第1話:王国の「無料期間」は、たった今終了いたしました。
数字は裏切りません。裏切るのはいつも、数字を扱えない「無能」な人間だけです。
……さあ、精算の時間ですわよ。
頭上のシャンデリア、四五〇〇万ディル。
足元のシルク絨毯、一二〇〇万ディル。
そして、目の前で私を怒鳴りつけている婚約者――アシュレイ王子の市場価値は、現在、限りなくゼロに近い。
「ヴィクトリア・ド・ラ・ヴァリエール! 貴様のような冷酷な女との婚約は、今この瞬間を以て破棄とする!」
華やかな建国記念パーティーの最中、広間の中央で突きつけられた断罪の言葉。
アシュレイ殿下は、守るように抱き寄せた聖女エルナを伴い、勝ち誇った顔で私を見下ろしていました。
周囲の貴族たちは、待ってましたと言わんばかりにヒソヒソと嘲笑を漏らします。
「ああ、ついに……」
「公爵令嬢の横暴もここまでか」
「エルナ様をいじめていた報いだな」
あら、皆様。その「ヒソヒソ」という雑音を維持するための会場防音魔法、一分につき三万ディルの維持費がかかっていることをご存知かしら?
「……ヴィクトリア。何か言い残すことはあるか? 今なら温情で、修道院への道を用意してやらなくもないが」
殿下が傲慢に顎をしゃくります。
私はゆっくりと、扇を閉じました。パチン、と乾いた音が静寂を支配します。
私は取り乱すことも、涙を流すこともありません。ただ、手元の銀時計で時間を確認しました。
「いえ。準備は全て整いましたわ。アシュレイ殿下」
「……何?」
「婚約破棄、確かに承りました。おめでとうございます。これであなたは、私が今まで支払っていた『多額のコスト』から解放され、自由の身になられたわけですわね」
私が微笑むと、殿下は不快そうに眉を寄せました。
その隣で、聖女エルナがしおらしく口を開きます。
「ヴィクトリア様……。私はただ、殿下と真実の愛を育みたかっただけなのです。お金や地位のことなんて、一度も考えたことはありませんわ」
「ええ、存じております。あなたは『考えられない』方ですものね。エルナ様、そのお召しのドレスの刺繍、希少な魔糸が使われていますけれど……一着で平民の家庭が十年遊んで暮らせるお値段ですのよ?」
「なっ、貴様! エルナに金の無心など汚らわしい!」
殿下が激昂します。私はそれを無視して、背後に控えていた私の秘書――胃薬を手放せない会計士、シフォンを呼び寄せました。
「シフォン。例のものを」
「は、はい……お嬢様。……皆様、どうぞこちらを」
シフォンが震える手で差し出したのは、一通の書類――ではなく、分厚い「帳簿」でした。
私はそれを殿下の足元へ、優雅に放り投げます。
「アシュレイ殿下。そして、国王陛下。……いえ、今は不在でしたわね。では、王家の代理人であるあなたに申し上げます。この三年間、私が『ヴァリエール公爵家の個人資産』から肩代わりしてきた国家予算の補填、および王家の遊興費……その精算をお願いいたします」
「……精算だと? 何を言っている」
「文字通りの意味ですわ。帳簿の三二八ページをご覧ください。昨年の飢饉の際の食糧輸入費、騎士団の装備更新費、そしてエルナ様が毎日お召し上がりになっている『聖女の奇跡を維持するための高純度魔石』の購入代金。これら全て、私のポケットマネーからお支払いしておりました」
会場が、ざわめきから戦慄へと変わります。
私は一歩、殿下へと歩み寄りました。
「総額、一二〇,四五六,七二八,〇〇〇ディル。……約一二〇億ディルですわ。契約書に基づき、婚約が解消された本日中に全額一括返済していただきます」
「ひゃ、百二十億……!? 馬鹿な、そんな数字、あるわけがない!」
「あら。殿下は算術が苦手でしたわね。シフォン、彼に分かりやすく『物理的』に説明して差し上げて」
「了解しました、お嬢様……。強制執行、開始します」
シフォンがパチンと指を鳴らした瞬間。
広間の巨大な扉が開き、黒い服を着た私の「私設徴税官」たちがなだれ込んできました。
彼らは無言のまま、会場中の高価な花瓶、絵画、そして貴族たちが手に持っていた最高級のワインボトルにまで、次々と「赤い紙」を貼り付けていきます。
「な、なんだこれは! 離せ、これは私の愛剣だぞ!」
「残念ですが、その剣の魔力付与代もヴィクトリア様が立て替えておられます。……あ、そちらの聖女様のティアラも回収対象です。そちら、お嬢様の曾祖母様の私物ですので」
シフォンが淡々と、しかし容赦なくエルナの頭からティアラをひったくりました。
乱れる髪、青ざめる顔。
つい先刻まで「悪女」をなじっていた貴族たちが、自分たちの持ち物が「ヴィクトリアの金」でできていたことを知り、パニックに陥ります。
「ヴィクトリア……貴様、正気か! こんな真似をして、タダで済むと思っているのか!」
「正気ですわよ。私はただ、自分の資産を回収しているだけ。……殿下、愛があればお金なんて必要ないのでしょう? でしたら、このすっからかんになった王城で、存分に愛を語り合えばよろしいではありませんか」
私は、出口へと向かいます。
その途中で、ふと立ち止まり、王城の庭にある枯れた噴水を見上げました。
……数字にしか愛されなかった私には、この「枯れた光景」こそが、唯一信頼できる真実でした。
感情というあやふやな変数に頼らず、一円の狂いもなく世界を支配する。
それが、私の渇望。
「あ、そうだわ。言い忘れておりました」
私は、呆然と立ち尽くす元婚約者へと振り返り、最高の微笑みを浮かべました。
「本日をもって、王家およびこの国に対する私の『融資』は全て停止いたしました。……明日からの王都の食糧自給率、および防衛結界の維持コスト。どう工面なさるのか、楽しみにしておりますわね」
さようなら、愛に溺れた無能な皆様。
この国の「無料体験期間」は、たった今、終了いたしました。
支払えないのであれば――その人生そのもので、お支払いいただくしかありませんわ。
私は、待たせていた漆黒の馬車へと乗り込みました。
そこには、隣国から私を「買い取り」に来た、恐るべき狂犬の皇帝が座っているはずです。
私の新しい帳簿が、今、開かれようとしていました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
婚約破棄をされた瞬間に、王家の総資産を「差し押さえ」ていくヴィクトリア様。
彼女の算盤は、まだ弾き始められたばかりです。
「愛があればお金なんて」と言った王子たちが、明日から「パン一つの値段」に絶望する様子、
そして、ヴィクトリアを待ち受ける隣国の「狂犬皇帝」との契約……。
この国の経済が、彼女なしでどこまで耐えられるのか。
第2話は、王城の電気が消え、本当のパニックが始まるところからお届けします。
もし「スカッとした」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
ブックマークや評価をいただけますと、執筆の大きな励みになりますわ。
(ヴィクトリア様の帳簿に、皆様からの『期待』という無形資産を計上させていただきますね)
それでは、また次の「精算」でお会いしましょう。




