暫く後、今度は隊士の一人が自分の息子にも指導をしてくれと道場に連れて来た。
相手が子供であったので白田は剣術ではなしに剣道を指導したのである。
三月もするとその少年が見違えるように礼儀正しくなったので子を持つ隊士や屋敷の奉公人達がこぞって『ウチの子にも!』となった。
白田は自腹で防具や竹刀といった剣道の練習に必要な道具を日本より買い求め、今では30人程の少年少女剣士達が修行に励んでいる。
その“明風館”がフィリピン初の剣道場として日本の剣道連盟に正式に認められたのだ。
ケイトが子供たちの所へ赴くと代表の少年がケイトに挨拶をして全員が花束を手渡した。
花束はメリッサの家の庭や子供たちの家から持ち寄った物であろう。決して豪華なものではなかったが子供たちのケイトへの思いが込められた花束であった。
南国の色とりどりの花々は子供達のケイト帰国への喜びを表すかのような鮮やかさで輝いている。
ケイトは一つずつ受け取りながら一人ひとりにハグをしては一言の礼を返した。
ゲストたちの拍手はケイトが席に戻るまで鳴り止まなかった。
ケイトは子供たちへの愛おしさに思わず目頭を熱くして、この子達の未来の為にも自分は警察官としての職務を全うするのだと改めて心に誓った。
「さて、では皆様。庭先にカーサ・アルマスと有楽園のお料理が用意されております。リビングには軽食やデザートもバイキング方式でございますので存分にご賞味下さい。ドリンク類はお側のメイドにお申し付け頂くかリビングのバーカウンターでお申し付けください」
ケイトが席に着いたのを見計らってから案内を始めたフランクであった。
「なお、有楽園のブースでは只今より調理人と白田氏による日本料理の実演を行いますので、興味が御在りの方は是非ご覧になってください。勿論出来上がる料理はご試食頂けます。・・・本日は音楽が無いとお気づきの方もいらっしゃると思いますが・・・ご安心下さい。後ほど素晴らしい演奏をお届けする予定であります!」
そこまで言うとマイクをスタンドに戻しフランクの役目もひと段落した。
「ひゃあー生演奏まで呼んでるのかよ・・・」
セスが驚いた。
「普段なら二階のテラス…あそこに生バンドが入るんだ」
シージェイが教えてくれた。
「ケイト刑事の家ではしょっちゅうこんなパーティーがあるのですか?」
「いや、こことレガスピ家とでだな。家族の誰かの誕生日とか何か祝い事の時とか・・・さしあたって次は、レガスピ家でのクリスマスパーティーだな・・・・・・」
付き合いの長いシージェイはフォークマン家はもとよりレガスピ家の事情にも詳しい。
「さあ、僕もシラータとは未だ話をした事が無いんだ。ひとつ見に行ってみようじゃないか」
シージェイがセスを誘った。
「どれ、我々も行って見よう」
ラゴスもそう言って大きな身体を持ち上げた・・・・・・。
有楽園のブース前には既に多くの人垣が出来ていた。みな普段あまり見かけない日本料理の実演と聞いて興味津々の面持ちである。
大きなまな板を前に右から黄料理長、花板の杉田、白田の順に並んでいた。
知る人は黄料理長が日本人ではなく中国人である事を知っているが、知らない人にとっては日本人と中国人の違いなど判ろうはずもない。フィリピン人にしてみれば日本人も中国人も韓国人もどれがどれだが区別はつかないのである。
杉田は集まって来た人々を見て、実演開始の合図を出した。
メリッサが少し離れた場所に立ち三人の調理を現地語で説明している。
杉田は見事なブリを取り出してそれを捌き始めた。ブリは刺身に仕上げる予定であった。
黄はと言うとその隣で鰹を捌いている。その鰹は叩きとなる。
白田はスズキを職人にも劣らぬ手さばきで捌いていた。そのスズキは氷水に晒して洗いとなる。
三枚に卸した身から柵を切り出している時の事だった、
「見事なものですね」
と白田は思わず日本語で話しかけられて顔を上げた。声の主は杉浦技官だった。
「どなたのお知り合いですか?」
少なくとも白田には見覚えの無い顔である。
「私は警視庁の鑑識官でこちらの科捜研に出張しています杉浦と申します」
「ケイトの同僚でしたか、それはご無礼致しました」
言いながらも白田の手は止まらない、慣れた様子で柵を整えている。
「いゃあ、剣の腕前も大した者だが包丁を持たせても達者ですな」
杉浦は試合会場で何度か見かけたのだと補足した。
「隣の二人に比べれば全然ですよ・・・釣りが趣味でしてね、釣った魚は自身で捌いて食する事にしてるものですから・・・楽しませてもらうのですから成仏させてやらないとね」
いいながら柵から刺身にするよりは幾分か薄目に切り出した身に包丁の穂先を使って網目状に切れ込みを入れ氷水の中に投じていく・・・切り身はクルっと反り返って網目の切れ込みが弾けて花が咲く。
その瞬間、外国人の間には驚きの声が上がるのが聞こえた。
「酢味噌でどうぞ・・・・・・」
白田はそう言って杉浦に微笑みかけた。
「どれ、ではひとつご相伴に預かると致しましょう」
柔らかく心地よい声色の持ち主だなと・・・白田は杉浦に好意を抱いた。
「うん、旨い。こちらでスズキの洗いを口にするとは思っても居ませんでしたよ」
と杉浦、淡白なスズキの締まった歯ざわりに杉田の仕立てた酢味噌が絶妙な味わいである。
「その気になれば、マニラには日本料理の店は思いの他ありますよ」
「ほぉ、そうですか・・・普段は職場と社宅の往復だけですからね。夕飯は大抵その道程の店で済ませてしまうのです」
「折角こちらにいらしてるのですから・・・もっと楽しまなくちゃ。」
白田は言いながら杉浦技官はどうやら真面目な性格らしいなと見てとっている。
「しかし、驚きました。まさか白田さんがケイト刑事のご親戚になられていたとは・・・」
「自分でも驚いていますよ。知り合いのところへ遊びに来て嫁をもらい、気が付いたらこっちで暮らそうだなんて考えてる自分を・・・・・・日本に居た頃には思いもしませんでしたからね」
「しかし、よくご決断なされた」
「いゃあー、何処に居ても大して変わらないし・・・自分は天蓋孤独な身の上ですから」
白田の両親の事は杉浦も知っている。
「二十歳に成るか成らないかで両親とも交通事故で亡くしましたから・・・・・・」
白田の言葉に杉浦は一瞬『えっ?』と思った。
白田の両親は交通事故で亡くなったのではなかったからだ。二人は何者かに殺されたのである。それも日本刀による斬殺であった。しかし警視庁の事情もあり公には事故死とされたのだが、白田自身が其れを知らなかったとは思っても居なかったのだ。
叔父が白田にはあくまで交通事故死であると伝えていたからであった。
杉浦はこの時、事件の真相は自分の墓場まで持って逝こうと心に決めた。
「亡くなるにはまだお若かった。剣も人柄も素晴らしいお人だっただけに残念でならない」
白田の手がふと止まった。
「杉浦さんは父をご存知で?」
「ええ、本庁で一年ほどお父上から剣道をご指導頂きました」
「そうでしたか・・・・・・人の縁とはつくづく不思議なものですね・・・・・・」
そう言って白田はしばしの間無言となった。その間白田が何を思っていたのかは作者にもわからない。
隣から藁が燃える香ばしい匂いが流れて来た。
黄料理長がカツオに焼きを入れ始めたのだ。
半身を更にふたつの節に卸しそれぞれに五本の金串を扇状に打って皮の側を焼いている。
皮の側が程好く焼けると手を返して身の方を白くなるまで炎に晒した。
ブリを捌き終えた杉田が藁を次々と火にくべて火力を調節してくれていた。
叩きは炎の先端部分の火力の強い部分で焼きを入れる。
焼きを入れた身を氷水に晒し温みが取れたところで水分を拭い取って刺身より幾分かの厚切りにする。
切り身を大皿に盛り薬味の万能ねぎをまぶしその上からタレをまんべんなくかけた。
タレはポン酢と醤油を3対1に合わせたモノに少量の酒を加え、それに皮むきしたニンニクと生姜を摺りおろして馴染ませておいたモノを使っている。小皿に漬けダレとして用意されているのも同じ物である。
白田も残りのスズキを捌き終えて氷水に通し、
「さあどうぞ、お召し上がり下さい」
と、周りに英語で呼びかけた。
物珍しさも手伝って洗いを乗せた皿は直ぐに空となった。
反応はまちまちではあったが概ね良好であった。
その中にフィリピン人の青年がふたりあった。先に手を出した青年は筋骨逞しく明らかにヨーロッパ系の血を引いていると白田は見た。
その青年は白田に慇懃に挨拶をしてから箸を出したのだが、視線には白田を品定めするかのような意図が窺がえた。
「失礼だが・・・君はシージェイか?」
白田は多分自分の見立てに間違いはないだろうと確信していた。
「そうだ、僕はシージェイだ。何度かお会いしようと御宅を訊ねたが運が悪くて今日までお会いする事が出来なかった。今日はじめてお会いする。ようこそフィリピンへ。歓迎するよ・・・・・・」
シージェイはそう言って微笑むと握手を求めてきた。
白田の握手は力強くその掌には指の付け根に竹刀ダコの感触があった。
メリッサもその頃には良人の元へと戻ってきてシージェイと親しく挨拶を交わした。
「こちらが、奥様ですな・・・実に可愛いらしい方を迎えましたな、羨ましい・・・・・・」
杉浦は心から祝福の言葉を述べた。
「メリィこちらは日本からいらしている科捜研の杉浦さんだ」
白田は妻に日本語で杉浦技官を紹介をした。
「ケイトの同僚の方なのですね、日本の方がいらしたので少し驚きました。ケイトは日本語が上手なので良い話し相手になりますでしょう?」
杉浦が驚いた事にメリッサの日本語はケイト以上に流暢なのである。
「いゃあ、メリッサさんの日本語は完璧ですな、驚きました!」
「杉浦さん、彼女は7ヶ国語を使い分けるらしいですよ・・・・・」
隣から杉田が声をかけた。
「ほうー、我々日本人には中々真似できない芸当だ!」
杉浦は感心して言っている。間近で見るメリッサはテレビや写真で見る以上の可愛さであった。
「コッチのニンゲン、コトバ、フタツ、・・・ミッツはなすアタリマエ・・・・・・」
シージェイの怪しい日本語が出た。
「オォォ-。キミもスコシ、ニホンゴ、ワカるアルかァー」
白田が黄のイントネーションを真似してワザと変な日本語を使って言った。
それに対して
「君の日本語はイントネーションが変だ」
シージェイが英語でそう指摘して笑った。
「ちょっと、よしなさいよ二人共」
メリッサはそう言いながらも良人とシージェイは上手くいきそうだなと安心している。
「白田さんは案外お茶目ですな」
杉浦に言われてメリッサは、
「この人、放っておくと一日中この調子で変な日本語を使うのですよ」
と良人の悪ふざけを暴露した。
セスは日本語がわからないので何が可笑しいのかはわからなかったが、場の雰囲気に釣られて一緒になって笑っている。
「さて、こちらの出し物は終わったのでケイトを誘って我々も飲むとしよう・・・・・・杉田さんも後片付けが済んだらリビングの方へどぞ・・・・・・」
白田はそう言うなりメリッサの手をとってさっさとリビングに向かって歩き始めていた。
「黄料理長もひと段落したら自由にしたまえ」
思い出したように立ち止まって黄にも声をかけた白田だった。
「言われなくてもガッテン承知、楽しむアルよ」
黄の心はすでにカーサ・アルマスのイカ墨のパエリアに飛んでいた・・・・・・。
リビングのバーカウンターにはレガスピ家の執事アレックスが居てバーテンダーよろしくゲストからのオーダーをこなしている。メイドの一人とエンジェルがその横でアレックスを手伝っていた。
エンジェルは日本のパブで仕事をした経験があるだけにスナックで出す程度のドリンクであれば手馴れたものでアレックスや隣のメイドと楽しげに会話しながらドリンクを作っていた。
エンジェルはゾロゾロとやって来た白田達一行を迎えて顔を綻ばせている。彼女は単に面白そうなのでアレックスを手伝っているに過ぎない。
科捜研の面々と特捜のメンバーもシージェイに誘われて同行していた。
シージェイがそれぞれ何を飲むのかを聞いてアレックスに注文を伝えている。
メリッサがボルボッサ兄弟を迎えに行かせたのでケイトとケインも二人を伴ってカウンター前に姿を現した。
とりあえず乾杯をしようと言う事になりラゴス刑事部長の音頭で皆で乾杯をした。
乾杯の後ケイトがその場にいる全員をそれぞれ紹介した。
白田もメリッサもラゴスを除けばほとんどが初対面であったからだ。
ケイトは一通り紹介を終えると会場でスナップを撮影していた若いカメラマンの二人を手招きして呼び寄せ、
「紹介しておくわね。こちらはメリッサの弟のショーン。彼は映像短期大学の学生でマスターの助手もしています。もう一人の彼はショーンの短大の同級生でやはりマスターの助手をしているペドロ君。もうひとりサントス君が来てるはずだけれど……」
とケイトは辺りを見回した。
「彼はテラスでビデオをまわしていたな」
とショーンは言って、
「僕達は来月から出張撮影の仕事を始めます。今日はその実地練習を兼ねてプレゼン用の見本を作る為にこうして撮影機材を持ってお邪魔しています。どんどん撮りますので、皆さんも我々がカメラを向けたら協力をお願いします。最高の笑顔を撮らせてください」
と付け足した。ショーンはメリッサにどこか面影が似た美男子でペドロはアバタ顔の童顔だが賢そうな青年だった。
「せっかくですから皆で記念撮影しましょう!」
ショーンが言い出してケイトを中心に皆を並ばせて記念写真を撮る事になった。ペドロにカメラを任せて自分もちゃっかりと端っこに混ざって写っている。
二度、三度ストロボが光りペドロが、
「ハイ結構です!ありがとうございます!」
と破顔して言った。
「出張撮影とか仕事になるのですか?」
杉浦が白田に聞いている。
「実はもう三件の予約が入ってまして出だしは好調のようです。60分のビデオと写真がアルバムに200枚で基本8000ペソの予定です」
8000ペソは日本円で約2万円と言ったところだ。
「月3件も仕事が取れれば彼らのいい小遣いになります」
と白田は付け足した。
「うっかりしていると学生のショーンの方が高給取りになるなそれは・・・・・・」
とシージェイが笑った。
「君も今の給料が不満なら刑事なんか辞めて姉のバックダンサーになればいいんだ。君の踊りなら今の給料より何倍も稼げるはずだよ」
ショーンの言葉にラゴス部長が驚いて、
「おいショーン!彼はフィリピン一の狙撃の名手だぞ。引き抜きは勘弁してくれ」
と慌てた。
「そうね、シージェイにその気があるのなら月4万ペソで契約してもいいわよ」
メリッサまでもが悪戯っぽい眼差しでシージェイを誘惑している。
「おいおいメリッサまで何だよ・・・・・・」
一瞬困ったと言う顔をして見せたラゴスだったが、
「まてよ、6万ペソでどうだ?そうしたら俺がシージェイのマネージャーになって死ぬまでガンガン踊らせてやるが・・・・・・」
そう言って俺もこれで左団扇だなどと喜んで見せた。
一同がシーンとなってラゴスを呆れ顔で見詰め、シージェイが渋顔で、
「勘弁してくださいよ!それじぁ僕はキリキリ舞いだぁ!」
と言ったので一同は大爆笑した。
リビングの小洒落たバーカウンターで笑談する一同から少し離れた場所では若い女性達の一団がカクテルを手に何やら楽しげな会話で盛り上がっている。
ケイトのすぐ下の妹ターニャの大学の友達を中心とした一団である。
その中のスレンダーな美女が先程からチラチラと此方を気にしている様子にセスが気づいた。
色白のなかなかの美人である。
隣に立つ亜麻色のセミロングヘアーの美人と共に周りの娘達と何か笑談しているのだがその合間を縫って視線を此方に向けてくるのだ。
意識してみるとシージェイも時折その娘達の方へなにげに視線を向けている事に気がついた。
亜麻色の髪の娘がスレンダーな美女にカクテルを手渡した時、たまたまシージェイと彼女の視線が合った。
すると娘が乾杯の仕草を送ってよこしシージェイがそれに応えたのである。
「あれ?先輩……あのスレンダーな美女と知り合いなのですか?」
セスの声に隣り合わせた人々が娘達の一団を垣間見た。
「まさか彼女……先輩の恋人とか?」
セスが探るように訪ねた。
シージェイは彼女に一瞬の間視線を向け、
「いや違うよ」
とだけ答えた。
「ならば僕が声を掛けても構いませんね?」
セスは本気半分で言っている。
セスの言葉に周りの人々は何事だと言うような表情でセスとシージェイに注目をした。
「それは……駄目だ!彼女はよせ」
「えーでも僕のタイプのドンピシャですよー」
食い下がるセスにシージェイが呆れ顔になった。
ラゴスがセスとシージェイのやりとりにニヤニヤしている。
「ふざけるな……彼女は駄目だ」
シージェイがピシャリと言った。
「えー。だったらその隣の亜麻色の髪の彼女にしようかなー」
セスは軟派する気充分である。
「彼女は……もっと駄目だ!」
シージェイが思わず声を荒げた。思いのほかの剣幕である。
その声に白田達も吃驚して二人に注意を向けた。
笑いを堪えていたラゴスがついに腹を抱えて笑いながらセスに言った。
「セス……無理だ。どっちも諦めろ」
「非道いなぁボス。見ててください二人の内どちらかを落として見せますから……」
セスは少しむくれている。そのセスにラゴスが笑い死にしそうになりながら、
「やめとけセス……細身の美女はシージェイの妹のカレンだ。その隣の亜麻色の髪の美女はケイトの妹のターニャ……シージェイの恋人だ」
「げぇ!」
セスは驚いてシージェイの顔を見た。
「そう言う事だ、どっちも君にはやらん。二人以外なら君の好きにすればいい」
シージェイがサラッと言った。
「えー、でもカレンは完璧に僕のタイプなのだけれどなぁ」
セスは諦めきれない様子である。
「妹の交際相手にまで口出ししようとは思わないが、恋人にするなら医者か実業家だな。警察官や軍人はもっての外だ。それが兄としての希望だ」
シージェイの恋人がケイトの妹だとは知らなかったセスである。
いや、セスどころか特捜の面々も今の今まで知らなかった事実であった。
そう知ってしまうとケイトとシージェイが幼馴染以上の間柄であると思える事にも納得がいった特捜の一同であった。
ケイトがターニャとカレンを手招きで呼び寄せた。
「知らない人のために紹介しておくわ。私の妹のターニャとシージェイの妹さんのカレン……」
そして先程から白田の足元にまとわりついて甘えていた少女を指差すと、
「あれが私の末妹のアイリーンよ」
ケイトはそう言って一同に紹介した。
大半の者は顔見知りであったが中にはセスのように初対面の者もいたからである。
金髪に大きな緑色の瞳をしたアイリーンはケイトに名前を呼ばれて白田から手を離し一同にあわてて挨拶をした。
唇の左上にある黒子は彼女自慢のチャームポイントのひとつだった。
挨拶を終えたアイリーンは白田の手を引いてバイキングコーナーの方へと彼を引っ張って行ってしまった。アイリーンは白田に取り皿を持たせあれを取ってそれを取ってと好き勝手を言ってる様子である。
「目下のところ唯一の恋敵は彼女だけれど、とても適わないわ」
メリッサが微笑みながら杉浦に告げた。
「メリッサさんの美貌も幼子には勝てませんか」
杉浦が笑いながら返した。
その時メリッサの後ろに控えていた警備主任ビル・ベクターに無線が入った様だった。
彼はイヤホンを抑えながらメリッサの傍を離れながら無線機に向かって二三会話を交わした後メリッサの元へ戻ると小声で彼女の耳元に何事かを囁いた。
メリッサは前を向いたままでビルの言葉を聞き、頷ずくとビルを振り返り小声で指示を出した。
ビルはボルボッサ兄弟に注意を促すと連れ立って庭へと急いだ。
「お話は一旦中止としましょう。バンドが到着した様なので私達もテラスへ移動しましょう。」
メリッサが一同に伝えた。
彼らが揃ってテラスへの扉を出た時、裏門から一台の大型トレラーがケイト邸の庭へと乗り入れてきて庭先に横付けしようと切り返しをはじめた。
トレーラーのコンテナ部分にはワニを型どったロゴが付いている。
それを見たターニャが小さく歓喜の声をあげて、
「嘘?!“クロコダイル”だわ!」
と言って駆け出した。友達も彼女に続いて駆け寄っていった。
「クロコダイルと言えばデビューひと月位でトップチャート入の曲を二つも出したロックバンドですよ」
セスが興奮気味にシージェイに言っている。
「新人とは言え今最も注目されているバンドですよ」
セスの説明にメリッサが嬉しそうな顔をしている。
彼らを呼ぶなんて一体どれ程のギャラが必要だったのだろうとセスは驚いている。
「クロコダイルはメリッサが発掘したバンドだよ」
とシージェイ。
「正確にはシラータが見出してメリッサのガイアプロがプロデュースしたんだけどね」
「期待した以上のグループだったわ」
メリッサが付け加えた。
「凄いなぁ、僕も彼らのサウンドは大好きですよ」
セスは少年のように興奮して言った。
庭先にトレーラーが横付けされると同時に彼らのデビュー曲のイントロが流れ始めた。
そしてゆっくりとイントロに合わせるかのようにコンテナのサイドが上下に開閉を始めた。
トレーラーそのものが移動ステージとなっている。
パーティー客の内の若い者や少年少女達がソレと知ってトレラーの方へと群がってきた。
施設警備隊に一瞬の緊張が走ったが彼らが必要以上にはトレラーに近寄らなかったため大きな騒ぎは起こらなかった。
ターニャがメリッサの元へとかけ戻ってきて
「ありがとう。デビューした時から彼らの大ファンなの。メー姉さん後でサインもらってもいい?」
興奮した声でそう言って再び友達の方へと駆け戻って行った。
「あらあら、ケイトよりもターニャの方が喜んだみたいね……」
メリッサがケイトに向かって嬉しそうに笑った。
「あら、私も彼らの音は好きよ」
ケイトがメリッサに応えた。
クロコダイルはデビュー曲とそれに続く二曲目を一気に演奏した。
思いがけないライブ演奏にパーティー会場は大いに盛り上がった。
フィリピンはアメリカに次いで世界で二番目に歌手の多い国である。
特にメトロマニラでは四人に一人が歌手であると言われる程にプロの歌手が多い。
皆一度や二度はレコーディング経験者なのだと言われる位なのだ。
中年層や老人もロックに合わせて踊りだす。日本とは国民性的にも大分違いがある。
二曲を歌い終えてボーカルでありリーダーのケイマンが挨拶を述べた。
挨拶から自分達がデビューするに至った簡単な経緯を紹介すると、メリッサと白田をステージ上へと呼んだのである。
「今日のクロコダイルがあるのもメリッサと白田、おふたりのおかげです。ライブハウスで歌っていた僕達を見出してくれたのが白田でした。彼がメリッサに働きかけて僕達をデビューさせてくれました。今日はメリッサ社長から親族のケイトさんのパーティーがあるのでライブをやれとの命令で二三入っていたテレビ出演をほっぽり出してこうして訪れました。」
そう言って笑いを獲った。もちろんテレビ出演を蹴ったと言うのは嘘っぱちである。
「さて、お二人は事実上のご夫婦で籍はお入れになったのですが挙式は来年の三月の予定です。マニラ大聖堂にて挙式の手はずとなっています。白田の事はご存知の方もいらっしゃるとは思いますがプロの写真家であります。日本では写真のみならずプロモーションビデオの撮影制作にも携わり、自身が昔バンド経験者なだけに音楽のセンスにも良いものがあります。そんな二人に出会えたのはラッキーでした。お二人には末永くお幸せで居て頂いてクロコダイルをどんどん売って頂きたいと思っています」
と締めくくった。
白田とメリッサは一礼をしてステージを後にしかけた。
ケイマンがそれを横目で見ながら、
「あっ、そうだ!」
と言って何やらジーンズの尻ポケットからメモを取り出した。
「社長から事前に渡されたメモがあったんだ…ステージで読めと言われていたのを忘れる処でした」
勿論メリッサの仕込んだヤラセである。
「何なに……白田さん、未だステージを降りるのは早いですよ」
と言って白田を引き止めた。
「社長命令が書いてあります。ケイトさんの帰国祝いに白田さんと僕たちで何か一曲やれとここに書いてあるんです」
会場は大喜びである。ケイトは大丈夫なのかしらと心配顔である。
当の白田も驚いた。メリッサからは何も聞いていなかったからだ。
普通の日本人であれば戸惑ってマゴマゴする場面ではあるが白田はフィリピンの空気にもメリッサの茶目っ気にも慣れていた。
直ちにケイマンの元へと引き返した。
同時にベースのアレンがアコースティクギターを持ってきて白田に手渡した。
それは白田愛用のギターだった。
『メリッサめ自分までハメたな……』と妻の悪戯に思わずニヤついた白田だった。
ギターのストラップに頭を通しながらビートルズのナンバー“レット・イット・ビー”をやろうとケイマンに小声で打診した。
ケイマンが了承するとオリジナルキーと最初のスリーコードをこっそり訊ねた。
ケイマンがそれらを伝えると演奏する音程を返し、イントロから歌い出しは勝手にやるから適当なところから合わせてくれと指示を出した。
そうしておいてからマイクに向かって、
「うちの悪戯好きな奥方の指令で急遽一曲やるハメになりました。」
言って苦笑いして見せてから、
「何しろ突然のことなので上手く演奏できるかわかりませんがビートルズのナンバーからお届けします」
そう言って白田は演奏を開始した……。
白田の演奏と歌は素人としては中々どうして大した物であった。
一番の途中からクロコが絡みケイマンがハモをかぶせた、間奏の後はケイマンにメインを歌わせて白田がハモに回ったのだが即興とは思えないほどの出来だった。
会場は大いに湧いてアンコールがあちらこちらで起きた。
結果素直にステージを降りることが出来なくなってしまった白田はメリッサを引っ張り出した。
そして会場のアンコールに応えて妻とデュエットで一曲歌った。
英語でメリッサがメインを歌い白田がハモるその曲を杉田も杉浦も『どこかで聞いたことがあるな』と思った。アコースティックギターのフィンガーピッキングでスローバラード風にアレンジされていたのとメリッサの歌が見事過ぎたので初めは判らなかったのだがサビに来て杉田が気がついた。
「“世界中の誰よりもきっと”ですよこれ杉浦さん」
確かに杉田の言う通りでメリッサが二番以降は日本語で歌いあげた。
ブレスを効かせた甘く透き通るような歌声で囁くように歌うメリッサの歌唱力は流石でそれに合わせる白田のハモも息がピッタリとあっていた。
プロを相手に遜色のないステージは驚きであった。
会場は再度アンコールに湧いたが白田は流石に辞退してステージを降りた。
代わりにメリッサがステージに残り一曲歌い始めた。
「何?マスターのギターがプロ級とは知らなかったわ」
ステージから戻った白田にケイトが言った。
白田は微笑んで見せただけでステージで歌っている妻を見詰めていた。