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お待たせした挙句、9000字越え。申し訳ありません……
大陸共通暦1781年:晩夏
大陸西方コルヴォラント:ナプレ王国
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「バカ共が誰を担ぎだすかと思えば、まさかまさか」
完全武装の王室親衛隊ががっつりと警備する宮城大広間。居並ぶ諸侯諸官を余所に、アルフォンソ3世は玉座の肘置きを用いて頬杖を突き、失望を込めた眼差しで捕縛された王族――激昂している叔父と怯え切った従兄弟達を一瞥した。
「叔父上ともあろうものがバカ共に唆されるとは。全く嘆かわしい」
「黙れ、ブルーノッ!! 貴様には、貴様には分からんのだっ! 王の嫡子に生まれたというだけでその椅子に座ることが出来た貴様には、儂の心など分かってたまるものかっ!」
叔父がアルフォンソ3世の幼名をクチにしながら罵倒するも、アルフォンソ3世は歯牙にもかけない。
「道理で幼き日、叔父上にあまり可愛がっていただけなかったわけですな。連れていけ。用は済んだ」
「はっ!」
親衛隊が叔父と従兄弟達を連行していく。ぎゃあぎゃあと喚き散らしていたが、既にアルフォンソ3世は叔父達を意識から蹴り出していた。
策謀にて誘発させた“義挙”は、想定を少しばかり下回る規模であったものの、教会の扇動を受けた宗教右派と愛国主義者は貴族層よりも民衆の賛同者が多く、鎮圧に手間取っている。
もっとも、義挙そのものは完全に封殺しており、後始末の問題でしかないが。
アルフォンソ3世は竦み上がっている重臣や官僚達を睥睨し、
「身内や所領が叛乱に関わっている者は、彼らを説得して投降させよ。叛乱の指導層に関与していなければ、処刑だけは勘弁してやる。だが、余の寛容さは無限ではない。堪忍袋の緒が切れたその時まで、慈悲を与えると思うな。行け」
幾人かの貴族や官僚達が大広間の出入り口へ全力疾走していく。
「教会の犬共は捕えたか?」
王の問いへ親衛隊長が渋い顔つきで応じた。
「“おおまか”には。使節団長のマッツェラーノは捕縛時に自決してしまいましたが、側近の聖騎士を生け捕りにしました。もっとも片腕を失う重傷を負っております」
「生きていれば構わん。適切な自白書を作成してサインさせろ。その作業を完了次第、法王国に最後通牒を突きつける。世論はどうだ?」
「“既に”陛下の支持を訴える宣伝が強力に行われております。民草も真実と正義を分かっているようですな」
ベルネシアの組織による支援の宣伝工作が行われている、と迂遠に報告された。
「我らの国内で他国の諜報機関による工作支援か。物笑いの種だな」
苦虫を噛み潰したような顔で唸るも、アルフォンソ3世の気分は悪くない。
なにせナプレ王国は飛躍の一歩を踏み出したのだから。紐付き? だからどうした。向こうがこちらを利用し、搾り取るなら、こちらも向こうを利用し、毟り取るだけよ。
謀はコルヴォラント王侯貴顕の嗜み。メーヴラントが戦争に慣れているなら、コルヴォラントは謀略に慣れている。
「皆、聞けぇいっ!!」
大広間に響き渡る王の大喝。
「此度の戦は背教の凶行にあらずっ! 我らナプレが勇躍するためが試練なりっ! 王国の隆盛と繁栄はこの試練を超えた先にあるっ! 余は諸卿らに父祖の御霊に恥じぬ奮闘を、子々孫々に胸を張れる敢闘を期待するっ! ナプレに神の御加護をっ!」
王の短い演説後、諸侯諸官はヤケクソ気味に怒鳴るような唱和を繰り返す。
『――万歳っ! 国王陛下万歳っ! ナプレ王国に栄光あれっ!!』
○
以前にも触れたように(閑話23参照のこと)、法王ゼフィルス8世が床に臥せって以来、法王庁や法王国では次期法王を選出する枢機卿会議に備え、政争や暗闘が繰り広げられてきた。
そして、現状において法王国内では超保守派や強硬派、教権主義者などが優勢を占めている。共通暦1781年の地中海戦争が起きた事由として、彼ら法王国のタカ派による扇動工作や戦争協力も一要因だろう。
戦争がコルヴォラント連合側の優勢だったなら、事は彼らの狙い通りに進んだかもしれない。
しかし、戦争慣れしたメーヴラント諸国はコルヴォラント諸国よりずっと強く、ずっと恐ろしかった。挙句はコルヴォラント内のベルモンテ公国とナプレ王国が反旗を翻す始末。特にナプレに至っては法王国の戦争責任を追及する最後通牒を突きつけてきた。
外交経験が豊富な(長い間、国際政治を牛耳ってきた)法王国は、この程度の情勢変化に動揺したりしない。ナプレや協商圏と聖冠連合の“狙い”を推測ながら、正確に見抜いていた。
「我々を戦争当事国に引きずり込み、賠償金として我らの資産を搾り取る気だ」「それだけではない。敗戦国とすることで教会権威を貶め、教権を抑え込む狙いもある」「背教者共めっ! 不信心者共めっ! 不届きな慮外者共めっ! 高邁にして尊貴な教会を何と心得るのかっ!!」
問題は、敵の狙いが分かっても“対処できない”ことにある。
今、法王が――責任を取るトップが居ない。
教会は常に“組織”の存続を優先してきた。“梅毒病み”を法王に据えたことすらある(地球史で言えば、腐敗を極めたルネサンス期の三大教皇、アレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世に相当するような手合いだ)。そうして、教会に対する批判を法王への批判にすり替え、代替わりの際にさぱっと切り捨てる。
まあ、そういう教会の体質に反発して反伝統派が生まれ、開明派やらなんやらが登場したのだが。
話を戻そう。
とにかく、今、教会に法王が居ない。言い換えるなら、代表して刑場に立つ人身御供が居ない。タカ派連中にしてもこの情勢下で法王を務めたくないし、出したくない。ならハト派の連中に押し付けよう、となるが、当然ハト派は『ざけんな』と猛反発し、激烈に抵抗する。
悠長に会議や選挙などしている暇はないというのに。
時間を掛ければ、ナプレは国内の動揺を抑え込み、反教会で意思統一してしまう。
「……アレを使うか」
「たしかにアレを使えば、多大なる誅罰を下せよう。しかし、アレを使ったところで“勝てるかどうかは分からん”。むしろ、危険な反応を生むのではないか」
「増上慢共に冷や水を浴びせられよう。教会はかつての教会とは違うのだと実力をもって示し、狭蠅なす愚か者達を交渉の卓に座らせるのだ」
「なれど、誰が至聖の椅子に座る? 上手くいけば強き教会の象徴となろう。もしも……」
敗れれば、全責任を負わされて汚名を後世に伝えることになる。
斯くて法王国の小田原評定はまだ終わらず、ウィーン会議は続く。法王選出会議は揉めに揉め、お偉いさん達は生贄の椅子を巡って怒鳴り合い、がなり合う。
しかし、戦火の波は確実に押し寄せ、軍靴の音色が迫っている。
もはや時間はない。
○
地中海戦争の最初の脱落者はコルヴォラント半島南端のカーパキエ王国ではなく、エトナ海諸島独立政府群だった。
親分面していたベルモンテ公国が手のひらを返し、ナプレ王国が寝返り、フローレンティア海軍が壊滅したことで、エトナ海諸島は完全に孤立した。加えて先の海戦で水上戦力が壊乱している。ただしく絶望的状況。
クレテア・ベルネシアは海域の安全確保と負担軽減のため、エトナ海諸島を制圧する構えを見せた。
彼らにある選択肢は二つだけ。
抗って叩き潰されるか、降って食い物にされるか。
手間と面倒を厭ったクレテア・ベルネシア共同艦隊は降伏勧告した。むろん、タダではない。『お前らの自治権保持を確約し、自軍将兵の悪さを取り締まってやるから銭を出せ。それとこちらのアゴアシ代をそちらが持て。あと整備資材とか諸々寄越せ』。
かなりキツい要求だった。
事実上の賠償金要求であるから額はデカい。加えて、大国クレテアの方面艦隊と列強ベルネシアの水上艦隊を食わせるとなれば、莫大な金が掛かる。小さな小さな諸島独立政府群の国庫は容易く破綻してしまうだろう。
そして、経済破綻したからといって、搾取の手を緩める侵略者などいない。
ただまあ、クレテア・ベルネシアも降伏勧告に『大人しく恭順するなら、降伏条件の交渉にも応じる』と一文を加えていた。
――のだが、一部の愚か者共が後先を深く考えず『抵抗して譲歩させよう』と考えてしまった。俺達の故郷を侵略者の食い物にされてたまるかっ! 家族を干殺しさせてなるものかっ!!
「意味が分からん。こちらは交渉の窓口を開いてるのに、なんで武器を取る」
ベルネシア海軍試験砲艦プリンツ・ステファンの士官食堂兼会議室で、第二王子アルトゥールは腕を組んで唸る。
「我々の降伏勧告を最後通牒とでも解釈したのか、何かしら勝利の見込みがあるのか。はたまた、一種の錯乱か……想像も尽きません」
ベルネシア海軍将校がこめかみを揉みながら応じ、
「いずれにせよ、選んだのは彼らです。我らは応えるのみ」
クレテア海軍の連絡将校が倦んだ顔を浮かべる。
「後味の悪い戦いになるでしょうな」
その予言は正しかった。
一罰百戒という訳でもないが、クレテア・ベルネシア共同艦隊はエトナ海諸島の一島、クアッディ島を見せしめにした。
『クレテアとベルネシアの艦隊は島を包囲して攻撃を始めた。村という村を焼き払い、統治府に砲弾と爆弾を叩きつけた。島を脱出しようとした者達も容赦なく殺し回った』――クアッディ島民の手記より。
『クアッディ島の同胞を救おうと、勇敢な男達が漁船や手漕ぎ舟に乗って海に出て行った。そして、誰も帰ってこなかった』――エトナ海諸島、某村助役の日記より抜粋。
『神よ、なぜ我らを見捨てたもうたのか』――教会の壁に書かれた落書。
『五日間に渡る砲撃と空爆で散々に打ちのめした末、クレテア海軍陸戦隊が島へ上陸し、一日でクアッディ島を占領した。その夜、酒に酔った陸戦隊員達が略奪と蛮行に走り、島からは女達の悲鳴と人々の断末魔が絶えなかった』――コルヴォラント人歴史家の書籍より抜粋。
『クアッディ島陥落から一週間以内にエトナ海諸島の全独立政府が降伏を受諾した』――クレテア海軍地中海艦隊の報告書より抜粋。
協商圏上層部はクアッディ島で起きた惨劇を一顧にしなかった。顧みる意義のない些事だったから。
彼らにとって重要なことはエトナ海諸島が降ったこと。地中海西部の安全が確保されたことだ。
後は地中海東部――チェレストラ海。ヴィネト・ヴェクシア共和国とモリア・フェデーラ公国の海軍を叩き潰せば、戦前と同水準まで安全性を回復できる。
すなわち、チェレストラ海の戦機はもう伸ばせない。
○
クーデター後、ベルモンテ前公王が幽閉された先は塔だった。
5階建ての尖塔、その最上階。八畳間ほどの牢獄は鉄格子付きの小さな明かり取り用の窓があるだけで、薄暗くかび臭い。ただし、用意された調度品類は上等で、ベッドもシーツも清潔なものだった。食事も上等なものが与えられ、毎日一本のワインが提供されており、伽女すら用意されていた。
もっとも、そんな待遇など何の慰めにもならない。
檻の中に囚われた謀略家ニコロ・ディ・エスロナはここ数日で酷く老け込んでいた。
元々実年齢以上に病み老いたような外見をしていた男だが、今やその様は地獄を徘徊する亡者のような有様だ。そのくせ、目だけはギロギロと得体のしれぬ激情に燃えている。
激情。そう激情だ。
兄嫁を殺し、兄筋の甥を廃人に追い込み、甥孫を死なせた。弟筋の情婦や私生児を殺し、姪を傷つけ、貶めた。権謀術数で葬った国内外諸侯や諸官その他はもはや数えきれない。
その謀略全てが公のため、国のため、という訳ではない。ニコロの不安神経症的猜疑心や被害妄想的小心が招いた私心の陰謀も多かった。
ただし、ニコロの中では、ニコロにとっては、全てはエスロナ家と国のためである。
であるがゆえに、救国の策謀を台無しにした嫡男とその一派に、ニコロは激しく憤慨していた。
「愚かっ! なんたる愚かっ! 軽率っ! 軽挙っ! 浅慮っ! 短慮っ!」
ニコロはぶつぶつと悪態を吐きながら牢獄内を徘徊する。
何よりも腹に据えかねていることは、倅やその手下共が誰一人としてニコロの知恵を求めようとしないことだった。あまつさえ外の情報を何一つ寄越さないことも、ニコロの憤懣に油を注いでいた。
「バカ共めが……っ! 我が知恵を求めずに難局を乗り切れると思うておるのか……っ! 増上慢っ! 傲慢っ! 驕慢っ! 度し難しっ! 度し難しっ!!」
情報が無ければ策を講じられない。情報が無くば手を打てない。これまでの情報から事態の推移を想定することはできる。推察することも推理することも推測することも出来る。だが、確たる一手は打てない。所詮、想定は想定に過ぎない。
ニコロは部屋を徘徊しながら考える。老農夫のように背骨が曲がった体で。
斯くなる上は嫡男を討って孫を玉座に据えるか。孫達を使い、協商圏とナプレに婚姻同盟を結ぶことを考えるなら、都合も良い。表看板に孫を置き、自身は隠然と国を差配するか。
がしゃり。
重い金属音が響いて出入り口の錠が解かれた。飯の時間にしては早い。
ニコロが金壺眼を出入り口へ向けると、愚息ピエトロが姿を見せた。
瞬間的に頭へ血が昇るが、理性の鎖が冷静さを繋ぎとめる。
「ようやっと我が前に面を出したか……っ!」
「……ご健勝で何よりです、陛下」
王太子ピエトロは疲れた顔で応じる。護衛の近衛騎士達が出入り口傍に控え立つ。
ニコロは椅子に腰かけ、傲然と命じた。
「情勢はどう動いた。報告せい」
「陛下にはもう関係のないことです」
ピエトロはゆっくりと頭を振り、老いた父を強い意志のこもった眼差しで見つめる。
「陛下が表舞台に返り咲くことはありません」
「……なんだと?」
眉目を吊り上げたまま訝るニコロへ、ピエトロは告げる。容赦なく。
「我が国は協商圏に降伏します。私は“最後の”エスロナ家ベルモンテ公王として退位し、エスロナ家……私と妹の家族はイストリアへ亡命します。ベルモンテは協商圏の駐留統治後、貴族制共和国か……ナプレに組み込まれることとなるでしょう」
クーデターに先駆けて外交工作を怠る、という大失態を犯した王太子ピエトロに、祖国を救う手段を選ぶ贅沢は許されなかった。それでも、ピエトロはニコロとは違う方法と観点でベルモンテを、ベルモンテに住まう人々を救う決断を下したのだ。
「―――」
ニコロは酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくと蠢かせ、体を震わせながら深呼吸し、言葉を絞り出す。
「き……貴様、正気かっ!! 売国どころか、国を捨てるというのかっ!!」
「そうしなければ、我が国は完全に滅んでしまうっ! 貴方のせいでっ!!」
ピエトロは今にも泣きだしそうな顔で叫ぶ。魂から発せられる吐露を。
「貴方が軽率に傷つけたヴィルミーナは、ベルモンテを決して許さぬと公言しておりますっ! ベルネシアもクレテアも聖冠連合すら、ヴィルミーナの狂猛な報復を容認しているのですっ!
それどころか、ヴィルミーナが蹂躙した後の我が国を食い散らかす算段をしているほどだっ! お分かりかっ! 貴方が小娘と見做した女は、諸列強が追従するほどの力を持っていたっ! 貴方は竜の尾を踏みつけたのだっ!」
息子の絶叫に父は罵倒するように怒鳴り返す。
「なればこそ、討てば良いのだっ! ヴィルミーナを討てばしのげる。それほどの影響力を持つ人間が死ねば巨大な混乱が生じる。ベルネシアも容易には動けんっ! その間隙を突いてクレテアなりイストリアなりに接近すればよいっ!」
王太子ピエトロは絶句する。
この期に及んでなおも自身の考えを改めることなく、双眸を獣のようにぎらつかせる父に、深い失望とある種の絶望を覚えた。
そして、憐れみにも似た思いを抱きながら、静かに言葉を編んでいく。
「……貴方の策謀はいつも同じだ。深慮遠謀のようで、その実は時間稼ぎして問題を先送りするだけ。その浅はかな悪知恵のせいで、今や我が国はどこの国からも信用されていない。不誠実そのものの国と見做されている」
「だから何だというのだっ!」ニコロは枯れ木染みた体から大声を発し「不実であろうと利害が一致すれば手を握るだけだろうがっ!」
ピエトロはただただ疲れ切った顔で嘆くように、
「その観点で言えば、我が国は協商圏にヴィルミーナほどの利をもたらしません。不要なのは我らの方だ。それにヴィルミーナを消そうものなら、エスロナ家が根切りにされるでしょう。謀殺は貴方の専売特許ではありませんから」
憂鬱な面持ちで父を見つめ、
「貴方が死ぬのは自業自得だ。私が殺されるのも、貴方の息子として生まれた業だ。やむを得ない……だが、私の妻や子供、他家に嫁いだアウローラの家族までも巻き込みたくない。ましてやベルモンテの民草に塗炭の苦しみをもたらすなど、あってはならない」
末期の老人が告解するように言った。
「ベルモンテの王家として責務を果たす。それだけの話です」
ニコロはしばし瞑目して沈黙する。その胸中と脳裏に、自身がこれまで歩んできた半生がよぎる。
「……なるほど」
長く深く息を吐いた後、ニコロはおもむろに口を開き、息子を真っ直ぐ見つめた。
「そのしみったれた虚無主義と甘ったれた皮肉主義。貴様のような柔弱な腰抜けを嫡男としたことが、余の最大の失敗であったわっ!!」
父子の理解は果たされなかった。
いや、元より親子と呼べるほどの絆など無かった。生物学的つながりしかなく、そこには親子と評すべき愛情の関係性が無かった。
ウェットなファミリードラマのような家族愛が突如として発見されることはなく、
「……話は終わりです」
大きな諦観を覚えたピエトロが肩を落としながら踵を返し、出入り口へ向かう。
ニコロは腰を上げ、背を向けるピエトロへ吠える。
「待て、ピエトロっ! 話は終わっておらんっ!」
その言葉は父として我が子へ発せられたものではない。玉座を追われた王が、現統治者の王太子を呼び止め、翻意を求めるものだ。
「残された日々が幾ばくかは分かりませんが……御健勝で」
ピエトロは出入り口で肩越しに振り返り、告げた。
「父上」
息子から父と呼ばれることがいつ以来か。ニコロはそんなことすら考えず、去っていくピエトロを留めようと追うも、出口傍で近衛騎士達に押さえ込まれた。
「ええぃ放せっ! 無礼者共がっ! 待てっ! ピエトロっ! 待てっ!!!」
息子は二度と振り返らなかった。
○
その報せが届いた時、白獅子財閥の王都社屋、その総帥執務室には白い雌獅子達が集まっていた。各々が多忙になった今も、若い頃同様に休憩時や手透きの時はヴィルミーナの許へ集まりがちだから、珍しくない。
ただイストリア総支配人のエリンやクレテアに派遣中のアストリード以外、会議以外で全側近衆が揃うことは久しい。
そんな久方振りの楽しい時間に、ベルモンテの捨て身染みた外交戦の一報が届き、
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、か」
ヴィルミーナの巧緻な表情筋が端正な顔を大きく歪めた。
--エスロナのドブ鼠共め。もっと生き意地汚く足掻けばいいものを。
ベルモンテの『亡国』を前提とした降伏交渉は、協商圏側に大きな困惑をもたらしていた。
繰り返すが、此度の戦争はあくまで地中海通商の権益抗争である。金のための戦争であり、協商圏側に『コルヴォラントを滅ぼして領土化したい』なんて考えている国は一つもない。
地中海に縄張りを持たないベルネシアは元より、タウリグニアを属国化しているクレテアすら『コルヴォラントに領土なんていらなーい』と考えており、聖冠連合はそもそもチェレストラ海を渡って領土を持つ気なんてなかった。
それを『エスロナ家は王権を返上し、統治権を皆さんに委ねて国を出て行きますから、ベルモンテの民に酷いことしないでください。お願いします』なんて全面降伏されても、ぶっちゃけ困るのだ。
そりゃ各国はぺんぺん草も残らないほど賠償金やらなんやらを搾り取る気だったし、ヴィルミーナなんて、向こう二世紀くらい西方圏最貧地域になるまで蹂躙するつもりだった。
”だから”、ベルモンテを征服して現地を統治する気など無かった。
自分達で収奪/搾取することは意外と手間暇が掛かる。領有したい土地でも無いし、単純に賠償金やらなんやら貰う方が楽で良い。
事実、外交筋は――
全面降伏? やめてやめて、そういう面倒なの困るから。お金と利権だけで良いから。なんなら減額してあげるから。困るんですよ、そういうの。ホントやめてもらえませんか(真顔)。
――といった具合になっているという。
--クソ。これは私にも譲歩を求めてくるな。潔い真似し腐りよってからに。忌々しい。
応接セットのソファでふんぞり返り、ヴィルミーナが憎々しげに眉目を吊り上げていると、アレックスがヴィルミーナの手を握った。人柄通りの優しい温もりが伝わってくる。
「……私は少しホッとしてます」
アレックスはヴィルミーナの紺碧色の瞳を真っ直ぐ見つめながら、
「ヴィーナ様やアンジェロ様の件を思うと、今もあの国を焼け野原にしたい気持ちです。でも、その一方で、ヴィーナ様や皆が恐ろしい所業に手を染めず済んだことを安堵しています」
ヴィルミーナの手を強く握る。本質的に穏健派のパウラやデルフィネも大きく頷く。
「あの冬の日、ヴィーナ様は私達を“赦して”くださいました。私達があの御心遣いにどれほど救われたか分かりません」
全ての姉妹達が大きく頷く中、アレックスが優しく言葉を紡ぐ。
「ですから、ヴィーナ様にも赦してあげて欲しいのです。貴女を救うために」
「……奴らを赦せと?」
ヴィルミーナは整った顔立ちに強い険を滲ませる。
身内に甘いヴィルミーナでも、アレックスの心遣いに首肯しかねた。ヴィルミーナは今も忘れていない。自らの腕の中で命が失われていくアンジェロを。熱が失われていく血の感触や臭いを。アンジェロの瞳から魂が消失していく光景を。
赦すだと? 奴らを? 赦して“奴ら”が私に感謝して平伏するとでも?
あり得ない。
あの手合いは一度でも相手を『弱い』と見做したなら。何もかも奪い取るまで襲ってくる。私から全てを奪うまで。大事なものも大切なものも愛おしいものも全てを一切合切奪い尽くすまで。
許さない。そんなことは絶対に。そんなことは決して。
許さない。絶対に。決して。
「いえ」
アレックスは首を振ってから告げた。
「貴女自身です。ヴィーナ様。
アンジェロ様を死なせてしまったことから、貴女自身を赦してあげてください。
どうしても赦せないというなら……僭越ながら私が、私達が貴女を赦します。貴女の妹である私達が長姉たる貴女を赦します。貴女の友である私達が貴女を赦します。
だから、どうか貴女自身を赦してあげてください」
その時、ヴィルミーナの心を打った衝撃を表現する言葉はない。
ただただ怪物の心が大きく揺れ、体が大きく震える。
アレックスは震える魔女の手を強く握ったまま、決して放さない。姉妹達がヴィルミーナの許へ寄り添い、ヴィルミーナの手や肩に、腿の上に自らの手を置く。デルフィネが。ニーナが。リアが。マリサが。テレサが。キーラが。ヘティが。ミシェルが。パウラが。
彼女達の温もりが伝わってくる。友愛と。親愛と。同志愛と。戦友愛と共に。
愛おしい姉妹達の想いに心が震え、ヴィルミーナの右目から一滴だけ涙が溢れる。
「私は―――」
19章はここまで。
20勝の間に閑話をいくつか挟みます。




