特別閑話2c:凍てついた森の一夜。それと――
冬の夜は長い。
鹿角狼獣との遭遇を生き延びた後、レーヴレヒトとヴィルミーナはすぐさま仮小屋を離れ、夜闇の中を進む。
30分ほど山稜斜面を下って手頃な窪みを見つける。レーヴレヒトが手近な針葉樹の枝葉を幾本か切り落として即席の屋根壁を作った。ちなみに、荷物の傍には、砕き折った鹿角狼獣の角が置いてある。持ち帰って鹿角狼獣が出没した報告の際、証拠とするためだ。
「悪いが、焚火は無しだ。モンスターとかの注意を引きたくない」
「我慢するわ。襲われるのは一回だけで十分」
ヴィルミーナはそう言い、野営用の小型毛布に包まってレーヴレヒトに引っ付く。
「今晩の予定は?」
「君は寝て、俺は不寝番」
色気の欠片もない回答後、レーヴレヒトは懐からスキットルを取り出す。魔導術で少々加熱し、蓋を開けて呷った。温められた蒸留酒の酒精が喉を焼き、胃袋から全身へ熱を伝える。
「私にもちょうだい」
「強いから飲み過ぎないようにな」
「こんな場所で酔ったりしないわよ」
ヴィルミーナはスキットルを受け取り、小さく呷った。先ほどの嘔吐で気持ち悪かった口腔内が、蒸留酒で洗われてすっきりする。ふ、と酒臭い息を吐いてレーヴレヒトへ言った。
「なんか話をして。怖くない奴。できれば良い雰囲気になるようなの」
「微妙に難易度の高い注文を」
レーヴレヒトは猟銃を抱え直して少し考えてから、
「そうだな……ノートに書いてない話にするか」
大陸南方に派遣されている時、レーヴレヒト達は頻繁に海軍飛空短艇へ乗っていた。
というのも、拠点から哨戒線付近まで飛空短艇で送られ、そこから徒歩で敵勢力圏へ浸透潜入する、というのが特殊猟兵のやり方だからだ。
で、レーヴレヒトのチームがよく乗った飛空短艇の艇長は退役間近の老大尉で、自身の舟を軍が付けた呼称名ではなく、自身が勝手に付けた名前で呼んでいた。
「麗しきデボラ号。死んだ奥さんの名前らしい」
飛空短艇はそれこそ軍でも民間でも馬車馬の如く酷使される傾向にあり、前線運用されている飛空短艇は大概がボロく小汚かった。
が、麗しきデボラ号は常に清掃され、磨き上げられていた。それどころか、艇長は愛妻の名を冠した舟を神聖視しており、乗船前に身だしなみを整えるほどだった。
「口さがない奴は艇長がイカレてると言っていたな。まあ、俺も遠からずだろうとは思った」
艇長は戦場へ向かう往路はピリピリしていたが、帰投する復路では口の軽い男だった。というか、おしゃべりだった。
任務で精根搾り尽くして疲れ切っているレーヴレヒト達へ、麗しきデボラが如何に素晴らしい女性だったか、どのようにロマンチックな馴れ初めがあったか、斯様に燃え上がるような大恋愛を重ねてきたか、どれほど愛に満ちた結婚生活を送ってきたか、妻から送られたという十字印指輪を見せつけながら、延々としゃべり続けるのだ。
しかも、毎回。
「四度目で気付いた」
レーヴレヒトはどこか冷たい声で言った。
「あの爺さんは俺達へ話しかけていたんじゃない。俺達へ話しかける体裁を取りながら、自分自身へ聞かせていたんだ。あの爺さんにとって、俺達は聞き手ではなく、自分自身を映した鑑だったんだ」
「思い出を反芻していたってこと?」
ヴィルミーナの問いかけに、レーヴレヒトは首肯し、言葉を続けた。
「ああ。“最初は”そう考えた。でも違った」
ある日、緊急出動があった。
撃墜された翼竜騎兵の救出任務で、レーヴレヒト達は現地上空で援護に当たった。救出チームが翼竜騎兵を救助し、飛空短艇でその場を脱するまで上空から援護射撃を続け、救出チームが倒れたら応援として地上へ降下する、そういう役割を負っていた。
飛空船は基本的に貧弱だ。浮揚力を稼ぐため、通常船艇に比べて船体が薄い。それに、この時代の気嚢は防弾性も耐久性も皆無に等しい。ゆえに、飛空船は防御性や耐久性より回避するための運動性と速度が重要視されていた。これは飛空短艇でも変わらない。
そんな飛空短艇が一か所に留まり続けるなど、自殺行為に等しい。地上から敵の対空攻撃と妨害攻撃ががんがん行われ、『麗しきデボラ号』もびしばし被弾した。
船体と気嚢が損傷し、『麗しきデボラ号』は速度を落とし、高度を下げていく。
艇長は大声で乗員達へ指示を出しながら、船へ向かって叫び続けた。
デボラ。俺が傍に居るぞ、デボラ。がんばれ、がんばれデボラッ!
「狂ってるわね」
ヴィルミーナは小さく息を吐き、スキットルを傾けた。
「でも、愛ゆえの狂気ね」
「まさにね。俺もそう“思った”」
生物なら声援を送れば、応えてくれたかもしれない。しかし、麗しきデボラ号はただの舟だ。血が通わず心も魂もないただの乗り物だ。木材と生地と金属で出来た物体に過ぎない。
ひときわ強烈な一発を船体に貰い、『麗しきデボラ号』が大きく傾いた。あまりの急傾斜に、レーヴレヒト達は地上の援護どころではなく、転げ落ちないよう踏ん張るだけで精一杯だった。
そんな中、艇長は気嚢へ浮揚ガスを送り出している魔導式浮揚機関を、レンチでガンガン殴りながら喚いた。
落ちるなっ! 落ちるなっ! くそっ! 落ちるな、デボラッ!! なぜ俺の言うことを聞かないっ!!
また俺を裏切るのかデボラッ!!
「―――なんですって?」
ヴィルミーナは眉根を寄せた。
「ひょっとして……奥さんは死んだんじゃなくて」
「まあ、続きを聞いてくれ」
レーヴレヒトはヴィルミーナからスキットルを受け取り、蒸留酒で体内を温める。
「結論から言えば、麗しきデボラは落ちなかった。だから、こうして君と一緒に居られる。あの大騒ぎの中、艇長の世迷い言を聞いたのも俺だけだった。もちろん、本人にそのことを指摘しなかったよ。踏み込みたいことでもなかったからね」
「真実は分からずじまいか」
小さく頭を振るヴィルミーナへ、
「ところが、そうでもない」
レーヴレヒトは眉を下げた。
どこの世界にも事情通かつおしゃべりな奴はいる。
大陸南方から東南方へ転戦する際、輸送船の隻眼老船員が、『麗しきデボラ号』を知っているか、と話題に出してきた。
レーヴレヒトが知っていると答えると、老船員は頼んでもいないのに語り始めた。
『麗しきデボラ号』と艇長のことを。
要はヴィルミーナの推察通りだった。
艇長の妻デボラは艇長が出征中に間男をこさえ、逃げてしまったのだ。ま、珍しくもない話である。
旦那が家を長く空けている間に女房が浮気したり、男と逃げたり、は古今東西業種を問わずに起こりえる。逆に長く家を出ている旦那が浮気したり、現地妻を作って余所で隠し子をこさえたり、も枚挙がない。
下世話な真実にレーヴレヒトがげんなり顔を浮かべると、隻眼老船員は狙い通りというように、話をまとめた。
酷く不愉快なオチを。
「あの爺さんは女房を見つけて連れ戻していたんだそうだ。でも、それから間もなく女房は自殺したんだと。爺さんに対する恨み言を散々書き殴った遺書を残して」
レーヴレヒトはスキットルを傾け、言った。
「あの爺さんが女房の話を何度も何度も繰り返しているのは、思い出を反芻しているからじゃない。女房と自分は愛し合っていたと何度も繰り返し自分に言い聞かせていたんだよ。そうすることで、女房が自分を裏切り、あまつさえ自分を憎悪しながら命を絶ったという現実から目を背けているんだ」
「……婚約者と二人きりで過ごす夜に聞かせる話じゃないわね」
ヴィルミーナは不満顔で遺憾の意を訴える。
「ただ、一つ気になるな。その船員は何でそんなに詳しいの? いくら他人のゴシップに敏いと言っても、遺書のことまではどうやって知りえる?」
「まさしく、俺もその点が気になって聞いてみた」
問い質したレーヴレヒトへ、隻眼老船員は眼帯をめくった。
白濁した目玉に小さな十字傷が刻まれていた。その十字傷は艇長が自慢していた十字印指輪のものと一致する。おそらく、殴られた時に指輪が眼球を傷つけたのだろう。つまり――
隻眼老船員はにたりと笑った。
俺がその間男なのさ。
「……なんで?」
ヴィルミーナはスンとした能面顔で、じっとレーヴレヒトを見据えた。
「さっき死に掛けるような怖い体験したばかりなのに、なんでそんな気味の悪い話するの? ねえ、なんで? 私のこと嫌いなの?」
「や。俺と君はそんなことには絶対にならないようにしようね、ていう教訓的な」
「バカッ! 今の話でそんな展開にならないわよっ! 時と場合と内容を考えてっ! 時とっ! 場合とっ! 内容をっ!」
眉目を吊り上げて怒声を張るヴィルミーナ。まさに激オコ。
「は。すいません」
首を竦めて詫びるレーヴレヒト。そして、即座に考え込む。
大失敗だな。ここは挽回の一手が必要だ。どうするか。んー……いや、小細工は止めよう。ヴィーナの気質だと余計に機嫌を損ねる。
「……ヴィーナ。悪かったよ。埋め合わせをしたいんだ。何か出来ることはあるかな?」
ヴィルミーナはぎろりとレーヴレヒトを睨みつけ、白く煙るほど盛大に鼻息をつく。
「……ギュッてして」
「今は銃を手放せないから無理」
いつ危険が生じるか分からない。銃を手放して抱擁するのは無理。というレーヴレヒトの理知的回答に対し、
「~~~~っ!」
ヴィルミーナはべしべしとレーヴレヒトの脇腹を突く。
憤懣やるかたないヴィルミーナが不貞寝したのは、それから間もなくのことだった。
〇
「鹿角狼獣に出くわして危うく食われかけた、だと……」
翌日、早朝のうちに帰宅したレーヴレヒトが、銃撃で砕き折った鹿角狼獣の角の一部を提出しながら昨夜のことを報告すると、父ゼーロウ男爵は白目を剥きかけた。
郡内に鹿角狼獣という極めて危険度の高い脅威が現れたこともそうだが、それ以上に危うく次男坊と嫁になる予定の大公令嬢が食われかけたという事実に、ゼーロウ男爵の胃がきりきりと悲鳴を上げていた。
父と共に話を聞いたアルブレヒトもこめかみを押さえて唸る。
「どうします? すぐに討伐へ行きます?」
そんな父と兄の様子を一切斟酌せず、レーヴレヒトはさらっと言った。
「やめろ。お前はもう動くな。頼むから何もするな。鹿角狼獣は冒険者組合に依頼を出して対処する。良いな? 絶対に何もするなよ? 勝手に動いたら勘当するぞ」
父の目はガチだった。
「分かりました。家から出ませんよ」
レーヴレヒトは小さく肩を竦めた。欲を言えば、鹿角狼獣を自分の手で狩りたい。が、社会適合型サイコパスで、家族を優先順位の至上とするレーヴレヒトは、父の命令に逆らわない。
「しかし、ツイてなかったな。せっかく二人で過ごせる機会だったのに。ヴィルミーナ様も残念がっておられるだろう?」
アルブレヒトの気遣いに、レーヴレヒトはバツが悪そうに後頭部を掻きながら応じる。
「いやあ、それが失敗してしまって」
その頃、
「まったくもう、本当に女心が分からないんだからっ!!」
ヴィルミーナはプリプリと不満を訴えていた。
「鹿角狼獣に襲われたことより、レーヴレヒト様への御怒りが勝るあたり、御嬢様らしいですねえ」
話を聞いていた御付き侍女メリーナがしみじみと呟く。
「あれも忘れ難い体験だったけど、レヴ君のやらかしはそれ以上よ、それ以上っ! 生死の境を潜り抜けた後の高揚感と勢いでキスするとか、その先へ進んじゃうとかあるでしょっ! なんで不気味な爺さんの話を聞かされにゃならんのだっ!!」
プリプリと怒るヴィルミーナを余所に、
「それにしても、鹿角狼獣に出くわすとはねぇ……無事で良かったと安堵するべきか、そんな事態に遭遇するヴィーナの悪運を嘆くべきか迷うわあ……」
どこか呆れ気味なユーフェリアが古参侍女に尋ねた。
「たしか、鹿角狼獣の出没報告は久しくなかったわよね?」
「記憶している限りですと、我が国ではヴィーナ様の水難事故後に出没報告はありません」
「え。そんなに珍しいものなの、アレ」
目を瞬かせるヴィルミーナへ御付き侍女メリーナが説明した。
「冒険者組合が定めた規定では稀少性はA等級ですから、数年に一度出没が確認されるかどうかのモンスターですね。もっと厳密に言えば、鹿角狼獣に出くわしたら大抵は死ぬんで、出没報告をできる人間がいない、ということですけど」
さらっと怖いことを言うメリーナに、ヴィルミーナは何とも言えないビミョーな顔つきで言った。
「そういえば、あのアミュレットのおかげで助かったのかもね。ありがと、メリーナ」
「え。あれが効いたんですか。魔狼除け程度のつもりでお渡ししたんですが」
今度はメリーナが目を瞬かせた。
「え、何、その反応。なんなのよ?」
訝るヴィルミーナへ、メリーナは言い難そうに白状した。
「魔狼の類には猛烈な悪臭に感じる魔導術理を組み込んでおいたんです。ほら、犬薄荷の精油で猫が酔うでしょう? アレの逆作用みたいなものです」
「……つまり、私は猛烈な悪臭を出していた、と」
「に、人間には知覚できませんから。レーヴレヒト様も気づいてなかったでしょう?」
ヴィルミーナにぎろりと睨まれ、メリーナは慌てて釈明する。
「それに、発見ですよ、発見っ! あの臭気術理を使えば、鹿角狼獣を追い払えるって発見できたんですっ! 歴史に名前が残るかもしれませんよっ!」
「そんな名前の残し方したら、悪臭垂れ流し女って呼ばれそう……」
眉間を押さえて唸るヴィルミーナ。
そんな娘の様子にユーフェリアがくすくすと喉を鳴らし、
「それで、ヴィーナ。レヴ君とどうやって仲直りするの? 積極的にいく? 様子見する?」
ヴィルミーナは嘆息と共に言った。
「……レヴ君と話してくる」
レーヴレヒトが部屋で昨晩の出来事をいつものようにノートへ書き込んでいると、ヴィルミーナが訪ねてきた。
珈琲と茶請けのプリンを持って。
ヴィルミーナは気まずそうな面持ちで謝罪した。
「昨日の私はちょっと大人げなかったな、と思って。ごめんなさい。レヴ君はずっと私のことを最大限気遣ってくれていたのに」
「や。俺が悪かった。場を弁えない話題を選んだのが良くなかったよ」
レーヴレヒトは椅子を用意し、ヴィルミーナに勧める。
二人は揃って微苦笑を浮かべ、仲直りするようにカップで乾杯した。そうして、プリンを突きながら、
「思えば、これが最初だったな」
レーヴレヒトは半分ほど食べたプリンを見つめた。
「君と一緒に初めて手掛けた“仕事”だ」
「そして、今の関係に発展。プリン様様ね」
ヴィルミーナは鈴のように喉を鳴らし、
「昨日の話だけれど」
食べ終えたプリンの皿をテーブルに置いて言った。
「私はレヴ君が何年も戦場に行ってても、浮気なんてしないわよ」
「心配してないよ。俺だって君が忙しくてろくに会えなくても、浮気しないよ」
「娼婦も買わない?」
ヴィルミーナはジトっとした眼でレーヴレヒトを睥睨した。
「……戦場勤務に就いてる時は大目に見て欲しいとは思う」
きまりが悪そうに、だが正直に吐露するレーヴレヒトにヴィルミーナはからからと笑って、
「良いわ。戦場勤務の時は娼婦遊びも許してあげる。だけど、妾は許さないわよ。それに、娼館通いもね」
紺碧色の瞳がぎらりと獰猛に煌めいた。
「俺、そこまで性欲旺盛じゃないよ」
レーヴレヒトはげんなり顔で嘆息を吐いた後、プリンの皿をテーブルに置いてヴィルミーナの眼前に座る。その両手を握って紺碧色の瞳をまっすぐ見つめ、
「俺は君を決して裏切らない。絶対に」
告げた。
「愛してるよ、ヴィーナ」
ヴィルミーナは頬を桜色に染め、小さく頷く。
そして、二人は顔を近づけ――
二人の初めてのキスは、プリンの甘さとカラメルのほろ苦い味のするキスだった。
なんとか、元日投稿に間に合った……
今年もよろしくお願いします。




