↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

『あなたが共に行くなら、私は行きます』――女預言者デボラと、恐れを抱いた将軍バラク

掲載日:2026/10/21

エフライムの山地、ラマとベテルの間に、一本のなつめやしの木が立っていた。


大きく広げた葉が陽光を遮り、その下に涼しい影を落としている。


デボラは、その木陰で一人の母親の訴えを聞いていた。


「息子が帰ってこないのです」


女の声は震えていた。


「麦を運ぶために街道へ出たきり、三日も……。カナン人の兵に捕まったのではないかと……」


デボラは女の手を取った。


土に汚れ、指先がひび割れた手だった。


「つらい思いをしていますね」


それ以上、安易な慰めは口にしなかった。


カナンの王ヤビンと、その軍司令官シセラによる圧迫は、すでに二十年に及んでいた。


九百両もの鉄の戦車を持つ軍勢に、イスラエル人は怯えて暮らしていた。街道を避け、畑を荒らされ、収穫を奪われる。


若者たちは武器を持つことさえ恐れ、母親たちは子供が家へ戻るまで、落ち着いて眠ることもできなかった。


デボラのもとには、毎日のように人々が訪れた。


争いの裁きを求める者。


失った家族を捜す者。


どうすれば明日を生きられるのかと尋ねる者。


デボラは耳を傾け、エホバの教えに基づいて助言した。


だが、人々の苦しみを聞くたび、彼女自身の胸も痛んだ。


――エホバは、この民をお忘れになってはいない。


その確信を抱き続けていたデボラに、ついに行動の時が訪れた。


◇


乾いた砂を踏みしめる足音が近づいてきた。


「アビノアムの子バラク。よく来てくださいました」


デボラは立ち上がった。


現れた男は、ナフタリのケデシュから呼び寄せられたバラクだった。


広い肩と日に焼けた顔。幾度も苦難をくぐり抜けてきた戦士の姿だったが、その目には深い疲労が浮かんでいた。


「預言者デボラ。使いの者から、急ぎ来るようにと伝えられました」


「ええ。あなたに伝えるべきことがあります」


デボラはまっすぐにバラクを見た。


「イスラエルの神エホバは、あなたに命じておられます。ナフタリとゼブルンから一万の兵を集め、タボル山へ進みなさい、と」


バラクの表情が険しくなった。


「一万の兵……」


「エホバは、シセラとその戦車、軍勢をキション川へ導き出し、あなたの手に渡すと約束しておられます」


バラクはしばらく黙っていた。


やがて、低い声で尋ねた。


「……相手は、あのシセラです」


「分かっています」


「九百両の鉄の戦車を持つ男です。平野では、あの戦車に太刀打ちできません。兵たちは二十年もの間、奴らの名を聞くだけで震えてきたのです」


バラクは拳を握りしめた。


「私は戦うことを恐れているのではありません。ですが、一万の者たちを率いるのです。彼らには妻も子もいる。年老いた親もいる。私の判断一つで、その者たちが帰れなくなるかもしれない」


デボラは黙って聞いていた。


バラクは顔を上げた。


「本当に、エホバがそう命じておられるのですね」


「ええ」


デボラの返事に迷いはなかった。


「エホバは、シセラの戦車の数をご存じです。あなたが率いる兵の数も、民が二十年間どれほど苦しんできたかも、ご存じです」


風が吹き、なつめやしの葉が擦れ合った。


「バラク。エホバは、あなたにできないことを一人で成し遂げよとは仰っていません。ご自分が敵をあなたの手に渡すと約束しておられるのです」


バラクは目を閉じた。


何度も聞いてきた、民の悲鳴。


逃げ惑う子供たち。


畑に残された、持ち主のない農具。


それらの光景が脳裏に浮かんだ。


そして、目の前の女性を見た。


デボラは、武器を持って戦う人ではない。


だが、この二十年、人々の苦しみから目を背けず、エホバへの信頼を失わず、民を支え続けてきた。


バラクは、そのことを知っていた。


◇


「デボラ」


バラクの声が静かに響いた。


「お願いがあります」


「何でしょう」


「あなたが共に行ってくださるなら、私は行きます」


デボラはじっと彼を見つめた。


バラクは続けた。


「ですが、あなたが共に行ってくださらないなら、私は行きません」


その言葉を口にするのは、容易ではなかった。


将軍が一人の女性に同行を願う。


周囲には、弱気だと笑う者もいるかもしれない。


だが、バラクにとって大切なのは、自分がどう見られるかではなかった。


「私は、あなたがエホバの言葉を大切にしてこられたことを知っています」


彼は言った。


「人々が恐れに沈んでいたときも、あなたはその訴えを聞き、励ましてこられた。誰もが希望を失いかけていたときも、エホバへの信頼を捨てなかった」


バラクは一歩近づいた。


「私には兵を率いる役目があります。ですが、あなたには、私にはない強さがある」


デボラの表情がわずかに和らいだ。


「あなたが共にいてくだされば、兵たちも心強いでしょう。私も、エホバの約束を思い起こすことができます」


バラクは深く頭を下げた。


「どうか、私たちと共に来てください」


デボラは、その姿を静かに見つめた。


目の前の男は、自分の力を誇ろうとしていない。


一万の兵を率いる立場にありながら、助けを求めることを恥じていない。


そして何より、エホバに仕える女性の働きを軽んじることなく、その支えを必要としていた。


デボラは答えた。


「もちろんです。わたしは必ずあなたと共に行きます」


バラクが顔を上げた。


その目に、安堵の色が浮かんだ。


「ありがとうございます」


しかし、デボラには、もう一つ伝えるべきことがあった。


「ただし、バラク。あなたが進むこの道では、栄誉はあなたのものにはなりません」


「……どういうことでしょう」


「エホバは、シセラを一人の女性の手に渡されるからです」


バラクは驚いた。


敵軍の司令官シセラを、女性が討つというのか。


誰が、どのようにして。


その答えは、まだ分からなかった。


だが、バラクはゆっくりと頷いた。


「エホバがそのようにお決めになったのであれば、私に異存はありません」


彼は静かに続けた。


「私は、自分の名を残すために戦うのではありません。民が安心して街道を歩き、子供たちが怯えずに眠れる日を取り戻したいのです」


そして、少し照れたように笑った。


「それに、私はすでに、女性の力に助けられていますから」


デボラも微笑んだ。


◇


二人は、なつめやしの木陰を離れた。


陽光が容赦なく照りつけていた。


遠くの山々は白く霞み、乾いた風が衣の裾を揺らした。


「デボラ」


歩き始めて間もなく、バラクが声を掛けた。


「先ほど、私は一万の兵を率いることが恐ろしいと申しました」


「ええ」


「今も、恐ろしいのです」


デボラは立ち止まらなかった。


「それでよいのではありませんか」


「……よいのですか」


「兵士たちの命を大切に思うからこそ、恐れるのでしょう。その気持ちまで捨てる必要はありません」


バラクは彼女を見た。


「ですが、恐れに支配されて、エホバの命令から逃げてはいけません」


「……はい」


「わたしも、あなたと共に行きます。エホバが約束してくださったことを、共に思い起こしましょう」


バラクは深く息を吸った。


自分一人で、すべてを背負わなくてもよい。


そのことが、どれほど心強いか。


彼は改めて、デボラに感謝した。


「あなたが来てくださって、本当によかった」


「まだ戦いは始まっていませんよ」


「分かっています」


バラクは前を見た。


「だからこそ、今、伝えておきたかったのです」


デボラは温かな眼差しを向けた。


「では、参りましょう。待っている人たちがいます」


二人は再び歩き出した。


やがて、タボル山の麓に兵たちが集まるだろう。


恐れを抱いた者もいる。


家族を思って眠れない者もいる。


それでも、エホバの約束を信じて、一歩を踏み出そうとしている。


デボラは彼らを励ますだろう。


バラクは彼らを率いるだろう。


二人の役割は違っていた。


けれど、どちらの働きも大切だった。


なつめやしの木は、いつしか遠くなっていた。


砂地には、二人の足跡が並んで続いている。


バラクは、その足跡を一度だけ振り返った。


そして、隣を歩くデボラに言った。


「あなたが共に来てくださることを、私は決して忘れません」


デボラは答えた。


「感謝するなら、エホバに感謝してください。わたしたちを見捨てず、進む道を示してくださったのですから」


「ええ。もちろんです」


北の空に、小さな雲が浮かんでいた。


それが何をもたらすのか、二人はまだ知らない。


ただ、エホバが約束を果たしてくださることを信じていた。


バラクは歩調を速めた。


その隣には、預言者デボラがいた。


彼女は剣を持っていなかった。


けれど、その存在は、バラクにとって何よりも心強い支えだった。


そして、その支えを喜んで受け入れた将軍は、一万の兵が待つタボル山へと歩みを進めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。