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気づけば2週間も……大変お待たせして申し訳ありません。
戦争前夜の奇妙な静けさ。
共通暦1781年。仲夏の訪れを控えた初夏の終わり。春の残滓が陽光に溶け去ったこの時期、様々な思惑による陰謀が蠢き、多様な事情による策謀がひしめき、大勢の都合が入り乱れた謀略が進行していた。
宮廷や庁舎の一室で、軍司令部の会議室で、閨房の中で、酒場の隅で、路地の暗がりで。
誰も彼もが来たる戦火に備えて駆けずり回っている。
そんな戦争前夜の最前線が三国協議だった。
ベルモンテの売国的提案はベルネシアとクレテア、聖冠連合の筋からコルヴォラントに流布されていたが、ベルモンテの対抗情報戦とコルヴォラント連合軍の瓦解を恐れたランドルディア王国や法王国が火消しに動いていた。
ベルモンテ・フローレンティアの国境ではフローレンティア国境警備隊が増強され、法王国の密使がベルモンテ公国内の反体制派に接触していた。
人間的には最低のクソ野郎ながら、陰謀屋としては優秀なベルモンテ公王ニコロは、こうした諸国の動きをあらかた予想していた。
であるからこそ、ベルモンテ公国の路地裏で他国の間諜が首を掻き切られたり、肝臓を一突きされたりして命を落としている。
だからこそ、ベルモンテ公国内の教会高官の下を訪ねた秘密警察が、高官の些かはしたない趣味――少年に対する性犯罪や娼館での乱行――の記録を示しながら沈黙の価値を説く。
なればこそ、反体制派の貴族や有力者の下にニコロの名で、子供や家族のことを労わる文言の手紙が届く。
秘密工作戦と情報戦と宣伝戦が繰り広げられている中、ニコロは三国協議の決着をつけるべく、全権大使のザンブロッタに書類を届けさせた。
それはベルモンテ公王孫とベルネシア王孫の婚姻提案であり、また、ベルモンテ公王家とクレテア王家の婚姻提案だった。
公王ニコロは将来の玉座すら担保にしたのだ。むろん、そこには陰謀家らしい深謀遠慮があるのだろう。しかし……
エンテルハーストから即座に届けられた情報を聞き、ヴィルミーナは薄く笑った。白獅子の王都社屋へ伝令を走らせる。
『物語の幕を開けろ』
○
ディアスポラという言葉を御存じだろうか。
国民や民族集団が戦争や災害により、故郷や祖国を逃れてあちこちへ離散する、という意味の言葉だ。現代地球でいえば、シリア難民などが該当する。魔導技術文明世界の今日で例えるなら、エスパーナ帝国人がまさにディアスポラの真っ只中と言えるだろう。
人道的歴史学の観点に立てば、ディアスポラは難民化と同義であり、悲劇以外の何物でもない。
ところが、経済学的観点に立つと、ディアスポラによって商人があちこちに分散することで広域ネットワークが生まれる、という見方が可能だった。
好例がユダヤ商人だろう。
歴史的に迫害され続けたユダヤ人達はディアスポラを繰り返すことで、欧州からアメリカ大陸、中東や南アジア、東アジアにまで広がっていった。今日の世界的なユダヤ・ネットワークはディアスポラによって構築されたといって良い。
魔導技術文明世界におけるエスパーナ大乱は小規模なディアスポラを起こしており、歴史的、宗教的につながりのあるコルヴォラント半島へ少なくない。
そして、ベルネシアには王弟大公夫人ルシアのようにエスパーナ系ベルネシア人が少なからずいる。
となれば、白獅子の情報機関たる北洋貿易商事はエスパーナ系ベルネシア人の縁故や人脈、民族的同一性を利用する。コルヴォラント半島へ送り込まれた“商事”のエスパーナ系ベルネシア人工作員や諜報員が、亡命者や難民に接触した。
また、アンジェロ事件以前から潜り込ませていた者達も大いに活用し、情報戦や宣伝戦を繰り広げ、工作活動に勤しむ。
情報取得の手段が新聞と口コミの噂に限られている時代だ。情報の真偽や正否を確認することも難しい。この時代、金融経済戦の心得がある者が少ないように、宣伝と広報の持つ破壊力を理解する者は少ない。諜報機関の人間でさえも。
前世、ヴィルミーナは高度情報化社会の人間だった。高機能情報端末が社会全体に普及し、誰も彼もが全世界へ情報を発信可能な社会――無自覚な相互監視の密告社会を生きた。低能なナルシズムと幼稚な悪意に満ちた電子情報社会を体験した。
よって、情報。通信。広告。広報。宣伝。プロパガンダ。言葉が生み出す暴力性を理解している。
ヴィルミーナの脳裏をマルコムXの名言がよぎった。
『マスメディアは無実の者を有罪にし、罪ある者を無罪にできる』。
その言葉が正しいかどうか試そやないか。
○
「陰気な人格破綻者め」
ナプレ王国国王アルフォンソ3世は思わず荒々しく吐き捨てた。
アルフォンソ3世は齢45歳。男盛りのナプレ王は父方にガルムラント系の血が混じっている。むっちりと鍛えた体躯をしており、胸板の厚みや上腕の太さなどは着衣の上からもありありと窺えた。
そんなムッチリマッチョなアルフォンソ3世がこうも口汚くなることは珍しい。普段の彼はその堂々たる体躯に相応しい、泰然とした君主振りを示している。
では、アルフォンソ3世がブチギレた理由は何か。
それは先ほど謁見の間から下がった、コルヴォラント連合軍の連絡将校が持ち込んだ質問状の内容にある。
『貴国がベルネシア・クレテアと三国協議中のベルモンテと通じ、コルヴォラント連合の結束に叛かんとする風説が広まれり。斯く風説の真偽、および、斯く風説が広まりし理由は如何?』
ナプレ王国はベルネシアに使者を送り、地中海有事における生存工作を図った。これは事実であるし、この程度のことは余所もやっている。すり寄ったベルネシアから『いざという時は寝返って、コルヴォラント諸国を背中から刺せ。それなら便宜を図ってやるよ』なんて無茶振りを受けて返答に窮していた。これも事実。
しかし、“ベルモンテに与して”寝返りを図っているなどという話は、ナプレ王国もアルフォンソ3世も寝耳に水だった。そして、そんなネタが方々に広まっており、質問状が届けられるほど深刻な情勢になっていたなんて――
刹那、ナプレ王アルフォンソ3世の脳裏に、ベルモンテの陰気で根暗なネガティブ気質のクソ野郎がよぎった。
「陰気な人格破綻者め」
かくて、冒頭の悪罵につながったという訳だ。
ナプレ王アルフォンソ3世は親指の爪を噛みながら、慌てふためく重臣達を余所に考える。脳筋丸出しの風貌をしているものの、アルフォンソ3世は愚鈍ではない。『オレンジ伯爵』ことウディノ伯家の内情――先代ベルモンテ公王子の愛人と私生児を囲っていたこと――に通じているなど、存外にやり手だ。
それだけに、アルフォンソ3世は自分の、ナプレ王国が置かれた状況がひっじょーに芳しくないことを理解した。
陰険クソ野郎ニコロが流した(とアルフォンソ3世が判断した)風説は、質問状が届くほどに広まり、浸透している。
この“誤解”を解こうとすれば、畢竟、ナプレは身の潔白を示すべく無茶振り――開戦の一番槍を押し付けられる公算がとても高い。当然、戦争の責任追及が一番重くなる。勝てば実入りもデカいが、クレテア・聖冠連合というメーヴラント二大国を向こうに回して勝てると思うほど、アルフォンソ3世は知性を低下させられない。
かといって、この誤解をなあなあに誤魔化すことも難しい。コルヴォラントのクチバシに追い詰めた出し殻国家――カーパキエ王国が絶対に讒言を広めるからだ。あの惨めな混血雑種小国はナプレに領土の大半を奪われているから、ここぞとばかりにナプレの非を訴え、連合軍を利用してナプレ征伐すら提案するだろう。
法王国の動向次第ではありえない話ではない。今生聖下ゼフィルス8世が死にかけており、次の法王に強硬派が就く可能性が高いという情報もある。現世権力の拡大――領土的野心を求め、ナプレ王国領を狙うことは充分に考えられる話だった。
誤解を解いても地獄。解かなくても地獄。ベルネシアの寝返り案に応じても地獄。コルヴォラント連合へ仁義を通しても地獄。
アルフォンソ3世は親指の爪を強く噛み過ぎ、指先から血が滲んでいた。
○
白獅子財閥の王都社屋。主無き総帥執務室で、アレックスとテレサは掲示板の大きなコルヴォラント地図を見つめていた。
地図には無数の色付きピンが刺してあり、記号の書き込みも非常に多い。地図のピンは工作員や現地協力者、買収や懐柔した者を示し、記号は情報戦や宣伝戦の状況を意味している。
ピンと書き込みだらけの地図から読み取れること、それは白獅子の情報工作戦が勝利しつつある、ということだ。
“商事”は法王国やベルモンテなどのカウンターパートと鎬を削りながら、コルヴォラントに“噂”を流布し、浸透させた。加えて、バカアホマヌケを煽り、カスとゲスを利用し、パープリンとノータリンを踊らせている。
むろん、容易いことでは無い。アンジェロ事件以前からコルヴォラントに展開させていたリソースも使い潰すように活動させているし、能う限りの資金と人的資源を注ぎ込んでいる。
「三国協議のリークは食いつきが良くなかったけれど、ナプレの寝返りには良い反応があったわね」
「ナプレはメーヴラントの基準で言えば小国だけれど、コルヴォラント内では南部の最大国だからね。ベルモンテの離反はともかくナプレが本当に裏切ったら、コルヴォラントの戦略を根底から崩壊させるわ。その辺の事情が効いたんだろうね」
地図を見つめていたアレックスへ、テレサが説明を続ける。
「付け加えるなら、ベルモンテの三国協議もナプレの裏切りに信憑性を持たせたわ。ほら、ナプレにはヴィーナ様の御父様の元御愛妾と異母姉様がいるでしょ? それも疑惑を後押ししたみたい」
「……この工作で元御愛妾と異母姉様、そのお子方に累が及ばぬように留意して。ヴィーナ様は無視しても構わないとおっしゃったけれど、御心を騒がせる要素は少ない方が良い」
アレックスの意見に、テレサは大きく頷きつつ尋ねる。
「利用した現地人やエスパーナ人達の扱いは予定通りで構わない?」
「ええ。そちらは予定通りで構わない」
アレックスは冷淡に首肯した。
この広域情報工作活動の犠牲も少なくない。コルヴォラント諸国の防諜組織や情報機関との暗闘で、少なくない工作員や現場要員が命を落としていた。 “商事”関係者以外の犠牲も出ている。白獅子に協力して悲惨な目に遭った現地人、エスパーナの亡命者や難民も少なくない。
もっとも、そんな連中は考慮に値しなかった。“商事”の工作員や現場要員は身内だから、その犠牲には厚く報いねばならなかったが、この作戦のために利用した連中は、大半が使い捨てる予定だ。
良識的で善良なアレックスも承服済みだ。有力財閥の総帥代理を担ってきただけあって、相応の冷徹さを備えている。
「ベルモンテが出した婚姻案に対して、王家の反応はどう?」
「キレた」
「……え?」
テレサは目を瞬かせるアレックスへ説明した。
「エドワード殿下もグウェンドリン殿下もキレた。その場で突っぱねず話を上げてきた外務省にカンカンだってさ。大臣と高官を呼びつけて30分くらい怒鳴りっぱなしだったらしいよ」
「まあ、それは、うん。そうなるでしょうね」
国家間の婚姻同盟は安全保障や経済の損得勘定だけでなく、王位継承権も計算される。戦国時代風に言えば、婚姻を通じて御家乗っ取りが可能になる。そういう意味では、ベルモンテ公王ニコロの放った婚姻策は、決して無視できない価値があった。ベルネシアとクレテア双方に持ち掛けて噛み合わせる辺りも実に強かだ。
しかし、将来的に『コルヴォラントにベルネシア王統の国が出来る、かもしれない』という空手形より、地中海有事が思った以上に大きな戦火を招きそうな現実を直視すべきだろう。
ましてや、大陸西方屈指の女妖が襲い掛かろうとしているコルヴォラントに婚姻外交などあり得ない、といったところだろうか。
「ここまでは順調。多少修正が必要だけれど、次の一手が上手くいけば、時計の針が大きく進むわ」
テレサは眼鏡の奥から探るような眼差しを親友へ向けた。
「実行して良いわね?」
「ええ」アレックスは眉根を寄せて頷き「私だって顔も名前も知らない遠国の他人より、皆や白獅子の方が大事だもの」
ふ、と重たい吐息をこぼし、アレックスはどこか悲しげに微笑む。
「ただ……この件が終わったら、少し休暇を取りたいかな」
「総帥代理の代理が必要になるわね」テレサは迂遠に肯定し「思いつめるくらいなら、ヴィーナ様と話しあった方が良い。批判でも非難でも罵倒でもね。私達は“姉妹”なんだから」
「ありがとう、テレサ」
アレックスは微笑み、表情を引き締めて告げた。
「次の手に取りかかろう」
○
その日、ベルネシアから白獅子財閥の飛空貨物船が離陸した。船内には重武装した警備員がわんさか乗っており、特に貨物区画の警備は厳重で一般客はおろか船員すら近づけなかった。
厳重警備の飛空船はクレテアを縦断し、南部港湾都市マーセイルに到着。
マーセイル港に到着した飛空船は、クレテア籍の海上貨物船『プチ・ルイズ号』へ荷物の積み替えが行われていく。
積み替え作業は重装備の警備員達に加え、『プチ・ルイズ』の護衛として同行する戦闘飛空艇グリルディⅢ改が同港で待機しているという厳戒態勢だった。
郵送段ボール規格で言うところの100サイズほどの木箱が、飛空船から貨物船へ次々と運ばれていく。厳重警戒による重苦しい緊張感の漂う作業。
その最中、手元を誤った作業員が木箱を落としてしまう。重たい衝突音と木箱の破砕音が響き、緩衝材の乾燥シロツメクサと粉砕麦藁がこぼれ、荷物が露出する。
煌々と輝く金色の塊。
ベルネシア王国紋と大蔵省の印章が打刻された1キロ金塊。それがひと箱から5つも。
ギョッとする作業員達。警備員達が怒声を張った。
金塊は警備員達の手で梱包し直され、新たに防犯封印が施された。
作業員達は金塊が収まっているだろう木箱を数え、ごくりと生唾を飲み込む。日本円にして1000億円相当になる量だった。
作業後、すぐさま噂が流れた。大量の金塊を載せた『プチ・ルイズ号』の噂が。
繰り返すが、情報の正否正誤真偽を確認することが難しい時代である。
後世、ベルネシアの公文書保存館に、白獅子財閥が聖冠連合帝国支社へ資源調達用に正貨を移送するという旨の書類が確認されている。しかし、その書類内容は『金塊その他』と記されており、持ち出された正貨が全て金塊とは書かれていない。また、その換算金額は日本円に直して『200億円』程度だった。
ところが、クレテアに残る記録によれば、申請書類に記された内容は『金塊』の一語のみ。その換算金額は『1000億円』と見做されることになる。
また、いくつかの個人手記や日記から判明したことであるが、金塊の移送目的が『資源調達用資金』ではなく、聖冠連合帝国への軍資金援助、裏切りの噂があるベルモンテやナプレへの軍資金提供、あるいは……ベルモンテとの婚姻外交のための結納金という話になっていた。
この軍資金や結納金の話はコルヴォラント内で強く流布したようで、ナプレ王国高官の手記に『寝耳に水で事実確認に奔走した』とか、ランドルディア王国軍の将官の日記に『身中の虫を斬り、後背の憂いを断つべし』とか、法王国の司祭が『コルヴォラントに猜疑の魔物が徘徊し、誰も彼も疑心暗鬼に陥っている』と愚痴ったと記述している。
金塊の噂に前後し、聖冠連合帝国から大型帆走貨物船『ブルステン・キュルケ号』が出航に向け、大量の貨物を腹に収めていた。『ブルステン・キュルケ号』は聖冠連合帝国内の民間商船として最大級であり、400トン超の貨物を積載可能だった。
チェレストラ海の小競り合いは激しくなっており、いつ本格的な武力衝突に至るか分からない有様だったため、『ブルステン・キュルケ』の航行には民間軍事会社の護衛が付くことになっていた。
そして、この貨物船に関しても“噂”が流れていた。
後世、白獅子財閥に現存する書類によると、『キュルケ』の貨物は黒色油200トン、添加鋼用原料180トン、20トン分の帝国産文物、と記録されている。
しかしながら、どういう訳か『キュルケ』の貨物が400トン相当の武器弾薬、その中には、第一次東メーヴラント戦争で使用された聖冠連合帝国軍の大型焼夷ロケット弾も含まれる。これら大量の武器弾薬がベルモンテとナプレに提供される……そんな噂がコルヴォラント、特にナプレ王国と敵対関係にあるカーパキエ王国に流布、浸透していた。
カーパキエ王国は長年の争いにより、ナプレ王国に領土の多くを奪われ、鴉のクチバシまで追い詰められている。ベルモンテとナプレの裏切りの噂に加え、この武器弾薬の噂はカーパキエ王国を酷く、酷く不安にさせた。
ナプレの豚共は本当に連合を裏切る気ではないのか? そのうえで我が国を襲うつもりなのではないか?
カーパキエ王国に不信と猜疑が伝染病のように広がっていく。
不信と猜疑に駆られていた点においては、ヴィネト・ヴェクシア共和国も同様だった。しかし、国家の命運が風前の灯火状態のカーパキエ王国と違い、コルヴォラント内では強国に当たるヴィネト・ヴェクシア王国は物心に余裕があった。
彼らの送り込んだ諜報員は確かに見た。
『ブルステン・キュルケ』の船倉に積み込まれていく帝国軍の紋章入り貨物箱を、確証バイアスが掛かった眼で。
人は見たいものを見る生き物で、聞きたいことを聞く生き物で、信じたい情報を信じる生き物だ。先入観に基づき、自身の欲していた情報だけを選択し、先入観を補強する。
実際のところ、『ブルステン・キュルケ』は確かに聖冠連合帝国軍の貨物を積載した。ただし、記録によれば、中身は武器弾薬ではなく無害な文物だった。単に聖冠連合帝国軍の貨物箱を利用していたに過ぎない。
ともかく“噂”の信憑性はヴィネト・ヴェクシア共和国諜報員によって補強された。
金塊を載せたプチ・ルイズと黒色油を積んだブルステン・キュルケ。二隻の帆走貨物船が地中海に出航していく。
○
コルヴォラント諸国はそれぞれがそれぞれの思惑で謀略を行っていた。
自国の国益追及は憚ることの無い行為であるが、相互不信を抱えた諸国は白獅子の跳梁跋扈を許し、情報工作と宣伝工作の術中にハマることになってしまった。
白獅子の“商事”が優秀だったのか、それともコルヴォラント諸国の脇が甘かったのか。
少なくとも、財布が火の車だったフローレンティア公国や物心共に切羽詰まっていたカーパキエ王国、木っ端のエトナ諸島各独立政府は防諜体制がお粗末極まりなかった。ナプレ王国も脇が甘かった。
ランドルディア王国とヴィネト・ヴェクシア共和国、法王国は既に戦争ありきで情勢を見ていた(法王国は適当なところで戦争を仲裁して権威向上を目論んでいる)。むしろ開戦の機会と適切な口実を探していた。
猜疑心の塊ニコロが王を務めるベルモンテは三国協議と国内統制、周辺国警戒にリソースを費やし、白獅子にまで手が回らなかった。
意外なところでは、モリア=フェデーラ公国は流言飛語が流布しながらも、国内統制が乱れなかった。代わりに御先代が胃を痛めていたそうだが。
まあ、実像が何であれ、多少の修正や変更はあったものの、ヴィルミーナの描いた『物語』は大筋が狂うことなく進行している。
地中海へ出向した『おちびルイズ』と『デカパイキュルケ』の二隻もまた、予定通りだった。
その報せが届いた時、ヴィルミーナは王妹大公家の調理場で料理長と共に、手ずから子供達のオヤツを作っていた。“療養”という名の謹慎が解かれていない以上、社に出向くわけにもいかないのだから、時間を子供達との団欒に使っている。
果物とクリームチーズを使ったタルトケーキを氷冷式冷蔵庫から取り出し、ヴィルミーナが切り分けようとしていたところへ、御付き侍女メリーナが若い侍女からメモを受け取り、ヴィルミーナの許へ歩み寄る。
「ヴィーナ様」と声をかけてから、メリーナがヴィルミーナに耳打ちした。
報告を聞き、ヴィルミーナは紺碧色の目を細めた。刹那に発せられる冷酷さと凶悪さに、調理場にいた料理人達や侍女達がごくりと息を呑む。
「ママ。オヤツ、出来た?」「まだ? まだ?」
ヒューゴとジゼルが調理場の出入り口に顔を覗かせる。期待に目をキラキラさせながら。
ヴィルミーナは瞬時に威容を発散させ、慈愛に満ちた笑顔を双子へ向けた。
「丁度、出来たところよ。切り分けて持っていくからテラスで待っててね」
はあい、と双子はニコニコしながらテラスへ戻っていく。
ヴィルミーナはケーキカット用のナイフを手にし、迷うことなくタルトケーキへ入刀した。その横顔は血に飢えた女妖のようで、完全に気圧された周囲が顔を青くする。
ヴィルミーナはタルトケーキを切り分け終え、侍女の一人にテラスへ運ぶよう命じる。そして、メリーナへ向けて少女のように微笑んだ。
「いよいよ戦争が始まるわよ、メリーナ」
メリーナは思う。
大変に素敵な笑顔ですけれど、笑顔の理由が物騒すぎます、御嬢様。




