四、 音楽の悪魔
『ミュージックアドバイザー』
成る程、これであの恐ろしい程に透き通った歌声も、何百万もするであろうビンテージの00-45も、
ノボルを一目見てギタリストと見抜く慧眼も納得がいく……でよいのであろうか。
「あなたはミュージックアドバイザーでしたか。どうりで」
「どうりで?」
「いや。であれば、あの素晴らしい歌声も納得ができるかなと」
「ありがとう。でもそれはちょっと違うかもね」
「はい?」
「私の歌声はちょっと特殊なの。届く人にしか、届かない。聴いた人の、歌に対する"想い"や"情念"が強ければ強い程、私の歌声はその人の心に届くのよ。だから同じように私の歌を聴いたとしても、全く何とも思わない人もいれば、ちょっといいなと思う人、そしてあなたのように腰を抜かすまでの人もいるのよ」
彼女の美しい声が、そう言った。
少しスピリチュアルが入った人だなとノボルは警戒したが、実際にあの凄まじい歌声を聴いて驚愕していた人間が自分だけであったことを考えると、あながち嘘ではないのではないかと思えた。
「あなたは、何か歌に対して大きな悩みをお持ちね。どう?私のアドバイスを受けないかしら」
え?とノボルが驚いた瞬間、ボーヤが慌てたように口を挟んできた。
「春子さん、その方はーー」
「いいの、この子はそれだけの資質があるから」
ピシャリとボーヤを制する春子。
どうやらこの二人は歳の離れた姉や弟ではなく、本当の師弟関係であるようだ。
「いや、でも」
「お話だけでも。せっかくこうして会えたんですから」
「え……う~ん」
「私は"ミュージックアドバイザー"と名乗ってはいますけど、お金は要りません。音楽について悩みをもつ方の支えになりたい、その想いだけでやってますので」
優しく、柔らかな笑みを浮かべるミュージックアドバイザー・雪宮春子。
確かにこの女性もそのお付きのボーヤも、お金が目的の俗っぽい雰囲気はない。
あくまで文化の普及や教養として音楽を嗜む、そんな崇高な匂いのする二人である。
そこでノボルは、自身の最大の悩みである"音痴"について打ち明けた。
家族にも親友にも打ち明けたことのないような赤裸々な告白を、初めて会うこの女性に自然に吐露したのだ。
勿論それは、他の同年代のアーテイストへの嫉妬や僻みという薄汚い感情も全て含めて、であった。
「成る程ね。お話してくれてありがとう」
「お恥ずかしながら、僕もボイストレーナに通ったことがあるのです」
「あら、何も恥ずかしいことではないでしょう。プロでもボイストレーナには掛かりますから」
「いえ、違うんです。僕はそんな高い次元の話ではないので。でも少し通ってみて、分かったのです。いや、もともと分かっていたことを改めて思い知ったというか……僕のような音痴がいくら熱心にボイストレーナに通っても、少しはマシ程度になるだけで、劇的に歌がうまくなるわけではないと。人に感動を与える程にはなれないと」
「……そう」
「それで痛感したんです。僕は学生ですし、毎月高いお金を払って見込みのないボイトレを続けるくらいなら、止めようと。歌はもう、諦めようと。シンガーとしての僕の夢は、もう終わったんです」
そんなノボルの魂の告白を聞いて、春子はゆっくりと口をひらいた。
「確かに歌の上手い下手は、フィジカルの世界かもしれないわね。
例えば学校で運動神経が悪くて、足の遅い子が居るとする。この子がどんなに優秀なコーチに付いてもらって、血の滲むような努力をしたとしても、生まれついての才能をもった俊足の子には適わないし、オリンピック選手にもなれないでしょう。同じく、気弱で非力な子がどんなに優秀なトレーナーと訓練をしても、元々腕っぷしの強くて体格に恵まれた子にはケンカで勝てないし、世界チャンピオンにもなれないでしょう。それはまず、生まれ持った素質がモノをいう世界です。でもだからこそ、世界で一番足の速い人間も、世界で一番格闘技の強い人間も、世界中の人々から賞賛されるし、尊敬されるのよ。人々は、誰でも出来ることだけど、でも努力だけでは到達できない"境地"にいる人間に、羨望の眼差しを向ける。そしてそれと同じことが、歌にも言えるわね」
その言葉を聞いて、ノボルはさらに絶望した。
「音痴はどんなに努力しても音痴だし、生まれ持った才能をもつシンガーには勝てない、ということですか……」
「そうね」
「そうねって、そんな身も蓋もない」
「でも私なら、あなたをその"境地"に連れて行くことができるわ」
「え?」
「私であれば、あなたを世界中を虜にする程の歌唱力を持つシンガーにすることが出来る、と言っているの」
「まさか、さっきそれは無理だと言ったばかりじゃないですか」
「それは他の、凡俗トレーナーの話。私は別よ」
自分以外のボイストレーナを"凡俗"と言い切る春子に、えも言われぬ迫力と恐怖を感じる。
しかしやはり、その言葉には説得力があるのだ。
この華奢な女性から醸し出されるこの迫力は何なのか、ノボルは困惑した。
「で、どうなの。あなたはそんな世界一の、唯一無二の歌声を、得たくはないの」
「そ、そりゃ、ねえ……できることなら……」と、ノボルは小さな声で呟いた。
「え?何ですって?」
「そりゃなりたいですよ!なれるものならね!でも無理なんですよ、僕レベルの音痴では!」
少し挑発的な物言いをする春子に、ノボルは強く返した。
その様子に春子は少し笑みを含め、一歩前ににじり出て、ノボルの目の前で語った。
「だから、私ならばそれは関係ないの。歌を愛してやまない強い心があれば、あなたを"境地"に誘うことが出来ると言っているの。あなたにはその志が無いのかしら?」
「だからあるって言っているでしょう!」
春子の物言いに、ノボルは思わず憤怒した。
「何を言ってるんだ、同世代で僕ほど歌を、音楽を敬愛する人間は居ないですよ!
でも無理なんですよ!どれだけ練習しても上達するのはギターのみで、歌は完全に置いて行かれる!
僕なんかがそんな"境地"に行けるわけがない!
自分の歌声なんだから、それは僕が一番わかっているんだ!だからつらいんですよ!
歌はね、世界中で老いも若きも男も女も、国境も言葉の壁も超えて届く人間の最古で最強のツールなんだ。
だからこそ、それをこの世で一番に使いこなすことのできる歌の上手い人間は、世界中の人々の心を掴み、世界を動かす、いやこの世界をひっくり返すこともできる力を持つんだ!
できれば僕も、そんな超常的な力を持つシンガーになりたかった!でも、でも、無理なんだ」
思わず考えてもいないことを……いや、ノボルの潜在意識としてあったものが、春子に出逢ったことで勢いよく漏れ出たと言って良いかもしれない。
柄にもなく感情をあらわにしてしまった事に、ノボルは思わず慌てふためいた。
しかし春子はそれに呆れることもなく、聖母のような表情でノボルを見据えていた。
「wunderbar……。私の目に狂いはなかった」
先ほどまでノボルに対して懐疑的であったお付きのボーヤも、ノボルに真摯な眼差しを向けて小さくうなずいた。
「さっき渡した名刺を、見てみて」
そう春子に言われ、ノボルは春子から受け取った"ミュージック・アドバイザー"の名刺にもう一度目を落とした。
するとそれは、先ほどの真っ白で角の立ったビジネス然とした名刺でなく、薄茶がかった古紙のようなしなびた風合いとなっていた。
そして赤黒いインキで、文字ではない何か怪しげな紋様のようなものが描かれていた。
「うわっ!」
その異様な出来事に、ノボルは思わずのけ反った。
しかし改めてその紋様をよく見ると、そこには"音楽"や"悪魔"のような意味があるように思えた。
なぜそんな文字だか模様だかよく分からないものが読めてしまうのか、よく分からない。
よく分からないが、読めてしまうのだ。
この時から、春子とお付きのボーヤが纏う雰囲気が一変した。
まるで漫画表現のような不気味な妖気を纏い、周囲の空気が振動したかのように感じる。
彼女は、ミュージック・アドバイザー雪宮春子は、"音楽の悪魔"なのだとノボルは直感した。
成る程、芸術の女神・ミューズと同じく、自分の信仰する"音楽"の悪魔とはかくも美しいものなのかと、ノボルはひそかに感動していた。
~つづく~