何かが狂ってる
昔々あるところに、良い神様と悪い神様がおりました。
二人の神様はとても仲良しで…
え、なんで仲が良いのかって?
そりゃやっぱ気が合うからでしょ。
仲の良し悪しに理由なんてありませんよ。
そもそも善悪なんて人間が勝手に決めた区分だから、神様の知ったこっちゃござーせん。
ともかく二人はとても仲睦まじく、「もう人間なんてメンドいモンはこの際滅ぼして、自分たちだけの新しい世界作っちゃう?」などと嘯く始末。
ホラ、良い神様なんていっても所詮はこんなもんですよ。
良い人と呼ばれる人に善人なんている訳ござーせん。いい加減気づけやポケ♪
そんなある日…なんと、悪い神様が人間に倒されてしまいました。
人間やればデキルもんですが、だからって何でもすりゃいいってもんじゃござーせんよまったく。
ホラ、良い神様すっかり激オコ。
さっそく倒した人間を半殺しにし、なんで倒したのかと訊いてみれば「悪い神様だから悪いってエライ人が言ってたから」と。
なのでそのエライ人の家族もろとも全殺しにして同じ質問をすれば「もっとエライ人がそう言ってたから」と。
なもんでもっとエライ人やもっともっとエライ人、いちばんエライ人をまとめて火炙りにして問いただしたら「ネットにそう書いてあった」などと訳わからんことを言い出す始末。
もっと自主性を身につけたほうが良かったねコイツら。まあ死んじゃったらもう反省できないけど。
結局、誰がどう悪いのか判らなくなった神様は、もう人間なんてすべて悪いから仕方ないやと決めつけてブッコロ。
でもその寸前で、倒された悪い神様が死に際に言いました。「人間はまだ未熟なだけだから、もうちょい待ってやってくんねーか?」と。
嗚呼なんたるお人好し。やっぱアンタいい神様だよ、良い神様よりも。良い人から死んでくんだよやっぱ。
その時点で良い神様はとっくに大半の人間を滅ぼしちゃってましたが、お前がそこまで言うならと全滅は待ってやることにしました。
そんだけの頭数でやれるもんならやってみな的な嫌がらせですな。やっぱコイツ悪い神様だよ悪い神様よりも…てかもう訳わからんし。
とにかく良い神様は、いずれ悪い神様が復活するその日まで、人間などというくだらない存在を見守りながら気長に待つことにしました。
…これから始まるお話は、そんな壮大なスケールの物語の後の、ほんの些細なお話です。
◇
雲一つない青空の下。
いまどき木造の年代物な駅舎がぽつんと佇む。
そこを出た二人の前には、見渡す限りの田園風景が広がっていた。
駅の前を横切るひび割れたアスファルトの道路は、右を向いても左を向いてもひたすらまっすぐに延び、信号機や交差点は確認できない。
振り返れば、今しがた出てきたばかりの駅舎の奥に、錆だらけの線路がこれまた果てしなく横たわっていた。
辺りには人影はおろか、車も民家も何一つなく、恐ろしいほどの静寂ぶりだ。
「…マジか…」
二人のうちの片方、久城陽子は呆れ果てて思わず呟いた。
モデルのようにスラリと伸びた体軀をパンツスタイルのリクルートスーツで包んだ彼女は、癖毛気味の黒いセミロングヘアをそよ風に躍らせている。
「田舎だって聞いちゃいたけど…こりゃヤバすぎるだろ」
真っ黒なサングラスに覆い隠されて顔はよく見えないものの、放心状態で立ち尽くすその様子からは、この土地への落胆ぶりがありありと窺える。
都会生活に慣れ親しんだ彼女にとって、此処はもはや異国の秘境にも等しい。できれば一生訪れたくはなかったほどだ。
「…この場所…けっこう…好きかも」
二人のもう一方、久城月乃がぼそぼそ呟く。
こちらはサングラスはかけておらず、出会った人が皆、声を揃えて美人と言わしめるレベルの清楚な素顔を見せている。
だが、綺麗なその顔には表情が乏しく、感情がいまいち窺えない。
名前からも判る通り、二人は姉妹だった。
先ほどの陽子が姉で、こちらの月乃が妹である。
従って月乃も姉と同様の黒髪だが、こちらは生まれてから一度も切ったことがないのではと疑うほどに長い長いストレートヘア。髪の量が多すぎて重いためか、たなびき方までもが控えめで大人しい。
彼女について特筆すべきは、ごく普通な肌質の姉とは違い、まさに透き通るように白いその肌色だ。綺麗といえば綺麗なのだが、生まれてから一度も日に焼けたことが無いような病的な印象で、さらには純白のワンピース姿であることも相まって、遠目に見ればまるで幽霊だ。
「そっか。お前が気に入ったんなら、はるばる来た甲斐があったかもな」
先ほどの月乃の感想に、散々愚痴った自身の意見をあっさり覆して、陽子は優しく微笑む。そして「よしよし」とばかりに妹の頭をポンポン撫でると、月乃はほんのわずかに目を細めて俯いた。
他人にはまったく違いが判らないが、陽子にはそれが妹の照れ笑いだとわかった。そんな彼女たちの様子からは、姉の妹への溺愛ぶりと、姉妹の仲むつまじさがありありと窺える。
「さて、どーしたもんかな〜これから? ここまで見事に何もねー処だとは思わなかったし…」
「…お散歩。」
またもぼそりと答えた月乃に、陽子は一瞬遅れて「え゛っ!?」と仰天した。それが妹が放った言葉とは到底思えなかったからだ。
「さ、散歩ってお前、今までろくに家から出たこと無かったじゃねーか?」
とはいえいわゆる引きこもりという訳ではなく、単に虚弱体質で外出を控えていただけだが、それでも月乃が自らそんな提案をするなどあり得ないことだった。
そんな姉を安心させようとしてか、月乃はふるふると首を振って、
「大丈夫。ここに来てから…なんか調子いい。
それに…新しいお家、ここから…すぐ近く」
懐から取り出したスマホの画面に地図アプリを表示させ、陽子の眼前に差し出した。
なるほど、たしかにここから徒歩で行ける範囲内に街があり、自分たちの新居もピンで表示されている。
駅に着くまでの間、電車内でなにやら一心不乱に調べ物をしていると思ったら、周辺情報を検索していたらしい。
「マジかよ、なんっも見えねーぞ!?」
慌ててサングラスを外し、周囲をぐるりと見回す陽子の素顔が、初めて白日の下に晒された。
その顔は月乃に瓜二つ。
…そう、二人は双子だった。
となれば必然的にこちらも妹のように、よくよく見れば美人っちゃあ〜美人なわけだが…
よくよく見ることさえ出来ない理由があった。
単刀直入に言ってしまえば…『コワイ』。
グラサンの下から覗いた陽子の荒ぶる眼は、見る者すべてを凍てつかせるほどに鋭い。
これで『陽』子とは、名前負けにも程がある。
万が一にもよくよく見ようとして迂闊に目がカチ合えば、「てんっめぇ何ガンたれてんだよア゛アッ?」などと絡まれかねない。そして陽子は実際に絡む。
挙句ついたあだ名が『不視美人』。嗚呼なんたる皮肉。
そんな目付きの悪さを自分でも気にしている陽子は、公の場に出るときにはサングラスを愛用している。
だが乱暴な口のきき方も相まって、ますますガラが悪くなっているのは否めない。
加えて、こんなど田舎には不似合いなスーツなんて着てるものだから、もはやどこから見ても非合法組織の工作員である。
…閑話休題。
結局、目視では何も発見できなかったが、「ネット情報に間違いはない」という月乃の意見に引き下がらざるを得ない陽子だった。
「近所に…スーパーもある。お買い物も…して、先にお家で…待ってる」
なんと、はじめてのお使いまでこなすつもりだ。妹の劇的な進化に、胸に熱いものが込み上げる陽子だった。
(※月乃はとっくに成人してます)
「…くれぐれも無理はすんなよ? やっと体が治ったばっかなんだしさ」
と心配そうに気遣う姉に、
「わかって…る。…姉さん…は?」
と月乃が問い返すと、
「なら、あたしはとりあえず、職場に顔出してくるよ。たしか此処からでも見えるって言ってたんだが…」
姉は背伸びをするように再び周囲を見渡し…やがて一点に目をとめた。
そこにあるのは…何もない田園風景の中で一際異彩を放つ、小高い丘。
ここから小一時間はかかりそうな道程のその丘の上に、瀟洒な洋館が建っているのにようやく気付いた彼女の口から、
「もしかしなくても…アレか? マジかよ…」
と本日何度目かの溜息が漏れ出た。
しかしいまさら後には引けない。どのみち彼女は、明日から毎日あそこに通うことになるのだから。
だが、しかし。
繰り返すが、ここは絵に描いたようなど田舎。
駅前だというのに人っ子一人通らす、タクシーを捕まえることもままならない地域である。
さらには、バス停の類も見当たらない。
ということは…通行手段は必然的に徒歩のみに限られる。
「マジか…なんつートコだよ」
どうにもならない定めを前に、ガックリと項垂れた。
◇
そもそも、この姉妹が何故こんなど田舎を訪れるハメになったのか?
その説明には、今からしばらく前…
彼女達の誕生日に時を戻さねばなるまい。
めでたい祝いの席だというのに、ケーキも豪華料理も並べられてはいないテーブルの上に…
おもむろに両親が広げたのは、驚愕すべき贈り物だった。
それは、たった一枚の紙切れ。
その先頭には、こんな活字が大きく記されていた。
『 離 婚 届 』
「…あ?」
「見ての通りです」
予想外の事態に目が点になる姉妹に、両親は申し訳なさそうに告げた。
「マジか…。てゆーか、コレの内容は誰でも理解できるんだよ。どーしてそーなったのかって過程を訊いてんだよ!」
「お金がなくなりました。なので別れて夜逃げします」
これ以上ないほど明快な回答だった。
陽子たちの家は代々、とある事業を営んでいた。
業務内容については、幼い頃に両親に訊いてみたが、話が難しくてサッパリ理解できず…
大きくなってから独自に調べてみたりしたが、やはり何が何やらサッパリ実態が飲み込めず、そのうち興味を失った。
なので姉妹はいまだに何も知らない。
それほど有名でも、大企業というわけでもなかったが、業績はおおむね良好、収入もそれなりだったおかげで、人並み以上の恵まれた生活が送れていた…最初のうちは。
だが、月乃が病に倒れた頃から次第に経営状況が悪化し…先日ついに事業を清算したばかりだった。
月乃の治療費も相当なものではあったが、それ以上にあらゆる状況がどうにもならない方向に傾いていき、気がついた頃には何もかもが手遅れだった。
「だから月乃が悪いワケじゃないし、これも時代の流れというものさ…」と両親は力なく笑ってみせた。
「お金がないので子供二人は養えません。なので連れて行けるのは月乃だけです」
「ちょい待ち。あたしは?」
輪をかけて予想外な回答に、おかしいだろ!?と詰め寄る姉に、両親はしれっと、
「陽子、お前はこないだ免許取れたんだろ? ならもう自立しなさい」
「くっ…」
おかしな話の切り出し方をした割には、極めて正論を放つ両親に、陽子は一瞬たじろぎ、
「…知ってるか? 免許があるだけじゃ食えねーんだぜ? あたしゃまだどこにも勤められてねーんだが?」
「じゃあ見つけなさい」
「簡単に言うなっ‼︎ 」
陽子はテーブルを力任せに叩く。
「こんな中途半端な時期にホイホイ勤め先が見つかるわきゃねーだろが!?
だいたいあたしは、まあその…今までが今までだから、なおさら簡単には見つかりっこねーよ!」
「だろうなぁ」「酷かったしねぇアンタ」
深く頷き返す両親に、陽子はますます苛立ちを強め、
「解ってんなら無茶ゆーなっ! おめーらも親の端くれなら、せめて娘の人生が軌道に乗るまで、キッチリ養育義務果たしやがれっ‼︎」
「脱線させたのはお前だろう?」
ここぞとばかりの大正論にぐうの音も出なくなった陽子にあっさり背を向け、両親は今度は妹の月乃に向き合った。
「月乃、お前はつい最近やっと退院できたばかりだから、無理はさせられん。
医者がいうにはもう当面は大丈夫だそうだから、以前ほど医療費もかからんしな」
「…殴ってもいいか?」
「陽子は黙ってなさい。さあ月乃、お父さんとお母さんのどちらについてくるか、選びなさい」
実に重い選択肢を軽々しく突きつける両親に、月乃は大いに悩…むことなどさらさらない様子で、あっさりと首を横に振り、
「…姉さん」
「ん?」
「ついてって…いい?」
「……は?」
なんと、月乃は父親でも母親でもなく、姉の陽子を選んだ。
現状無職の陽子を。
「いや、だって、それは、ほら…マジか?」
「…だ…め?」
潤んだ瞳で懇願する美人な妹を、誰が拒絶できようか。
こうして、事業と子育てを盛大に失敗した両親はその日のうちに蒸発し…あとには無職の姉と就労困難な妹の2人のみが残された。
「いや…もう詰んでるだろコレ。どないせーっちゅーねん」
「…大丈夫。二人で力を合わせれば…なんとかなる…よ」
落ち込む姉を気丈に励ます妹。
げに美しくも涙ぐましき姉妹愛に全米が泣いた。
…が、泣こうが喚こうが先立つモノがなけれは生きてはいけない。双子姉妹の蜜月生活はあっという間に破綻を迎えることになった。
これが転生小説とかなら、そろそろ救いの手が差し伸べられても良さげな頃合いだろうが…残念ながら、この作品の作者はリアリストである。
従って二人にはもう少々苦しんで貰わねばなるまい。
「マジかよ…」
◇
その後の姉妹の生活は惨憺たるものだった。
生活費は1ヶ月足らずで底をつき…
貯金などは元からなく…
やがて電気もガスも止められ…
今しがた水道も止まった。
「…結局…なんともならなかった…ね」
「だな…」
もはや黄昏れるしかない双子姉妹。
こりゃもう両親に倣って夜逃げするしか…と陽子が真剣に悩み始めた…まさにその時である。
それまでのシリアスムードを蹴散らし、最後の砦にと死守しておいたスマホの電話着信音が、軽薄この上ないメロディーをけたたましく鳴り響かせた。ありがとう低料金プラン。
自慢じゃないが陽子には、日頃から連絡を取り合うような知り合いなどただの一人もいなかった。なのでいざ着信があっても、どうせ業者の類だろうと延々放置し続けてきた。
だが、こんな最悪のタイミングで連絡してくるということは…いよいよ恐怖の取り立てが始まるのだろうか?
いやいや落ち着け、自宅はすでに引き払って、今はこの安アパートに潜伏中だ。
自宅の電話番号は抑えられているが、すでに料金不払いで停止中だし、携帯番号はまだ知られてはいないはず。
だがしかし、あの手の業者は手段を選ばないというし…ドキドキドキドキ。
などと危惧しつつ、恐る恐るスマホの画面を覗き込んだ陽子だったが…
「…マジかッ!?」
そこに表示されていた連絡相手の名前を見るなり、弾かれたように立ち上がった。
隣で月乃がビクゥッと驚いていたが、配慮してやれるだけの余裕はなかった。
慌てふためいてスマホ画面を連続タップしたものだから、反応が悪くてなかなか認証されなかったが、何度目かの押下でようやく返信できた。
相手はこちらが必ず応じることを予想していたらしく、ずっと切らずに待っててくれた。
「やいこらテメッ…いいいまごろ何の用だよ?」
怒鳴りかけたところで、すぐそばで月乃が聞き耳を立てていることに気づいて極力声量を抑えたが…どうにも声が上擦る。
本当にアイツか? アイツなのか? なんで、どうして今頃…?
冷静になろうとすればするほど緊張が増す。
そんな混乱状態の陽子とは裏腹に、電話口の相手は実にマイペースな調子で、
〈いや〜ゴメンゴメン。こっちも最近ずーっとバタバタしててさぁ〜、なかなか連絡出来んかったんよ〜マジゴメ。
…久しぶり。元気してた?〉
困窮の果てに荒み切った心が、軽薄そのものなその声にみるみる潤いを取り戻していくのを感じる。
チクショウ、なんでこんな奴に…。
「…元気は元気だけどよ。あーいやなんつうか、主に経済方面じゃあんまし元気とはいえねーっつーか…」
〈え〜? もしかして、まだ就職できてないん?〉
なんで解るんだ…と言いかけてハッとする。
そういやコイツも『同業者』だったな。ならどっかでこちらの風の噂を小耳に挟んだのだろうと。
…いや待て。ならば、この瀬戸際のタイミングでわざわざ連絡してきた真意は…
〈じゃあさ〜…うちんトコ来る?〉
おおっ、やはり助太刀だったか。何というタイムリー! まさに願ったり叶ったりだ。
…よくよく話を聞いてみれば、その現場はまだ立ち上げたばかりで、圧倒的に人手が足りないらしい。
なので今なら新人だろうが誰だろうが無条件で放り込めるし、良い人材なら紹介料として自分の給料にも色が付く…ってコラ。
それで真っ先に声を掛けてみたのが陽子んトコだった…というのは評価してやらなくもないが、相変わらず何処でもチャランポランなことをしているようだ。
まったく、いつまで経っても変わらない奴で…
いざという時には、いちばん頼りになる奴で…
マズい、このままだと泣いてしまいそうだ。
こんな弱音を月乃に見せるわけにはいかない。
努めて冷静さを装い、電話口でコクリと頷き返す。
「…わかった。行ってやるよ、そこ。」
そもそも陽子がこの仕事を志したのも、彼女に憧れたからだ。
その本人と同じ現場で働けるなら、断る理由など微塵もない。
…なんてことを面と向かって言うとつけ上がるに決まってるから、間違っても口になどしないが。
〈やたっ、そう来なくちゃ! 話が早くて助かるわ〉
心底歓迎してくれているらしい、彼女の弾んだ声を聞いて…
いよいよ涙腺が崩壊しかけた陽子は、その現場の所在地や最寄駅など、必要最低限の情報だけを聞き出すと、
〈じゃ、待ってるからねん♪〉
と彼女が言い終える前に通話を切った。
…正直、もっとあの声を聞いていたかった。
いくぶん名残惜しくはあるが…どうせこれからは毎日同じ職場で顔を合わせるのだ。
これから毎日…あいつに会えるのだ。
「…姉さ…ん?」
目頭を押さえて息をつく陽子に、それまで黙って傍らで様子を窺っていた月乃が、不安げに呼びかけた。
そんな彼女を安心させるべく…そっと頭を抱き寄せて耳元で囁く。
「喜べ…仕事が決まった。」
…その後、手早く身支度を整えた二人は追われるように住み慣れた部屋をあとにし、最終電車に飛び乗った。
事実、家賃もけっこう滞納していたから、文字通りの夜逃げだった。やはりダメ家族の呪縛からは逃れられそうにもない。
◇
そして再び現在。
駅前で月乃と別れた陽子は、その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、踵を返してあの丘へと向き直った。
月乃が消えた街の方角とは正反対。
相変わらず通りかかる車もなく、ヒッチハイクは無理そうだ。
「…ま、しゃーねえか」
覚悟を決めて歩き出す。
幸い目的地までの道筋は一本道。ひたすらまっすぐ歩いていけば、そのうち嫌でも辿り着けそうだ。
道すがら周囲に目を配るが、行けども行けども変わり映えしない田園風景が延々と続く。
沿道には電柱が等間隔で立ち並んではいるが、街灯はない。行き交う車もなし…。
ということは、あの丘を訪れる者は日頃ゼロに等しいということだろう。
たまに道端の地蔵や「用水だ!」などの注意喚起看板とすれ違わなければ、永遠に同じ場所をグルグル彷徨っているかのような錯覚すら覚える。
それでも目指す丘は確実に近づいているようで、道は次第に勾配がキツくなり…いつしか田んぼも木立の風景へと変化した。
「…これを毎日通えってか? マジか…」
体力には自信のある陽子が音を上げるほどの、地味にキツい坂道が続く。
早くもよぎり始めた後悔の念を振り払うかのように被りを振り、気合いを入れるために上着を脱ぎ、うんっと大きく背伸びして鋭気を養う。
と…そこで陽子は初めて、道中に小柄な人影があることに気づいた。ようやく第一村人発見か。
全速力で駆けてくる人影は見る間に大きくなり、陽子の目前へと迫った。
「にゃっ♪ にゃっ♪ んにゃにゃっ♪」
子猫の鳴き声のように奇妙な鼻歌を口ずさみつつ、楽しげに両手両足を振り乱してるのは…年端もいかない子供だ。
幼くて男の子とも女の子ともつかないが、クリクリお目々にぷにぷにほっぺの、誰が見てもカワイイと頬を緩める顔立ち。
おかっぱ頭の左右が寝癖のように不自然に膨らみ、本当に子猫の耳に見えてくる。
その格好は一見して高級品とわかるブラウスに、これまたイイトコのお坊ちゃまのような半ズボン…いや、キュロットスカート? この手のファッションには無縁な陽子には区別がつかない。
思わず見惚れていた陽子だが、ふと我に返って小首を傾げる。
なんでこんな山道に、こんなイイトコのお子様が?と。
その回答はすぐさま訪れた。
「痛ッ⁉︎」
突然、陽子の鼻っ柱に激突する一匹の虫…いや鳥か?
すぐさま片手でキャッチし、鼻をさすりつつ確認してみたが…今まで見たことがない奇怪な生物だ。
トカゲのように不気味な骨ばった体に、蝙蝠のようにイビツに折れ曲がった翼。
その肌色はどの部分も、真っ昼間だというのに細部がよくわからないほどどす黒い。影をそのまま固めたらこうなるだろうかと思えるほどに。
「…なんだこりゃ?」
「んにゃ?」
いつの間にか目の前に立っていた子供が、ガラス玉のようにキラキラした大きな瞳で陽子の顔を見上げていた。
なるほどコイツ、この変な生き物を追いかけていたのか。
「…欲しいか? ほれ」
その子の愛らしさに目を細めつつ、腰をかがめた陽子はその虫?を子供に差し出す。
途端に子供は満面の笑みを浮かべ、大きな口をパックリ開けて…ガブっ。
「ぎぃいやあぁあああーっ!?」
陽子の指先もろとも虫?を丸呑みにした子供を突き飛ばし、涙をちょちょ切らせた陽子は慌てて己の手のひらを広げた。
…良かった、ちゃんと五本あるし原型も留めている。マジで食いちぎられたかと思った。
怖ぇ〜、田舎のガキマジ怖ぇ〜、可愛いけどメッチャ怖ぇ〜っ!
いやそれよか、あんなモン食って大丈夫なのか?
「お、おいっ!?」
慌てて呼び止めた頃には、あの子はまたも奇妙な鼻歌をたなびきながら、人間離れした途轍もないスピードで丘を駆け降りていくところだった。
あの虫だか鳥だかがまだいたのだろうか。
「…マジか。何なんだよまったく…」
ブータレながら腰を上げた陽子の視界に、周囲の樹々とは明らかに異なる質感の建造物が映り込む。
すっかり忘れかけていたが、最初に目指していた丘の上の洋館…の一部らしい。
その建築物は、丘の地形に合わせてグルグル渦巻きながら、丘のてっぺんまで延々と続いていた。いったいどんだけ大規模な建物なのか。
建物の入り口に辿り着けるのはまだ先のようだが、もうここまで来ればさほど時間はかからないだろう。
「あのガキ…もしかして、あそこから来たのか?」
もしかするまでもなくそれ以外ないだろうが、あの洋館の『用途』を考えるに、あの子供とはいまいち結びつかない。
…だが、ここでいくら考え込んでも結論は出そうにない。
フゥ…と呼吸を整えて、陽子は再び歩き出した。
◇
「……マジか……」
やっと辿り着いた洋館の正門前で、陽子は本日最大級の唖然とした呟きを漏らす。
「コレって…なんか有名なファンタジー映画に出てくるヤツじゃね?」
まさにその通りの、洋館というよりもはや城という規模の巨大建造物が、陽子の目の前に横たわっている。
丘の上に佇む古城…。
雰囲気的にはたしかにバッチリだが、ここへ至るまでに通ってきた純和風の田園風景とは著しい違和感がある。
しかし、その正門に掲げられた金属製のごっついプレートは、この場所こそがまさしく陽子が目指していた職場であることを誇らしげに示している。
『私立 都乃宮女学院』
ど田舎の分際で、都の中の都とはこれ如何に?
「マジ…ここだよな? ここで合ってるよな?」
誰にともなく問いかけ、何度首を捻っても納得がいかない。
たしか新設校と聞いていたが、ならばとんでもなく年季が入りまくりのこの校舎は何だ?
しかも、人手が足りないから誰でも雇うとは聞いていたが…この風格は陽子には明らかにレベル違いだ。
ゲームでいえば、教員免許取り立ての新米教師な陽子は当然のようにレベル1。いやむしろ、過去のアレやコレやを加味すればハンデスキルてんこ盛りな詰みキャラからのスタートといっていい。
そんな最貧弱キャラの自分を、あたかもラスボスの居城のようなこの学院がいきなり迎え入れてくれるものだろうか?
「本当にちゃんと話つけてくれてんだろうな、あいつ?…ま、当たって砕けろだな」
いつまでもこの場でたじろいていても埒があかないし、結果は行けば一発で判ることだ。
現状、入り口付近で玉砕してスタート地点に逆戻りな公算が濃厚だが…ええい、構うか!
まずは一歩踏み出し、正門の中へと…
ズドビシィッ!!
「ぅぐあッ!?」
途端に全身を電撃に似た衝撃が刺し貫き、陽子は思わずたたらを踏んだ。
「っ痛ぇ〜…なんだこりゃ、マジ魔力的な封印でもされてんのか?」
どういう仕組みかは知らないが、いかにもな外見のこの校舎ならば未知のセキュリティーシステムも有り得なくはない。
この学校は本気で自分を拒んでいるのか…?
しかし、はずみで正門をくぐり抜けることには成功した。念のため何往復かしてみたが、あの衝撃はもうない。どうやら初回のみの洗礼で、以降は何のお咎めもないらしい。
それに…さっきは閉じていたはずの正面玄関の扉が、いつの間にか入ってこいとばかりに全開になっている。
ますます最終決戦じみてきた。
「…ちーっす。お邪魔しまーす…」
意を決した陽子は、おっかなびっくり校内へと踏み込む。
◇
重厚な外見とは裏腹に、校舎内はどこぞの高級リゾートホテルのように垢抜けた造りだ。
大理石が敷き詰められた、洒落た廊下を奥へと進む。
コツーン…コツーン…
静まり返った廊下に、陽子の靴音だけがおごそかに反響する。安物のパンプスの分際で、高級靴に勝るとも劣らないムードサウンドを奏でてくれる。
それにしても…薄々気づいてはいたが…やはり様子がおかしい。
これだけ広い校内なら、あちこちから嫌でも人の気配が漂ってくるはずなのに…さっきから誰ともすれ違わない。
授業中だからか? だとすれば…廊下の途中で通り過ぎたいくつもの教室が、総じて藻抜けの空だったことの説明がつかない。
たとえ新設校だとしても、生徒が一人もいないなんて有り得るだろうか。
いや…思えばこの土地に辿り着いてから今の今まで、出会った人間といえば月乃を除けば、あの妙ちくりんなチビガキだけだ。
先日、月乃が観ていたネット配信の、異世界に彷徨い込んだ主人公たちが怪物相手に死闘を演じる系なサバイバルホラー映画が脳裏をよぎった。
ここは本当に、人間の世界なのか…?
「…これマジ…ヤバくね?」
気づけばいつしか陽は西の空へと傾き、校舎の窓からはオレンジ色の光柱が幾筋も射し込んで廊下を照らす。
荘厳にして不気味なこの場所に、陽子はただ一人立ち尽くしていた。
今更ながら背筋を悪寒が伝い落ちる。
前へ進もうにも後ろへ引こうにも、鉛のように重くなった両脚が言うことをきかない。
学生時代は怖いもの無しでならした陽子だが、それはあくまでも相手が人間の場合に限る。
正直、物の怪の類は、日頃からホラー動画を見まくっている妹の月乃と違って大の苦手だ。
…そうだ、月乃! こんな時には愛すべき妹の声を聞いて気を紛らすに限る!
震える手つきでスマホを取り出し、電話を…しようとした矢先、画面左上の無慈悲な表示に気付く。
『圏外』
「なんでだよっ!?」
電波が届かないほどの山奥でもねーだろっ、と怒りにまかせてスマホを床に叩きつけたところで。
…チリーン…
「ぴぃっ!?」
急に近くで鳴った鈴の音に、陽子は悲鳴にならない悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。
何故このタイミング。しかも本当に近い。たぶん数メートルも離れていないだろう。
半べそになりながら周囲を見回すと…廊下に面した教室群の、すぐそばの扉だけが開いているのに気づいた。
すっかり腰が抜けた体を引きずって、陽子はその扉にすがりつくようにして教室内を覗き込む。
…瞬間。それまでの恐怖心がたちどころに消し飛んだ。
教室のいちばん後ろの席に、一体の人形がちんまりと座っていた。
とても精巧に作られた、まるで生きているかのような息吹さえ感じられる高級ドール。
…いや、よくよく見ればちゃんと生きている。その証拠に、人間離れした巨大な胸が呼吸に合わせてかすかに揺れ動いている。
人形ではなく…人間だ。
そう知ってもなお、にわかには信じがたいほどの美貌に見惚れてしまう。
穏やかな西陽に照らされた金色の髪は飴細工のようにキラキラと光り、抜けるように白い肌は、本当に人間なのかとなおも疑うほどの透明感を誇っている。
陶器のように艶やかな淡い唇はうっすらと開き、そこからそよ風のように静かな吐息がすぅすぅと漏れ聞こえている。
…チリーン…チリリーン…
先ほどの鈴の音の発信源は、そんな彼女の髪飾りだった。こっくりこっくり船を漕ぐ彼女の髪が揺れるたび、その髪を束ねた髪飾りの鈴が音を立てて震えている。
「チッ、ビビらせやがって。つーか授業中に居眠りしてんじゃねーよ」
しばらく彼女に見惚れていた陽子だが、はたと我に返って照れ隠しで悪態をつく。
やっとこさ生徒に出くわしたのに、眠りこけられてちゃアテにはできない。
まあ自分が受け持つ授業ではない限り、相手の居眠りを咎めるほど無粋な陽子ではないが。
「あの金髪…染めてんじゃないよな。地毛か…てことは留学生か?
それにしても…なんちう可愛さだよ」
夕焼けに照らされた波間を漂う海藻のようにユラユラ揺れ動く美少女の居眠りに、存分に心を癒していた陽子だったが…
その揺れ方が次第に大きくなっていることにやがて気づく。このままではいずれ座席から転げ落ちて、床板にゴッチンあいたたた〜だ。
「…危ねっ!」
そして危惧した通り、彼女の揺れ方が一際大きくなったところで陽子はたまらず飛び出し、今まさに床板と口づけを交わそうとしていた美少女の真下へと滑り込んだ。
その上に倒れ込んできた彼女の体は信じられないほどの軽さで、そしてまたこの上ない夢心地の弾力…
「…てか大っき過ぎね? こいつのおっぱい」
破壊力最大級の美少女の胸に押し潰される、それとは比較するまでもない自分のささやかな洗濯板を確認した陽子は、この世の理不尽さや無常さをひしひしと痛感した。
生徒ってことは明らかに自分よりは歳下だろうに、この歳の差をものともしない性能差はいったい何なのか。やはり舶来品は迫力が桁違い…
「…あのぉ〜」
いつの間にか目覚めていた彼女の双眸が、陽子の顔を真正面から見下ろしていた。
今日の真昼の空のような、どこまでも青く澄んだ、吸い込まれそうなほどに綺麗な瞳が。
「おはようございますぅ」
「おはよ…ぢゃなくて、もう夕方だぞ。そしてここは学校だ」
「あらら〜、また居眠りしちゃいました〜。いけない子ですねぇ〜…メッ♪」
「あたしじゃなくて、お前がな」
なんだか予想外に、ずいぶん間延びした喋り方をする奴だ。寝起きで血の気がぜんぶ乳に回って、頭が働いてないのか?
「目ぇ覚めたんならとっとと退いてくれ。重…くはないが、色んな意味で苦しい。特に心が」
「あらら〜、これは失礼しちゃいましたぁ。それでは、あのぉ…ちょっと手伝っていただけますかぁ?」
申し訳なさそうに眉をひそめて、美少女は倒れ込んだ自分たちの傍らを指差す。
見れば、折り畳まれた車椅子が壁際に立て掛けられている。
「ちょっと待ってろ…ほれ」
即座にすべてを悟った陽子は美少女の下から這い出し、車椅子を展開して彼女へと向け直す。
陽子だってある程度は分別をわきまえた大人だ。こういった場合には必要最小限の手伝いしかしないし、必要以上に事情は訊かない。
「どーもすみませぇ〜ん。よいしょっとぉ」
美少女は陽子が支える車椅子に両腕だけで器用によじ登り、慣れた仕草でくるりと身を翻すと、シートにすっぽり収まった。
なるほど…上半身は問題ないが、下半身はまったく動かせないようだ。
「それで、あのぉ〜…どちら様でしょうかぁ?」
「いくらなんでも、のんびりしすぎだろ!?」
可愛く小首を傾げる美少女に、たまらずツッコむ陽子だった。
◇
「そぉーですかぁ。あなたが新しい先生でしたかぁ〜」
さっき出会ったばかりの女生徒の車椅子を押して、陽子たちは再び校舎の廊下を進む。
「まあな。昼前にはこっちに着いてたんだが、なにかと大変な目に合わされ続けて…おかげですっかり遅れちまったよ」
「そぉーですかぁ。色々大変なところですしねぇ…。う〜ん、まだまだ改善が必要ですかねぇ〜?」
女生徒に心配されてもどうにもならんが…少なくとも、それまで冷えきっていた校内の空気が、彼女特有のほのぼのオーラのお陰ですっかり暖かくなった。
…部分的には暑苦しいことこの上ないが、と彼女の風船おっぱいを真上後方から眺め下ろしつつ、陽子は独り言る。
「肉饅の下敷きにさえならなきゃ、もっと早かった気もするけどな」
車椅子での移動にもかかわらず、制服を押し上げてプルンプルン揺れる彼女の胸の迫力に唸る。
胸だけではなく、髪や瞳の色や車椅子など突っ込みどころ満載だが、一介の女生徒にあれこれ詮索するのは好ましくはあるまい。
「にく…まん? どーゆーモノか存じ上げませんけどぉ、なんだか美味しそうですね〜♪」
知らんのかい。さすがはお嬢様だな。つーかおめーのコトだよ、この黒船むすめ!
「ご心配なさらなくてもぉ、理事長室はもうすぐですしぃ〜」
廊下の向こうに目を向けたまま、女生徒はにこやかに微笑み、
「それにぃ、先生のお人柄はもぉ充分拝見させて頂きましたからぁ〜」
「はぁ? そりゃどういう…」
「止まれッ!!」
突如として廊下に響き渡った凛とした怒声が、陽子たちの行手を遮った。
反射的に振り向けば、分岐する廊下の向こうに仁王立ちになる別の女生徒の姿があった。
声色同様に凛とした佇まいの、眼鏡を掛けた銀髪の女生徒。
…だが小さい。何もかもが小さくて薄い。
制服は車椅子少女のものとまったく同じデザインだが…
超絶グラマラスな金色のと比較して、背丈や胸囲、四肢の太さ長さなど、あちこち半分以下のボリュームしかないスレンダーな銀髪娘の着こなしから受ける印象は、ほぼ別物の衣類といっても過言ではない。
雪原のようにきらめく銀色の髪は肩の上で切り揃えられ、その先端が外向きに跳ねている。
やや幼い顔立ちながらもカミソリのように鋭い眼差しが、眼鏡の奥から陽子をまっすぐ睨みつけている。
「貴様っ…お嬢から離れろっ!」
怒りに肩をわななかせつつ、眼鏡っ子がその手に握りしめているのは…自動小銃?
「おいちょっと待て。神聖な学び舎になに持ち込んでんだお前は?」
小銃の銃口がこちらに向いているのを見咎めるなり、陽子は車椅子から手を離して彼女へと向き直る。
「ここは女子校だろ。可愛いお嬢ちゃんが、んな不粋なモンを人に向けてんじゃねぇ!
モデルガンでも当たりどころが悪けりゃ怪我すんだ…」
ズパパパパパッ!
陽子の怒声がすべて終わらないうちに、不満気に顔を歪めた眼鏡っ子は問答無用で引き金をひいた。
銃口からは爆煙とともに何発もの弾丸が矢継ぎ早に放たれ、空薬莢が踊るように宙を舞う。
モデルガンなどではなく、どう見ても本物だ。
「マジかよ…なんで…?」
スローモーションのように迫り来る弾丸に、陽子は今更ながらに自身の浅はかさを悟る。
動体視力には自信があるが、それを使いこなせるだけの身体能力はない。
いずれ鉛玉が立て続けに体にめり込み、肉を引き裂かれた自分は廊下に倒れ伏すだろう。
チキショーよりにもよって大理石かよ、倒れたら硬くて痛えじゃねーか、せめてカーペットぐらい敷いときやがれ…!
もはやなす術もなく身構えて顔を伏せた陽子だったが…不思議となんの痛みも衝撃も襲い来ることは無かった。
呆気に取られて再び顔を上げた陽子は…そこに信じ難い光景を見た。
「…マジかよ…?」
銃弾と陽子の間に割り込んでいたのは…車椅子の美少女。この一瞬でどうやってその場に移動したのか、という点も驚くべきだが…
さらに驚愕したのは、振り上げた彼女の片手が全ての弾丸を完璧に防ぎ切っていたことだった。
どう考えても不可能な芸当だが…しかし現実の出来事である証拠に、彼女の指の間には放たれた弾丸すべてが溶けた飴玉のようにグニャリとひしゃげて挟まっている。
「ちょお〜っとおイタが過ぎましたね〜…シロガネさん?」
ニッコリ微笑みながら車椅子の足下に弾丸をパラパラとばら撒く金髪少女に、茫然自失で佇んでいた眼鏡っ子…シロガネは瞬時に青ざめる。
「も、申し訳ありません、お嬢ッ!!
このシロガネともあろうものが、よもやお嬢に銃口を向けるなど…お怪我はございませんか!?」
「…あ〜あ大丈夫だぜ、お陰でこのあたしもな。詫びるならこっちが先だろ…あん?」
「せ、せんせぇ…ドキドキですぅ」
お嬢と呼ぶ金髪少女以外まるで眼中にない様子のシロガネの目前で、陽子はあえてお嬢の肩に手を回し、これ見よがしにイチャついてみせる。
すっかり血の気が引いていたシロガネの顔が瞬く間に紅潮し、
「貴様ッ…どうやってここに入った!?
なぜお嬢に気安く触れられる!?
普通の人間なら即座に消し飛んでいる筈なのに…っ」
「マジかよっ、それ先に言えバーロー!!」
慌ててお嬢のそばから飛び退いた陽子が今度は青ざめる番だった。
なにしろ今しがた超絶な神業を目にしたばかりだ、もっとヤバい技をも隠し持っているかもしれん。
というか校門の雷撃トラップもやはりそうか。あれでも充分な効果だったが、よもやそれ以上に激ヤバな罠が仕組まれていようとは…。
「まあまあ。先生もシロガネさんも、まずは落ち着いてお話ししましょお〜?」
「『先生』…? まさか…そいつが?」
緊張感のかけらもない口調でなだめるお嬢に、シロガネはハッと息を呑んで陽子を見定める。
「こっちもそろそろ説明してくんねーか。何なんだこの学校は? お前らはいったい…?」
「ですからぁ、これからまとめてご説明いたしますよぉ〜」
詰め寄る陽子にお嬢はニッコリ微笑んで…
ちょうどそばにあった、ひときわ豪華な風情わの部屋の表札を指差す。
『 理 事 長 室 』
マジか。このメンツでこの展開。
こりゃもう嫌な予感しかしねぇな…と顔をしかめる陽子だった。
◇
「とゆーわけでぇ、私がこの都乃宮女学院の理事長のぉ、都乃宮 美夜と申しますぅ〜♪」
ほらやっぱり。
理事長室の大きな机に陣取り、これ以上ないほどの極上の笑顔を浮かべる金髪巨乳車椅子美少女こと理事長・美夜に、陽子は軽い眩暈をおぼえた。
「マジか。生徒兼理事長なんて、創作物の中だけの存在だと思ってたぜ」
「私もそーゆー漫画とか好きですよぉ。だから自分がなってみましたぁ〜」
あーダメだ、こいつと話してると話題が一向に進まない。
なので陽子は、他に事情を知っていそうな銀髪眼鏡っ子のシロガネに視線を送ってみた。
「…お嬢が学校に通ってみたいとおっしゃった。だから作った。以上」
先程からずっと憮然としたままのシロガネは、つっけんどんに答えた。こっちはこっちで簡潔明瞭すぎる。
つまり、なんだ…自分は金持ちの道楽に巻き込まれたのか?
ちきしょーこうなりゃアイツに全部吐かせてやる!
「…久城 陽子だ。ここには先任者の紹介で来た。いろいろ訊きたいことはあるが、まず…先任者はどこだ?」
あからさまに苛立ちを隠さない陽子の問いに、美夜は小首を傾げ、
「真中先生ですかぁ? 午前中の授業まではいらっしゃいましたけどぉ〜…アレレぇ、午後からどうされたんでしたっけ〜?」
そりゃ知らんだろうな、お前さっきまでグースカ眠りこけてたし。
「…昼休み明けに『急用が出来たから午後は自習』と申され、教室から出て行かれました。
自分は自習がてら校内を見回りましたが、とんとお見かけ致しません」
「またですかぁ? 困りましたねぇ〜」
嘆息する二人の様子に、陽子もつられて深く溜息。
「…ぜんっっっぜん変わってねーようで何よりだよ、あんにゃろめ…」
「…真中先生とはぁ、以前からお知り合いなんですかぁ〜?」
「まあな。唯…真中はもともと、あたしの担任だったんだ」
昔を懐かしむように遠い目でこぼした陽子の一言に、美夜の目がキラリと光る。その傍に控えるシロガネも関心無さげなそぶりを見せつつ、内心では興味深げに聞き耳を立てている。
「お名前を呼び捨てにされるなんてぇ…なんだかドキドキなご関係ですね〜♪」
「あ…いや、あたしは基本、誰でも呼び捨てにすんのが…」
慌てて取り繕う陽子の背後で、突然バターン!とけたたましくドアが蹴破られ、
「うぇ〜ん美夜ちゃあ〜んっ!! 今すぐ給料前借りさせてぇ!」
明るい髪色のギャル風美女が理事長室に転がり込んできた。
「…またですかぁ真中せんせぇ? お貸ししたいのも山々ですけどぉ〜、もぉ今月分のお給料ほとんどお渡ししちゃいましたよぉ〜?」
「なら来月分から、ちょこっと! 先っぽだけ、先っぽだけでいいからぁ〜!」
ショートカットの無造作な髪と、美夜にも負けず劣らずの大きな胸をぶるんぶるん揺さぶり、真中唯は人懐っこそうな大きな瞳に涙を浮かべて美夜の足下にすがりつく。
こいつが…こんな奴が、よりにもよって自分の大恩人だとは…。
だがまあ、元気そうで何よりだ。
陽子の口元に自然と笑みが浮かぶ。
「相変わらずバカばっかやってんのな」
「むうっバカっつったなコンチキショー!?
バカって言うほうがバカなんだぞバーカバーカ!」
「その論法だと、唯のほうがよりバカじゃん?」
「ムッキィ〜ッ!? この唯ちゃんサマを呼び捨てにして良いのは、『陽子たん』だけなんだぞぉ〜⁉︎」
突然、唯の口から自分の名前が飛び出して、陽子は不覚にも目頭が熱くなった。
「ならいいじゃん。…あたし、その陽子だから」
「…へへっ、わかってるよ。久しぶり」
イタズラに成功した子供のように鼻を鳴らして、唯は人目もはばからず馴れ馴れしく抱きついてくる。やっぱり昔のままだ。
「…大変だったんだぞ…ここに来るまで…やっと、あんたに追いつくまで…!」
「うん…ゴメンね、苦労させちゃって」
「まったくだ。こんなんじゃ全然謝られ足りねーよ…」
「…なら、お詫びに……
…する?」
んがっ!? 慌てて唯を突き飛ばした陽子の顔は、もう真っ赤に茹で上がっていた。
はたと傍らに目を移せば、美夜とシロガネまでもが大興奮の眼差しをこちらに注いでいる。
「そっそそそーゆー教育者にあるまじき冗談はだなぁ!?」
「…冗談なんですかぁ〜?」
「にひひ。どっちだと思う?」
どっちでもいいから、とりあえず黙れ金欠女。とにかく、コイツをこのまま放置しておくのは危険だ。
「てかお前、授業ほったらかして給料前借りまでして、何やってた?」
「十中八九『モンドラ』でしょう。本日の午後から限定イベントが開催中です。この作品はガチャのレア発生率が著しく低いため、課金がゴリゴリ削られます」
陽子の疑問に答えたのは意外にも、さっきまでとは打って変わって饒舌なシロガネだった。
なんでそんなに詳しいのか。顔つきもそれまでが嘘のようにイキイキしてるし。
ちなみに『モンドラ』は陽子でも知ってる超有名スマホゲームだ。とはいえ彼女自身はスマホゲーには全く興味がなく、月乃のプレイを横で見ているだけだが。
「…待てよ? この学校、校内だとスマホの通信使えねーよな? てことは…唯。お前さっきまで何処にいた?」
「ぎっくうっ!?」
図星を指されて慄く唯に、美夜は穏やかな笑顔に最大級の毒気を偲ばせて、
「…真中センセ? まぁ〜た授業放棄して校外に出てらっしゃいましたねぇ〜?
たいへん心苦しいんですがぁ、このような行為が度々続くようですとぉ、こちらとしても雇用契約見直しとゆーことにぃ〜」
怖っ。普段が普段なだけに、怒らせるとマジ怖っ。こんな顔もできるんだなコイツ。
「待って美夜ちゃんっ! なんでもする、なんでもしますからそれだけはぁ〜っ⁉︎」
「じゃあちゃんと授業してくださーい♪」
「ホラホラ、おっぱいもあげるから機嫌直してぇん!」
「それは間に合ってますぅ」
誰に何の交渉を持ちかけとんのか、このバカ女。だったらそのムダ乳、あたしによこせ!
…などと叫びたいのも山々だが、このままでは収拾がつきそうにないので、陽子は語気を強めた。
「んで結局、あたしはここで何すりゃいいの?」
◇
事の発端はやはり、現都乃宮家当主の美夜が放った「学校に行きたい」の一言だった。
先刻ご承知の通り体が不自由な美夜は、物心ついてから今に至るまでお屋敷の敷地外に出たことがない、完全無欠な箱入り娘だ。
それが思春期を迎え、下界のあらゆる物事に興味津々となり…中でもいちばん強く興味を惹かれたものが『学校』だった。
大勢の学友と肩を並べ、この世のあらゆる事柄を学び、ときには競い合い、ときには励まし合い、またときには意中の相手に想いの丈をぶつける…。
そんな誰もが通る青春時代の一大イベントのいずれもが、美夜にとってはまったく無縁な世界だったのだから無理もない。
代々に渡り都乃宮家に仕えてきた家系のシロガネとしては、敬愛する現当主の希望は可能な限り叶えてやりたい。
そして彼女は至極有能な側仕えだった。
シロガネは早速あらゆる手段を駆使し、住み慣れた大邸宅を瞬く間に校舎へと改装。新設校にもかかわらず年季が入っていたのはこのためだ。
もちろん外見だけではなく、関係各所へ働きかけて正式な学校法人としての認可もとりつけた。
だが、カネの力だけではどうにもならないのが人材だ。生徒は追々募集するとして、肝心要の教育陣をどう確保すべきか?
その気になれば教鞭をとれるだけの知識こそシロガネにはあるが、それでは美夜も新鮮味がないだろうし、教師よりはクラスメイトとして絶えず美夜のそばについていたい…。
そんな折、たまたまハマっていたネットゲームで…
「やっぱお前ゲーマーじゃん?」
「シロガネさんは漫画やアニメにも大変お詳しいですよぉ♪」
「くっ…黙って続きを聞け!」
すぐに話を脱線させる陽子や美夜に、真っ赤になって怒鳴るシロガネ。その小脇を唯がツンツン小突いて、
「でも、そのお陰でこの唯ちゃんサマに巡り会えたワケじゃ〜ん?」
そう。現実世界では寡黙だがネット社会では雄弁なシロガネは、たまたま同じゲームにログインしていた唯と意気投合し、毎日のように親交を重ねた。
その最中、たまたま唯が以前教職についていたことを知り、ダメ元で当校の話を切り出してみた。
ちょうど当時、定職につかずダラダラ遊び呆けていた唯は、そろそろ生活費が底を尽きかけていたこともあり、二つ返事で赴任を快諾。
そして現在に至る…と。
「…予想以上にくっだらねぇ経緯だったな」
話を聞くうち自然と刻まれた眉間のシワを指先でさすりつつ、陽子は率直な感想を述べた。
「てか唯、そんなヒマこいてたんなら、たまには連絡よこせよ…」
「ん〜? 何度かしてみたんだけどさぁ、なんでかいっつも繋がんなくて」
「……?」
唯の言葉に首を捻る陽子だったが、今は与太話をしている場合ではないとすぐに仕切り直し、
「んで、美夜が生徒兼理事長で…」
「…自分が生徒兼学院長だ、あと生徒会長も」
「この唯ちゃんが先生ねん。担当教科はとりあえず全部♪」
美夜とシロガネはまさに適材適所として、唯のテキトーぶりは筋金入りだな。全部ってお前、まんまゴッコ遊びじゃねえか…。
「真中先生は本当に全教科の教員資格を持ってらっしゃいますよ〜?」
マジで⁉︎
「ふふ〜ん、唯ちゃんサマは万能だからねン♪」
マジか…マジで世の中トチ狂ってやがる。
てか、そんならあたし要らねーじゃん。
「ほいで、陽子たんは何ができるん?」
「…保健体育と社会科…あと、現国」
全教科できる奴には訊かれたくなかった…と赤面しつつ答えた陽子に、唯は目を丸くして、
「お〜頑張ったじゃーん⁉︎ これで唯ちゃんも少しは楽できるかなっ♪」
「さっそくサボる気満々かよ」
「真中先生はたしかに超優秀なんですけどぉ…だいたい全部さっきみたいな感じでして〜」
溜息混じりに独白する美夜に、他人事ながらマジスマンかった、と陽子は胸中で合掌。
「あはは〜。それにしても、現国はちょっと意外かもねん? 陽子たんのガラじゃないっしょ?」
唯の素朴な疑問に、陽子はますます赤面しつつ胸中で叫ぶ。
あんたが昔、担当してたからだよ!…と。
ちなみに残る社会科は、個人的に比較的簡単に獲り易かったから保険に獲ってみただけで、さしたる理由はない。
「んで、肝心な質問だが…現時点でここに生徒は何人いるんだ?」
単刀直入な陽子の問いに、美夜とシロガネは途端に気まずそうに目を逸らし、
「…私とシロガネさんの二人だけ…ですぅ」
「あと、正式な生徒ではないが、もう一人いるにはいる…」
だろうと思ったよ…と、陽子は深々と溜息。
なんとなく、山道で出会ったあのチビガキを思い出す。もう一人ってのは、たぶんアレだろ?
「…ナメられたもんだな、あたしも…」
次第に怒りが込み上げてきて、陽子は眉間に深いシワを寄せた。
確かに赴任先には飢えていたし、ここで唯に再会できたことは至上の喜びだ。
学校としての体裁はちゃんと整っているし、ならば給料もそれなりに貰えるだろう。
だが、しかしだ。肝心の教え子が…この、ワケわからん金銀ペアと、さらに理解不能なチビガキ一匹だけときたもんだ。
陽子にだって教育者としてのプライドがある。こんなロクな授業もままならない現場で、どうしたもこうしたも…
「…やっぱり…ダメですかぁ?」
いつになく弱々しい美夜の声に、ハッとして顔を上げる。
そこには、もはや決壊寸前なまでに潤みきった彼女の瞳があった。
「ぜんぶ私のワガママだってことは理解してますぅ。陽子先生にはおママゴトにしか見えないだろーな〜ってこともぉ…。
でも…だけど、私は…私はぁ…っ」
美夜の頬を伝い降りた一筋の涙が、陽子の心に波紋を広げた。
そうだ…自分には解っていたはずだ。
たとえゴッコ遊びだったとしても…彼女は本気で取り組んでたんだって。
彼女と初めて出会った、あの教室で。
体が不自由な彼女は、わざわざ車椅子を下りて、普通の座席に座っていた。何故か?
「…ああ。お前は…ちゃんと授業を受けてたんだな」
そう…美夜は本当に、まじめに授業に参加していたのだ。
一人だけ特別扱いな車椅子ではなく、他の生徒と同じ椅子に座って。
たとえ誰も級友がいなくても。
教師がサボってて不在でも。
大勢の生徒が同じように学ぶだろう、西日が注すあの教室で…
…たったひとりで。
その姿が、過去の陽子と重なる。
誰も頼らず…誰も頼れず…ひとりぼっちで夜の街を彷徨い歩いていた…あの頃の姿に。
何がメンツだ、何が体裁だ。
そこに一人でも生徒がいれば、誠心誠意向き合い、学び合い、彼らの成長を見守ることこそが教育者の努めじゃないか。
いま、目の前にいる唯は、実際そうやって陽子を生まれ変わらせてくれた。
そうだよ、あたしは彼女みたいな先生になりたかったんだ…!
いつしか外はすっかり暮れかけ、赤々と輝く夕陽の色が校舎内を美しく染め上げていた。
実におあつらえ向きのシチュエーションだ。
「…あたしの授業は厳しいぜ?」
「…せんせぇ?」
大粒の涙を溜めたままこちらを見上げる美夜に、陽子は言う。
「なにしろ新米だからな、手加減なんて出来ねぇ。その代わり、全力でお前らを鍛え上げてやる。…覚悟しろよ!?」
「はい…っ。よろしくお願いします、陽子先生ぇ!」
両手で顔をゴシゴシ拭って、美夜は誰もが一目惚れするほど愛らしい笑顔を浮かべた。
いまどき夕日に向かって走り出す者こそいなかったが、いつの時代も名シーンは夕日が彩るものなのだった。
◇
「…にゃっ…にゃにゃっ…はにゃあ〜っ!」
…あ、走ってるヤツもいた。
その頃、すっかり忘れ去られていたあのチビガキは、全速力で丘の上までの道を駆け上っていた。
門限に遅れると、美夜からキツ〜イお仕置きを食らうのである。
そしてその後ろをコッソリつける、羽虫だか鳥だかの謎生物…。
都乃宮女学院の夜は、まだ始まったばかりである。
【第一話 END】