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ヴィルミーナは少女として許されないレベルの憤慨面を浮かべていた。
先月作ったばかりの黒と赤の二色ドレスは、9歳用としては珍しくソリッドな雰囲気で、かなりお気に入りだった。そのお気に入りのドレスの胸元から裾にかけて紅茶でぐっしゃりと濡れて台無しになっていた。
美貌が損なわれるほどの怒気を浮かべるヴィルミーナの前には、汚れた格好の令息令嬢が数人ほど並んで震えあがっていた。
周囲の子供達は野次馬根性と好奇心の薄笑いが半分。
ヴィルミーナの激怒に巻き込まれないかと不安な者が半分の半分。
残りはどうすればこの状況解決の最適解を導き出せるかと頭を働かせている者達とただただ困り果てている者達だ。
使用人や警備などの大人達は見ているだけで自発的に動こうとしない。こういう場合も想定し、“採点”と“査定”が行われているのだろう。
そして、第一王子エドワードは困り果てていた。
自身が主催したという建前の茶会で生じたトラブルである。主として使用人達にあれこれ差配し、当事者達が納得する始末をつけ、茶会をつつがなく再開しなければならない。
が、殺気すら漂わせるいとこヴィルミーナを前にしたら、頭が真っ白になってしまった。
第一王子エドワードはさっと視線を動かし、友人達へ助けを求める。
宰相令息マルクは首を左右に振った。アイデア無し。
近衛軍団長令息ユルゲンは肩を大きくすくめた。対策なし。
北部沿岸候次男カイはささっとそっぽを向いた。意見を求めるな、というスタンス。
宮廷魔導術士総監末子ギイは既に姿が無い。逃げやがった。
役立たず共め、と心の中で悪態をこぼしつつ、第一王子エドワードはどうしてこうなった、と額を抑える。
どうしてこうなったのか、時間を少し巻き戻して説明しよう。
ヴィルミーナの忠告通り、第一王子エドワードは自分に群がる御令嬢方や御令息達に微笑を送り、心遣いある言葉を贈っていた。御令嬢方や御令息方は感激して喜んだ。なるほど、この日の出来事は彼らの心に深く刻まれ、第一王子エドワードへの強い忠誠心を育むだろう。
そんな調子で周囲と接している時のこと。
ハイスターカンプ公爵令嬢グウェンドリンとホーレンダイム侯爵令嬢デルフィネが喧嘩を始めた。
事情を説明しておくと、ハイスターカンプ公爵家とホーレンダイム侯爵家は仲が悪い。
ベルネシア王国建国時において、ハイスターカンプ家とホーレンダイム家は王女の降嫁を巡り、それはそれは壮絶な暗闘を繰り広げたという。で、その結果、ハイスターカンプ家が勝利し、王女を嫁に迎えて最古参公爵家の一つになった。一方、ホーレンダイム家は以降、降嫁の話もなく侯爵家に留まっている。
以来、両家は険悪な関係を維持していた。グウェンドリン嬢とデルフィネ嬢の喧嘩もそうした両家の怨讐の一幕に過ぎない。
しかし、王宮の茶会で喧嘩は不味い。大人ならばその辺りをきっちり弁えただろう。ただ、どれだけ厳しく躾けられても、やはり9歳児は9歳児。分別を弁えられるかと言われれば、やはり難しい。感情を優先してしまう。
というわけで、グウェンドリン嬢とデルフィネ嬢は売り言葉に買い言葉。罵詈雑言の浴びせ合いの末、手を出した。どちらが先、ということはない。2人はボクシング漫画の如く同時に相手の顔を引っ叩いた。
取り巻きの少女達がすかさず止めに入ったが、むしろ騒ぎは拡大した。あちこちで取っ組み合いと引っ叩き合いと引っかき合いと殴り合いが発生。
王宮庭園はさながら場末の酒場が如き有様となった。
我らが第一王子エドワードも当然、止めに入った。ところが、騒ぎは中々収まらない。
そこへ、「やめなさいっ!」とヴィルミーナがやってきて大喝を飛ばした。
冷水を浴びせられたように収まる騒ぎ。
ただし、宙を行く紅茶のカップは止まらずヴィルミーナを直撃。魔導繊維製のドレスは紅茶の熱さをヴィルミーナに伝えることはなかったものの、ドレスは無残な有様になってしまった。
「……騒ぎに参加した奴は全員、そこへ並べ。今すぐだ」
激怒したヴィルミーナの言葉に逆らえた者は一人もいない。
で、現状に至る。
ヴィルミーナは何も言わず、整列した御令息御令嬢方をぎろりと睥睨し続けていて、誰かが口を開こうとすると、「黙れ」と告げて口を噤ませた。
体感では数時間にも感じられる重く苦しく恐ろしい緊迫の数分の末、ヴィルミーナは第一王子エドワードへ顔も向けずに言った。
「殿下。この場の始末を私にお預けいただけませんか?」
「え?」
第一王子エドワードはびくりと身を震わせた。宰相令息マルクが素早くエドワードに耳打ちする ――殿下、ヴィルミーナ様に裁量を指示なさいませ。ここは殿下の意向でヴィルミーナ様が始末をつける。そういう体裁を取られるべきです。
第一王子エドワードは操り人形のようにこくんと頷き、こちらを一瞥すらしないヴィルミーナへ告げた。
「よろしい。大公令嬢ヴィルミーナ、其方にこの場を委ねよう。しかし、禍根が残るような仕儀は許さん。適切に当たる裁可を下すように」
「御意」
ヴィルミーナは小さく首肯し、整列している令息令嬢達へ告げた。
「貴様らにいかなる事情があって、王宮にて乱暴狼藉に至り、殿下の御宸襟を騒がせたかは知らんし、興味もない。それ自体が既に関しえぬ大罪であり、重罰に値する愚行と知れっ!」
びくっと大きく震わせる令息令嬢達。その気迫は周囲の子供達にも伝播し、居住まいを正させた。
「しかし、殿下は貴様らの大罪に御寛恕を下された。殿下の慈悲深さに深く感謝せよっ! これより、貴様らの処分を言い渡すっ!」
魔狼のような笑みを浮かべ、ヴィルミーナは令息令嬢達へ告げ、
「一つ、茶会にて乱暴狼藉を及んだことに対する罰。貴様らのその弛んだ性根を鍛え直す。宮廷礼儀作法講師殿より一週間の特別講習を受けよ。この費用は全て貴様らが負担すべし」
続けて、
「もう一つ。宮廷茶会の物品および私のドレスを台無しにした件だが、その弁償費用は免除。ただし、殿下と私に対する慰謝料として、一人につき銀幣五枚の支払いを命じる。なお、この慰謝料は実家及び御家族の援助を許さん。当家が指定する先にて、皿洗いでも厩掃除でもなんでもして稼げ。それが嫌だというならば、」
びゅん、と右手を勢いよく振った。
「この場にて、ビンタ一発。これで済ませてやろう」
ビンタと聞いて、第一王子エドワードはもちろん、周囲の大人達も呆気にとられた。
並んでいた令息令嬢は顔を真っ青にしていた。
王族や宮廷仕えの使用人達に礼儀作法を仕込む宮廷礼儀作法講師は、凄まじく厳格で知られている。歴代貴顕が口を揃えて『礼儀作法の講義が一番辛かった』と語り、宮廷仕えの使用人達が『再教育を受けるくらいなら手討ちになる方がマシ』と吐露する代物だった。
そして、彼らは高位有力大身貴族子女である令息令嬢達だ。使用人達がやるような所業――皿洗いや厩掃除なんてプライドが許さない(王立学園入学後は、校則や先輩後輩の序列などでその手のこともやらされるのだが、彼らはまだ知らない)。
最後にビンタ。一番軽いようで、一番きつい。
貴族とはメンツの生き物だ。衆目の面前でビンタなんてされようものなら、これから先、死ぬまでネタにされる。『あいつ、ヴィルミーナ様にビンタされたんだぜ』と。
もっとも、ヴィルミーナはそこまで考えていない。悪さしたガキにはお仕置きが要る。それだけだ。
そこへ、
「私が大公令嬢ヴィルミーナの裁きを認める。礼法講習は必須。労働かビンタか選べ」
第一王子エドワードが認定したことで、令息令嬢達の逃げ道は失われた。
結果から言おう。令息達は全員、労働を選んだ。男性原理の強いこの時代、人前で女子に頬を張り飛ばされるなんて許容できなかった。9歳とはいえ、男は男である。
令嬢達も大半は労働を選んだ。単純にビンタが怖かったのだ。ヴィルミーナの素振りは迫力がありすぎた。
むしろ、労働を選ばなかったのは二人だけ。
事の発端たるグウェンドリン嬢とデルフィネ嬢だ。
2人は挑むように一歩前へ出て、銃殺刑で目隠しを断ったネイ将軍の如く敢然と受けて立った。
ヴィルミーナはにやりと凶悪に微笑んだ。
「その意気や見事。では……背筋伸ばせぇあご引けぇ歯ぁ食い縛れぇっ!」
肉打つ派手な音色が庭に響く。二度も。
グウェンドリン嬢とデルフィネ嬢は文字通り、これまで頬を打たれたことなどない。
しかし、互いに対する意地か、ヴィルミーナに対する負けん気か、あるいは生来の気質なのか、目尻に涙を浮かべながらも、微動にせず泣いたり崩れ落ちたりしなかった。その堂々たる振る舞いに、むしろ周囲の畏敬すら買っていた。
ただまあ、ビンタと一言で言っても、奥が深い。
下手なビンタは鼓膜を破ることもある。また、当て方次第では掌底打と変わらないため、鼻腔や口腔内から出血、顎の打撲なども生じる。一方で、巧者は派手な音色を奏でつつ、さほど痛みを与えない打ち方を心得ている。
グウェンドリン嬢とデルフィネ嬢は知らない。ヴィルミーナが巧妙に痛みを与えないよう気配りしたことを。
ビンタ制裁を済ませ、
「従容に裁きを受ける覚悟、見事でした。流石は名門ハイスターカンプ家御令嬢、流石は名家ホーレンダイム侯爵家御令嬢であられます。このヴィルミーナ、心から感服申し上げます」
ヴィルミーナは一瞬で慈母のような柔らかい笑みを湛え、丁寧に一礼した後、2人を同時に優しく抱擁した。そして、耳元へ小さく囁く。
「これからはもっと上手く喧嘩しなさいよ」
「この借りはきっちり返すから覚悟なさい、ヴィーナ」とグウェンドリン。
「ヴィルミーナ様。地獄に落ちやがれ、でございます」とデルフィネ。
彼女達のそんなやりとりなど露知らず、第一王子エドワードは片が付いたと安堵の息を漏らし、皆へ言った。
「この件はここまで。諍いを起こすなとは言わん。ただし、節度を弁えよ。さもなければ、我がいとこヴィルミーナのお叱りを買うぞ」
皆が苦笑いをこぼし、当て馬にされたヴィルミーナが不満げに頬を膨らませた。
第一王子エドワードは懲罰が確定して意気消沈している者達にも声を掛け、
「そなたらも罰は罰で受けるが、良い経験をしたと思うが良い。時と場が違えば、最悪修道院押し込めもありえた。そのことを肝に銘じよ。ヴィルミーナを恨まず、感謝するように」
最後に、ヴィルミーナ達へ言った。
「三人共、酷い格好だぞ。使用人のお仕着せになるが、着替えるがよい。その後、私の傍に居るように。目の届くところに居てもらうぞ。放っておくと何が起こるか分からないからな」
で。
侍女達と同じお仕着せを着たヴィルミーナとグウェンドリンとデルフィネの三人は、仏頂面で第一王子エドワードの傍にいた。
「そこの侍女見習い。御茶を淹れてもらえるかな?」
「侍女見習いじゃありません。殿下のいとこのヴィルミーナです」
「何? おお、本当だ。てっきり侍女見習いかと思ったぞ、ヴィーナ」
こんな調子でヴィルミーナとグウェンドリンとデルフィナは、第一王子エドワードから茶会が終わるまでからかわれ続けた。
「あんたたちのせいよ。とんだとばっちりだわ」
「ヴィーナが首を突っ込んできたのが悪い。自業自得よ」
「ヴィルミーナ様。ざまあみやがれ、でございます」
三人はぶつくさと文句を言い合った。
その様子を眺めていたメルフィナは取り巻き達に悪戯っぽく言った。
「きっと今日の茶会は長く語られるわよ」
その予言は事実だった。
人呼んで『茶会のビンタ事件』。
後世、ヴィルミーナの伝記に欠かせないエピソードとして扱われている。