5:3
大陸共通暦1765年:ベルネシア王国暦248年:晩夏。
大冥洋:大陸西方近海
――――――――――――――――
朝日に焼かれる大冥洋の空。夜の残滓と朝日の紅黄色が混ざり合ってマーブル模様を描く。その幻想的な朝焼けの空を『空飛ぶ魔狼号』は血を流すように脇腹から黒煙を曳いて駆けていた。
『空飛ぶ魔狼号』の船体は右舷後方から船尾に掛けていくつかの真新しい弾痕があり、二つ三つの大穴が開いて黒煙を垂れ流している。気嚢も損傷しており、上昇高度に蓋をされていた。何より、砲列甲板に飛び込んだ一発により、多数の水兵達が死傷していた。
左目を覆うように包帯を巻いた船長のアイリス・ヴァン・ローが、伝声管に怒鳴る。
先に指揮操操舵室へ飛び込んだ散弾の被害により、アイリスは左目を失っていた。もっとも、今は痛みを苦しむ贅沢など許されない。
「報告ッ! クレテアのクソは見えるかっ!?」
船体各所の観測所から次々と報告が返ってくる中、
「左舷確認できずっ!」「右舷確認できずっ!」「下方第二確認できずっ!」「船尾確認できずっ!」
船体上部後方の応答がない。アイリスは怒鳴った。
「上方第二っ! 返事をしなっ!」
「こちら上方第二……すいません……観測員がくたばってました……上方第二異常なし」
憔悴しきった返事を聞き、
「そうか。報告ご苦労」
アイリスは手に伝声管を握り潰さんばかりの力を籠めつつ、
「野郎共、まだ気ぃ抜くんじゃないよっ!」
再び伝声管に怒鳴った。それから、傍らに立つ老副長へ尋ねる。
「爺。振り切ったと思うかい?」
「せっかちなクレテア人が砲弾を飛ばしてこないところを見ると、そういうことでしょうな」
折れた左腕を布で吊るした老副長が肯定する。
アイリスはようやく安堵の息を吐いた。同時に込み上げてくる左目の強い痛みと、敗北の悔しさに、細面が大きく歪む。
そこへ、操舵室内に装甲兵頭がやってきた。血と煤煙で体中が赤黒い。
「お頭。被害確認完了しました」
装甲兵頭は淡々と告げる。
「気嚢中破。高度1500以上へ昇れません。それと、右の第二マストがダメです。船体自体の損傷は船尾から右舷後方三分の一まで。現在、動ける者を動員して応急処置中です」
「……何人やられたんだい?」
アイリスに睨みつけられても、装甲兵頭は無表情を崩さない。
「死者12人。負傷者は倍。その半数は多分、助かりません」
死傷約30名強、内20人以上死亡。船はドック入り確実の中破。対して敵の被害はほぼ皆無。
久方ぶりの大負けだった。
額に青筋を浮かべたアイリスは怨嗟を吐き出す。左目の包帯から涙のように一筋の血が垂れ落ちた。
「クレテア野郎め、この借りは必ず返してやる……っ!」
夜明け前、突発遭遇したクレテア戦闘飛空船に不意打ちを食らい、散々一方的に嬲られた。
無様に這う這うの体で逃げ出すしかなかった。
敗北したという事実に、操舵室内の誰もが悄然とする中、空路図と海図を見つめていた航海士が、独りごちるようにぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「ここ最近のクレテア軍はやたら活発ですな。やっこさんらは軍事予算縮小で活動が控えめになってたンですがね……これじゃまるで航路封鎖を狙ってるみてぇだ」
「連中が海賊狩り、いや、ベルネシアとイストリアの通商破壊に本腰入れたと?」
老副長の推論に、航海士は自分の想像を付け加えた。
「あるいは、ベルネシア本国と外洋領土を分断しようとしてるのかも」
「ごちゃごちゃ聞きたい気分じゃない。言いたいことはさっさと言いな」
目の痛みと敗北の屈辱に苛立っているアイリスが噛みつくように吐き捨てると、
航海士は明日の天気でも予想するようにさらっと答えた。
「クレテアはベルネシアと戦争をする気かもしれねえ。で、俺達はその前哨戦をやってるんじゃねえか?」
〇
この時代、私掠船や貿易船への出資はギャンブル要素が大きい。
出資した船舶が無事に帰還し、持ち帰られた貿易品や略奪品が銭になって、ようやく配当金が得られる。船が帰ってこなかったり、帰ってきても成果がなかったりすれば、当然、出資はパー。大損に終わる。
たとえば、今回の『空飛ぶ魔狼号』への出資は完全に大損だった。
「―――以上が今回の航海の報告になります」
「なるほど……大変な御苦労を為されたのですね。亡くなられた方々には哀悼を。負傷された方々には快癒をお祈り申し上げます」
アイリスを始めとする『空飛ぶ魔狼号』の幹部船員から話を聞き終え、ヴィルミーナは敬意を感じさせる一礼をした。
この日、ヴィルミーナは生還した『空飛ぶ魔狼号』が運び込まれたドックへ足を運び、船内を検分しながらアイリスや幹部から話を聞いていた。戦闘痕跡が生々しく残る船内の様子にも眉一つ動かさない。
場違いなことを言えば、本日のヴィルミーナは凛々しい。
麗しい薄茶色の長髪をポニーテールでまとめ、乗馬帽を小脇に抱えている。かっちりとした夏季用ジャケットと乗馬ズボンに拍車付長靴。ぴっちりした乗馬ズボンで強調される臀部から脚部へのラインが、ときめくほどに素敵。
素敵な格好をしている理由は、魔狼号が酷い有様で帰還したと聞き、護衛達と共に早馬を走らせてきたからだった。
ヴィルミーナ達はひとしきり船内を検分し終え、指揮操舵室内へ移った。
「私掠船で戦闘飛空船相手は厳しいのですか?」
「武装自体は後れを取りません。こっちは後装砲、連中は前装砲ですから。砲門の数で負けていても、砲自体の射程と火力はこっちが上です。ただ、船自体の性能が違います。海上船で例えるなら、本船は武装商船。クレテアのクソ……失礼しました。クレテアの戦闘飛空船は足の速いフリゲートみたいなものです。真っ向勝負ならともかく、不意を突かれたら、厳しい相手です」
「なるほど」
左目を清潔な包帯で覆ったアイリスの説明を聞き、ヴィルミーナは小さく頷く。
少し考えこんだ後、
「ロー“船長”」
ヴィルミーナは底冷えする目つきでアイリスを見据える。先程までの丁寧な態度から一変、冷厳な雰囲気をまとっていた。
アイリスも幹部達も反射的に背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取った。
「貴女はまだ、私掠船家業を続けられるか?」
「はっ! ヴィルミーナ様。目玉一つ失ったくらいで辞めるつもりは毛頭ありませんっ!」
「我らも船長と共にっ!」
アイリスと幹部達の即答に、ヴィルミーナは満足げに頷く。
「よろしい。人員の補充と船の修理に必要な資金は出す。再出航までどれほど掛かる?」
「少なくとも二月は必要です。加えて、補充人員の教育と再訓練に6週間ほどは」
「合わせて三ヶ月半か……」
再び少し考えこんでから、ヴィルミーナは威容を解いてアイリスへ告げる。
「ロー“婦人”。後日、相談したいことがあるの。忙しいところ申し訳ないけれど、王都東の新小街区まで来てくださる?」
「噂になっている小街区ですか」
「ええ。私のオフィスを用意させたの。とはいえ、学生の身だから常駐とも行かないけれど」
「畏まりました」
アイリスは恭しく一礼し、幹部達も倣った。
『空飛ぶ魔狼号』とその船員達の見舞いと聞き取り調査を済ませた後、帰宅したヴィルミーナはリビングの大きなソファに体を転がしてぼやいた。
「組織の贅肉落としで儲けが減っているところに、この追い打ちか……メゲるわぁ……」
『空飛ぶ魔狼号』への出資額は、略奪に注文を付けられるほどに大きい。それが全部パー。これまでも赤字だったことや損害を負うことはあったけれど、今回は時期が時期だけにメゲる。
“狩り”の失敗と損害は抜きにして、魔狼号の航海士が言っていたことが気になる。
……クレテアが戦争を仕掛けるかも、か。物流の動きを見る限りでは、まだ兆候は見られないけど。どやろ。
戦争は簡単には起こせない。まず国内部隊を動かさなければならない。これは隠せない。いつの時代も駐屯地や基地周辺は兵隊相手の商売が繰り広げられるから、どうしてもバレる。
物資に関しても同様だ。この時代、現地徴発が前提でも、弾薬と医薬品と馬匹用糧秣は自前である程度は用意しておかなければならない(現地で手に入るとは限らないから)。そして、これらの増産と調達は決して隠せない。原料の動きから容易く分かってしまう。
これらの原料需要が増加し、生産規模が急増し、軍倉庫周辺の物流増加がしたら、戦争の兆候と見做してよい。
ただし、世の中にはこうした兵站強化を無視し、手持ちの物資だけで何とかしようとするアホが腐るほどいる。特に兵站の概念が未だ乏しいこの時代では。
つまり、クレテアが突如宣戦布告をし、国境周辺の部隊だけで流れ込んでくる可能性も、あるにはあるのだ。補給物資の用意も作戦予備兵力の準備もせず『とりあえず攻め込んでから、後は流れで』をガチでやるかもしれない。
……そこまで愚かだとは思いたくないけれど。どうかなぁ……
古参侍女の「はしたないですよ、お嬢様」という小言が飛んできたので、体を起こす。ジャケットを脱いで御付き侍女メリーナに預けた。古参侍女が御茶を淹れる様を眺めつつ、思考を継続する。
我が国の命綱が貿易であることは周知の事実。既存戦力で締め上げに掛かっている可能性はある。ただ、戦争を前提としているか、我が国を牽制するためか、までは判断がつかへんな。情報が足りへん。
薄ら恐ろしいパターンを考えるなら、このクレテアの動きに御上が過剰反応することか。イスラエルみたいな先制防衛行動に出られたら……これも可能性だけなら十分にあり得る。バカはどこにだって居る。敵の側にも、身内にも。
「戦争は嫌だな」とヴィルミーナは呟く。「せっかく平穏で楽しい学生生活を送れているのに、台無しにされたくない」
花盛りの時間を“しょうもないこと”に費やしとぉないわ。この世界の全てが戦禍に覆われて、人類が滅亡の縁に立っても、ベルネシアさえ無事ならそれでええわ。ヒューマニズムもコスモポリタニズムもクソくらえや。
「戦争、でございますか?」
呟きが耳に届いたらしい。古参侍女が御茶をヴィルミーナに渡して尋ねた。
「出資してる私掠船が痛い目にあったの。春先にも他国で一戦生じたらしいし、ちょっと考えちゃった」
「そうでございましたか」
古参侍女はどこか安堵したように表情を緩めた。
「ここ20年ほどは幸い、御国は戦禍に晒されておりません。このまま平和が続けば良いのですけれど」
あくまで平和なのは本国だけで、海外領土はドンパチが恒常化しているが、この時分のベルネシア本国人はおおむね、この侍女の感覚に近い。人間、対岸の火事は他人事だ。たとえ、自国のことでも。
ヴィルミーナはふと思いたち、古参侍女に尋ねた。
「もし、この平和を長く続かせるためにアルグシアやクレテアと手を握れと言われたら、どうする?」
「あんな小鬼猿と大差ない連中と手を組むなどありえません。彼の奴ばら共は滅ぼした方が世のためです」
古参侍女は即答した。御付き侍女メリーナも首肯していた。
良識的で善良な淑女たる古参侍女や一般人的なメリーナですら、これだ。
この時代の人間が考える平和とは、共存共栄による平和や均衡によって生じる安定環境の平和ではない。この時代でいう平和とは、勝利によって得る成果物。敵を打倒し屈服させて繁栄することだった。
「ベルネシアが繁栄する平和に、クレテアもアルグシアも不要ですよ」
そう語る古参侍女の顔は、ただ”常識”を言っているだけ。そんな面持ちだった。
「そうね」
曖昧に応じ、ヴィルミーナは口をつぐむようにお茶を上品に啜る。
御茶の風味を味わいながら、改めて思う。
この世界のこの時代には、現代日本の価値観なんて通じないことを。




