20:10b
いつもより長めです。
大聖堂の鐘が響く。雨に濡れるベルモンテ王都の端から端まで。
あの悲しげな鐘の音は誰が為に奏でられているのか。
○
宮城の外れにある五階建て尖塔。その最上階。
鐘の音を聞きながら、ニコロはワイングラスを傾ける。昨日は実に“騒々しかった”。
東宮大広間から遠く離れたこの尖塔に届くほど。
今も、王都上空を飛び回る忌々しいベルネシアの戦争鯨達が、品の無いコルヴォラント語で喚き立てている。『王都は封鎖された。王都は封鎖された。都民の外出を禁止する』『戸外に出た者は脅威と見做し、制圧する。生命を保証しない』『死にたくなければ家から出るな』
事は成ったか。成らずか。
どうやら刺客の方は上手くいったが、街から戦闘騒音が生じていない辺り、軍の仕込みはしくじったようだ。
どちらにせよ、我が身の扱いで分かることよの。
ニコロはグラスにワインを注ぐ。
と、ドアがノックされ、ニコロが返事をする前に近衛騎士隊長が入室し、告げた。
「公王陛下。ここを出て下さい。移動します」
「どこへだ? 処刑場か?」
椅子に腰かけたままニコロが諧謔を示すも、近衛騎士隊長は無表情のまま返答する。
「大広間です、陛下。既に諸侯諸官が控え、陛下をお待ちです」
その回答にニコロは『成った』と確信する。
「良かろう」
東宮にある大広間に足を運びながら、ニコロは計画を確認する。
これから忙しい。
まずは手駒に選んだ大司教と宗教保守派の粛清(口封じ)。王太子のピエトロを自裁させ、ピエトロの娘とヴィルミーナの長男を婚姻させる。これでベルネシアに対して償いとなろう。
まあ、忌み子の血統が続かぬよう手を打たねばならないが。
対外的にはナプレと協調すればよい。フローレンティアに備えつつ、法王国を攻める。そのために大司教と保守派には法王国の紐を付けておいた。法王国の領土と資産を奪えば、この戦争で垂れ流した国費をいくらか取り戻せよう。
忌み子と愚息に煩わされたが、エスロナのベルモンテは生き長らえる。
余の勝ちだ。
ニコロは冷笑して金壺眼を細めた。
東宮に到着した頃、ニコロは今更ながら気付いたように近衛騎士隊長へ問う。
「あの鐘は誰のためだ?」
近衛騎士隊長は痛みを堪えるように顔を歪めるだけで答えなかった。
ニコロは回答を拒んだ不敬に眉をひそめつつ、大広間へ向かう。
そして、大広間に入室したニコロは目にする。
弾痕や血痕など生々しい戦闘痕跡があちこちに残る大広間。居並ぶベルモンテと協商圏の諸侯諸官と王侯貴顕。それと、広間上座の雛壇上に据えられている古い、とても古い椅子。
ベルモンテ公国の儀礼玉座たる聖ステファヌスの椅子。エスロナの血を引く公王のみが座ることを許された神聖な椅子。
ベルモンテ公国で最も大事な椅子に、魔女が腰かけてふんぞり返っていた。
ヴィルミーナ・デア・レンデルバッハ=クライフ・ディ・エスロナが玉座に腰かけている。優美な足を組み、肘置きを使って頬杖を突き、傲然とニコロを見下ろしていた。
瞬間的にニコロは激昂した。脳が煮えそうなほどの熱量を込めて怒号を発し、
「その椅子に座るなっ!!」
玉座へ駆け出そうとするところを近衛騎士達に押さえ込まれた。放せ下郎っ! 余を誰と心得るかっ! と喚き散らすも近衛騎士達は微動にしない。
「やれやれ……想像通りの反応だな」
紺碧色の瞳に絶対零度の光を湛えながら、ヴィルミーナは鼻を鳴らした。
「はじめまして、ニコロ公王陛下。私はヴィルミーナ・デア・レンデルバッハ=クライフ・ディ・エスロナ。協商圏ベルモンテ進駐軍暫定臨時総督を担ってこの場に居ります。こうして顔を合わせることが出来て嬉しいわ、伯父様。反吐が出そうなくらいに」
「さっさとその椅子から降りろっ! 北洋蛮族の血が混じった忌み子めっ! 貴様らもなぜ指をくわえて見ておるかっ! あの奸婦を引きずり降ろせ、否、討て今すぐにっ!! 今すぐあの狼藉者を討てぃっ!!」
公王が金壺眼をぎらつかせながら吠えるも、動く臣下は一人もいない。
すなわち、諸侯諸官はこの事態を甘受しているに他ならない。
当然だ。主要貴族は既にヴィルミーナや列強の手で調略されているし、後ろ暗いところのある連中も白獅子やユーフェリアの手が伸びている。幹を押さえられては枝葉も従うしかない。
政治の基本。根回しは入念に。
ニコロは青筋を浮かべ、双眸を血走らせて唸った。
「こ、の、痴れ犬共がぁ~……っ!!」
「気に掛けることは、この骨董品の椅子と私の命だけなのか?」
ヴィルミーナが冷厳に問う。
「貴方には最初に問うべきことがあるのではないか?」
「何のことだ。何を言っている」
憎悪と憤怒に歪めた顔で本心から訝るニコロに、ヴィルミーナは端正な顔に強い侮蔑を浮かべた。
「王太子ピエトロ殿下。我が従兄にして貴方の息子が、この場に居られないことを疑問に思わないのか?」
「そのような“些事”は貴様が玉座を穢していることに比べるべくもないわっ!!」
ニコロは口角から泡を飛ばしながら怒鳴った。
と、王妃がその場に泣き崩れ、王女アウローラが泣き腫らした目で実父を糾弾する。
「御兄様は亡くなったわっ! あんたの送り込んだ刺客に殺されてっ!! あんたが御兄様を殺したのよっ!!」
「“それがどうした”っ!」
ニコロは娘を一顧にせず、ヴィルミーナを睨み続ける。
「アレが命を落とそうとも、アレの子がおれば何の問題も無いっ! エスロナのベルモンテは存続するっ!」
ニコロの形相と眼光が本気の発言であることを証明していた。
ベルモンテの諸侯諸官は改めて自分達の王が如何に酷薄な人間か思い知る。泣き崩れた王妃は自分の夫が鬼であることを再認識し、王女は父が人でなしである事実に絶望する。
協商圏側の面々は言葉も無い。ただただ公王ニコロという男の発言に絶句していた。
そして、ヴィルミーナは嗤った。柔らかく優しげなほどに。
「ああ、よかった」
「――なに?」
眉間に深い皺を刻んだニコロへ、ヴィルミーナは嗤い続ける。
「伯父様。貴方をその我執から解き放って差し上げよう」
○
時計の針を昨日の襲撃まで戻そう。
刺客の拳銃を拾いあげた男の子は、雛壇上に居たヴィルミーナを狙って引き金を引いた。
教えられた通り、邪悪な魔女から御国を救うために。
放たれた弾丸は狙いを大きく外し、近衛騎士達の間を抜けて王太子ピエトロを捉えた。380口径強装弾がピエトロの左鎖骨下に着弾し、鎖骨下大動脈を大きく破壊してから頸椎C4とC5の隙間にめり込み、神経を酷く損傷させる。
致命傷。
最高級の回復剤や治療術を使っても、もう助からない。大動脈損傷による急性出血性ショック死か失血死、あるいは中枢神経の損傷に伴う呼吸不全の窒息死。いずれにせよ、残された時間は少ない。
男の子は王太子を打ち倒したことに感慨を抱くことなく、狙いをヴィルミーナに改める。
ヴィルミーナの傍らにいた警護官が、我が子と同じ年頃で似たような背丈と体つきの男の子を躊躇なく撃った。放たれた二発の445口径弾が男の子の薄い胸に拳大の穴を空け、男の小さな頭をザクロのように弾けさせる。
警護官は幼子を撃ち殺しても一切動揺することなく、油断なく周囲を窺う。脅威が完全に排除されたことを確認し、筒型覆面を首元へ引き下げ、素顔を晒す。涼しげな優男然とした顔立ちはレーヴレヒト・デア・レンデルバッハ=クライフその人だった。
レーヴレヒトはヴィルミーナへ問う。
「事前情報より随分と派手だったぞ。どうなってる?」
「愛妻を心配してくれてありがとう旦那様」
ヴィルミーナは夫へ嫌みを吐き、さらに苦情を申し立てた。
「まずすべきは私を抱きしめてキスすべきだと思うけど?」
「それは後で君をベッドに押し倒してからだ」
レーヴレヒトは回転式拳銃の弾倉から排莢し、新たな金属薬莢式拳銃弾を装填していく。
「事前想定では数人の跳ねっ返りが襲ってくるという話だったのに、二個分隊の襲撃だ。話が違いすぎないか?」
「おおかた土壇場の思い付きで人員を拡張したんでしょうよ。いくら私でも直前の計画変更まで把握するなんて無理よ」
ヴィルミーナが鼻を鳴らす中、殺気立った近衛兵達と民間軍会社要員達が互いを牽制するように雛壇周辺に防御線を構築。
撃たれたピエトロの手当てをすべく近衛騎士の幹部達が血相を変えて叫んでいる。
医者だっ! 医者を連れて来いっ! 急げっ!!
ピエトロが倒れたことに気付いた貴族達が雛段に集まってくる中、雛壇の上へ通されたエスロナ家の面々――王太子妃と王女アウローラが絹を裂くような悲鳴を上げる。王妃は瀕死の我が子を前に卒倒して護衛達に抱きかかえられた。子供達が死にゆく父に縋りついて泣いている。
もう助からない。ピエトロは急激な大出血と呼吸不全で既に意識が朦朧としており、家族へ遺言を残すことすら出来そうにない。
似たような光景が大広間のあちこちで生じていた。父や母や息子や娘、兄弟姉妹が死傷した者達が泣き叫び、助けを求め、理不尽な現実に怒りの声を上げている。
惨状を前にしても、ヴィルミーナは眉一つ動かさない。
襲撃による付帯損害は想定の範囲内。この惨状も、ピエトロの生死も問題ではなかった。
死にゆくピエトロに背を向け、ヴィルミーナは大音声を放つ。
「聞けぇいっ!!」
大広間に反響するほどの大喝に、大広間の全ての目がヴィルミーナに集まる。
「ベルモンテ諸侯諸官に問うっ! これは如何なる仕儀やっ!! この場は戦を終わらせ、我らの和解の場ではなかったのかっ! それとも、この流血こそがベルモンテの真意かっ!」
諸侯諸官を見回しながら、
「降伏を謳って我らを招きながら害そうとしたこの卑怯がベルモンテの総意かっ! 和解を訴えながら我が身を殺めんとするこの卑劣がエスロナの意思かっ!」
ヴィルミーナは怒声を張った。
「答えよっ! ベルモンテの意思は如何っ! エスロナの意思は如何なりやっ!! 返答次第では王都上空に滞空する我らの戦争鯨達が即座に砲声の合唱を歌うっ! 答えよっ!!」
「ざ、暫時っ! 暫時っ! 暫時ッ!!」
禿頭の提督コルベールが大声を上げて雛壇に駆け寄る。
「これはベルモンテの総意ならずっ! もちろん、エスロナの意思にも非ずっ!! 此度の惨劇は全て戦を続けんと欲する愚か者共の凶行。公王家とヴィルミーナ様の和解を妨げようとする慮外者共の蛮行。断じて我らの総意ではござりませんっ!!」
「コルベール提督。貴殿が誠実の人であることは知っている。その言葉も信じたい。が、これほどの血が流れ、私と和解を御英断されたピエトロ殿下が害された今、もはや貴国とエスロナへの不信は貴殿の言葉では到底拭えぬ」
ヴィルミーナは悪魔も裸足で逃げ出しそうな冷徹さと冷酷さを湛えた。
「降伏と和解の合意はこの流血によって白紙になったと心得よ。そのうえで貴国とエスロナにはこの場で覚悟を問わせてもらう」
紺碧色の双眸を獰猛にぎらつかせた。
「これは貴国が選択した末の惨劇であり、貴国が生じさせた事態だ。否やは許さん」
馬鹿馬鹿しい、とヴィルミーナは内心で自嘲する。
覚悟を問うも何も、既に成っているのだから。茶番以外の何物でもない。
○
大広間で対峙する老狐と魔女。
玉座に傲然と腰かけていたヴィルミーナがゆっくりと立ち上がり、黒いドレスの片掛けマントを揺らす。
「王太子ピエトロ殿下が亡き今、この椅子に相応しい人物を招かねばなりません」
ヴィルミーナはニコロを横目にしながら、椅子の背もたれに左手を置く。
「むろん、それは伯父様ではありません。貴方はもはや王ではないのだから」
「世迷い事を」
ニコロは一笑するも、
「否」
ヴィルミーナは雛壇に上がってきた高官が持つ銀のトレイを示す。そこには分厚い最上級羊皮紙の書状が積まれていた。
「ここに陛下の廃位に同意する諸侯諸官の署名がある。エスロナ一族も名を連ねていますよ。王妃陛下も王女殿下も王子王女方の名前もあります。
また、ベルモンテ王国法において、国王がその務めを果たせぬ場合、共同統治者たる王妃陛下による決済が認められる。
そして、ベルモンテ進駐軍暫定臨時総督たる私がベルモンテ公国の総意を承認し、貴方の廃位を受諾した。今、この場で貴方の王位は失われたことを宣言します」
「ふざけるなっ!! そのような戯言が認められるかっ!」
顔を真っ赤にして怒り狂うニコロに、
「貴方が甥から玉座を簒奪した時より法的に正当な手法なのですけれどね」
ヴィルミーナはせせら笑いながら告げた。
「貴方をこの場に招いたのは、廃位を告げるため。それと、戴冠式を最前列でお見せするためだ」
「戴冠式、だと」
顔を大きく歪めるニコロを余所に、ヴィルミーナはタクトを振るうように右手を振った。
大広間の扉が開かれ、近衛騎士達に警護された人物が入室してくる。
「き、貴様……っ! 貴様っ!!」
ニコロはその人物を目にした瞬間、ヴィルミーナを呪殺せんと睨みつけた。
近衛騎士達に守られながら玉座に向かう“車椅子”。その椅子に座る者こそ廃人同然の先代王太子嫡男――ヴィルミーナと亡きピエトロの従兄にして、亡きアンジェロの父。
フェデリコ・ディ・エスロナ。本来ならば玉座に座るはずだった男。
長年の軟禁と酒毒によって体も心も壊れ切った男は、何の反応も見せず玉座に連れられていく。
「その壊れものを玉座に置き、貴様がこの国を牛耳る気かっ!」
ニコロは諸侯諸官を見回して叫ぶ。
「貴様らは正気かっ! その奸婦にこの国を牛耳らせて構わぬというのかっ!!」
「これは陛下が招いたことであらせますっ!!」
重臣の一人が泣き腫らした目でニコロを睨みつけ、怒鳴る。別の高位貴族も喚くように訴える。
「陛下の時勢を無視した謀略が、斯くの如し蛮行がこの事態を招いたのですっ!!」
「雁首揃えて何も出来ぬ能無し共が囀るなっ! 貴様らの愚昧さがベルモンテを滅ぼそうとしておるのだぞっ!!」
「我が子すら顧みられぬ男が何を宣うかっ! この人でなしっ!」
王妃が痛ましいほどに泣き叫ぶも、ニコロは歯牙にもかけない。
「その人でなしのおかげで王妃の椅子に座り、恩恵を貪った女が言うことかっ! 恩知らずにも余を裏切った売女めっ!」
「愁嘆場もよろしいが、戴冠式です。お静かに」
ヴィルミーナは一同を嘲弄し、近衛騎士達の手で雛壇上へ上げられたフェデリコを虫でも見るような目で一瞥した後、王妃へ告げる。
「王冠をここへ」
「このような暴挙がまかり通ると思うてか」ニコロが毒づく。「我がベルモンテの国法を持ち出すならば、王の戴冠には枢機卿の立ち合いと法王の認可が必要なのだぞっ!」
「その心配は無用です。諸侯の同意と王妃陛下の決済を経て、ベルモンテ進駐軍暫定臨時総督たる私が戦時下の特殊な状況を鑑み、ベルモンテ国法の一部改正と即時施行を認証しました。
当代ベルモンテ公王は法王国の認可ではなく、諸侯とエスロナ家の合意によって推戴され、ベルモンテ進駐軍暫定臨時総督たる私の承認で即位されますから。むろん、これも合法です。貴方と違って」
しれっと語るヴィルミーナ。狡知に長けた魔女は根回しに飽き足らず、法的正当性もしっかり確保していた。容赦がない。
王妃からベルモンテ公国王冠を受け取り、ヴィルミーナは車椅子の廃人に被らせる。その手つきは厳かさも丁重さも敬意もない。麦わら帽子でも扱うような粗雑さだった。
ヴィルミーナは顎で指示し、近衛騎士達が酷い渋面で廃人の王を車椅子から抱え上げ、玉座に座らせた。つまらない冗談でも言うように告げる。
「ベルモンテ進駐軍暫定臨時総督ヴィルミーナ・デア・レンデルバッハ=クライフ・ディ・エスロナがフェデリコ・ディ・エスロナのベルモンテ公王、即位を認める」
「このような茶番が許されん、断じて許されんっ!!」
「続けて、」
喚くニコロを無視し、ヴィルミーナは悪魔のような微笑を湛え、
「先代王太子ピエトロ・ディ・エスロナの御長女ペネロペ王女殿下が、フェデリコ王陛下の御養子となり、王位継承権第一となり、王太女になることをここに宣言する」
宣う。
「同時にペネロペ王太女殿下とナプレ王国王太子ナブリオ殿下の御婚約をここに宣言する。
両殿下の御成婚を以ってフェデリコ王は退位なされ、ナプレとベルモンテは同君を戴くナプレ=ベルモンテ二重王国となる。この婚姻をベルネシア王国、大クレテア王国、聖冠連合帝国、タウリグニア共和国及びイストリア連合王国が承認することを宣言する」
「――――バカな」
ニコロは凍り付き、大広間を見回して取り乱したように叫ぶ。
「貴様らはこの比類なき暴虐を看過するというのかっ!! あの奸婦はベルモンテをナプレに売り飛ばそうとしているのだぞっ!! この暴挙がまかり通れば、ベルモンテは、この国はナプレの如き下賤な混ざり者に併呑されてしまうぞっ!!」
”前”公王の悲痛な訴えにも、ベルモンテ諸侯諸官には届かない。彼らは既に”戦後”を見ているのだ。
くすくすとヴィルミーナが鈴のように喉を鳴らし、
「これは異なことを。全ては貴方が招いたことでしょう?」
笑みを打ち消して冷酷な目つきで語り始め、
「貴方が身の丈に合わぬ野心を抱かねば、貴方が王になることは無く、この憐れなフェデリコ殿が廃人になることもなかった。
貴方が要らぬ猜疑心と義務感を発揮し、賢しらな謀を巡らしたりせねば、私が地中海に干渉することも、地中海にこれほど大きな戦争が起きることも、ベルネシアがこの戦争に干渉することも無かった。
貴方が要らぬ策を練り、要らぬことをせねば、王太子ピエトロ殿下は死すことなく、彼の娘がナプレに嫁ぐことも無く、この国がナプレと婚姻合併をすることもなかった」
心底忌々しげに吐き捨てる。
「全てはお前が原因だ、ニコロ・ディ・エスロナ。お前がこの国を亡ぼしたのだ。お前がエスロナをベルモンテの玉座から引きずり落としたのだ。お前が全ての元凶だ」
かつかつとヒールを鳴らしながら、ヴィルミーナは雛壇を降りていく。
「はっきり言おう。私は本心からベルモンテとエスロナ家と和解する気だった。アンジェロの一件を解決する気だった。怒りと悲しみを胸中の奥に封じる気だった。ピエトロ殿の謝罪と賠償で全てを終わらせるつもりだった。お前がそれを御破算にしたのだ」
ヴィルミーナはニコロから三歩分ほど離れたところまで進み、
「怒りのまま、ベルモンテを困窮の地獄に変えても良かった。飢えをしのぐために人肉を食うほど追い詰めてやっても良かった。あるいはナプレを強力支援し、軍事的に滅ぼしてやっても良かった。この国の端から端まで焦土にしてやっても良かった。私にはそれが出来るからな」
嘲り笑い、すぐに笑みを消してニコロを睥睨する。
「しかし、もはやこの国にそれほどの価値など無い。手間暇をかけて滅ぼす意義も無い。お前が執着するこの国にこれ以上時間も金も労力も割く意味がない。根切りにする価値も意味も意義も無いから、諸侯も民もエスロナ家も生かしてやる。だが」
ヴィルミーナは紺碧色の瞳をニコロへ向け、
「お前の後生大事なベルモンテは滅ぼす。お前が私を怒らせ、私を煩わせ、私を不快にしたがゆえに」
大広間を見回して言った。
「不満のある者は今すぐこの場を去るが良い。この場から去って戦支度を整えるが良い。協商圏諸国を動かすまでもなく、私が相手をしてやる。
ただし、覚悟せよ。私に剣を向けて無事に済むと思うな。私は貴様らを討った後、貴様らの老いた親達を辺境へ身一つで追放してやる。貴様らの男子を鉱山奴隷に墜としてやる。貴様らの女子を売春窟へ売り飛ばしてやる。身内が生き地獄を味わう様を冥府から眺めさせてやる。
その覚悟がある者はこの場から去るが良い」
誰も動かない。咳一つ呻き声一つ漏れてこない。”予定通りに”。
「どうやら、お前ほど物分かりが悪い人間はこの場にいないようだ」
ヴィルミーナはゆっくりと周囲を見回してから、ニコロへ柔らかく微笑みかける。
「さて、これにて仕舞いです。楽しんで頂けたかしら」
「―――――」
ニコロは返事も出来ない。敗北や絶望からではない。憤怒と憎悪と怨恨で頭に血が昇り過ぎていたためだ。
「このままで済むと思うな……っ」
それでもなんとか言葉を絞り出し、ニコロは金壺眼をヴィルミーナに向けて呪詛を吐く。
「もはやベルモンテを救い難くとも、仇敵たる貴様の首だけは必ず取ってくれる……っ。覚悟せよ、貴様も貴様の血を分けた者も必ずや討ち果たしてくれようぞ……っ!」
「好きなだけ妄想するが良い。遠吠えと妄想は負け犬に許された最後の慰めだ」
ヴィルミーナは小さく手を振った。近衛騎士達がニコロの両脇を抱えて大広間から連れ出していく。
大広間から出ていく伯父へ向け、姪は怖気を誘うほど美しい面持ちで告げた。
「さようなら、伯父様。もう二度とお会いすることは無いでしょう。暗闇の底でゆっくりと腐り果ててくださいな」
○
後の歴史に少し触れておこう。
ヴィルミーナが企てた通り、ベルモンテ公国はペネロペ王太女の結婚を機にナプレ王国と合併、ナプレ=ベルモンテ二重王国となった。その後、二重王国は南コルヴォラント王国と改称した。
エスロナ家は南コルヴォラント王国の公爵家として門閥貴族筆頭格となるも、ペネロペ以降、子孫が王家に嫁ぐことも降嫁を受けることも無かった。
旧ベルモンテ領において、ベルモンテの合併消滅を招いたエスロナ家は、声望と威信を大きく失った。ニコロ・ディ・エスロナの名はベルモンテ亡国を招いた暗君として史書に刻まれている。
また、同時代を描いた傑作悲劇『ピエトロ』において、ヴィルミーナはベルモンテを滅ぼすも、南コルヴォラント創成を誘った灰色の魔女と描かれている。
後年の南コルヴォラント王国において、南都エリュトラの中央広場にカーパキエ王国のアントニオ王太子の像が建立された。亡びゆく祖国のために若き命を捧げた王子は旧カーパキエ系民衆の誉れとして末永く語り継がれていった。
世間一般において、同時代に起きた地中海とコルヴォラントの戦いを、地中海戦争ないしコルヴォラント半島戦争と呼称するが、白獅子財閥社史やヴィルミーナの伝記においては、一貫して『黒色油抗争』と記述されている。
曰く――彼の戦いは黒色油を安定調達するための手段に過ぎぬから。
次章開始前に閑話を数話挟みます。




