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女は多面体

「お父様、魔界の通貨は何と言うんですか? ドル、ユーロ、それともお金自体ないとか?」


 ザックの執務室で暇を潰していたエスは仕事中の父の背中を見飽き、とうとう口を開く。当時六歳のエスには早い成長だが中身は人間の女子高生だ。ザックもそれを分かった上で執務室に置いている。


「君から見て左から二番目の本棚の右下、歴史書があったはずだ」

「ありがとうございますお父様」


 できれば口頭で、と付け加えるべきだったと後悔するエスは難な分厚い歴史書を見つけ出し、そのまま床で解読に試みる。


「これ普通の本じゃないですよね、わたしじゃ翻訳できません。昔の魔界語ですか?」


 歴史書には確かにエスの読める魔界語が書いてある。しかしザックに構ってもらいたいエスは嘘を覚えた。


「こっちへ持ってきてくれるかい?」


 エスの思惑通りザックは一ページ目から読んでくれる。四ページ目、エスが眠くなり彼の声も入ってこなくなり遮ろうとしたところで答えが出た。


「魔界の通貨は魔王が自由に決められる」


 長々と読んでまさかの答えだ。ザックは本を閉じてエスの頭を撫で、額にキスをする。


「今の通貨はドルラだ。1ドルラ、1ドルくらいかな。あと、大切な本だからちゃんと戻してね」


 エスはすぐに本棚に戻す。しかし心の中ではザックからのキスでいっぱいだった。もうドルラとかドルとかどうでもよい。

 セイカ時代、額へのキスは友情とか尊敬とか、恋愛じゃない意味を持っていたような。単純に考えると娘への愛。でも中身が年頃の人間だと知っているザックがそんなことをするだろうか。それとも癖? だったら嫌だ。

 でもエスは人生で片手でも数えられるほどしかキスをされていない。セイカ時代ではゼロだ。ここに来て何度か継母エルから頰にキスをされたがそんなもんじゃない。


「あの……お父様」


 困ったような顔でザックの机にお尻を乗せるエス。ザックはエスを叩いて机から退ける。


「この机は三万ドルラだ」

「わたしのお尻はそれ以下?」


 エスは懲りることなくまた机に座る。自分のお尻をたかが三百万の作業机なんかに負かすつもりはない。


「エス、勘弁してくれ。仕事が多すぎるんだ。自分の部屋に戻ってアールと魔術の練習でもしといてくれ」


 ザックは書類をエスの下から片付けて席を立つ。やっと遊んでくれるようになったかと思ったのも束の間、エスはザックに抱き抱えられて部屋から追い出された。


「何するんですか!」


 エスはザックの足にしがみつき離れようとしない。エスのせいでバランスを崩したザックは転んでしまい、自慢の高い鼻が折れる音がした。


「あうちっ……」


 起き上がるより先に凄い音で床に叩きつけられた鼻をおさえる。短い人中を血が流れる感覚がしたザックは執務室に戻り引き出しからナプキンを取って鼻に当てる。

 ことの重大さに気づいたエスは父に駆け寄り抱きしめる。


「ごめんなさい……わたしのせいでドクターの努力の賜物を、こんなことに」


 エスは泣きながらザックの顔を見る。


「この鼻は天然だ! そんなことより早くジーを連れてきてくれ」

「え? なぜジーを?」

「ジーは回復魔術が得意だから、早く連れてきてくれ!」


 ザックも涙目になり鼻をおさえる力が強くなる。言われた通りエスは部屋を出て廊下を走ってジーの部屋に向かおうとする。

 しかし一つ問題があった。エスはジーの部屋の場所を知らない。こんな広い屋敷で何階の何番目に誰の部屋があるなんて、六歳の頭脳で覚えられる訳がない。というかまず、ジーの部屋がこの屋敷にあるのかもわからない。今日は会っていないから住み込みじゃないとすると彼の家まで走ることになる。ってかジーの家って何? そんなのあるの? 馬車が必要じゃない?


「お父様、ジーどこ?」


 エスは部屋に戻るなり申し訳なさそうにザックに尋ねる。ザックは信じられないと言いたげな顔をしてエスを見つめる。そして鼻血が垂れ、叫ぶ。


「隣の部屋だ! 早く!」



「はい、これで大丈夫ですよ。しばらくは安静にしたほうがいいですね。次は折れるだけじゃないかも……何があったか聞いて良いですか?」


 ジーは金の目を細めた。エスも自分の非を言われるのではと眉を下げながらザックを見る。


「エスに掴まれてバランスを崩して倒れたんだ。子どもに倒された私を笑うぐらいならエスを叱ってくれ。私はもう休む」


 ザックは二人を睨んで寝台に上がる。寝台のカーテンをジーに閉めてもらってるところにエスが割り込む。ジーは驚きザックは困惑する。


「お父様、休憩される前にさっきの話しても良いですか?」


 柔らかいマットレスに足を踏み入れ、エスはザックの上に乗る。ジーはエスをベッドから退かそうと手を伸ばすがザックが制して結局部屋から出ていく。


「いいよ、話して」


 執務中に話されると邪魔だが、寝る前に子守唄として話を聞けば邪魔じゃない。そんなことをうっすら考えながら隣に来たエスに腕枕をする。


「んっ」


 初めて腕枕をされたエスは居心地の悪さを感じた。太くも細くもない腕の上でポジションを探すもどの体制も良いとは言い難い。寝る向きを変えても上下に動いても。

 話さず動き続けるエスにザックは苛立ちを覚え、彼女の頭の下から腕を退かして背をむけ目を閉じる。


「お父様? 眠っちゃうのですか?」

「眠るまで耳は聞こえてるから話していいよ」


 エスはザックの背中に抱きついて話し始める。


「わたし、こんなに優しくキスされたの初めてです。前は家族ぐるみの婚約者がいたんですけど、手を繋いだこともなくて。なんなら彼からは嫌われてて。周りは怖い男の人ばっかだったし。叔父さんにも……よく暴力振るわれてて」


 ザックからの返事はない。寝てしまったのだろうか。エスは諦めてベッドから降りようとした。


「叔父から? 神崎かんざき寿二郎じゅうじろうに?」


 エスは固まる。


「なぜ叔父さんの名前を知ってるんですか? 叔父さんと知り合いなんですか?」


 振り返り、ザックの胸ぐらを掴んで馬乗りになる。小さい子ども相手とはいえ急な事にザックは驚いて息をのむ。


「あ……いや。言ってみただけだ」


 ザックは目を逸らして口に出したことを酷く後悔した。ザックに完全にまたがったエスは過去受けた彼からの暴力を嫌でも思い出してしまい、手の震えを感じた。


「エス、ごめん。魔王の書類にそいつの名前があっただけだ、知り合いなんかじゃない。……今日はこのままここで寝ろ。隣にいるから」


 ザックは震えるエスを抱いて横に寝かせる。


「ここは魔界、あいつは来れやしないさ」

「そう、ですよね」


 エスの耳元で囁いた後、頬にキスをしようとしたが止めてザックも横になる。静かに涙を拭くエスが眠るまでザックは子守唄を歌う。


「こんばんは、おやすみなさい、悪魔たちに見守られて、夢の中で彼らは見せるだろう、君の親しい人の死を、この上なく幸せにそして心地よく眠りなさい、君のみたことがない地獄の夢を見なさい」


 魔界の子守唄なのか、替え歌なのか。歌のせいで余計に怖くなってしまい、ザックが寝た後も一睡もできなかった六歳のエスであった。

次回 悩み多き子供たち

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