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例によって長くなったので分割します。
大陸共通暦1765年:ベルネシア王国暦248年:中秋。
大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:王都オーステルガム
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王妹大公家の大きな大きな屋敷の広々としたリビングで、母娘は夕食後の御茶を嗜んでいた。
「ねえ、ヴィーナ。なんだか色々大変みたいだけど、大丈夫なの?」
妙齢に達しても、ユーフェリアの容貌は衰えるどころか一層華やかになっている。艶気が滴るような美熟女っぷりだ。
そんなスーパー美熟女ユーフェリアは、愛娘ヴィルミーナが国内商経済界や実業界の既得権益者達から攻撃を受けていることを知っている。
王妹大公家御用商会から報告を聞いた瞬間、娘を溺愛するユーフェリアは『その増上した雑民共を一族郎党根切りにしてやる』と激昂した。実際、腹心中の腹心達――執事長や侍女長、護衛長達が取り成さなかったら、実行していたかもしれない。
ユーフェリアは普段は鷹揚で寛容で分け隔てなく仁愛を示す。反面、身の程を弁えない手合いには決して容赦しない。
生粋の王族としての自尊心と品格と矜持。そこへ、嫁ぎ先で下賤な愛人共と鎬を削らされ、特に、出戻りの際に愛人共の放った追手とドンパチチャンバラさえ繰り広げた経験が、ユーフェリアの心に凶暴性の区画を築かせていた。
あるいは……べルモンテ公国へ嫁がされることが決まった”あの日”、ユーフェリアという人間は壊れてしまっていたのかもしれない。
「困っているなら、ママがなんとかしようか?」
大きく豪奢なソファに体を預けたユーフェリアに問われ、傍らに腰かけていたヴィルミーナがカップを御影石の大テーブルに置いた。
「今のところは大丈夫ですよ。お母様には小街区の件で十分に支援していただきましたし、この件は自分なりに解決してみます」
紺碧色の瞳を力強く輝かせる愛娘に、ユーフェリアは嬉しくも寂しい。
「娘が頼もし過ぎて、ママちょっと寂しい」
「なら、久しぶりにハグしてもらっちゃおうかな。お母様のハグは元気が出てきますから」
ヴィルミーナがそういうと、ユーフェリアは即座に両手を大きく広げて歓迎のポーズ。
苦笑いと共に、ヴィルミーナは母に抱擁された。上等なバラの香水と共にユーフェリアの優しい匂いが嗅覚を包み、多幸感に似た安堵をもたらす。中身がユーフェリアを上回るウン十歳でも、気兼ねせず甘えられるというのは、幸せなことなのだ。
ユーフェリアの指が慈しむように、ヴィルミーナの薄茶色の長髪を梳いていく。
娘が幸せそうな顔で目を細める様に、ユーフェリアの母性本能が完全に満たされる。
ユーフェリアにとって、ヴィルミーナはまさにこの世で唯一無二の至宝だった。
七歳の水難事故以前のヴィルミーナも愛おしかったが、事故後のヴィルミーナはもっと愛おしい。“人が変わった”ように聡明で理知的で、それでいて不敵なほどに心がたくましい。どんな逆境でも折れることのないタフネス、それに逆転を狙う狡知さ。
なにより、男達に媚びることなく、頼ることなく、自分の足でしっかりと立って歩いていく強さ。
まさにユーフェリア自身が“あの日”欲した在り方だった。ヴィルミーナこそ、ユーフェリアの理想とする女性の在り方だった。
娘が自身の理想像である以上、ユーフェリアは何を差し置いてもヴィルミーナを幸福にすると誓っている。ヴィルミーナの幸福こそ、自分が寄ってたかって奪われたものを取り戻す方法であり、今なお、ユーフェリアの魂を穿つ大きな空虚さを癒す希望だから。
批判的にみれば、親の身勝手な自己投影と断じていいだろう。
これらユーフェリアの深層心理を、ヴィルミーナは既に気づいていた。
出世を争った有能かつ腹黒な食わせ物共。仕事で相手にしてきた油断も隙も無い狸に狐にムジナ。海外地獄巡りで向こうに回した人間面した怪物達。こうした連中と鎬を削って生き残るには、どうしたって対人観察力と感情分析力と心理解析力が身につく。つけざるを得ない。
気づいていたからこそ、ヴィルミーナは今生の母をより愛するようになった。深く傷ついた心を抱えながらも、自分を全力で慈しみ愛してくれる母を愛さずにはいられない。
「ん。元気満点です」
ヴィルミーナは身を起こして母から離れる。そして、言った。
「近頃は色々忙しくてお母様と過ごす機会も減ってました。事業も縮小していることですし、冬に入るくらいまでは色々お出かけしましょうか」
「それは」
ユーフェリアは美貌を華やかに輝かせた。
「とっても素晴らしい考えだわっ!」
〇
主君がしばらく羽を伸ばすと言い出しても、“侍従長”が暇になることはない。むしろ主君が仕事を放りだした以上、ナンバー2のアレックスが担う重責は大きい。
ヴィルミーナ麾下の主要事業を担う高級幹部達は、王妹大公令嬢の実力と恐ろしさは大いに認めているから、その侍従長たるアレックスを軽んじることはない。
が、アレックスがヴィルミーナの代わりになりえるかと問うたなら、彼らは「それは無理だよ。リンデ嬢にゃ荷が重い」と口をそろえて答えるだろう。
妥当な評価である。ウン十歳の一流大企業取締役の代わりが務まる17歳とか、逆に怖すぎる。テンプレラノベのキャラかよ、という話だ。
アレックス自身もそのことは理解しているので、ボスの職務復帰を心待ちにしている。
「早く戻ってもらわないと……私にはどうにもならないよぅ」
涙目アレックスたんカワユス。などと側近衆達は思っている。
そして、弱り目に祟り目という言葉があるように、困っている時に限って問題というのはやってくるのだ。
「……え? ニーナに男? 婚約者が出来たの?」
側近衆のマリサに人気の少ない某階の女子トイレへ呼び出され、話を聞かされたアレックスは目を瞬かせる。
王立学園高等部生が卒業までに為すべきことは三つ。
一つ。コネを築くべし。将来の役に立つ縁をこさえよ。友は選べ。カスには近づくな。
一つ。成績は能う限り優秀であるべし。
ただし、周囲の嫉妬やひがみを買わぬよう身の丈を弁えるべし(世知辛ェ1)。
一つ。婚約者を見つけるべし。
特に女子は在学中に見つけられねば、深刻な事態が待っていると心得よ(世知辛ェ2)。
なお、高等部三回生ともなれば、婚約者がいる者もそれなりにいるし、婚約者探しに必死な奴は掃いて捨てるほどいる。
「それが、どうも違うんだ」
マリサは周りに誰もいないのに声を潜め、
「学園外の男友達らしいんだけど、相手は恋人になる気満々で、ニーナも満更じゃない。相手の男はメーヴラント人。国籍は不明。長身痩躯の優男。20前後で身なりと態度、言葉遣いは貴族っぽかった」
まるで警官の人相報告みたいに告げる。
「ぽかった?」アレックスは訝り「貴族じゃないの?」
「ルイ・サヴォルリーと名乗ってた。サヴォルリーなんて家名聞いたことない。アレックスはどう?」
「私も覚えがないな。ハニートラップの可能性は?」
「まだ調査はしてないけど、可能性だけなら充分にあるよ」
恋に恋する年頃の乙女とは思えぬやりとりであるが、これはヴィルミーナが口を酸っぱくして側近衆達へ注意していたことだった。
――貴方達は若く美しく、多くの富と多くの利権と多くの情報を持っている。性質の悪い連中にとって、貴女達は最高の獲物なの。特に気をつけるべきは、見た目麗しく言葉が巧みで優しい男。覚えておきなさい。最も恐ろしい狼は羊の皮を着て近づいてくるのよ。
実際、正式にヴィルミーナの側近衆になってから、アレックス達の元には下心を隠そうともしないアホが次から次へと近づいてきた。彼女達自身を狙う者から彼女達を通じてヴィルミーナを狙う者まで選り取り見取りのカスがやってきた。
中にはヴィルミーナの注意した通り、一見、下心を一切感じさせず、気遣いが出来て心優しく物腰柔らかな美男子もいた。
しかし、この手の男も素性を調べると出るわ出るわ悪行の数々。
例外なくとっ捕まえて差し出した。ヴィルミーナの命令で王立憲兵隊ではなく、女房を寝取られた男達、姉妹や娘を傷物にされた男達の元へ。
たいていの場合、この手のスケコマシ野郎共は二度とみられぬ顔にされた。酷い場合はナニを切り落とされ、その切り落とされたナニを口や尻に突っ込まれて殺された。
ちなみに王立憲兵隊はこの手の事件を真面目に扱わない。曰く『迷惑なバカが因果応報の目に遭っただけだろ。俺達はバカのために時間を割くほど暇じゃないぞ』
法治国家だからと言って、現場の人間が法治主義に則って真面目に働くとは限らない。法より道義に価値があった時代では特に、だ。
という背景があるから、アレックス達側近衆は身元定かではない男に対し、非常に警戒心が強い。恋に恋するお年頃で処女なのに、すっかりスレちゃっていた。
「分かった。すぐに素性を調べよう。問題が無いようなら放っておくし、あれば対処する」
「ヴィーナ様に報告は? ニーナは私達の中でもアレックスに次ぐナンバー3だよ? もしも“転”んだりしたら、大問題になる」
アレックスは考え込む。
“侍従長”のアレックスほどではないが、ニーナもヴィルミーナの高級幹部として様々な重要情報に触れている。その情報を横流ししたら、身内に寛容なヴィルミーナもニーナを処分せざるを得ないだろう。
ヴィルミーナはとても優しいが、同時に、とても恐ろしい。非情さを発揮する時は、それこそ冷厳かつ冷酷といってもいい。
数瞬の逡巡の末、アレックスは決断した。
「責任は私が持つ。とにかくその男の素性を調べよう。報告の有無はそれから判断する」
「……了解、侍従長殿」
マリサは不安そうな顔で首肯した。
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