『あなたが共に行くなら、私は行きます』――女預言者デボラと、恐れを抱いた将軍バラク
エフライムの山地、ラマとベテルの間に、一本のなつめやしの木が立っていた。
大きく広げた葉が陽光を遮り、その下に涼しい影を落としている。
デボラは、その木陰で一人の母親の訴えを聞いていた。
「息子が帰ってこないのです」
女の声は震えていた。
「麦を運ぶために街道へ出たきり、三日も……。カナン人の兵に捕まったのではないかと……」
デボラは女の手を取った。
土に汚れ、指先がひび割れた手だった。
「つらい思いをしていますね」
それ以上、安易な慰めは口にしなかった。
カナンの王ヤビンと、その軍司令官シセラによる圧迫は、すでに二十年に及んでいた。
九百両もの鉄の戦車を持つ軍勢に、イスラエル人は怯えて暮らしていた。街道を避け、畑を荒らされ、収穫を奪われる。
若者たちは武器を持つことさえ恐れ、母親たちは子供が家へ戻るまで、落ち着いて眠ることもできなかった。
デボラのもとには、毎日のように人々が訪れた。
争いの裁きを求める者。
失った家族を捜す者。
どうすれば明日を生きられるのかと尋ねる者。
デボラは耳を傾け、エホバの教えに基づいて助言した。
だが、人々の苦しみを聞くたび、彼女自身の胸も痛んだ。
――エホバは、この民をお忘れになってはいない。
その確信を抱き続けていたデボラに、ついに行動の時が訪れた。
◇
乾いた砂を踏みしめる足音が近づいてきた。
「アビノアムの子バラク。よく来てくださいました」
デボラは立ち上がった。
現れた男は、ナフタリのケデシュから呼び寄せられたバラクだった。
広い肩と日に焼けた顔。幾度も苦難をくぐり抜けてきた戦士の姿だったが、その目には深い疲労が浮かんでいた。
「預言者デボラ。使いの者から、急ぎ来るようにと伝えられました」
「ええ。あなたに伝えるべきことがあります」
デボラはまっすぐにバラクを見た。
「イスラエルの神エホバは、あなたに命じておられます。ナフタリとゼブルンから一万の兵を集め、タボル山へ進みなさい、と」
バラクの表情が険しくなった。
「一万の兵……」
「エホバは、シセラとその戦車、軍勢をキション川へ導き出し、あなたの手に渡すと約束しておられます」
バラクはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で尋ねた。
「……相手は、あのシセラです」
「分かっています」
「九百両の鉄の戦車を持つ男です。平野では、あの戦車に太刀打ちできません。兵たちは二十年もの間、奴らの名を聞くだけで震えてきたのです」
バラクは拳を握りしめた。
「私は戦うことを恐れているのではありません。ですが、一万の者たちを率いるのです。彼らには妻も子もいる。年老いた親もいる。私の判断一つで、その者たちが帰れなくなるかもしれない」
デボラは黙って聞いていた。
バラクは顔を上げた。
「本当に、エホバがそう命じておられるのですね」
「ええ」
デボラの返事に迷いはなかった。
「エホバは、シセラの戦車の数をご存じです。あなたが率いる兵の数も、民が二十年間どれほど苦しんできたかも、ご存じです」
風が吹き、なつめやしの葉が擦れ合った。
「バラク。エホバは、あなたにできないことを一人で成し遂げよとは仰っていません。ご自分が敵をあなたの手に渡すと約束しておられるのです」
バラクは目を閉じた。
何度も聞いてきた、民の悲鳴。
逃げ惑う子供たち。
畑に残された、持ち主のない農具。
それらの光景が脳裏に浮かんだ。
そして、目の前の女性を見た。
デボラは、武器を持って戦う人ではない。
だが、この二十年、人々の苦しみから目を背けず、エホバへの信頼を失わず、民を支え続けてきた。
バラクは、そのことを知っていた。
◇
「デボラ」
バラクの声が静かに響いた。
「お願いがあります」
「何でしょう」
「あなたが共に行ってくださるなら、私は行きます」
デボラはじっと彼を見つめた。
バラクは続けた。
「ですが、あなたが共に行ってくださらないなら、私は行きません」
その言葉を口にするのは、容易ではなかった。
将軍が一人の女性に同行を願う。
周囲には、弱気だと笑う者もいるかもしれない。
だが、バラクにとって大切なのは、自分がどう見られるかではなかった。
「私は、あなたがエホバの言葉を大切にしてこられたことを知っています」
彼は言った。
「人々が恐れに沈んでいたときも、あなたはその訴えを聞き、励ましてこられた。誰もが希望を失いかけていたときも、エホバへの信頼を捨てなかった」
バラクは一歩近づいた。
「私には兵を率いる役目があります。ですが、あなたには、私にはない強さがある」
デボラの表情がわずかに和らいだ。
「あなたが共にいてくだされば、兵たちも心強いでしょう。私も、エホバの約束を思い起こすことができます」
バラクは深く頭を下げた。
「どうか、私たちと共に来てください」
デボラは、その姿を静かに見つめた。
目の前の男は、自分の力を誇ろうとしていない。
一万の兵を率いる立場にありながら、助けを求めることを恥じていない。
そして何より、エホバに仕える女性の働きを軽んじることなく、その支えを必要としていた。
デボラは答えた。
「もちろんです。わたしは必ずあなたと共に行きます」
バラクが顔を上げた。
その目に、安堵の色が浮かんだ。
「ありがとうございます」
しかし、デボラには、もう一つ伝えるべきことがあった。
「ただし、バラク。あなたが進むこの道では、栄誉はあなたのものにはなりません」
「……どういうことでしょう」
「エホバは、シセラを一人の女性の手に渡されるからです」
バラクは驚いた。
敵軍の司令官シセラを、女性が討つというのか。
誰が、どのようにして。
その答えは、まだ分からなかった。
だが、バラクはゆっくりと頷いた。
「エホバがそのようにお決めになったのであれば、私に異存はありません」
彼は静かに続けた。
「私は、自分の名を残すために戦うのではありません。民が安心して街道を歩き、子供たちが怯えずに眠れる日を取り戻したいのです」
そして、少し照れたように笑った。
「それに、私はすでに、女性の力に助けられていますから」
デボラも微笑んだ。
◇
二人は、なつめやしの木陰を離れた。
陽光が容赦なく照りつけていた。
遠くの山々は白く霞み、乾いた風が衣の裾を揺らした。
「デボラ」
歩き始めて間もなく、バラクが声を掛けた。
「先ほど、私は一万の兵を率いることが恐ろしいと申しました」
「ええ」
「今も、恐ろしいのです」
デボラは立ち止まらなかった。
「それでよいのではありませんか」
「……よいのですか」
「兵士たちの命を大切に思うからこそ、恐れるのでしょう。その気持ちまで捨てる必要はありません」
バラクは彼女を見た。
「ですが、恐れに支配されて、エホバの命令から逃げてはいけません」
「……はい」
「わたしも、あなたと共に行きます。エホバが約束してくださったことを、共に思い起こしましょう」
バラクは深く息を吸った。
自分一人で、すべてを背負わなくてもよい。
そのことが、どれほど心強いか。
彼は改めて、デボラに感謝した。
「あなたが来てくださって、本当によかった」
「まだ戦いは始まっていませんよ」
「分かっています」
バラクは前を見た。
「だからこそ、今、伝えておきたかったのです」
デボラは温かな眼差しを向けた。
「では、参りましょう。待っている人たちがいます」
二人は再び歩き出した。
やがて、タボル山の麓に兵たちが集まるだろう。
恐れを抱いた者もいる。
家族を思って眠れない者もいる。
それでも、エホバの約束を信じて、一歩を踏み出そうとしている。
デボラは彼らを励ますだろう。
バラクは彼らを率いるだろう。
二人の役割は違っていた。
けれど、どちらの働きも大切だった。
なつめやしの木は、いつしか遠くなっていた。
砂地には、二人の足跡が並んで続いている。
バラクは、その足跡を一度だけ振り返った。
そして、隣を歩くデボラに言った。
「あなたが共に来てくださることを、私は決して忘れません」
デボラは答えた。
「感謝するなら、エホバに感謝してください。わたしたちを見捨てず、進む道を示してくださったのですから」
「ええ。もちろんです」
北の空に、小さな雲が浮かんでいた。
それが何をもたらすのか、二人はまだ知らない。
ただ、エホバが約束を果たしてくださることを信じていた。
バラクは歩調を速めた。
その隣には、預言者デボラがいた。
彼女は剣を持っていなかった。
けれど、その存在は、バラクにとって何よりも心強い支えだった。
そして、その支えを喜んで受け入れた将軍は、一万の兵が待つタボル山へと歩みを進めた。




