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転生令嬢ヴィルミーナの場合  作者: 白煙モクスケ
第3部:淑女時代

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253/336

19:1

お待たせしました。

 ベルモンテ公王ニコロは私室で鬱々としていた。

 元より、不安神経症で被害妄想癖で人間不信で猜疑心の塊だから、陽気さの欠片もない男ではあるが……近頃のニコロは陰気さに拍車がかかっている。


 執務机の脇に置かれたサイドボード。そこに並べられたチェス盤。優勢な白。不利な黒。

 陰鬱な面持ちのニコロは盤面を眺めながら、情勢を振り返る。


 予想していたより、三国協議の決着が長引いていた。『会議は踊る。されど進まず』を地で行くように。

 理由は単純。ベルネシアもクレテアも協議の長期化を図っていたためだ。


 ベルネシアは内部意見の不一致が原因だ。これはニコロの目論見が半分当たり、半分外れたためだった。

 ニコロはアンジェロ事件でヴィルミーナを縛ることで、ベルネシア政府を政治的、経済的に縛りつけてこちらの交渉条件を呑ませようとした。これは半分成功し、半分失敗していた。


 家族すら猜疑の目で見るニコロは見誤っていた。

 ベルネシア王家内でヴィルミーナが如何に大きな親愛と信頼を抱かれていたか。その影響力が王国府や軍にどれほど及んでいたか。ヴィルミーナを支持する民衆がどれほどいるか。


 王太子夫妻やメルフィナなどの親ヴィルミーナ派、親白獅子派の貴族や資本家の抵抗は激しかった。加えて、自国の資源流通を完全に他国へ預けるというベルモンテの提案に、流通や製造産業が猛反発し、強烈なロビー活動を展開。王国府の決定を妨げている。


 一方のクレテアは提示した条件に『もっと出せ』『まだ出せるだろ』『足りんなあ?』とほざき始めていた。


 アンジェロ事件を持ち出しても『それはそれ、これはこれ』『国内でアンジェロ公王子の事件に関与した者達、そのシンパの掃討を進めている』『我が国は貴国へ対する道義的責任を果たしている』『事件の対処と外交的国益とは切り離して話し合わねばなりますまい?』


 クレテアは図体のデカさだけでイストリアやベルネシア、エスパーナと列強相手に鎬を削ってきたわけではない。ゲンコツだけで異教徒や異民族がひしめく外洋進出を成功させてきたわけではない。国家として積み重ねてきた外交ノウハウは“強欲イストリア”や“狡猾ベルネシア”に引けを取らない。


 財政の再建と経済の好転により健康を取り戻し、国王アンリ16世とその重臣達という知能が働く西メーヴラントの巨人は、巨躯に相応しい豪胆外交を展開していた。


 ベルモンテの交渉は難局を迎えている。

 最初に大きな条件を提示し、時間と共に旨みが減るというスタイルの短期決戦に臨んだことが、裏目に出ていた。


 時間がない、というこちらの事情を読まれている。

 東地中海やチェレストラ海では、聖冠連合とコルヴォラント東部諸国の諍いが急増傾向にあった。領海線上や公海上の小競り合い、貨物船や漁船に対するハラスメント目的の臨検――拿捕や貨物押収に至ることは時間の問題――や海賊の暗躍。

 西地中海やエトナ海、コルヴォラント南部沖でも同様の傾向にある。


 もはやどこで戦争の火蓋が切られてもおかしくない(同時に、コルヴォラント諸国はどこも自分が発端になることを避けている。敗北した時、最も重い責任を追及されるからだ)。


 危険な状況は海の様子だけではない。

 三国協議が長引き、その交渉内容――ベルモンテがクレテア・聖冠連合に与する――が周辺諸国に広まっていけば、連合軍がベルモンテに牙を剥く可能性が高い。


 特に国家財政がぼうぼうと燃えている隣国フローレンティア公国が、ベルモンテの金を目当てに『背信者、討つべし』と乗り込んできかねない。


 エトナ海諸島独立政府群も油断ならない。エトナ海の“総領”たるベルモンテに潜在的な敵意を抱いている連中だらけだ(落ち目を見れば、手の平を返す国人衆を想像して欲しい)。


 ニコロは盤面を見つめながら、考える。

 もう一手必要だ。決定的な一手が。


 しかし、どの手を取るか。取った一手にどんな手が返ってくるか。

 ニコロは陰鬱な顔で盤面を睨み、熟考を重ねる。


 時間は残り少ない。


      ○


大陸共通暦1781年:ベルネシア王国暦264年:初夏。

大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:王都オーステルガム

――――――――――――

 王妹大公家の執務室。

 ヴィルミーナは掲示板に貼られた大きなコルヴォラントの地図を見つめながら、考えている。


 命題:これからどう仕掛けるか?


 戦争を起こすこと自体は簡単だ。

 仮に相手がクレテアやアルグシアだったなら、過去の怨讐を大声で喧伝し、国境辺りで小競り合いを起こせば、簡単に燃えあがる。

 電報を公表しただけで起きた普仏戦争にしても、その背景にドイツとフランスの歴史的対立があり、ナポレオン戦争時代の傷も癒えていなかった要素が大きい。


 しかし、ベルネシアとベルモンテの関係はやや薄弱だった。

 クレテアやアルグシア、イストリアのような濃い関わりも恩讐もない。聖冠連合帝国のように自国王女を辱めたということもない。


 断っておくと、クリスティーナ王女の悲惨な結婚がベルネシアで公表される際、民衆が聖冠連合帝国に対する武力制裁や戦争を求めないよう細心の注意が払われた。後世、一部の歴史家などはこのクリスティーナ王女絡みの政府発表を『稀有なほど見事な作文』などと皮肉っている。


 ユーフェリア王女の結婚も不幸と言えば不幸だが、旦那が早逝して結婚期間が短く、しかも出戻ったユーフェリアは莫大な遺産によって娘と優雅に暮らししていたのだから、これを口実に戦争を起こすというのは、ちょっと厳しい(そもそもヴィルミーナが愛する母を利用することを良しとしない)。


 戦争を起こすことは簡単だ。

 ただし、民衆を戦争に駆りたてる物語が要る。あるいは納得する物語が。


 先に述べたように歴史的因縁は乏しい。となると、下品なアングロサクソン的手段を採るか。

 イギリスが阿片戦争やボーア戦争を起こしたように。


 いや、品が無さすぎる。もう少し上品に、最低でも合法的でなければ。

 ベルネシア人はブリトンほど恥知らずではない。商業や金融が盛んなだけに契約主義的正当性を無視しない。あるいは、民族性や国民性として承服できる理由と動機が必要だ。


 納得可能な理由さえあれば、アメリカが米西戦争や米墨戦争を起こしたように、白獅子が保有する新聞社や広告会社でいくらでも扇動できる。白獅子の持つ流通網を駆使し、Dos攻撃の如く世間へ偏向報道を注ぎこめば良いだけだ。


 白獅子のメディアはデルフィネとリアが手掛ける文化事業の一環として興し、先の産業展覧会などで大きく活躍している。その筋から情報操作と世論工作を図ることは難しくない。魔導技術文明世界の近代中期、情報の入手経路は限られており、民間で真偽の精査など不可能なのだから。


 インターネットによる国際的情報の取得簡便化が生じるまで、マスメディアの力は絶対であり、プロパガンダや捏造記事が真実を駆逐していた。最も無責任な暴力機関。それがマスメディアだった。


 重要なのは“物語”だ。

 では、どんな“物語”にすべきだろうか。


 先日、レーヴレヒトに知恵を求めたところ、間接的に仕掛けてはどうか、と言っていた。

 現状の国家間関係でベルモンテと直接の火種を作ることは少々難しい。向こうも警戒しているだろうし、下手に関われば見抜かれる。適当な国から飛び火させた方が良い。


 ベルモンテに所縁がある国が良いだろう。王族の婚姻関係、歴史的恩讐、政経の結びつき、好悪愛憎は問わない。なんであれ関係が深いほど効果的だ。


 まったくとんでもない夫だ。ベルモンテを潰すために、白獅子の事業を守るために、無辜の国を薪扱いにしろと言う。

 あの愛おしい“坊や”は私を怪物か何かと思ってんのか。まったく。


 口内でぶつくさ言いながら、ヴィルミーナはコルヴォラントの地図を眺め、薪にする国を選ぶ。紺碧色の目が生贄の羊を選ぶような冷淡さに染まっている。


 と、


「……ママ」

 ドアが微かに開けられ、愛娘のジゼルが顔を覗かせる。アンジェロが亡くなって以来、母と娘はどこかぎこちないやり取りが続いていた。


 ヴィルミーナは一瞬で顔から冷酷さを消し去る。娘が自室を訪ねてくれたことを喜び、いそいそとドアへ歩み寄る。

「どうしたの、ジズ」


「ママと一緒にいたいの。良い?」

 どこか不安げに窺うジゼルへ、

「もちろんよ、ジズ。いらっしゃい」

 ヴィルミーナはすぐさま強く抱きしめる。愛おしさと慈しみをたっぷり込めて。


 愛娘を抱き上げる。腕にかかる娘の体重に成長を感じた。幸せの重みを感じながら、ヴィルミーナはコルヴォラントの地図の前へ戻り、椅子に腰かけた。ジゼルを膝に乗せ、2人でコルヴォラントの地図を眺める。


「これ、どこのちず?」

「コルヴォラントの地図よ」

 ヴィルミーナは地中海へ飛び込む鴉みたいな半島を示し、

「ここがベルモンテ公国。お婆ちゃんがパパの許へ嫁いだ国で、ママが生まれた国。そして、アンジェロが生まれた国よ」

「アンジェロ兄さま……」

 ジゼルが悲しげに目を伏せた。長い睫毛が目元に影を落とす。


 ヴィルミーナはジゼルを優しく抱きしめ、語り掛ける。

「ママもアンジェロのことを想うと悲しい。ママはね。あの日、アンジェロと約束したの。アンジェロを守って、幸せにしてあげるって。なのに約束を守れなかった。しかもジズ達を悲しませた。どれだけ悔やんでも悔やみ足りないわ」


 懺悔の告解。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい、ジズ」


「ママ……」

 ジゼルがヴィルミーナの胸元に顔を押し付けた。愛らしい目に滲んだ涙を隠すように。


 愛娘の頭に口づけし、慈しむように柔らかな髪を撫で続ける。同時に、ヴィルミーナはコルヴォラントの地図を睥睨しながら、凄まじい勢いで思考していた。


 愛娘の心を傷つけてしまったという後悔と慙愧。愛娘の心を傷つける原因となった奴輩に対する憤怒。自身の幸福を妨害されたことに対する深甚な報復願望。それらを原動力に、ヴィルミーナの頭脳が組み上げていく。

『物語』を。


      ○


 西暦1942年のドイツ軍夏季攻勢『総統指令第41号:ブラウ作戦』の作戦計画書は、タイプ用紙10枚だったと言われている。


 ヴィルミーナがレーヴレヒトと相談して書き上げた『物語』はタイプ用紙換算で7枚ほどだった。


『物語』は白獅子財閥の王都社屋へ届けられ、側近衆と事業代表達の会議に掛けられる。

 財閥中枢の彼ら彼女らにとって、『物語』の道徳的善悪は然程問題ではない。三国協議がもしも決議された場合、白獅子が10年掛けて築き上げてきた機械系事業の命脈、重要資源の流通をベルモンテに――彼らの女王を貶めた者共に握られるのだから。


 彼らは江戸幕府とは違う。貿易の主導権を南蛮人へ委ねるなどというような愚行を許容しない(江戸幕府は東照権現が何のために朱印船を推奨したのか、まったく理解していなかった)。


 よって、側近衆と事業代表部はヴィルミーナの描いた『物語』について熱心に検討した。

『物語』の実現は可能か否か。その問題点の炙り出しと解決案の有無。『物語』の遂行における諸問題と対策、準備にかかる日数や費用、資源。実務的な人員の配置とリソースの分配。


 彼らの会議は3日でまとまり、『物語』を実現させるため時間的猶予の確保に動く。


 ベルネシア政府とクレテア政府は三国協議の進展を停滞させているが、いつ話がどのように転がるか確証はない。

“外交官”としてデルフィネが貴族界や各国大使館を回って時間稼ぎを図り、テレサが経済界や産業界、実業界を巡って政治へ揺さぶりをかけ、猶予を捻出する。


 同時に、『物語』の準備が進められた。

 総帥代理のアレックスが全体の統制と調整を行い、パウラがその補佐に付く。ミシェルが財閥内から能う限りの資金を用意し、キーラが国内法や関係諸国の法律を精査。ヘティが技術的問題の解決に動き、ニーナが白獅子の根幹地クレーユベーレ市の各事業を統括して“物語”に必要な物資等を揃えていく。

 その間、リアがメディア・コントロールの準備を整え、マリサと汚名返上に燃えるエステルが民間軍事会社や契約私掠船などの戦備を整え、アストリードが“商事”と『物語』用の連絡網を整える。



 そんな中、デルフィネがエンテルハースト宮殿へ参内した。


 ハンドバッグを手に堂々と宮殿内を歩むその姿は、まさしく貴婦人そのもの。

 デルフィネは美しい。30を過ぎて花盛りから女盛りを迎えた今も、滴るほどの美麗さを誇っている。

 むろん、この素晴らしき美貌はタダではない。日々の生活における絶え間ない努力、それに、メルフィナのエステサロンで定期的に最高の施術を受け、肉体の全てを最高の状態に保っている。女性の美は労力と金を費やすほど輝く。生来の美女とて例外ではないのだ。


 話を戻そう。

 参内したデルフィネは宮殿内のサロンへ通される。


 サロンには既に王太子妃グウェンドリンがいて、傍らに筆頭御付き侍女ヘレンが控えていた。

 簡単な、されど完璧な礼法に則った挨拶をした後、デルフィネはハンドバッグをヘレンへ預け、グウェンドリンの向かい側へ着席する。


 大陸南方チーク材に最高級の御影石をはめ込んだテーブルに、ヘレンがイストリア製白磁のカップが並べた。地球で言うところのボーンチャイナ茶器に、赤々とした紅茶が注がれる。芳醇な香りが広がっていく中、2人の貴人女性の手元へ赤と黒の粒々した木苺のタルトが置かれた。


「至れり尽くせりですこと。誠に恐縮ですわ、王太子妃殿下」

 デルフィネが図々しい態度で冷笑する。


「おべっかにはもう少し気持ちを込めて欲しいわね」

 典雅な所作で紅茶を嗜んでから、グウェンドリンはデルフィネを見据えた。

「それとも、多忙すぎて気持ちの余裕が無いのかしら?」

「のっけから皮肉とは。王太子妃殿下こそ御心にゆとりが欠けてらっしゃる」

「先に起きた悲劇以来、友人達が何やら企んでいるようでね。不安と心配が絶えないの」

「それは御労しい限り。殿下の御宸襟が安んじられますようお祈り申し上げます」

 うふふ、と2人の美女が微笑み合う。目は笑っていない。王太子妃の背後に控えるヘレンも底冷えするような眼差しを向けていた。


 グウェンドリンは小さく息を吐き、疎ましげに軽く手を振った。

「やめよう、デルフィ。迂遠なやり取りを交わす気分じゃない」


 デルフィネは同意するように小さく肩を竦めた。小さなフォークでタルトを一口大に切り分け、口へ運ぶ。サクッと香ばしいタルト生地とプチプチとしたベリーの食感。クリームの甘味をベリーの酸味が和らげ、後味も爽やかだ。流石は宮廷料理人。良い仕事をする。


「動きは掴んでるわ、デルフィ。政界と財界に根回しして王国府に圧をかけ、三国協議を長引かせていること。複数の有名法学者と面談したこと。巨額の資金を動かしたこと。白獅子が関係各社と組んで大量の物資を調達していること。民間軍事会社の第一線戦力が国外派遣の準備を進めていること。全部掴んでるのよ、デルフィ」


「“だから”?」

 白獅子の“外交官”として経験を重ねたデルフィネは、グウェンドリンが親友として本心から案じていることも、王太子妃として政治的心配をしていることも、分かっている。そのうえで、白獅子の人間として応じた。


「だから、どうしたというのです、グウェン。白獅子は有力財閥で多国籍企業です。事業に必要ならロビー活動もしますし、法的な正当性を調査します。事業のために大金や大量の物資を動かすことなど珍しくない。民間軍事会社の国外派遣? 既にカロルレンやクレテアで活動させているではありませんか。いずれも今に始まったことではありません」


「デルフィ」

 グウェンドリンは幼馴染を睨む。深い青色の瞳に怒りと憂いが宿っている。

「ユルゲンに私達が掴んでいる情報を確認させた。何と言ったと思う?」


「さあ? 想像もつきませんね」

 タルトを食べ進めながら、しれっとのたまうデルフィネへ、

「白獅子はまるで戦争の準備をしているようだ。そう言っていた」

 眉間に深い皺を刻み、グウェンドリンは言った。詰問するように。


「ヴィーナは本気なの?」


「……」

 ゆっくりと瞬きしてから、デルフィネはフォークを皿に置き、

「ヴィーナ様は本気ですとも。“奴ら”はヴィーナ様を傷つけ、貶めた挙句、御家族にまで火の粉を被らせた。そのうえ、私達と共に築き上げてきた白獅子まで切り刻もうとしている。ここまでやられたヴィーナ様が本気か、ですって?」

 苛立たしげに吐き捨てた。

「寝ぼけたこと抜かすな、でございますわ、グウェン。ヴィーナ様も私達もとっくに本気です」


 歌姫の玲瓏な美声に詰られ、王太子妃が端正な顔を大きく歪める。デルフィネは深呼吸し、多少態度を和らげた。


「考えて下さい、グウェン。

 現在進められている我が国の産業革命、その推進剤たる白獅子の動力機関や添加鋼は聖冠連合帝国産の資源に強く依存しています。希少鉱物は外洋領土の鉱山で代替できますが、黒色油は今のところ聖冠連合帝国以外に調達先がありません。

 もちろん黒色油の産出地の捜索、確保を進めておりますけれど、産出地を発見して産業化するまでには多くの時間が必要です。黒色油の供給源を確保し終えるまで、聖冠連合との貿易海運を他国に依存することは危険すぎます」


「それを言うならば、資源供給先を聖冠連合に深く依存していることの方が問題でしょう」


「ええ。ですが、我が国と聖冠連合は典型的な遠交近攻の関係にあります。先のクリスティーナ王女殿下のような事態が生じない限り、敵対関係には至る可能性は低い。

 また今現在、地中海海運を委託しているクレテアは同じ協商圏国。事実上の同盟国です。それにクレテアには我が国の資本が浸透しており、地中海海運を預けても“保険”が効きます。

 しかし、ベルモンテには何の保険もありません。クレテアや聖冠連合のような相互利益も相互安全保障もない。何より、彼の国が我が国へ接近してきたやり口を御考慮ください」


 グウェンドリンは大きな溜息を吐く。駄々をこねる幼い我が子を前にしたような、母親の顔で。

「……貴女達へ掣肘を加えぬ条件がある」


「具体的に私達が何をする気か、ですね」

 先読みしていたようにデルフィネは口端を歪め、ヘレンにハンドバッグを寄こすよう伝え、ハンドバッグから数枚の書類を取り出してグウェンドリンへ渡す。


 受け取った書類に目を通し、グウェンドリンは顔から血の気を引かせた。

「――正気なの?」


「むしろ問うのはこちらです、王太子妃殿下」

 デルフィネは薄く微笑んで告げる。

「王家もこの“事業”に一口噛みませんか?」


        ○


 経済学で言うところのサンクコスト・バイアス――『これまでの投資を無駄にしたくない、今更引けない』という思考は、あらゆる場面に適合する。


 低俗な例を挙げるなら、パチンコやソーシャルゲームのガチャにのめり込んでいる人間が良い例だ。費やした金額が大きいほど引けなくなる。


 先行投資の大きさから中止できなかったコンコルド超音速旅客機や、無謀な投資からコア事業売却を余儀なくされた日本企業など、実例を挙げればキリがない。


 戦争とて例外ではない。歴史学者ジョン・ダワーの指摘した『死者への負債』だ。

 国家の限界を超えても、もはや勝利など得られないと分かっていても、感情に理性を焼かれ、冷徹な決断――敗北を受容できず犠牲を増やし続ける。

 戦争を始めることは容易いが、終わらせることは難しい。そう言われる所以の一つだ。


 ブラックエコノミー社会の一流大企業で管理職を務め、重役に成り上がり、経営陣の一席に座った女は、サンクコスト・バイアスも重々承知している。

 その危険性と利用の仕方も、充分に。


 ヴィルミーナはぽつりと呟く。

「あとは時間か。こちらの一手が先か、向こうの一手が先か。あるいは誰かの横槍が先か」


 まあ、“間に合わなくても問題ない”が。

 サンクコストの背負わせ方は一つではない。やりようはいくらでもある。ベルモンテの沈み方が変わるだけだ。

 ヴィルミーナは甘く微笑み、傍らに寝そべる愛犬ガブの頭を慈しむように撫でる。


 陰謀屋気取りの“クソガキ”め。地中海のカッペ共め。せいぜい頭を捻って一手を考えるが良い。

 お前らの足掻く様を嗤ってやる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 陰謀屋のヴィーナ様すこ [気になる点] 絶滅戦争になるよう仕向けるのかな
[良い点] 今回はいつもの側近に言い包められてナァナァな着地エンドしなさそうな流れなので期待
[良い点] >コルヴォラント南部沖でも同様の傾向にある。  武器を輸入したら使いたくなるのは必定。海賊も居るからベルネシアへの物資輸送のクレテア船籍を襲わせるとか?そこに白獅子の幹部(エスエル)が居た…
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