6:0a:忘れえぬ18の年。春~夏。
例によってめっちゃ長くなったので分割します。
心臓を患って倒れてからの5年間。
クレテア王アンリ15世は少しずつ健康を削ぎ落されていた。
今では、ダニエル・クレイグ似の精悍な顔は頬がこけて常に土気色をしている。騎兵上がりの逞しかった体は痩せ細ってあばら骨が浮き、手足が枯れ木のようになっていた。
それでも、彼の眼光はいささかも翳っていない。むしろ、凄味が増して鬼気迫っている。
今のアンリ15世を前に軽口を叩ける者はいなかった。口さがない貴族達も不仲な王妃も彼を前にすると怖気づいたように口ごもる。
その常軌を逸した威容と異様は、さながら燃え尽きる寸前のロウソクが激しく煌めいているようだった。
〇
『ベルネシア征服こそクレテアを救う“特効薬”である』
アンリ15世の言は一抹の真実であった。
豊かな経済力。優秀な技術力。進んだ産業。北洋から大冥洋、果ては大陸東方まで通じる貿易利権。地政学的にも資源的にも優れた外洋領土。これらを奪取すれば、クレテアの深刻的かつ慢性的な財政問題を一気呵成に解決できる。
また、ベルネシアを征服することで事実上、メーヴラント西部がクレテアの支配下に収まり、イストリアの西方への影響力が激減する。
それに、他の地域ではダメだ。
東は大陸西方メーヴラント=ディビアラントにまたがる大国の聖冠連合。征服は難しいし、かといって、単なる小競り合いでは得られるものが少ない。むしろ、赤字に終わるだろう。
南のコルヴォラント方面の隣国は事実上、クレテアの属国状態であり、しかも貧しい。併合したところで得られるものがあるどころか、インフラ整備などで逆に金を出すことになりかねなかった。
西のガルムラント方面、エスパーナ帝国は王妃の母国。攻め込む大義名分を整える手間が多すぎるし、クレテア同様の聖王教会伝統派を国教に据えている関係で、聖王教会法王庁の介入を招く。
やはり、得られる物が少なすぎる。
その点、ベルネシアとは歴史的経緯から敵対関係であるし、宗教的にも対立している。国家規模は中堅程度。背後にイストリアが控えているが、連中が本格介入するまでに趨勢を決してしまえばよい。
そのための聖冠連合帝国と婚姻同盟を結び、東部国境に張り付けていた戦力をベルネシア侵攻に投じる。
全てを計画通りに為すことが出来れば、聖冠連合帝国との関係を劇的に改善しつつ、財政問題の解決。一石二鳥で王手飛車取りの策だった。
アンリ15世の打ち出したこの外征計画は、意外なほど好意的に受け止められた。
元来、クレテア人は感情的で積極的な行動を好む(短絡的な脳筋ともいえる)。緊縮財政だの節減行政だの質素倹約だの構造改革だのまだるっこしい。敵をぶっ倒して分捕る。明確で分かり易い方がウケる。
それに、慢性的な赤字は国だけでなく諸侯達も同様だった。特に、窮状にあえぐ中小貴族や食い詰め貴族子弟達がこのベルネシア侵攻に飛びついた。
もちろん、どのような集団であれ、完全に一致するということはない。クレテア内の親ベルネシア派は監視を受けつつもそれとなく情報を流し、政府内穏健派(特に財政畑)の連中が猛烈に反発した。
宰相マリューはその筆頭だった。
御前会議の場で、宰相マリューは敢然と訴えた。
「ベルネシアの短期征服など夢物語ですっ! 征伐を図るなとは申しませんっ! しかし、現実的妥協案を模索しておくべきですっ!」
このすだれ頭の壮年男は合理的現実主義者で、国王や軍強硬派が狙う短期征服が不可能であることを十二分に承知していた。
ベルネシアは国家規模こそ中堅国家だが、列強の一角に名を連ねる実力を持つ。当然、軍隊は強い。規模はクレテアの後塵を拝するが、精鋭主義に基づく将兵の練度と装備の質はクレテアの一般将兵をはるかにしのぐ。戦い慣れた外洋派遣軍はそれ以上だ。そこへ加えて、イストリアが婚姻同盟に基づき援軍を寄こす。
しかも、ベルネシアは建国以来クレテアを明確に敵国としてきた。こちらに対して油断など一切あり得ない。
短期征服可能と考える方がどうかしている。
「卿のいう妥協とは何か。胸の内を開陳せよ」
今や人ならざる威容と異様を見せるアンリ15世に睨み据えられても、出来るすだれ頭は臆さない。堂々と自身の意見を語り始めた。
「イストリア軍が介入した時点でこの戦争は泥沼と化します。それでは陛下の治世によって得た財政的余裕が消し飛びますぞ。戦どころではない。国家破綻の危機ですっ!」
「何と弱気な。イストリアが乗り込んでくるなら、ベルネシア人共々海へ叩き落せばよいだけだ」「金が足らんなら増税でもすればよかろう」
大貴族達が軽々しく言うと、宰相マリューはすだれ頭を真っ赤にして怒鳴り飛ばす。
「口を閉じろ慮外者共めっ! これ以上、民に負担を加えてみろっ! 農村という農村が一揆を起こすぞっ! 貴様は再び大蜂起を起こす気かっ!」
大蜂起とは大昔にクレテアで起きた農民大反乱である。戦争の荒廃に加え、貴族達の無思慮な増税にブチギレたお百姓さん達が全国的な一揆を起こしたのだ。一揆勢に明確な統一的指導者がいなかったため各個撃破して鎮圧したが、クレテアはこの大蜂起でより国力を大幅に落とし、ベルネシア独立の一因となった。
罵倒された大貴族が瞬間沸騰して反論しようとするも、国王の鋭い一瞥で口をつぐむ。
「マリュー。続けよ」
「しかるに、イストリア軍介入を時間的限界と定め、その時点での占領地域を割譲、講和賠償金請求など外交手段へ切り替えることを提案します。場合によっては、占領地域の返還を条件に外洋領土の移譲を要求しましょう」
「要は保険を掛けるわけだな?」
「は。流石は我が陛下。御賢察です。勝負事の妙は勝ち方より引き際が肝心と心得ますれば」
「私もかつては戦場を駆けた身だ。小勢と侮った敵に手痛い敗走を期したこともあった。卿の心配も理解できる。卿の忠言を容れよう」
「ありがたき幸せっ!」
宰相マリューは深々と頭を下げた。同時に安堵する。彼の主君はベルネシア侵攻に『取り憑かれている』と言っても良い状態だったが、それでも、臣の意見を容れる度量を持ち合わせている。"まだ"忠節を尽くす価値がある。忠誠を尽くす意味がある。
大貴族達は顔いっぱいに不満を露わにしていたが、口をつぐんでいた。泥沼の長期戦を避けるという保険を王が認めたことは、自分達に都合が良いことも事実だったからだ。
「となると、侵攻開始までにベルネシアの弱体化がカギになりますね」
穏健派の高官が宰相の勇気に呆れつつ、お歴々に尋ねた。
「現在の“工作”状況はどうなってるんです?」
「ベルネシア海外領土への工作はそれなりに効果を上げているが、本計画の国内増強に合わせて現地支援を削減している。外洋領土の生産力低下や外洋派遣軍の帰還妨害は難しいな」
クレテアの諜報工作機関である王立司法省の警察局長が言った。
司法省の警察局はかつてのKGBのように国内治安維持から対外工作まで幅広く扱っている。
此度の侵攻に備え、反ベルネシア勢力に武器や資金を注入していたが、それも軍備増強に合わせて大幅に削減、縮小していた。
余談ながら、この支援を打ち切られた反ベルネシア勢力の多くが、ベルネシア外洋派遣軍の苛烈な報復と弾圧により壊滅していった。生き残った少数の勢力はベルネシアと同じくらいクレテアを嫌うようになる。
「工作を維持したままにはできないのですか?」
高官が問いを重ねると、
「我が国は“国庫”に余裕がないからなっ! 国内に手を回せば、外へ回せなくなるっ!」
苛立ったマリューがすだれ頭がりがりと掻く。貴重な髪がはらはらと散っていった。
アンリ15世の治世によって少々の余裕があるとはいえ、それだけなのだ。大国クレテアの実情は厳しい。それもこれも大貴族や聖職者達が特権に執着して協力しないから。
マリューに睨まれた大貴族や教会代表者達は動じもしない。うむ。面の皮が厚い。
「エスパーナを利用する手はどうなっておる?」
陸軍将官が尋ねると、警察局長は小さく肩をすくめた。
「連中、蛮族に東方植民地を奪われて以来、すっかり弱気で。南小大陸の植民地経営にしか関心がない。まあ、ベルネシア侵攻の趨勢が決まるまで様子見のつもりだろう」
欲深共め、と大貴族の一人が毒づく。マリューが『お前が言うな』という目を向けた。
「では、海軍の通商破壊と航路封鎖の具合は?」
高官から水を向けられた海軍将官はバツが悪そうに顔を俯かせる。
「開始直後は良好だったが……今はほとんど成果を上げていない。海上はイストリア海軍、空はベルネシアが優勢だ」
クレテアは常備兵力50万に及ぶ軍事大国である。陸軍のみならず、海軍も相応の規模を誇る。ただ、艦艇の性能と将兵の実力がイストリアにまるで及ばない。少数の艦艇同士の戦いでは手も足も出ないほどに。
空の戦いも芳しくない。ベルネシア軍戦闘飛空艇が出張り始めると、クレテア軍の戦闘飛空船の未帰還が急増した。なんせ、ベルネシア軍飛空艇は性能が良く、乗員の練度も高い。捕鯨でもするようにクレテアの戦闘飛空船を追い回していた。
口には出せないが、近頃は現場の士気がダダ下がりで、被害を恐れて長距離任務を控えている始末だった。
「海軍は根性が入ってない」「もっと気合を入れろ」「意気地が足りんのだ、意気地が」
大貴族達が無責任な批判を飛ばすと、海軍将官は煽り返すように応じた。
「これ以上の成果を望むならば、海軍の全艦艇を用いた決戦しかなく、仮に敗れたなら、今度は我が国の航路と海運通商が蹂躙されますが、よろしいか?」
「敗れたらとは何事だっ!」「海軍は決戦に臨む勇気もないのかっ!」
大貴族達が再び喚く。も、宰相マリューがアホを見るような目を向けた。
「その決戦とやらをやるための費用を卿らが出してくれるのか?」
言うまでもなく、いつの時代も軍船は高い。小型沿岸警備用でも同サイズの一般船舶より文字通り桁が一つ二つ違う。大型船ともなれば、それこそ泣きが入るほど高い。そして、軍船は稼働させるだけでも金と物資をたらふく食らう。海軍全艦艇を投じた決戦となれば、もう国の財政破綻を賭けた博打である。
大貴族達のさえずりが一瞬で止む。




