20:0:誰がために鐘は鳴る。
お待たせしました。
大陸共通暦1781年:王国暦264年:初秋
大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:王都オーステルガム
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穏やかな午後。好天の注ぐ陽光は秋の柔らかなものに変わりつつある。空気からも夏の残滓が拭い去られ、北洋沿岸らしい冷たさが見え隠れし始めていた。
休日を取ったヴィルミーナは蒼いカジュアルドレスに白いサマーショールを羽織り、薄茶色の長髪を緩やかに結って肩口に流している。
色々考え事をしながら、ヴィルミーナは王妹大公家の広い庭を散歩していた。供回りの愛犬ガブは時折、ヴィルミーナの顔を窺って案じるように鼻先を腰辺りへ擦りつける。
愛犬が気遣いを見せる度、ヴィルミーナは控えめに微笑んでガブの眉間あたりを柔らかく揉む。
対モンスター狩猟犬らしく、ガブの全長は今やヴィルミーナの背丈より大きい。それでも、眉間を撫でられてこぼす声は変わらず愛らしかった。
愛犬と触れあい、紅葉が始まっていない初秋の庭を散策しつつ、ヴィルミーナは思索を重ねていく。
可愛い“姉妹達”が与えてくれた“赦し”は、ヴィルミーナの心を大きく揺さぶり、悩ませていた。
ヴィルミーナにとって、アンジェロ事件は逆鱗をバールで無理やり引っぺがされて、荒塩を塗りこまれたようなものだ。
自身の驕りを叩きのめされ、自身の傲慢を蹴り飛ばされ、強烈な痛悔と自己嫌悪を刻み込まれた。自身が守ろうと誓った子供を殺され、自身のみならず皆と共に築き上げた白獅子の名誉を貶められ、大事な我が子達の心も傷つけられた。
絶対に許さない。決して許せない。
二度とこんな真似をする者が現れないよう、世界に教訓を示さねばならない。私の大事なものに手を出せばどうなるか、バカ共の骨に刻みこまねばならない。
故に――
ベルモンテは灰にしなければならない。物理的に出来ぬのであれば、経済的に焦土とせねばならない。貧窮と貧困の泥沼に沈めねばならない。寒さを防げず、飢えと渇きを癒せず、一冬を凌ぐために老親を山に捨て、娘を遊郭に売り飛ばし、赤子の首を絞め、一握りの麦を得るために隣人を刺すような煉獄に変えねばならない。
ヴィルミーナのベルモンテ崩しは決定事項だった。
しかし、愛おしき“姉妹達”の誠実な思いやりと無心のいたわり、真心の友愛により、ヴィルミーナの凶暴な報復心が揺らいでいる。
ベルモンテは潰したい。向こう200年くらい絶望が支配する地獄に変えたい。
でも、それは大事な“姉妹達”の心遣いを無下にしてまで行う価値があるのか。
ベルモンテを潰すことは必要なことだ。ここで甘さを情に絆されたら、次は子供達や“姉妹達”の家族が狙われるかもしれない。そんな事態を防ぐためにも、断固たる報復をせねばならない。
でも、“姉妹達”の真摯な思いやりを撥ね退け、地獄を生み出すことが正しいのか。“姉妹達”の差し出した“赦し”を投げ捨て、ベルモンテを荒廃させた時、“姉妹達”と育んできた絆を大きく損なうかもしれない。ベルモンテにその価値はあるのか。
ベルモンテは潰さねばならない。アンジェロの死を思えば、我が子達が味わった悲哀を思えば、私の大切な身内達が被った心労を思えば、応報せぬなどあり得ない。
でも、その報復によって生じるだろう悪評や非難に、家族や身内を巻き込むことになる。それは正しいのか。
大きく息を吐き、ヴィルミーナは庭の一角に置かれた小さなベンチに腰掛けた。ガブがフンフンと地面を嗅ぎながらベンチの近場を巡る。
愛犬の様子を眺めながら、ヴィルミーナは思う。
レヴに会いたい。
ヴィルミーナはこの世界で最も信用し信頼する人物を哀切に想う。最高の協力者で秘密の共有者で悪企みの共犯者で、前世今生を含めて最愛の男。最高のひと。
レヴに会いたい。会って話したい。話し合って相談したい。
レヴの言葉が欲しい。
レヴに背中を押してほしい。
しかし、レーヴレヒトは不在だった。
法王国からの脱出に失敗したギイ・ド・マテルリッツとカイ・デア・ロイテールの救出作戦に派遣されている。
結局、考えはまとまらず、答えは出ず。ヴィルミーナは大きく溜息をこぼし、腰を上げた。愛犬と共に屋敷へ帰っていく。
ウン十年分の人生経験があっても何の役にも立たへんな。二度も生きて……結局、なんも成長してへんなぁ……
懊悩しつつ、ヴィルミーナは屋敷に戻り、
「やあ。ただいま」
子供達に囲まれた夫レーヴレヒトを目にして固まった。
「……え? なんで?」
「詳しくは言えないけれど、計画が変更になったんだ」
レーヴレヒトはしれっと応じてジゼルを左腕で抱え上げ、ウィレムとヒューゴの頭を撫でる。
会いたくて会いたくて震えそうな夫が眼前に居る歓喜。『先に連絡を寄越せや』という不満。どういう事情で帰還したのかという困惑。今すぐベッドに連れ込んで甘えまくりたいという衝動的欲求。
ヴィルミーナの練達な表情筋がどんな表情を作れば良いか判断に迷い、最終的に最も強い感情に従って表情を作る。
花のような笑顔を浮かべ、ヴィルミーナは子供達と共にレヴへ抱きつき、キスした。
○
「レヴはママのレヴなんだから、ママが優先なの!」
結局、ヴィルミーナは父との交流を要求する子供達からレーヴレヒトを奪取、背にブーイングを受けつつ、日が高いうちからレーヴレヒトを寝室へ引っ張り込んだ。それでいいのか三児の母。
ヴィルミーナは浮世のなにかも放り出してレーヴレヒトを貪り、レーヴレヒトに貪られ。
窓辺から夕陽が差し込まなくなった頃、魔導灯を点してピロートーク・スタート。
ヴィルミーナはレーヴレヒトの腕に抱かれながら胸中を吐露する。
報復と復讐。姉妹達がくれた赦しと絆。家族の将来。
どうすれば最良なのか。どうすれば最善なのか。
「ふむ……」
唯一無二のおんなが縋るように語った内容をしばし吟味し、レーヴレヒトは汗で仄かに湿った妻の髪を指で梳く。
「思うに、ヴィーナの側近衆達はあくまで君の心痛や心労を慮って、“赦し”を告げたんだろう。ベルモンテ潰しの翻意を求めたわけじゃない。まあ、アレックスさんやデルフィネ様のような穏健派はヴィーナがやり過ぎることを懸念しているだろうけどね」
こくりとヴィルミーナは素直に首肯した。
そこまでは理解している。そのうえで、どう判断し、決断を下せばいいのかが分からない。
「先送りすれば良い」
レーヴレヒトはさらりと回答。
「そんなの――」
やや憤慨した愛妻の唇を人差し指で押さえ、「まあ、聞いてくれ」とレーヴレヒトは言葉を続ける。
「ベルモンテは“まだ荒れる”。間違いなくね。エスロナ家が王権を返上して降伏、なんて話はそう簡単にまとまらない。こういう前例が出来ることを歓迎しないところも多いから、政治的に早々決着はつかない。それに、法王国を含めたコルヴォラント南部の戦はこれからが本番だ。情勢がどう転ぶか分からない」
「様子見しておけと?」
「ああ」レーヴレヒトは首肯して「先送りしている間にチェレストラ海の制圧を優先させるべきだ。これから秋の農繁期だし、じき冬になる。君が普及させた黒色油の農機や暖房器具の燃料需要に備えないと不味い。そもそも、君が地中海に手を伸ばした最大の理由は黒色油だろう?」
「……そう、ね」
ヴィルミーナは紺碧色の瞳に冷徹な怜悧さを宿らせる。怪物の頭脳が活発に動き始めた。
せやな……そもそもは黒色油の確実な調達を目的に地中海へ手を出したんや。そこがワヤになってもうたら、財閥として本末転倒やわ。白獅子財閥と関係企業、その社員と家族に対する責任を疎かにしたらあかん。
思索に耽り始めたヴィルミーナに、レーヴレヒトは微苦笑を湛えて愛妻の腰回りに手を伸ばす。優美な曲線を描く腰に指を這わせ、乳白色のきめ細かな肌の感触と温もりを味わう。
「チェレストラ海を優先している間に、ベルモンテの扱いを第三者に委ねてしまっても良いかもしれないな」
レーヴレヒトの提案にヴィルミーナは渋面を作った。狩りの悦びを姉妹や財閥の身内と分かち合うことは構わない。しかし、獲物を仕留める機会を他人へ譲ることは癪に障る。
「様子見と合わせて第三者とベルモンテのやり取りを見守ってから、最終的解決の決断を下せばいい。委ねる第三者は王国府、王家、クレテア、聖冠連合」
「王国府はあり得ない。連中は私と財閥の力を削ぐ口実を探してる。恃むに値しない。王家も……陛下は私の権勢が弱まる分には王国府と歩調を合わせるわ。クレテアと聖冠連合はややこしいことになる。却下」
ヴィルミーナの見解を受け、レーヴレヒトは「ふむ」と頷き、言った。
「なら、教会だな。開明派と伝統派。対立は根深く深刻だけど、それだけに恃みに応じるなら真剣にことへ当たるだろう」
端正な顔に満足げな笑みを浮かべ、ヴィルミーナは夫の頬を愛でるように撫でる。
「悩める妻に教会を利用しろなんて。酷い夫ね」
「褒めて貰えて嬉しいよ」
レーヴレヒトは微笑みながらヴィルミーナを抱き寄せ、耳元へ囁く。
「御褒美に、夕飯までにもう一度抱かせてくれる?」
「食事前に入浴する時間を取らせてくれるなら」
もったいぶるように条件を付けてから、ヴィルミーナは体を開いた。
○
白獅子財閥の王都社屋。
総帥執務室に側近衆達が集まり、ちょっとしたお茶会のような光景を作っていた。
「――というのが、貴女達の謙譲と真心に私なりの答えを出したつもりなのだけれど……どうかしら?」
ヴィルミーナが“計画”を披露すると、
「私は良いと思います」
“侍従長”アレックスが真っ先に賛同した。
「私が僭越ながらヴィーナ様へ“赦し”を御進言したのは、あくまでヴィーナ様の御心痛と御心労を和らげられれば、と思ってのこと。ベルモンテに対する制裁の御翻意を求めてはおりません。もちろん“やりすぎ”は憂慮しておりますけれど」
「ベルモンテが地図から消えても私達は困りませんが、ヴィーナ様が悪名を負ってまで手を汚さずとも良いかと。連中は放っておいても敗戦で勝手に苦しみます」
“信奉者”ニーナが意見を開陳すると、マリサが怒った山猫のように口端を歪める。
「奴らはヴィーナ様を傷つけ、あたし達の築き上げた白獅子を貶めた。徹底的に痛めつけてやりたい」
「同感。ベルモンテなんて焼け野原にしちまえば良い」
怖いことを言うのは“赦し”の場に不在だったアストリードだ(後日、帰国してから件を知ったアストリードは『なんで私を仲間外れにするの? イジメ? イジメなの?』と大いに憤慨した)。
「私はベルモンテの件を先送り自体は、良い案だと思います。情勢は未だ流動的ですし、チェレストラ海に注力することも組織の経営に適います。ただ……」
ヴィルミーナの左隣に座り、腕を絡ませていたデルフィネが呆れ顔を作る。
「教会を利用するというのは……些か問題じゃありません?」
ベルネシアは開明派世俗主義であるが、日本人的な宗教への無関心とイコールではない。むしろ、いざという時は聖王教徒らしい宗教価値観を発揮する(第11章も参照のこと)。
「それは今更ですよ、フィー。私達は伝統派の総本山、法王国すら利用しようとしたんですから」とリア。
「話の持っていき方次第だと思います」
パウラは髪を弄りながらヴィルミーナに問う。
「その辺りはもう考えてらっしゃるのですか?」
「当初はアリスを頼ろうかと思ったのだけれど、今、群島帯に里帰りしてるのよ」
ヴィルミーナは茶菓子を摘まむ。
アリスこと“聖女”アリシア・ド・ヴァイクゼルは翼竜騎兵ラルスと結婚後も、両親共々ベルネシア本国で暮らしていた。ただ近年、群島帯の祖父母が不調らしく様子見に里帰りしている。
「だから、旧知の大恩人を頼ることにしたわ」
どこか悪戯っぽく微笑み、ヴィルミーナは茶菓子を口へ放った。
○
俳優マイケル・ケイン似の老司祭ゴセックは数年前――ヴィルミーナの双子に洗礼を施した後に大主教の位階を返上していた。今は教区司祭として市井の愛すべき人々と過ごし、神への祈りに捧げている。
ゴセックは人生を神と教会に捧げてきたが、残された時間を大主教という位階に伴う重圧とストレス、苦労ばかりの教会内政治、途方もない面倒や厄介などに費やす気は更々無かった。
要するに、教区司祭に立ち戻ったのは楽隠居だ。赴任先に白獅子の王都社屋がある王都小街区を選んだ辺り、確信犯である。
戦傷障碍者や戦死者遺族の多い小街区は白獅子財閥が興した街区であり、クレーユベーレ市に主要事業を移転した今も少なくない工場や傘下企業が稼働している。バリアフリーが徹底された街並みは身体障碍者も気楽に散歩が叶うため、温かく賑わっていた。
ゴセックは若い頃、従軍僧として戦場に赴き、剣林弾雨の中を駆け回り、斃れた者達の臨終を看取った。そのため、元兵士やその遺族が多い小街区では、多大な敬意と敬慕を集めている。街を歩けば、誰もが笑顔で挨拶をしてくれる。そのくらいの自尊心を満たしても、罰は当たるまい。
この日もゴセックは朝の祈祷を済ませたら、市井を散歩して喫茶店で朝食を摂る気だった。教会食堂の慎ましい食事ではなく、芳醇な珈琲と美味い料理を得る悪徳を楽しもう。
そんなゴセックのささやかな悪企みは、教会前に武装護衛付の二頭牽き馬車が到着したことで破棄されることとなった。
「おはようございます、司祭様。少しお時間を頂けないでしょうか?」
かつて自身が改宗の洗礼を施した美少女は、今や美麗な淑女になっていたが、幼いころと変わらず紺碧色の瞳をエネルギッシュに輝かせていた。
「おはよう、ヴィーナ。朝から何用だね?」
ゴセックがぼやくように応じるも、ヴィルミーナはカツカツと教会の石床を蹴りつけるように歩み寄り、女妖染みた笑みを湛えた。
「朝食はまだでしょう? 御馳走しますよ」
言い終えるが早いか、ヴィルミーナはゴセックの右腕を抱いて馬車へ引っ張っていく。傍目には孫娘が祖父を散歩に連れ出すような光景だが……武装護衛達が控えているため、誘拐にも見える。
馬車に載せられたゴセックはやれやれと頭を振り、にんまりと微笑むヴィルミーナへ問う。
「忘れておるようだが、儂は引退した身だぞ。世俗の悪事に巻き込むなら他の者にしてくれ」
痛烈な皮肉に、ヴィルミーナは笑みを大きくする。
「私が司祭様に魂の救済を求めるとはお考えにならないのですか? 私は苦悩多き人間ですよ?」
「昨年、お前さんと御家族に起きた不幸は知っておる。ユーフェリアと共に祈ったさ。君はついぞ告解にも相談にも現れなかったがな。それどころか、議会で戦を煽動する始末だ。まったく。儂にはお前さんの魂は救えんわ。そもそも、お前さんは勝手に天国へ“進撃”しそうだ。行き掛けの駄賃に地獄を征服してな」
散々な言われようだが、ゴセックは歳の離れた友人へ毒を吐くような悪戯顔を浮かべていた。
ヴィルミーナは満足そうに頷く。近頃は楽しい毒舌を聞かせてくれる者が少ない。くすりと喉を鳴らしてから、表情を引き締めた。
「そこまで私を理解してくださっているなら、私がベルモンテに報復を企図していることも御存じでしょう?」
振動なく進む馬車の中、ゴセックは眉間の皺を一層深くした。
「翻意が叶うなら、この場で幾千幾万の言葉を紡いでも良いぞ、ヴィーナ。ベルモンテの民のためではなく、お前さんのためにな」
「赦しが魂を救うことは不信心な私も知るところです、司祭様」
ヴィルミーナは車窓の外へ目線を逃す。ウィレムとそう歳の変わらない子が、義足の父親と手を繋いで歩いていた。2人とも優しい笑顔を浮かべていた。
「先日、私の“姉妹達”が言ってくれました。私を赦すと。神や教会が、私自身が赦さずとも、“姉妹達”が赦してくれると」
「素晴らしいことだ」ゴセックは大きく頷き「そのような友を得たことこそ福音だよ、ヴィーナ」
「まさしく」
ヴィルミーナは言葉短く首肯した。そのうえで告解する。
「しかし、私は忘れられません。私の腕の中で死んでいった哀しい子を。私の腕の中で涙した我が子達の顔を。私の中にいる獅子が今も叫んでいるのです。応報せよと。二度と斯様な惨事を招かぬよう、徹底して報復し、世界に教訓たらしめよと」
「悪魔は常に人の心に住み、最も欲する言葉を与えるものだ。その甘言を撥ね退けるには多くの強さを必要とする」
ゴセックは再び頷き、ヴィルミーナの手を握る。
「君は強い娘だ、ヴィーナ。友人達の心遣いに応えなさい。怒りから解放され、魂が自由と平穏を得られる」
慈しみがこもった温もりを感じつつ、ヴィルミーナは言った。この好々爺を利用することへ自己嫌悪を覚えながら。
「姉妹達の友愛と真心。私自身の憤怒と怨恨。二つを秤にかけ、私には答えが出せませんでした。そこで、私は夫や姉妹達と相談した末、この件を教会に委ねる決断をしました」
「委ねる?」訝る老司祭。
「彼らが王権すら手放して我々の慈悲に縋るという言葉が本当なら、教会に良きよう計らっていただきたい。私はその結果に基づいて振る舞いましょう。しかし、彼らの言葉が取り繕った言い逃れに過ぎぬというなら、その不徳に相応しい代償を払わせます」
ヴィルミーナの言葉に、ゴセックは思わず唸った。
長年に渡って教会上層部で苦闘し続けただけに、ゴセックはヴィルミーナの真意を見抜く。
自身の苦悩は事実だろう。報復願望も本当だろう。その折衷案として教会を利用しようというわけだ。自身や自分の組織ではなく教会を試験紙にし、ベルモンテに対する最終的解決を決断する。
教会を利用しようという罰当たりな傲岸不遜さに、ゴセックは眉をしかめる。しかし、ヴィルミーナが一線を超える判断を教会に預けた意味と“価値”は非常に大きい。
ヴィルミーナが本気で報復を図れば、どれほどの惨禍が生じるか。大国クレテアですらヴィルミーナの経済攻撃で多くの凍死者と餓死者、破産者を生んだ。小国ベルモンテではどうなることか。
その惨劇をベルネシア国教会が、ひいては聖王教会開明派が防げたなら、教会の威徳は大きく高まるだろう。その利得は計り知れない。
けして易い仕事ではない。相手は聖王教伝統派の牙城でこちらを北洋の異端と悪罵してはばからない。説得と仲裁は艱難辛苦に満ちた茨道となろう。
それでも、挑む価値はある。成功しても失敗しても、実りが無いわけではないのだから。
ゴセックは決断し、ヴィルミーナを真っ直ぐに見つめる。
「一つだけ問う。この話は君が大手を振ってベルモンテを潰すための名分作りかね?」
「その意図がないとは申しません。ですが、教会の活躍によって、ベルモンテ潰しが叶わなくなったとしても私は受け入れられます」
老司祭を真摯に見つめ返しながら、怪物が答えた。
ゴセックはしばし瞑目した後、おもむろに告げる。
「儂は既に引退した老骨だ。教会に話を持ち込めても、通せるとは限らんし、通っても儂が請け負うことは叶うまい。それでも良いかね?」
「構いません」ヴィルミーナは頷いて「感謝します。司祭様」
やれやれ、とゴセックは大きく息を吐く。
「いつ棺桶に収まってもおかしくない老人をとんでもない悪企みに巻き込みよって。ヴィーナは教会への敬意と敬老精神が足りん。もっと教会奉仕に参加させるべきだったな」
いつもと変わらぬ小言を聞かされ、ヴィルミーナは和らげた。
「豪華な朝食を奢りますよ、司祭様」
老司祭はにやりと口端を吊り上げた。
「儂を朝飯で買収する気かね? それは些か安すぎるぞ」
今年もよろしこ(古語)。




