堪忍袋
「すみません、岩橋ですけど!」
仕事に向かおうと玄関を出た瞬間に、とげとげとした声で呼び止められた。
……この人、いつも朝から突撃してくるんだよなあ。
「このキンカンの木ね、いつになったら切るの?イモムシの事言いましたよね、予定を今ここで教えて下さい。」
「すみません、主人が切ると言っているので、私ではちょっと……。」
うちにはずいぶん大きなキンカンの木が生えているのだが、そこでアゲハチョウがたくさん繁殖したために、岩橋さんの家のミカンの木にまで被害が出たと申し出がありましてですね。
一刻も早く木を斬り倒せと、厳しい言葉をいただいておりましてですね。
「じゃあ今すぐここでご主人に電話して。」
「ごめんなさい、仕事に行かないと…
「そう言って逃げるのはやめて。何ですぐに対応しないの?なんでもなあなあにする悪い癖だ!もういい、直接ご主人に確認します。女はこれだからダメなんだ!」
怒れる岩橋さんは、携帯電話を取り出してなにやら話し始めた。…旦那、ご愁傷様……。私は頭を下げて車に乗り込み、自宅を出た。
岩橋さんは四軒隣に住む人で、御年76才の真面目過ぎる男性。以前はお母さんと二人暮らしをしていたのだが、10年ほど前から一軒家に一人で住んでいる。
───あ、あのぅ、今度四軒隣に引っ越してきました、よろしくお願いします…。
───引っ越ししてきたばかりじゃ何もわからないでしょう?なんでも遠慮しないで聞いてね!
───だあ!ばぶー!!
───お嬢ちゃん?かわいいねえ、うちねえ、家庭菜園やってるの、いつでも遊びに来てね!
───ありがとうございます!僕お野菜だーい好き!
うちの家族が越してきた時、ご近所で一番良くしてくれたのは岩橋さんだった。
岩橋さんのお母さんがご存命の頃は、庭でバーベキューをしたり、宴会を開いたり、楽しくお付き合いをさせてもらっていた。
町内会のこともずいぶん教えてもらったし、市役所勤めをされていたので町の情報にも強く、いつも助けてもらっていた。
ずいぶん穏やかで、いつも微笑みを絶やさない几帳面な人、それがこのあたりに住むご近所さん一同の岩橋さんに対するイメージだった。
ところが、最近、急激に人間性が変わってきた。
…おそらく、加齢による前頭葉の衰えが顕著になってきたのだ。
感情を押さえることが難しくなっているように思う。
やたらと人に意地悪な発言をするようになった。
───どうせ失敗するけどね。
───下手なのに良く続くな。
───不味いね、捨てたわ。
すぐに怒鳴り散らすようになった。
───高卒は黙っとれ!
───女が出てくるな!
───年下の癖にしゃらくさい!
勝手な行動をするようになった。
───ゴミ捨て場の掃除当番決めたんで。
───あんたは若いから会長にしたから。
───敬老会の弁当頼んでおいたから。
……昔は、本当に優しいひとだったのだ。
───大丈夫、きっとうまく行くよ!
───すごく上手だね、お店ひらいたら?
───おいしかった!またおすそわけしてね!
……いつだって、ニコニコ笑っていてさ。
───学歴なんて意味無いよ、今が幸せならいいじゃない。
───女性がいると場が和むね、仕事がはかどるよ。
───君は若いけどしっかりとした意見を持っているね!助かるよ!
進んでみんなの嫌がる事をやって下さってさ。
───みんな忙しいでしょう、僕は土日休みだしきれい好きだからね、掃除したいの。
───いいよ、僕が役員やらせてもらうね。
───老人会のお弁当誰か頼んでもらってもいいかな?
おばあちゃんも、いつだって息子の事を自慢していた。
───この子はいつもよくしてくれてねえ。
───掃除もご飯作りもぜんぶやってくれるの。
───自慢の息子なのに、ご縁がなくてね、それが気の毒で。
あまりの人格破綻ぶりに、近所はもちろん町内会の面々の混乱が激しい。
──岩橋さんはもうダメだろうなあ……。
──もともとああいう事を思っていたんだね……。
──年を取ると外面が剥がれるなあ……。
誰もが信頼を寄せ、意見を請い、相談をした。
いつだって、笑顔で言葉を返し、手を差しのべてくれた。
……岩橋さんの優しさは、本心からの優しさではなかったのだ。
長年、我慢に我慢を重ねて、笑顔を張り付けて頑張ってきたのだ。
長年、我慢に我慢を重ねて、言っていいことと悪い事をふるいにかけ続けてきたのだ。
長年、我慢に我慢を重ねて、他人への不満を一切外に漏らさずに良い人であり続けていたのだ。
我慢に我慢を重ねた結果、堪忍袋の緒は風化してしまったのだ。
もはや怒りを封じ込める事はできなくなり、あっぱらぱーに垂れ流されているのだ。
いつも周りに人が溢れていた岩橋さんは、ずいぶん孤独になった。
話す人がいなくなったので近所をぶらぶらと散歩するようになったのだが、それがどんどん悪い方向へと繋がっていった。
もともとの几帳面さもあって…気に入らない部分を逐一注意して回るようになってしまったのだ。
───なんで外壁を塗り直さないんだ!!気になって仕方がない、いいかげんにしろ!
───なんで犬を毎朝昼晩と散歩に連れて行かないんだ!いつ見ても鎖で繋がれているじゃないか、虐待だぞ!
───なんで子供を外で遊ばせるんだ!公園はお前たちだけのものじゃないんだぞ!うるさくてかなわん、年寄りをいたわる気持ちはないのか!
───市報ぐらい目を通して当然だろう、市長を知らんとはどういう事だ!
───新聞記事を見たぞ、あの受け答えは何だ、ら抜き言葉の愚かさを知らんのか!
───この前作ってもらったエコバッグ、ネットで調べたらペットボトル二本入れたら破れるって書いてあったぞ!縫い直しできるから、全回収して!
───子供会費の総計が32円ズレているのにどうして決算が通るんだ!!
───町内会役員の数が足りないのに、どうして誰も立候補しないんだ!
───敬老会の記念品が予算の割に貧弱なのはどういうことだ、発注書を見せなさい!
心の内を隠せず本音が駄々洩れになってしまう不具合が出ているものの、もともとの知識量や頭の回転の良さは健在であり、感情のストッパーが利かないことも相まって、ターゲットを徹底的に論破し、コテンパンにやっつけてしまうのだ。
わりとのんびりとした、穏やかな人の多いフレンドリーな町内に、泣かされる人が続出しているのだ。
「んも~、岩橋さんにはまいったよ、せっかく苦労して点検口入ったのにさあ、電話かかってきて切れなくって!!おかげで汗かきまくってほら、こんなに真っ黒に!!」
「ああー、大変だったね、心底おつ……。」
夕方、買い物から帰ると、ちょうど旦那が車から降りる所だった。いつも以上に真っ黒だ、真夏はホコリが汗でくっついちゃうから汚れがちなんだけど、それを踏まえた上でもひどいことになっている。まるで煙突掃除をした後みたいになってるよ……。
「なんかさあ、岩橋さん18:30にうちに来るって言ってたから、とりあえず俺風呂入ってくるわ。こんな状態で会ったらまた怒られちゃう。」
「ああー、大変だね、心底おつ……。」
旦那は岩橋さんに会うたびに、作業着が汚れているだのひげが伸びているだのポケットが裏返ってるだの爪が長いだの手が汚れているだの車のダッシュボードにものを置くなだの髪型に清潔感がないだの前歯が汚いだの眼鏡がゆがんでるだの声が高すぎるだの敬語がなってないだのまあそれはそれは口うるさく怒られていてですね。
というか、これから来るのか…地味にげっそり感がハンパない。これは早めに晩御飯を作りにかからねばなるまい。
ピンポーン!
買ってきた食材をキッチンで仕分けし、手早くおかずをこしらえ、テーブルに並べたあたりでインターフォンが鳴った。
「はーい……。」
時刻は18:29、玄関に着くころには18:30になるはずだ、相変わらず几帳面に時刻を守ってご来訪くださる。
「岩橋ですけど!御主人とお約束しております!」
「ごめんなさい、主人は今お風呂に……。」
「行くと伝えてあったのに?!時間を守ることに誠実であってもらわねば困りますな!!」
ああー、また大爆発の予感……
「いやー岩橋さん、ごめんね!!仕事でめちゃめちゃ汚れちゃってさあ、お待たせ―!」
騒ぎを聞きつけた?旦那が登場…って、パンツ一丁で出てきたりなんかしたら―――!!!
「なんだその腹は!!!ブクブク膨れやがって!自制もできないだらしない人間はこれだからダメなんだ!!そもそも…」
「うーん、すみません、痩せるようにがんばりますー、木はねえ、今日重機屋に電話したけど予約がいっぱいだって言われちゃいました、お盆過ぎになっちゃうみたい、ごめんね!!」
「お盆過ぎ?!なんだそれは!待てん!!どこの業者だ!!俺が電話して文句を言ってやる!!!」
「ここですー、これ電話番号ね!!じゃあ、なんか進展あったら教えてください、よろちく―!」
「まかせとけ!!!・・・なんだこの文字は!!読めんじゃないか!!!」
「ごめんちゃい、じゃあね、読むね、ええとーエコ産業…電話090-……」
訪問修理歴の長い旦那は、人の怒りを受け流す秘術を会得している。実に華麗に適当に怒れる皆さんをいなして、最終的には笑ってお別れをするというものすごいテクニックを持っていてですね。
「じゃあまた連絡するわ!!」
「はーい、お気をつけて!」
怒れる几帳面な老人がお帰りだ。大騒ぎの大乱闘にならなかったことにほっと胸を撫で下ろしつつ、パンツ一丁の旦那と共にキッチンへと向かう。
「あんたすごいな……。」
「ええー、三日前の偏屈爺さんよりは全然楽だよ!エアコンの修理してるのに汗一粒流すなって言うもんだから大変だったんだよ?!気力で汗を止めれるわけないじゃんねえ、失礼しちゃう、プンプン!!先週は今すぐ50キロ痩せてこいとか言われちゃうし!!腐った床なんて普通踏み抜くよねえ、エアコン直すより床を修理してほしかったよ、ホント!!失礼しちゃう、プンプン!!」
腐った床を踏み抜く人はそうそういないことはさておき。世の中には岩橋さんを上回る人がわんさかいるらしい。……高齢化かあ、なんか世知辛い。
「初対面の作業員なんかに気を使う必要ないって思う人もいるわな……。」
「岩橋さんはさ、もともとすごくお世話になったんだし、知らない人じゃないからね。聞き分けはいい方だよ。まあ、年をとるという事は、仕方がないことなんだよ。俺は、岩橋さんの悪役化に手のひらを返して離れていくような人の方がどうかと思うけど!!」
…そうだなあ、飯島さんはおじいちゃんの徘徊でめちゃめちゃ助けてもらってたくせに、今じゃ先頭を切って岩橋さん排除に取り組んでいるんだよなあ。
…たしかに、小林さんはお子さんの不登校で憔悴していた時に毎日相談に乗ってもらっていたのに、今じゃ岩橋さんにすれ違っても挨拶ひとつしようとしないもんなあ。
…そう言えば、十文字さんはニートの次男の就職先まで探してもらったのに、今じゃ井戸端会議で朝から晩まで岩橋さんの悪口を言っていて見苦しいんだよなあ。
…なんていうか、なにかあった時、岩橋さんに丸投げしていた人たちが、やけにこう、不信感を表して騒いでいるような気がしないでもない……。
「あれかな、頼れた人が頼れなくなって、しかも攻撃してくるようになったもんだから逃げ出して、周りに注意喚起を促してる感じ?」
「かもねえ、まあ、うちはうち、一緒になって悪口言う必要もないでしょ。デブって言われたらブスって言い返すなんて子供のすることだね。その点俺は大人だからさあ!!」
大人は豚の角煮を指でつまんでポイと口に入れたりしないことはさておき。
…わりと、岩橋さんの堪忍袋の緒が切れた理由が、わかる気がするんだよね。
口に出しこそはしなかったけれども、おそらく思っていたはずなんだよ。
どうして自分だけがとか。
どうして自分しか動かないのかとか。
どうして誰も動いてくれないのかとか。
どうして誰も気を使ってくれないのかとか。
うちも大概いろんなこと押し付けられてひいひい言ってるから、気持ちはよーくわかるのだ。
だからこそ、辟易はしているけれども、目を背けることはできないというか。
うちも岩橋さんみたいになっちゃうのかなあ……。
外面に隠された、本音丸出しの…毎日……。
……。
旦那が夕飯時にご近所まわりして、しゃもじ片手に訪問するようになったらどうしよう……。
「お母さーん、ご飯食べないの?仕方ないなあ、食べといてあげるわ!!」
「てゆっかもう食べてるー!!お父さんそれあたしのロールキャベツじゃん!!」
「煮玉子無くなった。」
「ちょ!!!私のたまご、タマゴぉおおおおおお!!!」
外面もくそもあるかい!!
四六時中人の食ってるもんを見て、うまそうだと思えは遠慮なく口に出し、口に入れ、へらへらしながら全部もらってきてるんだから!!
旦那の食欲の前には、前頭葉などまるで歯が立たない、常に駄々洩れの食い意地、食い意地の意地汚さ―――!!!
「奥さん!!聞いた?岩橋さん入院してるんだって!!」
「へ?!そうなんですか?そういえば最近見ないと思った……。」
「なんでもね、遊歩道の雑草を抜いていて、自転車にはねられたんだって!」
「頭をぶって、腰の骨にひびが入って、あとどこだったか骨が折れてるって。」
「妹さんの娘さんが挨拶にこられてねえ…独身だとこういう時困るわよねえ。」
「あんな性格じゃあ、嫁のきてがなかったんだわ。」
「細かいもんね、結婚したところで即離婚だわ。」
「やっぱおおらかな旦那を持つべきよねえ!!おたくは大きすぎる旦那さんだけど!!」
「「あらまっ!!あはは、ハハハ……!!」」
「は、はは、はは……。」
岩橋さんの突撃から一週間ほどたったある日、ゴミ出しに行った私は、思いがけず隣近所の井戸端会議で情報を得ることとなった。
…なるほど、最近あまり怒られてないなあと思ったらそういう事だったのか。
あわてて旦那にメールを送った。岩橋さんはなんだかんだ言いながらも、敬老会や美化委員、後援会なんかをやっているので急に連絡が取れなくなるのはまずいのだ。
「岩橋さんねえ…もう、戻ってこれないかもしれない。」
その日の夜、旦那は少々げっそりした面持ちで帰宅した。
ご飯をよそう手に勢いがない…これはいったいどうした事か。
「なに、そんなに悪いの!!!」
「動けない日が一週間続いちゃうと、歩けなくなるみたい。ベッドから起き上がることもできなくてさあ。汚い作業着で病院に来るなって怒られちゃったけど、いつもの怖さは、なかったねえ……。」
いつもだったら串まで食らいつくさんばかりの勢いでかじりつくはずなのに、今日はやけに丁寧に焼き鳥を食べていらっしゃる……。
それほどまでに意気消沈しているというのか。
「なんかねえ、しばらくリハビリもかねて入院するんだって。……二ヶ月くらい入院って言ってたよ。」
「二ヶ月ねえ…復帰できるのかなあ…お年寄りは一回入院しちゃうとなかなか…わりと回復に時間かかりそうだよね。」
お義父さんが入院した時の事を、ぼんやりと思い出す。
足の骨を折って、動けなくなって。
入院中に別の病気が見つかって。
あれよあれよという間に弱って行って。
結局家に戻ることは…なかったのだ。
「まだ70代だからね、ある程度は戻ると思うけど……難しいかもねえ。新しい敬老会の役員見つけないとなあ。」
岩橋さんの姿が町内会から消え、穏やかな日常が戻った。
このところご近所さんの顔つきが穏やかになってき……、あれ?
どうしたことだ、ご近所さんたちの顔色が、あまりよろしくないような……。
町内に漂う、違和感のようなものを感じつつ、一週間、二週間。
「すみません、小泉ですけど!!」
仕事が休みの日に、玄関先で梅干を干していたら、やけにとげとげしい声が聞こえてきた。
誰かと思えば、はす向かい二軒先にお住いの、小泉さんではありませんか。
この人はものすごく温厚で、怒ったところなんか一度も見たことがないくらい穏やかで癒し系で…って、なんか、目が、つり上がっているぞ……。
「ええと、こんにちは、どうかしたんですか。」
「お宅の庭、どうにかしていただけません?そちらで繁殖したバッタが、うちの植木にまで飛んできてるんですよ、今すぐ草を刈っていただかないと困ります!!いつ伺ってもお留守だし、今日こそはきっちり対応してもらいますよ?」
う、このパターンは……。
も し や 。
堪忍袋の緒が切れてしまわれたという事でよろしいでしょうか……。
「あ、じゃあ今から…刈りますね。」
「夕方にチェックに来ますからね!お願いしますよ!!」
わりといい人ばかりいる町内だと認識していたのだけれども……、ご近所には、まだまだたくさんの…堪忍袋崩壊間近の人が、いると思われる。
……堪忍袋があっぱらぱーになってしまった人は、一人消えても、またすぐに一人現れるってね。
高齢化だもんねえ、これからどんどん、もめごとが増えていくに違いないぞ。
ただでさえ、町内会に入らないと宣言している家が増えている。
うちより若い世代の町内会会員など、ほとんど見かけない。
顔見知りのご近所さんですら、こんなに問題に発展してしまうのだ。
色々とお世話になっていた人にすら手のひら返しをしてしまう皆さんが、何一つ交流のない全くの見ず知らずの人とうまくやっていけるとはとても思えない。
トラブルを避けるために、今まで以上に他人を気にして生きていかなければいけないな……。
めんどくさい世の中になったもんだ。
いや、草ぼうぼうになるまで放っておいた家も確かに悪いんだけどさ。
私はため息をつきながら、草を刈る準備を始めたのであった。