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盃に満ちるもの

「乾杯!!」

今日は佐倉ゼミの新年会だ(但し佐倉教授抜き)。院生ですらない僕だけど、修士2年の皆さんが誘って下さったのでお邪魔している。お店は、キャンパス裏の居酒屋“えとまわる・星”。亥年生まれの板前さんと子年生まれの女将さんのご夫婦が営むお店で、苗字が“星”さんなのでそんな店名になったとか。

それはさておき、昆布巻、伊達巻、紅白蒲鉾、根菜のお煮染め。どことなくおせち感の漂うお料理が運ばれてくる。でもお椀の中身はお雑煮じゃなくて具だくさんの豚汁だ。これはこれですごく嬉しい。

チーズや明太子を乗っけた焼き餅や大きな卵焼きが、いかにも居酒屋のおつまみだ。

あっという間に、お皿だけじゃなく皆さんのジョッキが空っぽになってしまった。……ところでそれは何杯目ですか?

そこへ笊に山盛りの天ぷらがやって来た。いやもう見た目から豪華だなぁ。

衣がさっくさくで、すごく美味しい。……海老天、もう一本食べたかったなぁ。

僕らがお喋りよりもお酒とお料理に夢中になっているところへ

「あら、先生、お兄さん、いらっしゃい。奥の小上がりにどうぞ」

女将さんがにこやかに通した客は。

「げっ」

……僕らを見て露骨に顔を顰める渡会教授と、退院して間もない津田さんだった。

「おぉー、津田ぁ、風邪大丈夫かぁ?」

野太い声を張り上げたのは、お酒が入ってすっかり陽気になった八戸さん。

「……うん」

苦笑しながら肯き、津田さんは渡会教授に続いて、小上がりの席についた。

上がり框は僕らの居るテーブル席に面していて、遮るものが無い。

女将さんと教授のやり取りも筒抜けだ。

「女将。……此奴に精進膳、俺は新春膳を頼む」

「お酒も付けますか」

「あぁ、そうだな」

「えー、渡会教授ぅ、お酒飲むんすか」

三堀さんがテーブルを離れ、絡みに行ってしまう。普段も余計なことばかり言って人に絡むけど、いくらお酒が入ってるからって、教授にまでちょっかい出すなんて……。

「躾のなっていない犬め」

悪態と共にしっしと追い払われても、三堀さんは上がり框に膝立ちして、渡会教授の卓に頬杖までつく始末だ。

「……えーっと、佐倉ゼミの学生がお邪魔してごめんなさい」

津田さんが代わりに謝っている。

そこへ、徳利では無く、()と細い注ぎ口のついたお銚子に入ったお酒と、盃が運ばれてきた。

「学生さんはあっちのテーブルでしょ。……貴方、衝立持ってきて」

女将さんが三堀さんをやんわりと追い払い、津田さんの傍に衝立を置く。

「お気遣い、有難うございます」

津田さんがお礼を言っているのが聴こえる。流石に衝立が真横にあると居座りにくいのか、三堀さんがつまらなさそうに戻ってきた。僕も、自分のご飯に向き直った。僕の席は小上がりに背を向ける配置だ。だから、津田さんと渡会教授のほうを見るには、首を回すだけでなく体ごと後ろを向かないといけなくて、ご飯の手が完全に止まってしまうんだ。僕のテーブルにはいつの間にか、〆の炊き込みご飯がおひつで運ばれてきていて、しかも(八戸さんに)ほとんど食べられていた。

「光研二、受けろ」

「頂戴します」

なんて会話が聞こえて、びっくりした。僕の向かいの二木さんも、その会話に驚いて渡会教授を見ている。僕は炊き込みご飯などそっちのけで、再び背もたれ越しに大きく振り返った。

「お前ら、此方を見るな」

……僕らの方を見向きもせず、渡会教授が言った。

「すみません、……津田って酒呑めるんですか?」

謝りつつも、気になることはちゃっかり訊ねる二木さんに、ふっと渡会教授は笑った。「今は飲ませる必要がある」

……どういうことだろう。

「丹波、津田なんか()っとけって。ほれ、俺にビール注いでよ」

隣の樋野さんが僕を正面に向かせようとする。

むぅ。樋野さんにお酌するより、お酒を飲む津田さんを眺めるほうが良いもん。

「景晴さんも」

「ん」

渡会教授が盃を差し出し、津田さんが注ぐ。

それをぐっと飲み干し、渡会教授が何故か銚子を津田さんから取り上げて自分の手元に持ってきた。

「光研二、もう」

「んーん」

……もうお酒が回ってるのかな、イヤイヤをする子どもみたいな声で津田さんが答えている。そこへ津田さんの元へお膳が運ばれてきた。でっかい湯豆腐がメインで、お椀とお煮染めと小鉢が1つ、あとは雑穀ご飯とお漬物のようだ。

「先に食え」

と渡会教授が言う。

「俺の新春膳はもう少し時間がかかる」

あ、新春膳は、たぶん僕らゼミ生が食べているやつだ。天ぷらとか卵とかもたくさんの。「……おい」

手酌で盃を重ねながら、渡会教授が半眼になって津田さんに声をかける。

「みつとじ、起きてるか?」

「んー」

……津田さん、お酒弱すぎない?

何か、うにゃうにゃと言う津田さんに

「……あぁ、うん。別に佐倉のゼミ生なんざ放っとけ、食ったら横になっていい」

渡会教授は返事をしてあげている。すごいなぁ、今の、なんて言ったか分かるんだ。

「あら、お兄さん、今年は、いつものやらないの?」

女将さんが渡会教授にお膳を持って来て訊いた。津田さん、何をやるんだろう?

「やらせたいところだが、今日は邪魔が多いのでね」

渡会教授はちらっと僕たちを見て言った。

「ようまあっき、よこしまなるものまがつもの、すべてはらいたまえとのる」

舌っ足らずに津田さんがなにか唱えた。

「あー、うん。大丈夫だ、光研二。祓う必要はない」

「だいじょぶ?」

「大丈夫だから、さっさと飯食え」

言いながら、渡会教授は自分の海老天をしゃくりと齧った。

「さくさく、おいしそう」

「あー、もう。うるせぇ。これやるから」

蓮根の天ぷらをひょいと直箸(じかばし)でつまんで津田さんに食べさせている。

雛鳥に餌やってるみたいだな。

「ん、おいし」

喜ぶ津田さんの声。くくっと渡会教授が笑った。

「これ、あげる。だいこんのおつけもん」

「せっかくだ、もらおうかね」

渡会教授は素直に大根のぬか漬けを津田さんから受け取っている。

そんなふうに時々おかずを交換しながら、それぞれのペースで食事をしている。

こんなに和やかな二人は初めて見た。渡会教授の雰囲気が、とても柔らかい。

津田さんを見つめる眼差しが、甘い。

「なんか、渡会教授、別人っすね」

三堀さん、黙ってて。

「今は、ただの伯父と甥で飯食ってるだけだからな。厳しくある必要はない」

渡会さんが静かに答えた。ひょいと津田さんが銚子を手に取り、渡会教授の盃に注いであげている。それをくいっと干した渡会さんが、急に顔を引き攣らせた。

「光研二、お前は無理に飲むな、今日はいいって言ってるだろ」

津田さんが勝手にお酒を飲んだようだ。

「あら、お兄さん、結局やるのねぇ」

と、お冷を持ってきた女将さんが言った。

津田さんが衝立の奥でごそごそしている。何か着込んでいるようだ。

小上がりから降りてきた津田さんは、藤色の長着に灰色の袴を穿き、腰には扇を挿していた。髪を結い、眼鏡も外した顔は、お酒も入っていつもより血色が良くて、凄まじく艶っぽい。杉山さんと樋野さんが揃って口をぽかんと開けて、驚いた顔をしている。

この二人は、津田さんの素顔見るの初めてなんだな。

和装の津田さんは、店の奥、テーブルの片付けられた広い空間に向かう。

「では、毎年のことながら、景晴さんに」

と言って一礼し、津田さんはぱっと扇を広げた。

「盃に、満ちる浄めの霊薬に、浮かぶ月影あざやかに」

摺足で舞いながら、自分で謡う。

「さざ波一つ立たぬよう、全て丸く収まれと、この一年(ひととせ)の平穏を、初春(はつはる)の日にただ願う……」

一旦、舞を止め、片膝ついて袖と扇で顔を隠していたけど、急に立ち上がった。ゆっくりと身を起こして、再び舞い始める。暫く無言のままで舞っている。

だんだん足の運びが速くなる。眼光がぎらつき、渡会教授を睨んだと思ったら、

「雪積もる日々もようやく杉の戸を開きて旭を迎えたり、雲居へ龍の天翔(あまが)けて、よもつ国よ栄えよと鶴の鳴音(なくね)も高らかに、青葉繁れる(おか)の上、勇みて虎の吼ゆるなり、連なる家々千万(ちよろず)に、萱葺き屋根のそのもとに営むすべてに安寧を、心の底より願えども、(あざな)える縄のごとくにものごとの、途切れず起こるも(すべから)く、袂に纏う仇花も、交わす水の一献に、やがて実を成せ花衣、雷連れて花嵐、(しがらみ)全て解き放ち、淀む澱の流れゆき、いつか清水に還る日も、近く引き寄せ網打ちのかかる魚へ一群の慈鳥来るとてわたつみの返す波に遠ざけて、のぞむ広洋その先に次来る春をも見晴かせ」

謠いながら、津田さんは軽やかな足捌きを見せる。扇をひらりとかざし、首を傾ける。白い首は意外に細く、一つ一つの仕草が色っぽい。

最後に扇でぴしっと渡会教授を指すと、津田さんはその場に両膝をついて座り込んだ。息を切らせて、だいぶ疲れているみたい。

「……見事」

と渡会教授が呟いた。女将さんと板前さんも拍手している。

「毎年、すごいわねぇ、お兄さん。唄の文句はオリジナルなんでしょ?」

え?今の全部、津田さんが考えてるの? すごいなぁ。……意味は分からなかったけど。「光研二の、即興だ。……酒飲んだときに、降りて( ﹅ ﹅ ﹅ )くるらしいが……佐倉だけでなく、鈴の子やゼミ生共、しかも杉山旭と樋野青葉まで言祝ぐとはな」

津田さんはさっさと着物を脱いで、黒シャツとブラックジーンズの格好に戻り、ふらふらと席に帰ってくる。

「まぁ、ここに居たから多少は影響したんでしょう……、でも僕はいわばトランス状態なので、文言は覚えていません」

自分で覚えてないなんて勿体ない……というか、えっと、言祝ぐってことは、何か良いことがあるようにお祈りというか、そういう意味の歌詞だったのか。

津田さんは自分の席に座ると、後ろの壁にもたれてうとうとし始めた。

渡会教授は、そっと衝立で津田さんを隠した。

しんと静まり返ったところへ、渡会教授の呟きが聴こえた。

「……頼むぞ、光研二。水盃には早すぎる」

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