八十八話 激戦と影と
凍てつくような南部の冬。
分厚い雲に隠された太陽は、まだ頭上にのぼり切ってはいなかった。
背筋の凍るような風と共に、爆風が霜の立った大地を吹き飛ばした。
爆心地にいた王国兵士たちの体が、人形遊びに使われるおもちゃのように宙に舞うと、不快な音を立てて散らばった。
シトラスいま、四門の南――アップルトン家を中心とする反乱軍との最前線にいた。
『勇者を侮るな! 彼の勇者は近接特化であるッ! 距離をとって攻撃せよ! 撃てッーー!!』
少し離れたところで指示を出す敵の将校の声。
「おー、おー。言われてん、なッ、シトッ」
近くに着弾した砲撃に巻き上げられた地面が、塹壕に隠れるシトラスとミュールを襲う。
二人は弾幕が止んだ隙に、塹壕から微かに顔を覗かせる。
敵の位置を把握すると、素早く顔を引っ込めた。
「メアリーとクリスのいる左翼は大丈夫かな?」
「さあな? 俺たち右翼よりかはましなことを祈ろう」
見合わせた二人の顔は、土ぼこれに汚れていた。
その下には寒さで赤く染まった肌がかすかに見える。
「この一週間よく耐えた方だろ。俺たちがいなかったら、一日目に抜かれていた自信があるぜ?」
そうニヒルに笑うミュールに、シトラスも釣られて歯を見せる。
そこに中央から一人の兵士が身を屈めて走り寄ってきた。
「ほ、本部より伝令ッ! 中央危険ッ! 勇者様は急ぎ中央の援軍へッ!」
伝令は敵の攻勢に掻き消されないように、二人へ顔を寄せると、叫ぶようにその伝令の内容を伝えた。
ミュールが伝令の内容に顔を顰め、
「おいおい、またかよ。ちっ。後詰はどうなっているんだ?」
「言っても仕方ないよミュール。男爵にも余力はないんだ。ぼくたちがこうして間に都市の民の避難誘導してくれていると思えば」
それをシトラスが宥める。
ミュールは、
「……約束通り、避難させていればいいんだけどな」
この最前線に来る前に、このあたりは一帯を治める男爵は、
『時間を稼いで頂ければ、その間に民を逃がします! 勇者様! 何卒我らをお救いください……』
そう言って膝をついてシトラスに前線への参戦を頼み込んでいた。
「その話はあとッ! 行くよッ!」
シトラスが塹壕を駆け出すと、ミュールもそれに従う。
ほどなくして中央へとたどり着いた二人が目にしたのは、総崩れになった中央戦線であった。
南部兵士たちが既に塹壕に入り込んでおり、乱戦状態である。
王国軍の指揮系統は分断され、塹壕にいる兵士たち個人で奮戦している。
「ミュールッ!」
「あいよッ!」
シトラスの掛け声に反応して、ミュールが雷魔法で道を開く。
学園を卒業してから、実地で磨き上げてきた雷魔法は戦士のそれであった。
二人の視界の先で、王国兵士に刃を振り下ろそうとしていた兵士が次々に無力化されていく。
抵抗を奪うという点で、雷魔法は使い勝手が良かった。
ミュールが開いた道をシトラスが駆け、手にした”王道の剣”でミュールが討ち漏らした南部兵士の意識を狩る。
シトラスの愛剣である”王道の剣”は実に素直な魔剣である。
ひとたび魔力を流せば、岩さえも切り裂くその切れ味に、衰えない輝き。
しかし、魔力を流さなければ、なまくらもいいところで、鋼の塊である。
魔力に反応して浮かび上がる木目状の模様が、今はそのなりを潜め、鈍器として敵を蹂躙していた。
一通りの南部兵士を無力化すると、シトラスは土煙の舞う最前線に視線を送る。
あちらこちらで魔法と思しき光や、剣戟、銃声が聞こえる。
どうやら完全に抜かれたわけではないようだ。
それでも最前線が既に敵を食い止めることはできない。
「もう中央の崩壊は時間の問題だ」
「あぁ、中央が総崩れになってしまえば両翼も瞬く間に崩壊する。そうなったらもう立て直せねぇ」
シトラスはしゃがみ込むと近くで震えていた兵士に尋ねる。
「この前線の指揮官はどこ?」
「た、隊長なら、ぜ、前線に――」
大地を揺らすようなひときわ激しい轟音が響いた。
『敵将討ち取ったりぃぃいいい!!』
野太い声と共に、沸き立つ歓声が聞こえる。
その歓声とこれまで状況から、王国側が南部将校を討ち取ったと思い込むほどの希望は欠片ほどもなかった。
それは眼前の兵士も同じなのであろう。
ただでさえ悪かった顔色がさらに悪くなる。
シトラスは何も聞こえなかったことにした。
「――よし。副隊長は?」
兵士は震える手をもちあげると、シトラスの背後を指差した。
そこには頭を打ち抜かれた一人の兵士が力なく横たわっていた。
その目には光はなく、その体からは生きた魔力を感じない。
「うわあああああッ!!」
恐慌状態に陥った兵士は立ち上がると、塹壕から出て後方へと逃げ出す。
敵前逃亡である。
塹壕から出てその背中を晒した兵士の頭を、一発の弾丸が打ち抜いた。
シトラスとミュールは目を見張ると、いっそうその身を伏せた。
「南には相当腕のいい狙撃手がいるみたいだね」
「ここからどうする?」
「……ここを放棄しよう。中央の指揮系統が崩壊した以上、ここでの抗戦はいたずらに犠牲者を増やすだけだ」
「南部の兵士はどうする? 撤退します。はいそうですか、って逃がしてはくれないだろう」
シトラスはミュールを真っ直ぐに見つめた。
「ぼくが殿を務める」
ミュールは肩を竦めると、
「言うと思ったぜ――最後まで付き合うぜ」
「頼りにしているよ」
シトラスはいたずらっぽく笑った。
シトラスの握る剣に、木目状の模様が浮かび上がる。
ここからは手心を加えることができる状況ではない。
死ぬ気で挑まなければならない。
さもなくば待ち受けているものは――死。
シトラス大きく息を吸い込むと、
「みんなッ! これより王国軍はこの前線を放棄して、都市にて再度陣を立て直すッ! 今は生き残ることを優先してッ! 殿はぼく”希望の勇者”が受け持つッ!」
声を張り上げた。
悲壮な顔で最期のときを待つ兵士たちに、
「さあ! 行ってッ!」
その言葉と共に最前線へと駆け出す。
王国軍の退却を告げる銅鑼の音がその背中を追いかけてきた。
最前線は混戦をきわめていた。
そこに一陣の風。
戦況の流れすら変えてしまう存在――それこそ勇者。
魔力を流した剣はその剣の長さを越えて暴力をまき散らす。
「さぁみんなッ! 逃げるが勝ちだッ! ここはぼくたちが受け持つッ! 行ってッ!」
剣を振るうと、駆け寄ってきた南部兵士をまとめて薙ぎ払った。
シトラスの指示を受けて、最前線にいた王国軍の兵士たちはじわりじわりと後ろに下がり、やがて背を向けて走る。
南部の将校であろうひときわ立派な軍服に身を包んだ男が、
「勇者を殺せえええぇぇぇ!!」
その号令に従い、最前線にいた南部の兵士がシトラスへと殺到した。
それを後方で見ていたミュールは、
「それで、はいそうですか、って親友がやられるのを見過ごす俺じゃねぇんだ。<雷鳥比翼>」
両手を頭上に掲げ、溜めていた魔法を開放した。
――金色に輝く鳥。
雷魔法で作り上げた人の倍ほどの大きさの雷鳥が、空気を切り裂いた。
「――その鳥は雷そのものだ」
シトラスを囲んでいた左翼を貫いた。
雷鳥は一人の兵士にあたって終わりではない。
その背後、さらにはその背後いる兵士たちまでをも貫いた。
瞬く間にシトラスを取り囲んだ左翼が機能不全に陥る。
ミュールの援護に南部将校が忌々しく顔を歪めている間にも、シトラスは囲みを薙ぎ払っていく。
最前線の兵士は領軍と呼ばれる各領主の私兵。
その出自は領地でただその生まれただけの只人である。
彼らのほとんどが強化魔法一つまともに使えない。
魔法学園の生徒なら誰でも使える初歩的な照明魔法でさえ、領軍では重宝されるほどである
もはやそれは互いが命を賭け合う戦闘ではなく、一方的な蹂躙であった。
囲みの右翼――シトラスたちから見て左側でも動きがあった。
人が宙へと舞っていた。
そこでは南部の兵士たちはシトラス以上の激しい攻撃に晒されていた。
メアリーである。
彼女が囲みに喰らいついたのだ。
シトラスが喰い破る中央でキラリと何かが光った。
――狙撃手かッ!?
塹壕からその光に気がついたミュール。
しかし、その手が雷魔法を放つより早く、味方の狙撃がそれを打ち抜いた。
ミュールがほっと胸を撫で下ろし左を見ると、
「援護射撃は私とあなたでがんばりましょう」
相変わらずの黒い目隠しをつけたまま、普段通りの落ち着きでクリスがそう言った。
最初の囲みを退けると、相手の将校も無駄を悟ったのか一定の距離を取り始めた。
退けたとは言ってもそれは魔法の使えない領軍の兵士たち。
魔法を使える近衛兵たちはまだその姿が見えない。
彼ら相手では例え援護があったとしても苦戦は免れない。
シトラスとメアリーが合流する。
後方の塹壕ではミュールとクリスも合流を果たした。
「うぬぅ……! 敵はたった四人だ! 者どもかかれッーー!」
将校の号令の下で再び攻勢が始まった。
周囲に王国兵士がいなくなったことを確認すると、シトラスとメアリーは後ろに下がりながら南部の兵士を迎え撃つ。
それを後方からミュールとクリスが援護する。
南部の兵士は及び腰であった。
中には塹壕へと回り込もうとする兵士も現れたが、そのことごとくが戦闘不能に追い込まれていた。
ミュールが声を張り上げる。
「シトッ! 十分だッ! 俺たちも下がるぞッ!」
「わかったッ! メアリーッ! 退くよッ!」
シトラスはひと際大きな魔力による斬撃を、囲みの最前列の眼前の地面に打ち込む。
周囲は斬撃によって巻き上げられた土煙に覆われた。
その隙に四人は魔法で強化した健脚をもって前線から後退するのであった。
◇
「こ、れは……」
シトラスたちが駆けて戻った子爵が治める小都市。
都市に戻った四人の間に待ち受けていたのは、
「お帰りなさい勇者さま。大丈夫だすか?」
「あ! ゆうしゃさまだ! ゆうしゃさまー!!」
シトラスがこの都市と発った時と変わらぬ、素朴な都市に住まう心優しい住民たちであった。
「どうして、みんな、まだ、ここに……? 子爵から何も聞いていないの?」
「勇者様は何を言ってるんだが? もちろん子爵様から聞きましただ――勇者様が反乱軍を鎮圧したんだと」
――なん、だって……?
シトラスは言葉を失った。
他の面々も言わずもがなである。
シトラスたちの心情も露知らずに集った都市の住民たち。
吞気とも言えるぐらいに場違いな言葉をかける。
「いやあ、勇者様には頭があがらないですだ」
「ほんに。つい昨日返ってきた兵士のみんなもだな」
「みんなようやっただ」
「んだんだ――」
――よくやった?
シトラスだけではなく、他の面々にも頭を下げて言葉をかける住民たち。
楽観的な住民に反して、状況は絶望的であった
――まだ何も終わっていないと言うのにッ!
遅くても明日には、早ければ今日中にでも南部の兵士たちはこの都市に迫るだろう。
都市の外敵を迎え撃つどころか、戦が終わっていると思っている彼らの下へと。
シトラスは集った住民たちへ断りを入れると、小走りになって領主の館を目指した。
屋敷に預けていたジェーンも心配だが、それよりも今はこの都市の統治者である子爵である。
隣を歩くミュールが、
「おい、どうする? とりあえず一発ぶん殴るか?」
拳を顔の前に掲げる。
シトラスは、
「……気持ちはわかるけど――本当にわかるけど、今はその時間すらも惜しい」
下唇を噛み締めた。
後ろを歩くクリスが、
「どうされますか? 迎え撃ちますか、放棄しますか」
「もう、降伏しかない。男爵に降伏させるしかない」
――都市がこうも一戦も交えずに降伏するのであれば、最前線で散って逝った者たちの魂の意味は。
都市の中央に位置する領主の館へと乗り込む。
屋敷の前の広場には前線から戻ってきた者たちで満ちていた。
人も馬も疲労困憊である。
シトラスは広場を横切り、屋敷へと乗り込んだ。
胸にこみ上げる気持ちに比例して、大きな歩幅でずんずんと進む。
子爵の執務室の扉は開け放たれていた。
無礼を承知で、ノックもせずに子爵の部屋へと入る。
そこに子爵はいなかった。
そこいたのは三人。
前線から生き残った将校の一人。
子爵から僅かばかりの兵と共に都市の防衛を任されていた者。
それに屋敷の侍従。
将校が防衛指揮官と侍従を怒声と共に詰め寄っていた。
「――だから、子爵の所在がわからないとはどういうことだと聞いている! 子爵と都市を守るのがお前たちの仕事だろッ!」
「俺たちも何回も言っているだろッ! 知らないものは知らないんだって!」
「それで納得できると思ってんのかッ! 前線で何人死んだと思っているんだッ!」
侍従の女性は二人の怒声に挟まれて泣いていた。
足を踏み入れるや否や、シトラスは面食らった。
自分より感情が高ぶっている人間を見ると、人は冷静になるものである。
まさに今がその状況であった。
しかし、固まってはいられない。
「ちょっと話を――」
「――見てわからないかッ!? 今は取り込み中だッーーあっ、ゆ、勇者様ッ! し、失礼しましたッ!」
怒鳴り声と共に振り返った将校だが、その矛先を向けたのがシトラスだと気がつくと顔を青くして頭を下げる。
勇者一行は戦場の最前線の功労者である。
最後は数名ばかりの仲間と共に殿を務めて、軍の崩壊を防いだ勇者一行は彼らにとって既に英雄である。
「謝罪はいいから。何が起きているのかだけ教えて?」
三人の話をまとめると――子爵が逃げた。
この都市を治める子爵は、僅かな供回りと共に都市を後にしていた。
名目上は個人的な伝手を辿って増援を呼ぶ、という名目で。
侍従曰く、子爵だけでなく、その家族も随行したということである。
その際に、屋敷の目ぼしい金品を持って。
防衛指揮官がその理由を尋ねると、
『貴族の世界は情ではなく利で動く。先祖代々築き上げたこれらの金品が彼らを動かす利となる』
指揮官も思うところはあったが、それ以上は口を挟むことができなかった。
「子爵は帰ってくると思う?」
シトラスは振り返って、仲間に尋ねると、
「思わない」
「思いませんわ」
「ない」
揃って否定の意を示した。
ですよねー、とシトラスは再び正面を向くと、
「それじゃあ今この都市は誰の意思決定で動いているの?」
結論は、誰もいなかった。
この都市は誰の意思決定の下でも動いていなかった。死んでいた。
死んでいたことにすら気がつかず、都市は回っていた。
緩やかな市の気配と共に。
そして、今ようやくその体に異変が起きたことに気がついたのだ。
シトラスは深呼吸をした。
「ぼくは子爵へ降伏を進言しに来た――異論はある?」
◇
その翌日、アップトン家の精鋭たちが都市へと押し寄せた。
使者を送った後に、ウオックへ跨るとシトラスは勇者一行だけを護衛につれて都市の前方に展開しているアップルトン家の陣営に乗り込んだ。
ジェーンはシトラスの言いつけで馬車の中で待機している。
本当は都市に置いていく予定だったが、一週間ぶりに会うシトラスから離れたくないとごねた結果の折衷案であった。
そこで待ち構えていたのは、
「シトラス。こういう形では再会したくはなかったが、久しぶりだな」
左右に精悍な護衛を従えたエステル・アップルトンが椅子に座って待ち構えていた。
四門の南――アップルトン家の次期当主が直々に軍を率いていた。
対面に用意された席を進められて、シトラスが座る。
シトラスは少し頬を緩めると、
「エステル。久しぶりだね。君が軍を率いていたんだね」
「今いる直轄軍だけだ。先に当たったのは私ではない」
「エステルが指揮していたらぼくはここにいなかったかもしれないね」
「世辞はよせ」
エステルの表情も幾分か柔らかいものになる。
エステルは口元を引き締めると、
「早速だが本題に入ろう。先に来た使者から降伏の話は聞いた。私たちとしてもいらぬ血を流さずに済むのであればそれにこしたとはない」
それを聞いて後ろに控えてたミュールとクリスも胸をなでおろす。
それからシトラスはクリスと降伏の条件と、降伏後の都市の扱いについて話し合った。
話し合いとは言っても都市の降伏は無条件に近いもの。
シトラスから要求することと言えば、降伏後の兵士と住民の身分の保証ぐらいなものである。
「――最後にシトラス。お前の――勇者の処遇についてだが」
エステルの言葉に緊張した空気が流れる。
言葉を交わしている当人たちより、双方の護衛が視線を飛ばしあう。
これまでにぶつかってきた平民で構成された領軍の兵士とは異なり、今この場にいるのは四門の近衛兵。
学園の卒業生も多く、漏れなく魔法が使える一流の戦士たちである。
勇者一行とは言えど、ぶつかれば無事では済まない。
その室内の気配に気がついたエステルは苦笑いを零すと、
「ミュール。それに聖女も安心していい。何もしないよ。お前たちもそう殺気立つな」
ミュールとクリスはそれぞれの得物に伸びた手を戻した。
「ただ交付調印後の都市への滞在は認めない――これがアップルトン家の意思だ。すまないな、私たちには南の旗頭としての立場がある。王国の象徴である勇者や聖女と繋がっていると噂されることは望ましくない」
シトラスは首を振って、
「ううん。十分だよ。血が流れないだけで……」
そう言うと二人の間に弛緩した空気が流れる。
護衛たちの張り詰めていた空気も二人の空気に触発されて幾分か和らぐ。
「男爵は見つけ次第こちらで処分しても構わないな?」
「いいよ。好きにしちゃって」
世間話のように出された男爵の殊遇については、両手の拳を顎の前で握りしめて、何かを殴るように右の拳を前に突き出した。
そのコミカルな仕草にエステルの顔から素の笑顔が浮かんだ。
「話はこんなところかな?」
シトラスがそう言うと、
「話はこんなところだな」
エステルは言葉を返すと共に、立ち上がり手を差し出した。
シトラスは差し出された手を見つめると、笑みを浮かべたその手を取った。
その次の瞬間――
――ナガカッタ。
シトラスの脳裏に重苦しい声が聞こえた。
思わず握りしめた手に力が入った。
「どうかしたのか?」
何かを感じ取ったのか、エステルは怪訝な顔でシトラスを見つめた。
「……今の、聞こえた?」
「すまないが、何の話だ?」
シトラスはその瞳を見つめ返すが、眉をひそめるエステルの表情は嘘を言っているようには見えなかった。その魔力にも揺らぎはない。
嘘を吐いている人というのは、その後ろめたさから魔力に特有の揺らぎがでる。
顔の表情はつくろえても、魔力まではつくろえない。
しかし、魔力視の魔眼で視えるのはこれまでと特に変わらない落ち着いた揺らぎ。
「ううん、ごめん。ちょっと疲れが溜まっているみたい」
考えすぎかと、シトラスはゆっくりとその手を離した。
具体的な調印作業は明日、都市で行うことを決めるとシトラスたちは天幕を後にした。
ジェーンが待つ馬車へと戻る勇者一行。
ミュールが後頭部の後ろで手を組むと、
「あーあ、にしても王国は連戦連敗だな。俺たちがいて辛うじてこれだぜ?」
歩きながら口を開く。
勇者一行が西から南へ移動する間に訪れた村々。
王国の管轄下の彼らの状況も芳しくはなかった。
反乱軍に押収されるか、王国軍に徴収されるか。
いずれにしても村人にとっては碌な結果ではなかった。
クリスは浮かない表情で、
「景気の良い噂は聞きませんね。これで蜂起の始まった北に続き、西と南に対しても、王家は影響力を失いました。残るは東だけですね」
西はペパーミント伯爵が治める都市が。
南は逃走した子爵が治める都市がその地域における中心都市。
元々王家は地上にはあまり領地を持たない。
重要な要所だけを直轄領として持つことで、地方に睨みを利かせていた。
「最後は東か。何か因縁めいたものを感じるな」
ミュールはそう言うと息を吐いた。
シトラスとミュール、それにメアリーの出身は東である。
「王国の北南に流れる大河――マグナム川のおかげで、東の戦線は膠着状態にあるとは聞いています」
「裏を返せば、マグナム川より向こうは全部やられたってことか」
ミュールはクリスからの情報に、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。
暗くなりそうな雰囲気を払拭するように、
「それでも行くしかないよ。これはぼくたちにしかできないんだ」
シトラスがそう言い切った。
「そうか、そうだよな。これまで通り俺たちは俺たちにできることをやるだけだ」
「そうですね。がんばりましょう」
シトラスの発言で二人の表情が晴れる。
これまで黙っていたメアリーであったが、
「王様をサクッとした方が簡単」
これまでの空気をぶち壊す発言を放り込んだ。
「おい」
「私が一番乗りでよろしいでしょうか?」
「やめろやめろ。クリスが言うとシャレにならん」
「じゃあ、私」
「お前は本当にやりかねないな、やめろよ? 本当にやめろよ?」
シトラスは三人のやり取りにクスリと笑みを零すと、
「そこまで言うと、逆に推奨しているように聞こえるね」
「ばかッ、シト。お前が止めるんだよ」
ミュールがシトラスの肩を軽く叩いた。
困難な道はまだ続く。
だが、友とならば、仲間とならば、その苦難の道も乗り越えられるかもしれない。
シトラスの馬車の段差に足をかけると、キャビンの扉を開いた。
すると、
「パパッ!」
笑顔のジェーンが飛び込んでくる。
倒れそうになるシトラスを、メアリーとミュールが後ろから支える。
それを「あらあら」とクリスが微笑みながら眺めている。
少なくとも戦に関係のない、無邪気な民の笑顔は守りたい。
シトラスはいま一度強くそう願うのであった。




