鬼嫁
「いやあ、もう無理ですわ。うちの女房、ほんま鬼ですわ」
夜の飲み屋。テーブルには空になったジョッキや、つまみの皿が雑然と並んでいる。男は酒をあおってはため息をつき、向かいに座る友人ふたりに、愚痴をぶちまけていた。
彼の女房はとにかく口うるさく、毎日怒鳴り散らしてくる。家事一つするにも、いちいち細かく指図し、何にでも文句をつけてくるのだ。掃除が甘いだの、料理がまずいだの、挙句の果てには、息の仕方にまでケチをつける始末。
「それでな、この間とうとう離婚届を突きつけたんですわ」
「おお! 思い切ったなあ」
「ほんで、どうなったんや?」
「そしたら、嫁さん急に泣き出してな。『やっと反省したんか』思たら、なんや『離婚されたら鬼の国に帰らなあかん』言いよるんや」
「……鬼の国?」
「な、なんやそれ……」
「そやねん。こっちも何言うとんねん思て聞き返したら、『鬼の国はもっと厳しい掟があるから、あんたんとこのほうがまだマシや』言うてな。ほんで、今度は急にキレ出して、離婚届をビリビリ破りよったんや」
「あー……なるほど、実家が厳しいんやな。気の毒やけど、それでも強行したらええやん?」
男は深々とため息をつき、ぐったりと両手をテーブルに置いた。
「いや、それがな……あいつ、ほんまもんの鬼やったんですわ」
「……へ?」
「鬼や。目の前で角がにょきにょきって生えてきてな。目ぇ真っ赤になって、『離婚したら、命取るで』て脅されたんや。どえらい迫力で、しょんべんちびりそうになったわ」
友人たちは言葉を失い、互いに顔を見合わせた。男は無言でジョッキを手に取り、残った酒をぐいと飲み干すと、大きく息を吐いた。
「そやから、もう離婚できひんのですわ。命かかっとるし、嫁の機嫌取るしかあらへん。ほんま、桃太郎より過酷やで。包丁でグサーやるわけにはいかへんのやからな」
「……いやあ、それ、ほんまの話なんか?」
そう聞かれた男は苦笑しながら、ズボンの裾をくいっとまくった。ふくらはぎには、奇妙な形の焼き印がくっきりと刻まれていた。
「これ見てみ。焼きごての痕や。昨日なんか、特に機嫌が悪ぅてな……。ああ、なんで機嫌悪かったかは聞かんといてや。おれにも謎やからな」
「はえー、地獄の煎餅にもこんな焼き印あるんかなあ」
「にしても、泣くくらい離婚が嫌なんやろ? ほな、ちっとは優しゅうしてくれてもええのになあ」
「それは無理なんやと。『鬼の性』やて。おれらが酒やめられへんのと同じや」
「ははは、そらしゃーないわ」
「しゃーないやあらへんわ。ほんま、鬼嫁は恐ろしいですわ。こうして愚痴でも言わんとやってられんわ。……なあ、どうにかならへんかな? 元は言うたら、お前らの紹介で――あ、電話や。あっ、うん、ひゃ、ひゃい! すぐ帰ります!」
男は一気に立ち上がると、ポケットからくしゃくしゃになった紙幣を取り出してテーブルに置き、そのまま慌ただしく店を飛び出していった。
ドアが閉まるのを見届けると、残された友人たちは互いにため息をついた。
「きっと、えらい怒られるで。すまんことしたな……」
「しゃあないわ。チクらんでも、鬼は勘ええからどうせすぐバレるやろ。嫁はん同士仲ええし、向こうからうちの嫁に話伝わって、おれらまで愚痴ってたと思われたら……おあっ、体、震えてきたわ……」
「まあな。しかし、どこもかしこも鬼嫁だらけやな。そういや、うちのもまた『友達を結婚させたいから紹介せえ』言うとったわ。こんな調子やと、ここ、鬼の国になってまうんやないやろか……」
「なら、なおさら心を鬼にせなな」