第1話
『神託:隣家の老婦人が助けを必要としています。』
──出ました神託。
「ラグレア様……。私、引退したはずなんですけど……」
朝の光に包まれたベッドの上、私は脱力した声で天井に向かってそう呟いた。
目覚めたと同時に聞こえてきた、あの朗々たる声――
布団に顔を埋めながら唸る私、エリセア・ミレイユ、31歳。
十数年にわたって王国に仕えてきた元・聖女。つい先日、ようやく役目を下りて、念願の田舎暮らしをスタートさせたばかりだ。
王都の喧騒、貴族の押しつけ、国王の機嫌取り、戦場での祈祷。
どれもこれも、疲れたんだよ私は!! もう神の声とか聞きたくないんだってば!!
「──ふう。とにかく……朝ごはん、作ろう……」
嘆いていても、神託が止むわけじゃない。
私は気を取り直して布団を抜け出すと、小さなキッチンへ向かう。
ここはエルダ村という辺境の村。周囲は森と川、そして畑。
借りた家は年季の入った木造の一軒家だけど、暖炉も台所も思ったより整っていて快適そのもの。
「えっと……昨日の残りのパンと、スープ。うん、質素でいい……」
朝から豪華な料理なんていらない。むしろ、質素であればあるほど「贅沢」に感じる今の私。
火を起こしてスープを温めていると、コンコンと軽快なノック音が響いた。
「エリセアさん、いらっしゃいますかー?」
明るい声が扉の向こうから響く。
この声は、たしか……隣に住む雑貨屋の娘さん、メルティ・ハートだった。
「どうぞー」
「失礼しまーす!」
勢いよく入ってきた彼女は、今日も花のような笑顔を浮かべていた。
金色の巻き髪、ぱっちりした目、明るい服装と、これぞ元気娘!といった風貌。
「これ、うちで焼いたクロワッサン! 朝ごはんにどうぞー!」
「あら、ありがとう。昨日の残りのパンだったから助かるわ」
私はほほ笑んで受け取るけれど、ふと神託の内容を思い出してしまう。
「……あの、ところで。お隣のおばあさん、何か変わった様子なかった?」
「え? ううん? 特に聞いてないけど……あ、でも最近ちょっと足が痛いって言ってたかも!」
「……ありがとう、ちょっと様子を見てくるわ」
聖女にしか聞こえない神託って、本当に厄介。
私しか知らないんだから、私が確認するしかないんだもの。
結局、朝ごはんはスープを流し込むだけにして、私はお隣の老婦人宅へ向かった。
「……もう、大丈夫ですよ。しばらく安静にしていれば完治しますから」
「ありがとねぇ……ほんと、エリセアさんが来てくれて助かったわぁ……」
回復魔法を施しながら、私はにっこりと微笑む。
かつて王都で「奇跡の手」とまで呼ばれた癒しの魔法も、今となっては近所付き合いの延長である。
(でも……なんだか、こういう小さな人助けって、悪くない)
しみじみそう思った。
私は疲れていた。聖女としての重責、国の命運を背負う期待、遠慮のない他人の感謝。
でも、こうして目の前の人を癒して、感謝されるのは、どこか心地よかった。
──その帰り道。森の中の小道を歩いていた私は、聞き慣れた足音に気づく。
「おや、エリセアさん!」
「リュカさん?」
現れたのは、村の鍛冶屋見習いの青年、リュカ・フェルナー。
日焼けした肌に、鍛えられた体。素朴な雰囲気で、笑顔がとても優しい。
「俺、エリセアさんが来てから、ずっとお礼言いたかったんです。前に落馬して怪我したとき、治してくれたじゃないですか。あのとき、すっげー助かって!」
「ああ……あれ、神託が勝手に来ただけよ」
「でも、助けてくれたのはエリセアさんでしょ?」
まっすぐな目。真正面から感謝を伝える姿に、私はちょっとだけ頬を赤らめた。
「そ、それより……そろそろ、お昼よ。帰って休んでね?」
「はいっ!」
照れ隠しに早口で返してしまったけど、なんとなく心があたたかくなった。
「……そういえば、最近は村の生活にもだいぶ慣れてきました?」
「まあね。最初は薪割りすらまともにできなくて、隣のメルティに笑われたけど……今じゃ朝に薪を割ると、ご近所さんが“あぁ、今日もやってるな”って顔してくれるの」
「ふふ、それ、もう“村人認定”されてますよ」
「……そうかな?、そうだとちょっと嬉しい」
「でも、あれです。最近、村の子どもたちも“エリセアさんの家、花がいっぱいでキレイ”って言ってましたよ」
「えっ、ほんと? 雑草抜きサボってるのに……」
「そこは見なかったことにしてるんだと思います!」
リュカの屈託のない笑いに、私もつられてふっと笑みをこぼした。
(こういう、何気ない会話ができるようになるなんて……私も少しは、この村に根付けてるのかな)
そしてその夜。
また、夢に“あの神様”が出てくるとは……
夢の中、私は純白の草原に立っていた。
風もない。音もない。ただ、光だけが静かに満ちている。
そして、そこに現れたのは――
「おひさしぶりですね、エリセア」
「……ラグレア様。やっぱり出てきましたか」
私が睨むと、白い衣をまとった青年――神、ラグレアは相変わらずの笑みを浮かべた。
「ずいぶん冷たいじゃないですか。再会の喜びくらい、あってもいいのでは?」
「引退した人間を、引きずり戻そうとする神様に喜べるわけないでしょ」
私は怒鳴りそうになるのを必死で抑えた。
目の前の存在は、ふわっとしていて怒りすらもすり抜ける。
「……とにかく、私は人助けとか聖女業とか、しばらく休みたいんです。休暇です。わかります?」
「もちろんです。そのための田舎暮らしでしょう? だからこそ、神託の頻度は控えめにしていますよ」
「控えめであれですか!?」
「まあまあ、好きなように動いてください。ただし、見逃せない“神託”は送りますから」
「それが嫌なんですよー!」
私の抗議の声が空へ吸い込まれると同時に、視界がぼやけ――目が覚めた。
朝。外にはいつも通りの穏やかな風景が広がっていた。
……なのに、今日は違った。
家の前に、黒い外套を着た長身の男が立っていた。
その人影は、私の姿を見つけると、ゆっくりと頭を下げる。
「ご無沙汰しております、エリセア様。……貴女を守りに来ました」
「え、ちょっと、アルト!? なんでここに……!?」
元騎士団、私のかつての護衛――アルト・ノクターン。
無表情な顔と、礼儀正しい口調。だけどその瞳は、私の記憶にあるよりずっと真剣だった。
「退職したとは聞きました。しかし、神託はまだ貴女の元に届いている……違いますか?」
「っ……それは……」
「ならば、私の剣は、まだ貴女のためにあります」
その言葉に、思わず胸がぎゅっと締めつけられた。
この人には、何度も命を助けられた。
敵の刃から庇われた夜、逃げ場のない戦場で背中を守られた日々――そういう記憶が、次々と脳裏をよぎる。
「……もう、そういうのは終わったの。私は“元・聖女”で、ここで静かに暮らしていくだけだから」
「“元”であっても、神は貴女に語りかけています。それが示すものは、今も貴女が“守られる立場”にあるということ」
「守られるって……私、もう三十一よ?」
「年齢は、守る理由を否定する要素にはなりません」
「はあ……昔からそういうとこ、変わらないのね。理屈っぽいというか、真面目というか」
私は思わず苦笑して、玄関の柱に寄りかかった。
「でも……正直言うと、あの頃、あなたがいてくれて本当に助かったわ。王宮で窮屈な思いばかりしてた中、あなただけは黙って見守ってくれてたから」
「そのように思っていただけていたなら、光栄です」
「って言っても、あの時のあなた、本っっ当に表情変わらなかったわよね。守ってくれても無表情。褒めても無表情。怒っても無表情。たまには笑ってよって何度思ったか」
「……今もそれは、あまり得意ではありません」
「知ってる!」
私は思わず吹き出してしまった。
アルトは相変わらず硬いままだったけど、ほんの少しだけ、眉が柔らいだ気がした。
「とにかく……今は、誰かに守ってもらうより、自分の足で立ちたいのよ。できれば、静かに、のんびりと」
「それでも、危機があれば私が剣を振るう。それが、私の変わらぬ役目です」
「……頑固者」
「よく言われます」
言い返すでもなく、淡々とそう言う彼を見ていると、もう何も言えなくなる。
私は小さくため息をつきながら、彼に背を向けて家に入った。
……でも、玄関の扉を閉める手を、完全には下ろせなかった。
「……まあ、勝手にうちの周りをうろつくのだけは、やめてよね?」
「承知しました。巡回ルートを調整します」
「そこはやめる気ないんだ……!」
アルトが、巡回しに行くのを見送った私は、庭先の雑草を抜くことにした。
「……うーん、また伸びてるなあ。昨日の雨で一気に元気になっちゃって」
しゃがみ込んで手を伸ばすと、根の深い草が意外にしぶとく張りついている。
引っこ抜いた拍子に、土の陰からちらりと小さな色がのぞいた。
「あら……?」
掘り返しかけた場所に、淡い紫の小さな花がひっそりと咲いていた。
葉に隠れるようにして、目立たないけれど、陽の光を受けてふんわりと揺れている。
「こんなところに隠れてたのね……もっとこまめに雑草、抜かないとダメかなあ」
少しだけ反省しながら、そっとその周囲の草だけを優しく取り除いた。
こういう小さな変化を楽しめるようになったのも、田舎暮らしに慣れてきた証拠かもしれない。
そこへ、いつもの明るい声が頭上から降ってきた。
「おはよー! あ、エリ姉が草むしりしてる~!」
顔を上げると、垣根の向こうからメルティ・ハートが手を振っていた。
金色の巻き髪が朝日を浴びてきらきらしている。
「おはよう、メルティ。見てよ、雑草パレード。また増えてたのよ」
「ふふっ、でも庭がすっごくスッキリしてきたよ? この前、うちのお母さんが“あのお宅、お花育てるの上手ねえ”って言ってたもん!」
「それ、絶対雑草と区別ついてないだけじゃない?」
「あはは、可能性はあるかも~」
「そういえば、近々、王都から司祭さんが来るってさ!村長が言ってた!」
「何ヶ月もこの村には、司祭いなかったもんね。でも司祭って、聖女を過度に崇めてくるから苦手。」
他愛のないやりとりに、つい頬がゆるむ。
この子の明るさは、朝の陽射しみたいでちょっと眩しい。
そんな穏やかな朝――だったのだけれど、突然後ろから声をかけられた。
「エリセア様、おはようございます」
「……あなた、また来たの……アルト」
「当然です。昨晩、村の見回り、特にエリセア様のご自宅を見回りましたが、危険はありませんでした」
「うちの周りをうろつくのはやめてと言ったはずだけど?それに、私はあなたを雇ってませんけど……?」
「雇用契約書なら、すでに神に捧げました」
「私に内緒で、勝手に誓約したの?!」
そんなやりとりを笑いながら見ていたメルティが、私にささやく。
「ねえエリ姉、今モテ期だよ、モテ期。神託より貴重だって!」
「神託より迷惑だっての……」
──聖女引退。田舎でスローライフ。
……しかし、神託は勝手に来るし、護衛も勝手に寄ってくる。
果たして、エリセアは本当に「のんびり」暮らせるのか?
――彼女の田舎暮らしは、今日も神託と共に。