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三、 ミュージック・アドバイザー 雪宮春子

タワレコの入居している新宿フラッグスを出ると、そこは新宿駅南口である。

甲州街道に面したこの歩道は驚くほど広く、そこはストリートミュージシャンのメッカとなっている。

勿論、それらは無許可でのライブ活動であり、警察官がやってきてライブを止める光景もまま目にするのであるが、それでもこんな日本一の乗降客集を誇る新宿駅前の一等地を無駄にする道理もなく、今宵も都会の若き詩人たちが思い思いに歌っているのであった。


アコギを抱えて掻き鳴らす二人組の男性デュオ、

電子キーボードで弾き語る、ソロの女性シンガー、

多くの若い女性に囲まれてカラオケに合わせて歌い踊る、5人組の男性地下アイドルらしきグループ、


本日も多彩な顔触れである。

ノボルは新宿のタワレコに寄った後にこのストリートミュージシャン達をチェックすることもルーティーンとしていたが、これまでに"ここ"で心を動かされたことは一度もなかった。

いずれも有名曲のカバーであったり、オリジナルだとしてもどこかで聞いたような曲であったり、また歌や楽器は上手いのだが、ただ上手いだけの器用貧乏であったりと、そうそうな才能に出会うことは無い。


それもそうであろう、そんな"光るモノ"を持っているのであれば、こんな騒がしい所で警察に怒られることを念頭に置きながらパフォーマンスする必要もなく、とっくにそれなりの"ステージ"に立っているはずである。

そういった意味では、彼らは先ほどのタワーレコードの店内でイベントをしていた地下アイドルよりも、随分と"下"の存在なのだ。


――心の中とはいえそんな悪態を付いてしまう自分を、ノボルは心底嫌になった。

彼らはいずれもノボルと同年代の若者たちである。しかも同じ"音楽"を志す。

ここ新宿駅南口前でパフォーマンスを行えるということは、確実にノボルより度胸も度量も持った"表現者"である。

ノボルはギターの腕前はともかく、歌に関しては確実に"最底辺"の人間だ。

仲間内でカラオケに行くことすら厭うノボルにとって、この場所で不特定多数の観客を前に歌うことなど出来るわけもない。

自分こそが、彼らより更に更に"下"の存在であることに疑の余地はないのだ。

そんな彼らを心の中で批判することで、自分を正当化していたいだけである。

オレは最低な人間であると、ノボルは静かに悔恨した。


その時ふと目をやると、ストリートミュージシャンたちの並びの中に、他とは少し印象の違う表現者がいた。

その女性は痩躯であり、長い黒髪をまっすぐにおろしていた。

年の頃は20代後半くらいであろうか、手足も長く、身体にフィットした白いフリルシャツに黒いロングスカートの、神秘的な空気を纏った女性である。

率直に言うと"美人"だ。


そしてその傍らには11~12歳くらいの小学生の男の子であろうか、半ズボンにブレザー、坊ちゃん刈りスタイルの"いいとこの子"という風情の男子が、無表情に姿勢よく佇んでいた。

その男の子はただのお連れという感じで、演者ではないようである。

およそストリートミュージシャンとしては違和感のある佇まいの二人だ。


そして女性の手には、小ぶりのアコースティック・ギター"Martin 00-45"の、ヴインテ―ジが握られていた。

00-45である。マーチンの00-45を持つストリートミュージシャンなど、初めて観た。

メジャーミュージシャンでも森山良子くらいしか聞いたことがない。

森山良子、所謂『ザワワ』の人である。

そしてその00-45は、ブリッジが全て乳白色であった。つまり、象牙(アイボリー)製なのだ。

通常、アコースティックギターのブリッジにはエボニー等の木材が使われるが、それ以前の高級品には象牙が使用されていた。

確かアイボリーからエボニー・ブリッジへ仕様変更されたのが1918年なので、それ以前に制作されたマーチンのギターということになる。

俗に"プリウォー"(第二次世界大戦よりも前に作られたモデル)と呼ばれる、100年以上前のギターだ。

その今の価値といえば、どうなるのだろう。何百万?いや、4桁万円にまでいくのだろうか……。

ともかく、路上ミュージシャンが使うような楽器ではない。


そして更に異質なのは、彼女の周りには音響機材が全く無いことだった。

ここ新宿南口付近でライブを行うものは、少なからず路上ライブ用の機材を使用していた。

電池で駆動する、マイクやアンプ、ミキサー類の必要最小限の機材である。

稀に、大声が自慢の男性シンガーがデカいアコギをガシャガシャとかき鳴らしながら生声・生音で演奏していることもあるが、この女性はそのようなタイプにも見えない。

ましてや持っているのはスモールボディーのヴィンテージギターである。


女性は絶対音感を持っているのか、チューナーもなしに全ての弦の正確なチューニングを終えると、そのまま00-45を構えた。

そしてその白くて細い指先に、ピックは持たれていなかった。

指弾き(フィンガーピッキング)を行うようだ。

こんな華奢な女性がマイクも無しに、00サイズのギターを指弾きして生音の路上ライブを行う。

ノボルはその極限まで無駄の省かれた立ち姿の美しさに、思わず見惚れてしまった。

自然と回りの通行人らも足を止めたのは無理もないだろう。


そして女性はやおら00-45をつま弾き、歌い始めた。

それはノボルが初めてて聴く知らない曲……だったと思う。

"だったと思う"とうのは、それからのノボルの記憶は、ほぼ消えていたからだ。


宵の口の新宿の雑踏の中でも、彼女の恐ろしく透き通った歌声はくっきりとした輪郭を持って、ノボルの耳に聴こえた。

それは研ぎ澄まされた針の先のように鋭く、耳を通してノボルの心を撃ち抜いたのである。

その瞬間からノボルの耳には街のノイズが消え、女性の歌声とギターの音色のみが聴こえる、真っ白な世界に包まれた。

俗に言う、『ゾーンに入る』とはこのことであろう。

いや、この場合は『ゾーンに入れられた』というのが正しい表現だろうか。

彼女の歌声によりノボルの感覚が極限まで高まり、周囲の雑音や景色を完全にカットし、聴覚のみが研ぎ澄まされたのである。

その間、ノボルの耳には極上の"歌声"と"音楽"という記号だけが届いており、具体的な歌の歌詞やメロディーは全く覚えていなかった。

そして"何か凄まじい音楽を聴いた"、という感覚だけが身体に残ったのだ。


一曲歌い終わると彼女は小さく頭を下げ、そして肩から下げていたマーチンを外して傍らいた少年に渡した。

少年はそのマーチンを地面に置いてある、ギターのハードケースに収め始めた。

※この少年は女性のローディー(ボーヤ)的な役割をしているのである。


足を止めていた聴衆は皆、惜しみない拍手を行った。

「えーもう終わりなんだ」

「もっとやればいいのに」

「名前なんていうんだろ。有名な人?」

そんな声が方々から聞こえた。


『はっ!』

そこで我に返ったノボルは、脱力のあまりその場にへたり込んでしまった。

口からはよだれが垂れている。

もしかして失禁したかもしれないとまで思い焦ったが、それは大丈夫であった。

ともかく、そこまで弛緩していたのである。

そしてふと気づくと周りの聴衆は居なくなっており、あの彼女がノボルの目の前に来ていた。


「大丈夫かしら?」


驚いたノボルは急いでその場で立ち上がり、姿勢を正した。

歌声だけでなく話す声さえも美しいのだな、と思った。


「あ、はい!大丈夫、大丈夫です!」

「急に座り込んだからビックリして」

「いや、すみません!あの、ありきたりな言葉で申し訳ないのですが、すげー良かったです。オレ、感動しました!いやマジで!」


本当にありきたりで陳腐な言葉の羅列に、自分自身が嫌になった。

気の利いた言葉のひとつも出ずに、何のためにこれまで数々の素晴らしい歌詞の曲を聴いてきたのか。こんな時の為ではないのか。

しかし、そんなノボルに彼女は優しく声を掛けた。


「ありがとう、こちらも本当に嬉しいわ。今日の聴衆の中で、あなたが一番私のバイブレーションを受け取ってくれたわね」


その言葉を聞いて、急にノボルの目に涙が溢れ、止めどなく流れ出した。

先ほどまで地下アイドルや他のストリートミュージシャンに対して悪態をついていた自分の醜さに、

そしてあまりの音痴を理由にこれまで何もできずに自己嫌悪に陥っていたノボルにとって、

その美しい声に彩られた言葉はノボルの心を衝いたのであった。


「あらあら」


そう言うと彼女は、ノボルに向かって真っ白な真新しいレースのハンカチを差し出した。


「いえ、大丈夫です」


差し出されたハンカチといえど、オレなんかがこの人の持ち物を穢してはならない。

そう考えたノボルはとっさに断り、また服の袖で涙と鼻水をグシグシと拭いた。


「あら、あなたの手」

「はい?」

「ちょっと両の掌を見せて」

「え、何で……」

「いいから」


この人は何を言っているのだろうと思いながら、ノボルは言われるがままに自分の両手の掌を上に向け、彼女に差し出した。

彼女は細く柔らかいその手で、ノボルの指先を撫でるように触った。

その瞬間、電気が走ったような気がしてノボルは総毛立った。


「いや、汚いですよ!今、涙やら鼻水やらを拭いたばかりでーー」

「やっぱり、あなたもギターを弾くのね」

「えっ」そうノボルは素っ頓狂な声を出した。


「何で……分かるんですか」

「分かるわよ。私と同じアコースティックギターね。しかも、かなり弾き込んでいる。もう何年も、毎日ギターを触らない日は無い程にね」

そしてまた、彼女の指先がノボルの指先をなぜた。


「とても綺麗で、実直な指先ね」


確かに、ギタリスト手は特徴的だ。

左手の親指以外の指先は弦を常に押さえることで固く硬化し、右手の爪もギターをつま弾く為に長く整えられている。

しかし少し触るだけでここまで分かるものなのか。しかも弾いているギターの種類までも。

そして彼女はまだ続けた


「でも……あなたは何か"音楽"の事で深く思い詰めているわね。深刻なほどに」


ノボルは戦慄した。この美しい女の人はどこまで自分のことを見通しているのか。


「どうしてそれを……」

「でなければ、あなたは私と出逢えないもの。そして私の歌を、そこまで素直に受け止めれないもの」


そう不思議な事を語ると、女性の傍らにいたボーヤがノボルの横まで来て名刺を差し出してきた。

ノボルが受け取ると、そこには『ミュージックアドバイザー・雪宮春子』の文字があった。


~つづく~

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