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文字数を削るために推敲したら、逆に文字数が増えた。
ちょい長めですが、よろしくお願いします。
大陸共通暦1766年:ベルネシア王国暦249年:冬。
大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:南部国境付近。
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戦闘のショックで精神状態がぐちゃぐちゃだったヴィルミーナは、レーヴレヒトと唐突な4年越しの再会に反応できない。
喜んで抱き着くべきなのか、今まで音沙汰なかったことを怒るべきなのか、助けられた礼を言うべきなのか、どうすれば良いのか、まるで分らない。
そんなヴィルミーナの困惑と混乱を察したのか、レーヴレヒトはあえて、再会に関しては触れず、山岳帽を被り直して軍人然と振舞った。
「特殊猟兵戦隊のゼーロウ特技准尉です。将校は居ますか?」
無機質ながら丁寧な声は、女性兵士達に反応を強要した。
女性小隊残余を指揮していた若い伍長が弾けるように姿勢を正して敬礼、報告する。
「第17輸送隊、ミラ・ハイネマン伍長です。小隊長は戦死なされました。今は自分が最上位者です」
「戦場で敬礼は不要だぞ、伍長」
レーヴレヒトは柔らかな微苦笑を湛え、仲間の特殊猟兵達に手信号で指示を出す。
3人が周囲に展開し、息のある敵兵を容赦なく始末しつつ、周辺を警戒。
2人が掩体壁を乗り越えて負傷者の手当てを始めた。てきぱきと水系魔導術で傷口を洗浄し、希釈した回復剤を塗布したガーゼを当て、圧迫包帯で縛り上げる。
応急処置を行う特殊猟兵達が軽口を叩く。
「こんなにたくさんの女の子を手当てできるとは……野戦応急手当課程を採って初めてよかったと思ったぜ」
「そこで別嬪さん達が怪我をしたことを嘆けねェから、オメーはモテねェんだよ」
まあ、それはともかくとして。
動揺から多少立ち直ったヴィルミーナが目を瞬かせながら、まじまじとレーヴレヒトを見つめ、口を開く。
「え、と、なんで―――」
レーヴレヒトは今までヴィルミーナが見たこともない冷たく、非人間的な目つきで敵兵達の骸を一瞥し、
「“狩り”の最中だったんだ。さっきの恐ろしい魔導術には参ったよ。危うく巻き込まれかけた」
ふ、と息を吐いてヴィルミーナの見慣れた困り顔で微笑む。
「君がいるとは知らなかった。知っていれば、もっと早く助けに来たんだけれど……」
その見慣れた表情を見た瞬間、ヴィルミーナは酷い安堵感に襲われ、勝手に涙が溢れ出た。
戦闘で痺れていた感情がにわかに活性化し、涙が止まらない。嗚咽もせず、何も言葉を発さず、ヴィルミーナはただただ涙を流し続ける。
前世覚醒して以来、初めて流す滂沱の涙だった。
レーヴレヒトも何も言わず代わりにヴィルミーナを抱きしめた。優しく、柔らかく、でも、強くしっかりと。
4年前は大して変わらなかった背丈は、今ではレーヴレヒトの方が15センチ近く高い。
ヴィルミーナはただただ無言で泣き続けた。レーヴレヒトの胸に顔を埋めて。
「? ? ? ? ? レヴ、その別嬪さんと知り合いか?」
負傷者の手当てをしていた特殊猟兵の一人が困惑気味に尋ねてきた。彼らはヴィルミーナ達が学徒動員された王立学園の御令嬢方とは知らない。
レーヴレヒトはヴィルミーナを抱きしめたまま、仲間を一顧にしない。
ほっとけと言わんばかりの態度に、特殊猟兵は肩を竦めた。
「お前に女が居たなんて知れたら、基地の女共が暴動を起こすぞ」
「娼婦連中もだな。あいつらは頭悪いからマジで大暴れするぞ」
負傷者の応急処置に当たっていた特殊猟兵達がそう言うと、レーヴレヒトの胸で静かに泣いていたヴィルミーナがピクリと反応する。
洞察力に秀でたレーヴレヒトはその反応を見逃したりしない。『あ、面倒なことになる』と直感的に理解した。同時に、この後の対応次第でヴィルミーナにケツを撃たれかねないことも、やはり理解した。
ヴィルミーナはそっとレーヴレヒトの胸元を押してレーヴレヒトから離れ、怖気を震うほど美しい笑みを向けてきた。
その場にいる全ての者が顔を引きつらせるほど、恐ろしい笑みだった。
「レヴ君。後で必ず時間を作って。『お話し』しましょう?」
レーヴレヒトは頷くしかなかった。
〇
戦場掃除が行われる。
敵兵と友軍戦死者の始末は女性兵士達が行った。ただし、軍事補助員達の、ヴィルミーナの大事な友人達の亡骸はヴィルミーナ達が扱った。
ヴィルミーナは命を落とした側近衆の二人を可能な限り奇麗にし、軍隊毛布で包んだ。2人に贈った青魔鉱銀製のブレスレットを外す時、贈った際の二人の笑顔を思い出して涙が止まらなかった。アレックス達も声を上げて涙する。
デルフィネ達も命を落とした三人の側近衆へ同様に移送支度をした。もちろん泣きながら。
女性兵士達も死んだ戦友達の移送支度をしていく。彼女達もやはり泣いていた。
レーヴレヒトは革張りの紐閉じノートに淡々と記録を付けた。戦闘の場所、時刻、状況。倒した敵兵の数。死傷した味方の数。その氏名と年齢。所属。階級。そして、遺品となる私物のリスト。
そして、任務を再開する準備を始める。
軍隊は社会で唯一人員を損耗することを前提とした組織であり、どれだけ犠牲を払おうと任務遂行に努めねばならない。
彼女達の務めは二つに増えていた。
物資を移送する。負傷者と死者を移送する。辛くても苦しくても悲しくても、為すべきを為さねばならない。
目減りはしたが、この物資が必要な者達がいる。自分達と同じように仲間を友を亡くしながらも戦い続ける者達が、物資を必要としている。
傷ついた者達を野戦病院へ連れていかなくてはならない。なんとしても命を繋ぐために。死者を連れ帰らねばならない。その死を悼み、弔うために。
女性兵士の指揮を執る伍長は自分達が物資を運び、負傷者を軍事補助員――ヴィルミーナ達へを任せようとした。ヴィルミーナ達を前線から遠ざけるために。
しかし――
「輸送の物資を使った件の申し開きをしないと。私の責任で行われたのだから、責任がある」
ヴィルミーナが毅然と申し出る。もちろん、本心はマリサを今すぐ野戦病院へ連れていきたい。レネとサマンサをちゃんと弔いたい。でも、務めがある。責任を果たす必要がある。
と、レーヴレヒトが助け舟を出す。
「この物資は俺達が備蓄所まで届けるよ。消耗した件も適当になんとかする。君達は負傷者を後送しろ」
「でも」
言い募ろうとするヴィルミーナへ、
「軍事補助員。特技准尉からの命令だぞ」
レーヴレヒトはどこかからかうように言い、女性伍長へ淡白に告げた。
「伍長。軍事補助員と共に野戦病院へ行け。馬車の残りは我々が輸送任務後、野戦病院へ届ける。合流するまで現地で待機し、軽作業を手伝っていろ。誰かにごちゃごちゃ言われたら、特殊猟兵に命じられたと言え。それで誰も文句は言わない」
「はいっ! ゼーロウ特技准尉殿」と答礼する伍長。
「戦場では敬礼するな、伍長」
レーヴレヒトは先に発つヴィルミーナへ言った。
「この辺りにいた連中は俺達が粗方”狩った”から、後方へ向かう分には大丈夫だ。安心して良い」
「レヴ君が言うなら、本当に大丈夫ね」
ヴィルミーナは弱々しく微笑み、ふ、と息を吐いて真顔で言った。
「野戦病院で待ってる。来なかったら酷いわよ」
「必ず行くから」
困り顔で微苦笑を湛えるレーヴレヒトに見送られ、ヴィルミーナ達は出発した。
ヴィルミーナ達は野戦病院を目指し、山林道を引き返していく。悲しみと怒りと恐怖と安堵感と喪失感と生き残った罪悪感を抱えながら。
この日、ヴィルミーナ達が遭遇した戦闘を歴史書で確認することは出来ない。この戦争中、吐いて捨てるほど発生した小競り合いの一つに過ぎなかったからだ。“凡庸”な戦いには歴史的価値がない。
歴史的価値がある戦いは、南部小都市ワーヴルベークで行われていた。
〇
小都市ワーヴルベークでの戦いは、クレテア軍『ボレル任務大隊』が優位にあった。
というのも、ベルネシア軍は本国軍のほとんどを国境防衛線に投入しており、銃後の守りは練度の低い徴兵部隊と国家憲兵隊に依存していたからだ。そして、第一王子率いる広報宣伝部隊は極少数の王子直衛を除けば、ド素人の貴族令息令嬢しかいなかった。
戦闘は完全な市街戦であることも、質に劣るベルネシア側に不利となった。障害物が多く、視界が限られ、相互の連携が難しい市街戦は練度と技量の差が露骨に生じる。
しかも、王子達にとってワーヴルベークは見知らぬ街であり、『ボレル任務大隊』同様に地の利もない。
かくして純粋に質の勝負となり、『ボレル任務大隊』が優位に立った。真面目な復讐者達が戦闘技術と練度と経験を駆使して戦い、カス共が好き勝手に暴れ回る。
如何に第一王子エドワードが献身的勇気を発揮し、抵抗を試みても、能力的、練度的、経験的不利は覆せず、『ボレル任務大隊』の跳梁を止められなかった。
『ボレル任務大隊』の凶行振りに徴兵部隊が崩れ、軍旗すら放り出して逃げ出すという大失態を犯す。
それこそがこの戦いが、歴史に語られる端緒だった。
地面に放り出されて犠牲者達の血と泥に汚れた軍旗を拾い上げ、高々と掲げた者がいた。
アリシア・ド・ワイクゼル準男爵令嬢である。
準男爵の娘が広報宣伝部隊にいた理由は、王子が譲らなかった『わがまま』であり、グウェンドリンの容認があり、王国府と軍も認めたことだった(”愛人”の参加で王子が大人しく言うことを聞くなら、と折れたのだ。これにはヴィルミーナも苦笑い)。
アリシアはベルネシア軍旗を高々と掲げ、街の端まで届きそうな大声を張った。
「我らの国、我らの故郷、我らの家族、我らが守らずに誰が守るっ!」
日頃の太平楽振りはどこへやら。いや、これこそ、死が身近な外洋領土で生まれ育った少女に秘められた、もう一つの貌なのかもしれない。
「怯むなっ! 勇気を燃やせっ! 私に続けっ!」
雄々しく叫び、アリシアは軍旗を掲げて敵へ向かって駆けだす。
その馬鹿馬鹿しいほどの勇敢さに、誰も彼もが呆気にとられた。『ボレル任務大隊』の将兵すら、唖然としてしばし、攻撃を中断したほどだった。
いずれにせよ、アリシアの大喝とその行動が恐怖に呑まれていた全ての兵士と住民を奮い立たせ、第一王子エドワード達の戦意を掻き立てた。
「彼女に続けっ! ベルネシア万歳っ!」
佩刀を高く振り上げ、アリシアと共に駆けるエドワードの姿はまさに英雄的で、
「突撃、前へっ!」「急げっ! 殿下をお守りしろっ!」「殿下達の背中を拝むなっ! 近衛の名が泣くぞっ! 走れっ!!」「突撃じゃああああああああっ!!」
直衛部隊は激烈に猛り狂い、
「ベルネシア万歳っ! エドワード殿下万歳っ!」
中でも、脳筋ユルゲン・ヴァン・ノーヴェンダイクは先頭に飛び出して銃を撃ち、軍刀を振るうほどに勇ましく、
「戦えない人は僕に魔力を寄こせっ! 集団魔導術を使うっ!」
“やらかし”以降、ひたすらに魔導術の研鑽を積んできたギイ・ド・マテルリッツはその実力を存分に発揮する。
「奴らを人間だと思うなっ! 小鬼猿の駆除だと思えっ!」
カイ・デア・ロイテールは別方向でその闘志を発揮した。鉄砲上手の者達を搔き集め、高所に駆け上がり、援護射撃を繰り出す。激しく揺れる船上で鍛えられた射撃技術は、アリシアとエドワード、そして仲間達を大いに守った。
「大声を出せっ! 気勢を張って奴らを竦ませろっ!」
本来文官のマルク・デア・ペターゼンは誇るべき武勇を持たない。しかし、彼も他の貴顕子弟達共にエドワードに続く。荒事が本領でない彼も、この時は祖国のため、主君のため、友のため、愛する女のため、民のため、小銃を抱えて走る一兵士となった。
「殿下達をお守りしてっ! 魔導術で援護するのよっ!」
グウェンドリンもまた、勇敢な一兵士だった。怯え竦んでいた貴族子女達を励まし、その務めを果たさせる。
銃を持たない住民達すら、武器になりそうな物を持ち出してエドワード達へ続いた。建物の高所から植木鉢など重たい物を投げつける婦人や子供さえいた。
誰も彼もが卑劣な侵略者へ勇敢に立ち向かう。
奇跡のような光景だった。
戦いの素人達が青臭い使命感と無鉄砲なまでの勇気と、その勢いだけで『ボレル任務大隊』の優位をひっくり返し、余勢を駆って『ボレル任務大隊』を押し始めたのだ。
さながらチンケな戦記物の如く。
ボレル大佐は悪い夢でも見ているような気分だったろう。
一人の少女の大喝と蛮勇により、戦況が一気に激変してしまったのだから。
街を襲った『ボレル任務大隊』が、今や街全体に襲われている。
復讐者たるボレル大佐とその部下達は、街の小さな教会に追い詰められたが、降伏という選択肢は最初から持ち合わせていない。
彼らは奪われたものを償わせるためにこの場にやってきた。自身が味わった苦痛と悲哀と絶望と喪失感を、ベルネシア人に思い知らせるためにこの場に立っていた。おぞましき凶行に走ったのも、恥ずべき蛮行を繰り広げたのも、全ては不帰の覚悟で復讐を果たすため。
ゆえに、『ボレル任務大隊』は一人でも多くのベルネシア人を道連れにしようとあがき、ゆっくりと、だが、確実に揉み潰されていく。
「――かくなるうえはっ!」
ボレル大佐は教会正門の前で背嚢を下し、切り札を取り出す。
それは血のように赤い超高純度魔晶石だった。
魔晶炸薬が示す通り、魔晶はある種の魔導術を用いることでエネルギー化できる。純度が高ければ高いほどに内包するエネルギーの量と密度が高くなる。
ボレル大佐が用意していた超高純度魔晶石はラグビーボール大の代物であり、区画一つを焼尽可能なエネルギーを持っていた。
もちろん、希少かつ想像を絶する高額品だが、これを調達せしめ、ボレル大佐に託す者達が、クレテアの中にはあった。ベルネシアに憎悪と怨恨と憤懣を持つ者達が。
懐から取り出した小さな家族肖像画を見つめながら、ボレル大佐は自身をトリガーとしてその超高純度魔晶石を励起活性化―――すなわち、爆発させた。
そのエネルギーはしばしば戦術核と誤認された大型爆弾デイジー・カッターに近しいほどだった。
ボレル大佐の肉体を文字通り消失させた莫大なエネルギーがワーヴルベークを襲う。
ただし――この手の”兵器”がこの時代で衰退しているには、訳がある。
爆発の機先を制し、劇的な励起反応を捉えたギイが叫ぶ。
「デカいのが来るぞっ! 魔導防護障壁を張れっ!」
魔導技術文明世界においても、戦争技術の法則――攻撃と防御の手段が常にイタチごっこを繰り返す――を踏襲しており、単純な魔力エネルギー兵器を防ぐ手段自体は確立されている。
あとは、純粋な力勝負。
ボレル大佐の『最期の一撃』と、少年少女達の抵抗。どちらが勝るか否か――
そして、アリシアはそのあらん限りの力を使い、ボレル大佐の『最期の一撃』へ抗う。
「だぁあああああああああああああああああああああっ!」
裂帛の叫び声と共に放たれる麗しき光。尋常ならざる圧倒的な魔力放出。かつてエンテルハースト宮殿の魔導防護障壁を貫きかけた時よりも、さらに強大で巨大な魔力の大嵐。
破滅と守護の光がワーヴルベークを満たした。
その鮮烈な光の大瀑布に誰もが目を瞑り、そして、恐る恐る目を開く。
教会は半ば倒壊し、聖王教のシンボルたる聖剣十字が正門前に落ちて傾げ立っていた。
街そのものは破壊を免れ、莫大な魔力の衝突で焼かれた大気中魔素と残渣が、桜吹雪のように街中へ舞い散り、降り注ぐ。
まるで戦いで傷ついた街を慰めるように、戦いで荒んだ人々を慰めるように。
そして、生き延びた全ての命を祝福するように。
その青い花吹雪の中心で、傾げた聖剣十字を背にベルネシア軍旗へもたれかかるように立つアリシアの姿は、宗教的神々しさに満ち溢れていた。
信心深い者達はアリシアの姿に、聖剣十字の印を切る。中にはひざまずいて拝礼する者までいた。帽子や兜を脱いで敬意を捧げる者も少なくなく、その幻想的で神秘的な光景に感涙する者達も多い。
ワーヴルベークの戦いはこうして劇的ながらも静かな閉幕を迎えた。
復讐者は負傷して動けなくなっていた数名をのぞき、全員が戦死した。
捕らえられたカス共は捕虜として確保されたが、”何らかの不備”からその夜のうちに、街の外へ連れ出され、嬲り殺しにされた。おそらくは現地守備隊か住民の手によるものだろうが、追及はされなかった。する必要も意義も、誰も認めなかった。
少年少女達や住民達が示した勇気の代償は高くついた。
決して少なくない死傷者を出し、その治療と諸々の手配のため、事業にこなれたメルフィナが中心となって奔走する羽目になった。
後に、ベルネシア王国はこの奇跡的な勝利と第一王子エドワードの武勇を大いに喧伝し、国威発揚に散々ぱら利用した。
ただ、この時の犠牲により一部貴族との関係が微妙なものになったのも、また事実である。
なぜなら、本来は我が子を戦火から遠のけるために広報宣伝部隊に入れたのだから。我が子を失った者達からすれば、直接の責任がクレテア側になるとしても、これは許しがたい事態だったのだ。
そして、この戦いの後、アリシア・ド・ワイクゼルはいくつかの二つ名を賜る。
『ワーヴルベークの守護天使』に『青光の乙女』。
それから―――『聖女』と。
こうして、ワーヴルベークの戦いは歴史に名を残した。
素人と弱兵の集団が勇気だけで精鋭部隊を撃破した稀有な例として。
この逸話はこの時代の芸術家達の創作意欲を大いに刺激したらしい。数多くの戯曲や演劇の素材となり、絵画のモチーフとなった。
中でも、軍旗を持って駆けるアリシアとその周りを駆ける第一王子エドワード達を描いた大絵画『ワーヴルベーク』は、1766年ベルネシア戦争の象徴として芸術史にも名を残している。
ヴィルミーナの初陣が歴史に埋没したこととは対照的に。
〇
このワーヴルベーク襲撃は政治戦略としては大失敗に終わったが、軍事戦略としてはある成果を挙げた。
すなわち、ベルネシアが血道を上げて維持している防衛線の奥は、酷く脆弱だと暴露したのだ。
この事実は国庫が払底し始めていたクレテアに希望をもたらした。
より正確に言えば、主戦派達に、だ。
特殊猟兵戦隊の帰還に伴い、外洋派遣軍の主力が到来する不安を抱き、休戦を模索し始めていた穏健派を押さえ込むには、十分な希望だった。
彼らは大きな声で訴える。
防衛線さえ突破すれば、と。
もっとも、主戦派のクレテア人達は自覚していなかった。
希望こそ人間を破滅の沼へ進ませる最大の危険要素だということを。
戦争はもうちょい続きますが、戦闘描写はひとまずここまで。




