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転生令嬢ヴィルミーナの場合  作者: 白煙モクスケ
第3部:淑女時代

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閑話30b:巨雲迷宮の戦い

大変お待たせしました。

大陸共通暦1781年:ベルネシア王国暦264年:秋

大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:王都オーステルガム

――――――


“白獅子”財閥の大幹部アストリード・モーンケナは、派遣先の大クレテア王国から帰国し、久し振りに本国ベルネシアの土を踏んだ。まぁ、財閥総帥のヴィルミーナへ中間報告を終えたなら、すぐにクレテアへ戻ることになるが。


 王都外れの飛空船離発着場から二頭立て馬車に乗り、アストリードは“白獅子”王都社屋へ向かう道すがら、上等な革鞄を開いた。


 アストリードとヴィルミーナの付き合いは長い。学生時代からヴィルミーナの派閥に属し、“姉妹”の一人としてヴィルミーナの事業に携わってきたし、共に戦争にも出征した。自身の結婚で離れた時期もあったが、離婚後に側近衆へ復帰。今は財閥大幹部の一人だ。


 そんなアストリードよりもヴィルミーナと付き合いが長い人間が、大空賊アイリス・ヴァン・ロー女士爵だった。財閥を立ち上げる以前からヴィルミーナはアイリスの私掠船稼業に出資をしており、その関係性はビジネスパートナーであり、年の離れた友人にも近い。


 そのため、“竜殺し”アイリス・ヴァン・ローに関する報告は詳細を求められる。

 革鞄から報告書を取り出し、アストリードは復習するように目を通し始めた。


        ○


 戦闘詳報によれば、アイリスの駆る『空飛ぶ魔狼号』と僚船『白き鷲頭獅子号』が“牛頭鬼猿(タウロンスロープ)”ジャコモ・ガットゥーゾが率いる船団4隻と交戦した時、戦場の空はさながら巨雲の群れで築かれた迷宮のようだったという。


 入道雲の発生は不規則な上昇気流の発生と大気の不安定を意味する。また、入道雲は成長と共に積乱雲――強烈な乱気流と静電気の巣窟となるため、飛空船の空戦を妨げる。そして、雲下の海上は激しい雨に見舞われ、やはり飛空船の運動を妨げていた。


 仮に積乱雲へ飛び込めば、船体が乱気流と静電気に破壊されることもあり得る。

 かといって激しい降雨が生じている雲下も、決して戦い易い環境ではない。相対速度と相まって露天甲板上は活動困難になる。


 厳しい気象条件の中の戦闘。優劣を決めたのは、まず両者の高度差だった。

 ベルモンテの水上部隊を襲っていたガットゥーゾ達は数に優れど、高度は海上数百メートル。高度1500以上を飛ぶアイリス達に頭を押さえられている。


 この時代の飛空船は水上艦艇と同じく火砲は両舷に集中配備されており、船首と船尾に1、2門配してある。そして、気嚢には構造上、火砲を据えられない。船体上方が絶対的な死角だった。

 高度的優位を持つアイリス達は一方的な攻撃が可能だった。


 ここに両者の駆る船舶/装備の優劣も加わる。

 アイリス達の船は強力な火砲を装備し、高い運動性能を持つグリルディⅣ改修型。

 ガットゥーゾ達の船はフローレンティア製武装飛空船。快速型船艇とはいえ、運動性能はベルネシアの戦争鯨には及ばないし、火砲の射程も劣る。


 ガットゥーゾの数的有利にしても、内二隻はベルモンテ戦列艦へ移乗攻撃中だったため、人手が足りない。


 よって、ガットゥーゾは冷徹な手法を獲った。

 船員の不足でどうしても操船が鈍くなる二隻を盾にしながら、自身と僚船の上昇を図る。


 むろん、ガットゥーゾは無策のまま身内を捨て駒にはしない。積乱雲を用いてアイリスの射角と射界を妨げつつ、積乱雲下の上昇気流を使って一気に雲底の陰を目指す。


 アイリスとてベテランの空賊だ。ガットゥーゾの考えは分かる。

 プロの戦いは奇策で相手の裏を掻いた方が勝つのではない。両者は確実な手段を確実に遂行し続け、打つべき手を読み間違えた方が負けるのだ。


 アイリスは積乱雲の陰に潜り込むガットゥーゾを追わなかった。敵を追いかけて高度の優位を失うより、砲弾を消耗することを選ぶ。

 分厚く巨大な雲越しに散弾を発砲。弾子をばら撒く。空中聴音器を用いて散弾子がガットゥーゾ達の船体に命中する音を捕捉し、ガットゥーゾ達の軌道を予測。雲間を飛びながら射撃位置を取り、ガットゥーゾ達の未来位置へ向けて偏差射撃を行う。


 当然ながら、雲は如何に分厚かろうとも砲弾の飛翔を妨げない。

 記録によればアイリス達が三度目の斉射を行った時、ガットゥーゾ側の一隻が撃沈されたようだ。


 被弾により気嚢が剝がれ、浮力を失った船体は海へ真っ逆さま。数百メートルの落下後、海面に叩きつけられて破砕した。船員達諸共に。


 彼らの犠牲は無駄ではなかった。

 ガットゥーゾは三隻を率いて目的通り、雲底まで上昇に成功。気嚢を積乱雲のケツに擦らせるように水平飛行。その後、積乱雲を挟んでアイリス達の向かい側へ回り込みながらゆっくりと高度を上げていく。


 ガットゥーゾ達を見失ったアイリスもまた、雲間を縫うように飛びながら高度を上げていく。


 先述したように飛空船同士の戦いは位置取りが重要となる。頭上を獲った方が絶対的に有利だ。

 ただし、この時代の飛空船には高度3000の天井がある。小さな飛空短艇でも、巨大な飛空艦でも、高度3000以上には昇れない。


 そして、常に高度3000を維持できるわけでもない。船体の状態や重量、天候条件や気流など様々な要素要因が働き、到達限界高度を引き下げる。そもそも高度3000が最良の飛行高度というわけではない。


 まして、この戦場の気象条件は芳しくなかった。巨雲が乱数的に居並び、空中迷宮と化している。巨大な積乱雲の群れによって気流も大気状態も不安定で荒れていた。


「高度は2500が限界のようです」とティネッケが申告。

 高性能なグリルディⅣ改修型で2500メートルが限界なら、雨に濡れたガットゥーゾ達の武装飛空船は2500よりも低い高度までしか昇れない。


「2000まで上昇。鷲頭獅子号は2200まで昇らせて、こっちの援護だ」アイリスは隻眼を鋭く吊り上げ「目と耳に集中して突発戦闘に備えろ」

 視界の利かない巨雲の迷宮内で、戦争鯨達が互いの位置を探り合う。


 観測員達は五感を研ぎ澄まして周囲を探り、砲兵達は息を呑んで突発戦闘に備えた。操舵手の舵輪を握る手が汗ばんでいる。航空士が時間と速度から現在地を地図に書き込んでいく。その地図を凝視しながら、船長と副長は敵の位置を考える。


 戦闘中とは思えぬほど静かな船内に、相対気流の激しい風音が響く。周囲を漂う巨大な積乱雲の群れが時折、バチバチと静電気を煌めかせていた。




 誰もが焦燥に似た思いを抱えながら、今か今かと会敵を待っている中――





 馬鹿デカい据置双眼鏡を覗き込んでいた船首観測員が叫ぶ。

「船影発見っ!! 前方12時半、距離約2500、高度約1800ッ!」


 伝声管から報告が届くや否や、ブリッジで手透きの者達が一斉に私物の単眼鏡や双眼鏡を覗く。

 雲冠の高度6000を超す巨雲の麓。ゴマ粒ほどの影が確かに見えた。しかも、こちらにケツを晒している。


「叔母様、間違いありませんっ!」

「船長と呼びな」

 興奮気味のティネッケへ静かな叱声を飛ばし、アイリスが命令を飛ばす。

「総員、待ち伏せに備えろっ! 緊急回避用意っ!」


「あれが囮、と?」怪訝顔を作るティネッケ。

「年食った獣は悪知恵を働かせるもんだ」

 アイリスは眼帯の位置を直しつつ、

「あの船のケツを追った先に牛頭鬼猿が待ち構えている、てのはあり得る筋書きさね」

 通信士に吠える。

「鷲頭獅子号に後方を警戒させろっ!」



 結論から言えば、アイリスの読みは正しかった。



 ガットゥーゾは乗員不足の船を餌にアイリス達を誘引。巨雲の先で僚船と共に舷側砲列を向け、待ち構えていた。

 高度差は無い。この時、ガットゥーゾ側は高度2000前後が限界で、アイリスの駆る『空飛ぶ魔狼号』と同高度だった。


 先に述べたように、この時代の飛空船の武装は舷側砲列が主であり、船首船尾の砲はオマケ程度でしかない。横隊で待ち構えているガットゥーゾへ縦列で遭遇したアイリスは、火力面で極めて不利な状況となった。俗にいうT字劣勢。


 この状況を想定していたアイリスは即断する。

「最大船速で急降下っ!!」


 飛空船の構造上、上昇した方が被弾の危険は少ない。しかし、上昇するより降下する方がずっと速い。

『空飛ぶ魔狼号』が能う限りの急降下を開始した矢先。ガットゥーゾの『復讐の聖母号』が僚船と共に斉射。

 ガットゥーゾの放った弾幕は囮役の頭上を越え、アイリスへ襲い掛かる。


 ここで飛空船大国ベルネシアの誇る高速戦闘飛空艇が真価を発揮した。通常の飛空船なら決して逃れられぬ弾幕を、ザトウクジラに似たグリルディⅣ型は見事に掻い潜る。

 浮揚機関の出力を限界まで下げ、両翼と船首船尾の風系魔導術を最大出力。さながら鯨が海底へ急速潜行するように、船首を大きく大きく下げて急降下(フルダイブ)


 信じ難い運動性と機動性。もっとも、それはかなりの無理と無茶を押し通した回避運動だった。船首傾斜角45度を超すほどの急降下。手摺なり何なりに掴まっていなければ、船首へ向けて“転落”してしまう。

 案の定、阿鼻叫喚の船内は“転落”負傷する者が続出。特に戦闘に備えていた砲兵達の混乱は酷い。安全帯をつけ忘れていた露天銃座の新人が空に投げ出される。


 アイリス達の後方に居て、ガットゥーゾ達より200メートルほど高く飛ぶ『白き鷲頭獅子号』は弾幕の射線から外れていたため、船首砲で応戦。長射程かつ高精度のベルネシア艦載砲がガットゥーゾの僚船を捉えた。


 船体と気嚢の連結部から青々とした爆炎が噴き出し、ガットゥーゾの僚船がゆっくりと沈むように降下していく。浮揚機関を損傷したらしい。


『復讐の聖母号』は射角を調整し、その船名に相応しい強烈な反撃の斉射を行う。迎角で放たれた弾幕は『白き鷲頭獅子号』の船首と気嚢へ着弾。即座に撃沈へ至る損傷ではなかったが、『白き鷲頭獅子号』もまた気嚢に損害を被ったため、高度を下げていった。


 その間、『空飛ぶ魔狼号』は急降下で得た速力を活かし、今度は鯨が水面を目指すように急上昇していく。

『くそったれっ! すまん、アイリスッ! 後退するっ!』

「後は任せなっ!」

 アイリスは短い魔導通信を交わし、

「行きがけの駄賃だっ! “餌”を叩き落とせっ!」

 魔狼が囮役の船へ牙を剥く。


 人手不足により操船の鈍い囮役は迎撃も回避もままならず、グリルディⅣ改修型の強力な打撃力に打ちのめされる。

 炸裂弾と榴弾の弾幕に木皮飛空船は為す術なく破壊され、弾薬庫が殉爆して船体中央から弾けた。真っ二つになって轟沈していく。


 隻眼の女空賊は『復讐の聖母号』を睨みながら吠える。

一対一(サシ)だ、クソジジイッ!!」


       ○


 巨雲の迷宮内で二隻の戦争鯨が追いかけっこを繰り広げる。

 飛空船同士の戦いは航空機同士の戦いほど動きが激しくない。流石に航空機ほどの運動性能を有していないし、間違ってもバレルロールやインメルマンターンのような動きは出来ない。それに、船体各部に武装を備えているから巴戦を演じずとも相手を落とせる。


 繰り返すが、飛空船同士の戦いで重要なのは、ひたすらに高度である。頭上を取られたら何もできない。


 ゆえに、アイリスはグリルディⅣ改修型の性能を最大限に利用した。ガットゥーゾより高く飛んで一方的に追い回し、船首砲を浴びせる。


 高度で負けているガットゥーゾは、巧妙な三次元回避運動と分厚い入道雲を利用してアイリスの砲撃を避け続ける。

 如何に高性能といえど門数の少ない船首砲だけなら、船体性能に劣っていても回避し続けることは難しくない。ましてや、ガットゥーゾの船体運動は教本に載せて然るべき精度。



 追うものと追われるもの。その構図は入れ替わらないものの、決着はつかない。



「ジジイの癖にちょろちょろと……っ!!」

 苛立つアイリスが眉目を吊り上げ、吐き捨てる。

 ある意味でガットゥーゾに対する最大の讃辞だった。アイリスは戦い慣れた熟練水兵を揃え、船体性能と高度で優りながらも、仕留められない。その事実がガットゥーゾという老海賊の実力をこれ以上ないほど見事に証明している。

 地中海圏随一の大海賊“牛頭鬼猿”。人々から“ドン”の尊称を贈られた偉大な船乗り。


 ざけんな。


 アイリスは叫ぶ。

「ジジイに釣られて高度を下げるなっ! 船足を上げて奴の上方側方へ進出っ! 舷側砲列の射界に捉えろっ!」

「叔母様。前方突出(オーバーシュート)する危険があります」

「奴はこっちの高度まで上がれない。前方突出しても問題ないっ!」

 進言する姪を鬱陶しそうに睨み据え、アイリスは伝声管に怒鳴る。

「砲列、斉射用意っ!」


 グリルディⅣ改修型が胸鰭のようなメインマストを始めとする各マストの風系魔導術理を起動。一気に大増速。ザトウクジラ似の戦争鯨が武装飛空船の左舷上方へ遷移していく。


 アイリスの意図を読んだのだろう。ガットゥーゾの船は船足を落としながら急降下を試みた。これでアイリスを大きくオーバーシュートさせれば、この場から離脱して仕切り直しが可能になる。オーバーシュート時の交錯も急降下で砲の俯角限界から逃れれば、撃たれない。


 老練なガットゥーゾの経験と見識に基づく判断は正しく、確実だった。まさしくプロの仕事と決断だ。


「敵船、降下中っ! 砲の俯角限界下へ逃れますっ!」ティネッケが叫び、

「右15度傾転、急げっ! 奴を逃がすなっ! 右舷砲列、斉射用意っ!」

 アイリスの怒声を受け、顔が汗塗れのマスト操作手が伝声管に声を張る。

「右15度傾転っ!! 右動翼上げ回し3度っ! 左動翼下げ回し3度っ! 急げっ!!」


 伝声管から届いた命令に従い、マスト付き水兵達が大急ぎで胸鰭の根元にある舵輪を回す。戦争鯨が巨躯を右に15度ほど傾げ、右舷砲列の射界に“牛頭鬼猿”を捉えた。


 砲士官が伝声管にがなる。

「敵船捕捉っ! 射撃可能っ!」


「さっさと撃てっ!!」

 アイリスの怒号と共に右舷砲列が絶唱した。


 戦場の女神達が合唱し、炸裂弾と榴弾の弾幕が眼下を泳ぐガットゥーゾの戦争鯨へ降り注ぐ。

 厳しい条件下で離れた斉射の命中弾は3分の1に過ぎない。だが、その3分の1はガットゥーゾの左舷後部を手酷く損壊させた。

「よぉしっ!」アイリスは弾んだ声を上げ「第二射、急げっ!」


「叔母様、敵船がっ!」

 ティネッケが信じられないと言いたげに目を剥く。

「正気か、あのジジイ」

 アイリスも隻眼を丸くした。


 手酷く傷ついたガットゥーゾの飛空船が、入道雲へ飛び込んだのだ。

 乱流と静電気が荒れ狂う地獄の鍋に。


「苦し紛れ……にしちゃあ悪手だな」

 鋭く舌打ちし、アイリスは先ほどまでの獰猛さが嘘のように冷め、静かに命じた。

「上昇限界まで昇りながら、この入道雲の周囲を回れ。野郎がしぶとく飛び出してくるかもしれない」


「雲中を突っ切って向かい側に、ですか? あの損傷具合では10分と掛からずバラバラになりますよ?」

「つまり10分は雲中で動けるってことだ。雲底下に突っ切るだけなら5分も要らない。雲の下にゃあ後退した鷲頭獅子号が控えてるから、あたしらは向かい側を探すぞ」

 敵の生存を信じる叔母に、ティネッケは目を瞬かせてから入道雲を窺う。

 入道雲はバチバチと静電気を激しく煌めかせていた。






 そして――――






「クソ野郎め。あたしにやられるくらいなら自滅の方がマシってか?」

 四十路の美貌を失望感と不快感に歪め、アイリスは吐き捨てた。

 周辺捜索は間もなく10分に届く。ガットゥーゾの船影は無く、雲下に控える『白き鷲頭獅子号』からも発見の報はない。


 積乱雲内の殺人的乱流と静電気の暴威に船体を砕かれ、暴圧的上昇気流で吹き飛ばされてしまったのかもしれない。


 その時。


 巨雲の白い肌にフッと豆粒みたいな影がよぎり、なんだ? とアイリスが怪訝そうに眉間に皺を刻んだ直後。


『じょ、“上方”から敵影ッ! 敵船が積乱雲の中から飛び出してきましたっ!!』

 伝声管から悲鳴染みた叫び声が届く。

『て、敵船、高度……こ、高度、”約4000”っ!!』


 キャビン内の全員が絶句した。

 高度3000が天井。これは“常識”だ。どれほど強力な浮揚機関を使っても、魔導術理で加速しても、高度3000以上は飛べない。


 考え得る可能性は、ガットゥーゾが巨雲内の乱流を完璧に読み切り、その荒れ狂う上昇気流に乗って高度3000以上に達したということ。

 あり得ない。危険な雷電が暴れる中で帆を操り、破壊的な乱流を巧みに乗りこなすなど、常識的に不可能だ。そんなこと出来ようはずがない。


 しかし、その常識が今、眼前で覆されていた。

 高度3000を上回る高みに、幽霊船の如き様の飛空船が敢然と泳いでいる。傷だらけでボロ雑巾のような有様にも関わらず、蒼穹を背に陽光を浴びて巨雲の狭間に浮かぶ姿は神々しささえ感じられた。


 魔狼号の誰もが手を止め、息を呑み、目を見開き、頭上に浮かぶ船を見上げていた。キャビン内も同様でアイリスすら窓際に張り付き、周囲と同じく驚愕と動揺に唖然としている。


 愕然として凍りついた船内。そんな中、いち早くアイリスは我に返って叫ぶ。

「緊急かい」

『敵船斉射っ!!』

 アイリスの声を掻き消すように、伝声管から観測員の悲鳴が響き渡り――


 魔狼号に激甚な衝撃が走った。


 砲弾の雨を浴びた船体右舷と船尾が吹き飛び、気嚢を大きく損傷した魔狼号が黒煙を吐きながら緩やかに落ちていく。

 強敵を破り、“牛頭鬼猿”は誇らしげに緩降下しながら西へ向かって去っていった。


        ○


 アストリードを乗せた馬車が王都社屋前に到着した。

 報告書を閉じ、アストリードは護衛の手を借りて下車。秘書と護衛達を伴って社屋の正面玄関を潜る。


 瀟洒な玄関ホールへ足を踏み入れた時には、アストリードは既に地中海の小さな死闘から関心を失っていた。

 アストリードの関心事は数カ月振りに会う愛しき“長姉”のことで、“姉妹”達と議論する地中海戦争とその戦後のことだけだった。






 同じ頃。エトナ海諸島クアッディ島、クレテア海軍駐留基地の一角。

 アイリス・ヴァン・ロー女士爵は不機嫌の極みだった。


“牛頭鬼猿”によって船体を大破させられた後、アイリスは『白き鷲頭獅子号』と合流。

 ベルモンテ戦列艦と交信した『鷲頭獅子号』曰く、ベルモンテ戦列艦は協働商業経済圏側への特使を乗せているとかで、戦意は無いらしい。もっとも、ガットゥーゾの水兵達との戦闘になんとか勝利したものの死傷者が多く、特使自身も負傷したようだが。


 ともかく、アイリスはズタボロの『魔狼号』を『鷲頭獅子号』に牽引してもらい、ベルモンテ戦列艦共々、クレテア海軍が駐留するエトナ海諸島クアッディ島へ辿り着いた。


“牛頭鬼猿”ガットゥーゾに見逃して貰えたから。


 実に腹立たしい事実。いっそ追撃を受けて死んだほうがマシだった。敵に見逃してもらう、などアイリスの矜持と尊厳が許せない。猛烈に不愉快で、猛烈に腹立たしい。


「あの野郎」

 というわけで、アイリスは朝っぱらからクレテア産のブランデーを呷り、憎々しげに唸る。

「絶対にぶっ殺してやる」


「叔母様」

 荒れた酒を飲む叔母の許へ、ティネッケがやってきた。

「魔狼号は竜骨に大きな亀裂が入っていて、ここの簡易ドックでは直せないそうです」


「ちきしょう」とアイリスは毒づき「あのジジイは?」


 隻眼に睨まれたティネッケは肩を竦めた。

「未だ消息不明です。フローレンティア公国には帰還したという確認は取れていません」


 あの戦いの後、ガットゥーゾは消息を絶っていた。

 船が酷く損傷していたから本国まで帰れなかったのか、戦争が馬鹿馬鹿しくなって高跳びしたのかは分からない。確かなことは……


「クソジジイ、勝ち逃げする気か」

 確かなことは、“竜殺し”アイリス・ヴァン・ローが敗れたということだ。


        ○


 蛇足かもしれない。

 だが、記しておこう。


 結果から言えば、“牛頭鬼猿”ジャコモ・“ドン”・ガットゥーゾは行方知れずのままだった。戦後、軍から戦死者として認定され、家族と“息子達”によって遺体無き葬儀が催されている。


 ただし、ガットゥーゾは生きている、という噂は決して絶えなかった。

 その噂はやがて幽霊飛空船伝説となり、『地中海の空に積乱雲が広がると、牛頭紋の飛空船が現れる』と語られるようになった。


 また、後世においてガットゥーゾは献身的愛国者として大いに喧伝された。その伝説的人生は幾度も創作の題材に用いられ、国家的偉人の列に加えられた。


“牛頭鬼猿”の飛空船の探査は幾度も行われた。政府が、個人が、大学が、放送会社が、英雄の船を探して地中海中の海底を漁った。

 しかし、“牛頭鬼猿”ガットゥーゾの船は見つかっていない。


 ジャコモ・ガットゥーゾは今日も語り継がれている。

 偉大なる伝説として。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 老兵は死なず ただ消え去るのみ… 格好いい! [気になる点] 今回の戦闘より力業だけれど一世代前の技術に加算すれば高度4000まで上がれる事が実証。 [飛空船に拘る]か[別の飛行手段を模…
[良い点] いいねぇ、できれば海賊ジジイの決め台詞やら読みたいですねぇ。いい女は殺ささないやら、俺が○○だ!とか。次回さくは、海賊王だったわしが、○○に転生していた(部下はネズミや雀枠で)に決まりで…
[良い点] 船長と呼びな!の下り金ローでえっ?また?ってなるくらい放送してる某アニメ映画じゃんw 珍しくリアルネタあって面白い [一言] 更新お疲れさまです
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