閑話4:伯爵令嬢ニーナの失敗。
大陸共通暦1765年:ベルネシア王国暦248年:冬。
大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:王都オーステルガム
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この日の朝、学生活動棟の“オフィス”にて、
「やらかしたぁ……やらかしてもうたぁ……」
ニーナは処刑場へ連行される虜囚の気分になっていた。
もう小半刻もしないうちにヴィルミーナがやってきて、此度の不始末の沙汰を下されることになっている。
アレックスは軽い処分だと言っていたが、処分の軽重は問題ではない。ヴィルミーナの信用と信頼を損ねたことが何よりも問題なのだ。
ニーナはヴィルミーナへ強い憧れを抱いている。あの庭園での一件以来、ずっと。
側近衆に認められた時の感動、『喜びに身が震える』ということを本当に体験した。
側近衆となってからは、憧れが一層強くなった。美しく聡明でどんな時も余裕を失わない在り方に、強く強く憧れている。側近衆内でナンバー3になったのも、ひとえに憧れているヴィルミーナに認められたくて、褒められたかったからだ。
あの素敵な紺碧の瞳に自分を映して欲しくて、ヴィルミーナに認められる人間になりたいと願って努力してきた。褒められる人間になりたいと望んで頑張ってきた。
―――なのに。
ニーナは左手首に巻いた青魔鉱銀製のブレスレットを撫でながら、半べそを掻いた。
ああああ、もうだめだぁ。おしまいだぁ。
言い訳をさせてもらえるなら、ニーナにもいろいろあったのだ。
継母との関係がビミョーであり、異母弟妹との関係は良好とも言い難く。嫡男である兄の許に嫁いできた兄嫁との関係もビミョー。家に帰っても自室以外は気も休まらない。
そして、小街区事業が始まって以来、ブラック企業顔負けの多忙な毎日だ。
むろん、ヴィルミーナとて側近衆を馬車馬のように使い倒したりはしない。身内に甘いこともあるが、それ以上に信用と信頼のおける有能な人材が宝石のように貴重だからだ。側近衆には定期の休みはきっちり取らせたし、報酬+オプション+インセンティブをこれでもか、と盛っている。
それでも、10代の少女に学業と事業を万全にこなせと言う方が無茶である。前世記憶持ちで中身がババアで元々が戦車みたいな気質の女でもなければ無理だ。
とどめに、ニーナがさりげなく慕っていた貴族青年が下級生と婚約してしまった。
地味に効いた。地味だが、かなり効いた。家で一人ちょっぴり涙をこぼすくらいに効いた。
家族との不和。過労。失恋。
多大なストレスの重さに、ニーナの心が、ぐにゃあ、と大きくヨレてしまった。
癒しが必要だった。
それも、美容エステやグルメやお洒落の類での癒しではない。人間による癒しが必要だった。自分の境遇や苦労や苦悩や努力を手放しで認めてくれる愛情が必要だった。いたわりと慈しみが欲しくて欲しくて仕方なかった。
ヴィルミーナでもアレックスでもマリサ達でも、求めれば、ニーナを抱擁して髪を撫でながら悩み事を何時間でも聞いてくれただろう。それだけの絆を構築している。
しかし、ヴィルミーナではダメなのだ。
ニーナにとって、彼女は憧憬の対象であり、甘える対象ではない。弱っているところなど見せられない。失望されたくない。落胆されたくない。
アレックスやマリサ達とは励まし合い、労苦を分かち合い、支え合うことは出来ても、弱みを一方的に晒していい相手ではない。戦友であると同時に、地位を巡るライバルなのだから。少なくとも、ニーナはそう認識している。
ぶっちゃけてしまえば、ニーナは恋人が欲しかった。
令嬢とか側近衆とか仕事とか学業とか全部放り出して、一人の少女として自分を愛し、慈しみ、受け入れてくれる相手が欲しかった。全てを晒して甘えられる相手を切望していた。自分の全部を理解してくれる相手を渇望していた。
心を満たしてくれる恋人が欲しくて仕方なかった。
ルイ・サヴォルリーと出会ったのは、ニーナがそれほど弱っていた時だった。
弁解させてもらえば、ニーナも怪しいとは思った。思ってはいたのだ。
ここですんなり転ぶほど甘い人間がヴィルミーナ麾下のナンバー3になどなれない。
ただ、弱っていたニーナは冷静さを欠いていた。
ストレス発散のちょっとした火遊び。自分はあの王妹大公令嬢の側近を務める優秀で有能な人間なのだ。たとえ性質の悪い男だったとしても、こっちの手のひらで転がしてペッと放り捨ててやろう。
そんな驕りとサディスティックな気分がニーナを泥沼へ踏み出させた。
甘かった。
本職のジゴロは17歳のニーナを手玉に取り、容易くその懐から金を毟った。最初は微々たる小銭だったが、金弊を渡すまでそう時間はかからなかった。
ルイ・サヴォルリーは恐ろしくツボを心得ていた。ニーナの望む言葉を望むタイミングで望む仕草と共に甘く語り掛け、たちまちニーナの警戒心を溶かし、その心を掌握した。
サヴォルリーの囁く快い言葉。サヴォルリーの告げる心地良い言葉。サヴォルリーの語る気持ち良い言葉。気づけば、麻薬中毒者のようにサヴォルリーの虜となっていた。
もしも、ニーナが生娘の貴族令嬢でなければ、とっくに体を開いていただろう。サヴォルリーが求めるあらゆることを叶えただろう。金も心も体も全てを差し出して、サヴォルリーの提供する快楽を貪り続けただろう。
アレックス達がニーナの目を覚まさなければ、そこまで至っていたのだ。
”オフィス”のドアが開き、側近衆の一人が言った。
「ヴィーナ様が御着きよ」
ニーナの体がびくりと大きく揺れた。顔から血の気が引く。死者のように冷たくなった手が震える。もう怖すぎて一切の思考力が働かない。
やがて、ヴィルミーナが入室してきた。
「皆、おはよう」
ヴィルミーナはいつものように挨拶を口にしながら、一人一人と目を合わせ、顔を見ていく。最後に、ニーナと目線を合わせた。
ニーナの体がひときわ大きく震えた。紺碧の瞳からは感情が窺えない。あああ、やっぱりヴィーナ様はとても怒ってる……
ヴィルミーナは鞄を執務机に置き、誰へともなく告げた。とても冷たく厳しい声で。
「ニーナ以外の者は外せ」
アレックス達が小さく首肯して部屋を出ていく。その際、皆、ニーナの肩を叩いていく。
そして、二人きりになった。
ニーナはもう顔を上げていられない。恐怖と後悔と怯懦と自己嫌悪が涙となって目尻から溢れる。
ヴィルミーナがニーナの隣に座り、
「貴女の事情も理由も斟酌しない。貴女は私が信用して信頼して触れさせている大事な情報を漏洩させる危機を招いた。はっきり言って、失望と落胆を禁じ得ない」
いつもの親しみを込めた声色とは全く違う、何の感情も込められていないフラットな声に、ニーナはついに泣き出した。
椅子から飛び降りるように床へひざまずき、額を床に擦り付けて謝罪の言葉を吐き出す。
「も、もうし、わけ、ありませんでしたっ! ど、どうか、どうかお許しくださいませっ!」
ヴィルミーナはふ、と息を吐いてニーナの傍らに屈みこみ、
「しかし、今回の一件より、初等部の入学からこの七年もの間、貴女が私に示してきた誠実さと忠誠心の方を、私はずっと重視している。ニーナ・ヴァン・ケーヒェルは今回の一件程度で価値を損なうような安い人間ではないわ」
左手をそっとニーナの頬に添わせて顔を上げさせ、右手に持ったレースのハンカチで涙を拭っていき、
「貴女を切る事態が生じなくて、本当によかった。今回の件で肝が冷えたのはそこだけ。貴方を失うかもしれない、そのことだけよ」
困ったように微苦笑し、ニーナを強く抱きしめて告げた。
「あまり心配させないで」
「う〝ぃーなざまぁ……!! ごめんなさい……っ、ごめんなさい……っ」
様々な感情が爆発し、ニーナは大声で泣き始めた。
ニーナの嗚咽が止むまで、ヴィルミーナは彼女を抱きしめ、優しく髪を撫で続ける。
とはいえ、ここでなあなあに済ませないのも、ヴィルミーナだった。
目を真っ赤にして腫らしつつも落ち着きを取り戻したニーナに寄り添い、右手で彼女の手を握り、左手で柔らかく髪を撫でながら此度の処分を告げる。
「貴女にいずれ禊ぎの機会を設けます。それまでは降格処分とし、機密情報に触れる一切の職責を剥奪。今後の報酬も大幅に減額とする。その上で、アリシアの行っている聖王教会の奉仕活動にも参加しなさい」
「すべて、ヴィーナ様の御意のままに」
重要機密を任されて大枚を受け取る立場から、雑務をこなして小遣いをもらう立場へ。一兵卒からのやり直し。
自分のヘマを考えれば、甘すぎるくらいだ。ニーナとしては、もっと重い処分を受けて思い切り内省したい衝動が残る。
「軽い罰、とか思ってる?」
見透かしたように意地悪く笑うヴィルミーナに、ニーナは慌てて首を横に振る。
「え? あ、いえ、多大な御寛恕を賜って不満など……」
「言っておくけれど、この罰は貴女が思っているよりキツいわよ」
「え?」
ヴィルミーナは困惑するニーナへ口端を緩めた。
「ま、これも勉強と思って頑張りなさい。ニーナ」
〇
「あのジゴロに出会う前に戻りたい……戻って自分をぶっ殺したい……」
数日後。机に突っ伏してニーナは吐露した。
「自分を殺したらいかんでしょ」
“密告者”マリサが苦笑いを浮かべた。
お前が余計な告げ口をしたから、とは思わない。逆の立場ならニーナも同じことをした。
側近衆にとって優先すべきは何よりもヴィルミーナなのだから。
「そうそう。元気出して」
客分のアリシアも励ました。バリボリと茶請けのクッキーを齧りながら。
「おざなりすぎる。菓子を食いながら言うな」
ニーナは顔を上げてぼやいた。
「ヴィーナ様の言っていたことがよくわかった。これは骨身に堪えるわ」
今まで機密に触れる責任ある仕事をしていたのに、今は書類整理だのなんだの居眠りしながらできるような雑務ばかり(もちろん、居眠りなどしない。なんとしても元の立場に復帰したいのだ)。これはキツい。あまりにも物足りない。漫然とした作業には張り合いも刺激も興奮も充実感もない。
たとえるなら、ニーナはタフなレイドボスをぶっ倒す大きな快感に慣れすぎて、雑魚キャラ相手に無双しても俺TUEEEと悦に入れないガチ勢だ。そんなチンケなことではもう満足できない。
つまりは、欲求不満と退屈さ。これこそがこの罰の本質。
もちろん、後のないニーナは欲求不満に負けて手抜きなどしない。だが、キツい。
「教会の奉仕活動は? あっちは色々やるから張り合いあるでしょ?」
アリシアの指摘に、ニーナは幾度目かとなる嘆息を吐いた。
「あれは別の意味でキツい……」
聖王教会の奉仕活動は炊き出しや教会孤児院の訪問などなど。
そこで見聞きし、体験するのは途方もなく残酷な社会の実情。そして、その峻厳な現実に対して自分があまりにも無力だということを思い知らされる。
「アリシアは良く続くわね。私はあれ、キツいよ」
「んー、確かにいろいろ酷いとは思うし、可哀そうだとは思うけど、」
アリシアはクッキーを齧りながら、さらっと言った。
「私の故郷の方が酷かったからね。そんなにキツく感じないな」
「は?」「え?」
ニーナとマリサは思わず目を瞬かせる。
「私の故郷は大冥洋群島帯だけど、あそこは色々キッツいことが多いんだー。まず災害でしょ? 疫病も流行し易いし、モンスターの襲撃も珍しくない。それから、入植に失敗した人や恨みを持つ現地人の山賊盗賊も少なくないね。あと、今でも現地人抵抗勢力とかエスパーナとかと争ってる。前線に近いところはもちろん、後方の村や町だっていつ攻撃受けるか分からないんだ」
淡々と語り、アリシアは小さく肩をすくめた。
「でも、王都に住んでる人たちは少なくとも、モンスターに襲われないし、ベルネシア人だからって理由で殺されたりしないもん。まあ、向こうでは冬に凍死することが無かったけど」
「……アリスって意外ときっつい体験してるのね。もっとこう……のんびりした土地の出身かと思ってたわ。なんかごめん」
マリサがバツの悪そうな顔で言う。
「気にしないで。それに、私の故郷はきっついことも多いけど、楽しいことも面白いことも素敵なことも多いんだよー。いつか皆を招待したいなあ」
にっこにこしながら、アリシアはのほほんと言った。
ニーナは垣間見た。
アリシア・ド・ワイクゼルという能天気で太平楽にしか見えない少女の、普段は見えざる一面を。
多分、ヴィーナ様も王子殿下もグウェンドリン様もこのことを知らない。知っていたらもっと違う扱いをしてるはずだ。報告すべきか?
いや、報告しても信じるかどうか……
誰が信じるだろう。
明るく快活なアリシアが死を身近な存在として受け止めているなどと。
感想、評価ポイント、ブックマーク。励みになりますので、よろしくお願いします。
書き溜めと執筆ペースが投稿に追いつかれました。以降は連日投稿が難しくなると思います。
エタること、何か月も間が開くということはございませんので、引き続きご笑読いただけますよう鋭意努力いたします。
そういえば、学園生活の話を全然書いてなかった。
需要は、ありますか?




