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七、 ロールスロイス・ファントム

「では、始めるわね。静かに目を閉じて。次にあなたが目を開けた時から"契約"が始まるから、気を付けてね」


ノボルは、春子とお付きのボーヤと共に、夜の新宿中央公園に居た。

春子に追いついたノボルは道端で土下座をせんばかりの勢いで懇願し、彼女との契約を願い出たのだ。

春子は無言の笑みでノボルの申し出を受け入れると、ボーヤが携帯電話で呼んだ黒塗りのロールスロイス・ファントムに乗り込み、新宿中央公園に向かった。

ロールスロイス・ファントム、である。価格はおよそ6000万円であろうか。

著名人ではビートたけし、志村けん、NIGO®、らが所有するラグジュアリーカーである。

しかも制服を着た初老男性の運転手付きだ。

ノボルはこんな高級車に乗ることはもちろん初めてであったが、正直な所その乗り心地を楽しむ余裕はなかった。

まさかこんな車を呼びつけるとは思いもよらず、"音楽の悪魔"の得体のしれなさが更に高まってしまったのだ。


10分も走るとロールスロイス・ファントムは夜の新宿中央公園の前に着き、ノボル、春子、ボーヤの三人を下ろした。

新宿中央公園は、東京都庁をはじめたとした高層ビル群の中にある区立として最大の面積を誇る公園である。

新宿の中心地からわずかに離れており、また周囲は完全なオフィス街の為、夜ともなると人通りは極めて少ない。

三人は人影のない公園のひとつのベンチに向かい、そしてそこにノボルを座らせた。


「あの……こんなところで手術をするのですか?」

「ああ、"喉の手術"というのは私が読んだ物語の中のことよ。実際にそんなことはしないわ。私の契約は簡単なおまじないみたいなもの、すぐ済むから」


春子は微笑で答えた。

実際に喉を切ったり入院することは無いと知って、ノボルは少し安堵した。流石、悪魔の所業である。

しかし、ならば何故こんな夜の公園で行うのだ。別にさっきの車の中でもよいだろうに。

そんな疑問を問う暇もなく、春子の"おまじないが"始まった。


「では、ゆっくり目を閉じて」


ベンチに座っているノボルは、言われるがまま静かに目を閉じた。

元から暗い公園が完全な闇となり、遠くを走る車やオートバイの音、そして虫の声だけがやけに耳に響く。

ここが大都会東京のど真ん中ということを、一瞬忘れるくらいである。

すると細くて柔らかいもので、ノボルの肩から頭部が包まれた。


「えっ」


思わず声を発したノボルの耳元で、春子の声が囁いた。


「動かないで、目は閉じたままね」


その間近で聴く美しいウィスパーボイスに、ビクッと身震いした。

間違いない、ベンチの背もたれごしに、後ろから春子がノボルを抱きかかえているのだ。

冷たく細い指で、ノボルの瞼が覆われた。そしてノボルの後頭部に柔らかなものがあたる。


『これはーー』

青年がそう思った刹那、この世の物とは思えない、不気味な呻き声とも呪文とも聞こえる野太く不快な音が、ノボルの耳元で呟かれた。


「~~~~~~~~~~~~~~」

「うわあっ!!」


ノボルはそのままブラックアウトした。




















『はっ!』


目を覚ましたノボルは、周囲を見渡した。

そこは先ほど座っていた新宿中央公園のベンチである。しかし春子とボーヤの姿は無い。


『やられたか!?』


ノボルは何か物を盗られたのではないかと焦り、急いで立ち上がった。

肩にかけたミニバックの中を確認すると、財布とスマホはある。現金やカード類も問題ない。

ポケットの中や身に付けているものも一通り確認したが、特に無くなったものはないようだ。

ただ一つ、先ほど手渡された"ミュージック・アドバイザー"の名刺を除いては……。


盗難は無かったと少々安堵したノボルであったが、冷静に考えればそれもそうだろう。

ロールスロイス・ファントムを足に使っているような富裕層が、一介の大学生の持ち物など奪う必要がないのだ。

スマホの画面を見ると、先ほどの"おまじない"の儀式から10分足らずしか経っていない。

ノボルはもう一度周囲を見渡した。やはり二人の姿は見えない。


なんだか頭がぼんやりとする。

ノボルは、これまでの一連の出来事は全て夢だったのではないかと思い始めた。

ビンテージの00-45を奏でて腰を抜かすほどの美声を持つ女性も、そのお付きの不気味なボーヤも、乗せてもらった漆黒のロールスロイス・ファントムも、よくよく考えると現実味がない話である。

何だ"音楽の悪魔との契約"って。まったくふざけてる。

歌った時間だけ呼吸ができなくなるとか、冷静になると馬鹿らしいにも程がある。

ノボルは一息ついた。


「……いったい何だったんだ」


そうポツリと呟いた自分の言葉に、ノボルは驚愕した。

声が、通るのである。


「あー、あー、あー」


ただの発生なのに、声が喉をするりと通る。それが何とも心地よい。

"声を出す"という行為が、これほど気持ちが良いものだということを、ノボルは初めて知った。

言葉のひとつひとつがローションを纏ったように、何の抵抗も無くつるつると心地よく喉を滑り通るのである。

例えるのであれば、調子の悪かったオートバイのエンジンを完全にオーバーホールして、オイルも全て新品に入れ変えた時の状態であろうか。

実際に走らずとも、アイドリング状態で既に調子が良く、エンジンを軽く吹かすだけで楽しいのである。

※ノボルは大学の通学用にと、父から古い125ccのトレイルバイクも受け継いでいるのでバイクも少しだけ詳しい。


これはもしかして……あの出来事は現実だったのか?

ノボルは恐る恐る、何か歌を口づさんでみた。


「~♪」


何の気なしに浮かんだ、誰の曲でもないメロディーであったが、それがこの上なく美しかった。

旋律とか音階とか、そんなものは実は些末なことだったのだ。

声が美しい、それが何者にも代えがたい強大な力を持っていることを、ノボルは生まれて初めて知った。

ノボルの目から涙が溢れ出た、これが世界最高峰の歌声なのである。

素晴らしい歌声を聴くことは、普通の人にも出来ことである。それに感動をすることも、出来る。

しかし素晴らしい歌声を自ら発するこの感覚は、一般人には一生知りえない領域ではないのだろうか。

それがこんな心地よいものだったとは!!


迷いはしたが、この"領域"を知りえただけで音楽の悪魔と契約したことが正しかったと、今ノボルは心から感激していた。

流れ落ちる涙を拭おうとしたその刹那、ノボルの呼吸が止まった。


「あ、カハッ!」


息を止める、ということは日常生活でままあることである。

しかし通常は息を止めるタイミングを自分で決められるもので、予め大きく息を吸って準備するものだ。

しかし不意に、心構えもなく呼吸が出来なくなると、人間はこうも慌てふためくのである。


『まずい!思わず感動してしまい、呼吸が止まることを失念してしまった。しかも息を吐いたタイミングで』


これはわずか十秒足らずの出来事であったが、ノボルが命の危険を感じるに十分な時間であった。


「げほっ!げほっ!げえーっ!!はあー」


呼吸が戻った。助かった。

人気のない夜の新宿中央公園に、ノボルの嗚咽がしばらく続いた。

これが、音楽の悪魔と交わした"契約"の内容であった。



~つづく~

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