エッセイ・短編 命・言葉・愛・感謝・希望等をテーマにした作品です
「命は本当に“大切”なのか」
「命はかけがえのないものだ」
──誰もがそう言う。
学校でも、テレビでも、SNSでも、誰かが命の尊さを語っている。
でも、それは本当だろうか?
人間が「命は大切」と言い出したのは、いつからだろう。
おそらくそれは、命が簡単には失われなくなった頃からだ。
医療は発達し、平均寿命は延びた。
温かい家があり、水があり、情報がある。
社会は「安全」で「整備された」ものになった。
そうして、死は遠ざけられた。
だから人間は、命を「崇高なもの」に変えた。
死を身近に感じないからこそ、生を神聖視したのだ。
まるで高級なワインのように、めったに味わえないものとして。
でも思い出してほしい。
かつて命とは、もっと儚くて、もっと雑だった。
戦争、飢餓、疫病。
予測不能の自然災害。
「いつ死んでもおかしくない」日常の中で、人々は“今”を生きていた。
命は「特別なもの」ではなく、「不確かなもの」だった。
そして、今。
現代の人間は「命は大切だ」と言いながら、
他人の心には無関心だ。
魂を削るような言葉を、毎日のように投げ合っている。
本当に命が大切なら、なぜ人はこうも冷たいのか。
野生動物のドキュメンタリーで、草食動物が肉食動物に食われると、
「かわいそう」と言う人がいる。
けれどそれは、自然の摂理だ。
そこに「善悪」も「大切」もない。
それを「かわいそう」と感じるのは、人間の傲慢だ。
世界を、人間の枠でしか理解できないから。
命を、「生きていること」だけで測るから。
人間は、地球がなければ生きていけない。
空気も水も、命の根幹はすべて他者依存だ。
それなのに人間は、自分たちの命だけを特別扱いしてきた。
「命は大切だ」
それは確かに正しい。
でも、時にその言葉は、現実から目を背ける“免罪符”にもなる。
死を遠ざけるための、きれいな包装紙だ。
命は、大切かもしれない。
でも同時に、儚く、有限で、奪われるものである。
そして何より、他者とつながっていなければ、命は“意味”を持たない。
だからこそ、私たちは問わなければいけない。
命が大切だと言うなら、それを支える世界を、ちゃんと見ているか、と。