閑話26:海鳥の歌と潮騒の調べを聞きながら。
大変お待たせしました。今月は本当に筆が進まず、申し訳ない。
説明回です。
大陸共通暦1781年:初夏
大陸西方メーヴラント:大クレテア王国:地中海沿岸都市マーセイル
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地球世界の地中海に臨む南仏は、風光明媚な観光地が多いことで知られている。大クレテア王国の南部地中海沿岸地域も同様に優美な自然が多い地域だ。意地悪なことを言うなら、歴史的に開発が乏しかっただけかもしれない。
そんなクレテア地中海沿岸地域において、マーセイルは数少ない商業港湾都市だった。
優艶な曲線で描かれた入江に沿って作られたこの都市の生まれは古く、古代レムス時代以前まで遡れる。戦火や災害、疫病の流行などで幾度か深刻な衰退を経験しつつも、現在までクレテア有数の港湾都市であり続けていた。
翠玉色の海に臨む旧港。緩やかな丘陵斜面に繁茂する煉瓦屋根の群れを辿り、丘の頂上を窺えば、そこにはルネサンス様式を基とした改築バロック調大聖堂がそびえていた。海側へ視点を移せば、翠玉色の海と切り出した岩場入り江のコントラスト。海鳥達が舞い歌い、小型種の鷲頭獅子が猫と共に漁師の捨てた魚を齧っている。
街ゆく人々は国際色豊かでクレテア人のみならず、ベルネシア人にイストリア人、アルグシア人に聖冠連合帝国人。メンテシェ・テュルク人に大陸南方系や中央域系、それらの混血。
港に停泊し、港を往来する船はクレテア船に加え、聖冠連合帝国やメンテシェ・テュルク、コルヴォラント諸国にエスパーナ帝国、大陸南方諸国、果てはイストリアやベルネシアの船も見られる。
空を行く船達も同様だ。新港傍に建設された沿岸飛空船離発着場には多国籍の船が船首を並べていた。
海は遊興用の釣りボートや小型短艇から大型貨物船に武装商船まで。空は誘導の翼竜騎兵や小型飛空短艇から大型飛空貨物船に飛空武装商船まで。
多種多様な海空の船の中に、船首に魔狼の像を掲げる高速戦闘飛空艇が居た。
彼の船の名は空飛ぶ魔狼号。
大飛竜殺しを成し遂げた隻眼の美人船長が駆る私掠船だ。
○
マーセイル新港に接する商業区画には、海や港を一望する飲食店や宿泊施設が多い。客商売にとって景観は重要な要素だから、当然と言えば当然だろう。
飲食店のテラス席で、コルヴォラント人老紳士が初夏の陽光と優しい潮風を浴びながら、柔らかな潮騒と海鳥達の歌声に耳を傾けていた。
老紳士は70を過ぎているだろうが、筋骨は逞しく背筋も伸びており、上等な着衣に相応しい、洗練された佇まいと物腰は貴族の御隠居を思わせた。
そんな老紳士の許に給仕の青年が料理を運んでくる。
この街の繁栄振りを示すように、多彩な食材を用いた料理が純白のテーブルクロスが敷かれた卓に並べられていく。
「一昔前のクレテアはどこに行っても貧しさを感じさせたものだが、今はこの通り、市井でも豪華な食事を楽しめる」
老紳士は意地悪なことを語りながら、自らワインの栓を抜く。
「もっとも、コルヴォラント産のワインを取り扱っていないことはいただけないが」
「御託は良いから、さっさと注ぎな」
老紳士の向かい側に座る四十路の美熟女がつっけんどんに応じた。
彼女の朱いドレスは腰回りがスリムなデザインで、彼女の生意気なおっぱいと小癪なお尻を強調するようにライン取りされていた。肩にかけた黒地に錦糸で派手な刺繍が施されたショール。腰に爵位の証たる儀礼用短剣を佩いている。丁寧に結い上げられた栗色の長髪。前髪は眼帯を巻いた左目に被さるように流してあった。
僕達の隻眼美人船長アイリス・ヴァン・ロー女士爵だ。
老紳士はくすくすと喉を鳴らし、自身とアイリスのワイングラスに白い葡萄酒を注ぐ。
グラスを受け取り、アイリスは乾杯の音頭もせず口へ運ぶ。辛口のきりっとした味は、アイリスの好みから少し外れていた。
老紳士はワイングラスを卓に置き、豊富な魚介を用いた料理を食べ進めながら、アイリスへ話し始める。
「テュルクは地中海情勢に干渉しないそうだ。これは宮廷の総意であり、皇帝も明言している。彼らは灰狼海権益以外に興味も関心もない。ロージナがようやく中央域から手を引いて一息つけたところだ。好んで地中海の争いに関わらない」
「今更だね」
アイリスはムール貝の殻を皿に置き、鼻を鳴らす。
「テュルクが地中海に『黄金の林檎』を見出していたのは数世紀も昔だ。ソルニオル事変で海賊海岸が大被害を負った時も、テュルクはちっとも動かなかった」
「確かに。仮に救援要請を出していても動いたかどうか。私は帝国が海賊海岸を見捨てていても驚かないなあ」
老紳士はワインを口にしてから、
「驚きという話では、ベルモンテの件だね。あの根暗で臆病な毒蛇にしては随分と思い切った手に出たものだ。ベルネシアとクレテアを交渉の舞台に引きずり出して、何を企んでいるのやら」
「噂では地中海利権の調整を図り、戦争回避を目指しているらしいね」と空々しいアイリス。
「戦争回避はともかく、地中海利権の調整などあり得ないよ」
ふっと嗤う。
「ベルモンテ公がコルヴォラント全体の利益に貢献するなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。彼は被害妄想と不安神経症に病んだ男だ。家族すら猜疑の目で見る男が他国の利に繋がることなどしないよ。モリア=フェデーラの大御所辺りは察しているんだろう」
※ ※ ※
コルヴォラント東北東部にあり、チェレストラ海に接するモリア=フェデーラ公国は、共通暦1600年代中期に生まれた若い国で、前身はバローナ公国という。
名前が変わった理由は地域紛争でバローナ公が戦死。バローナ公家に属するモリア=フェデーラ伯爵がバローナ公の幼い遺児を神輿に実権を掌握。その後、件のバローナ公遺児が『病死』し、モリア=フェデーラ伯が自身の家を元首とするモリア=フェデーラ公国を起こした。
織田家を乗っ取って天下を掠め取った豊臣秀吉みたいなもんであり、兄の遺児から玉座を奪ったベルモンテ公王ニコロに近い話だ。要するに『よくあること』。
よくあることではあったけれど、周辺国はモリア=フェデーラ公王家を承認せず『バローナ公国を簒奪した僭主』と敵視し、紛争が長く続いた。
が、危ういところを何度も潜り抜け、モリア=フェデーラ公国は今日へ至る。
この若い国が滅ぼされずに済んだ理由は、国内の内陸側国境が峻険な山岳地と河川による自然国境だったため守り易かったこと。加えて、コルヴォラント北部の強国ヴィネト・ヴェクシア共和国を味方にしたことだ。
ヴィネト・ヴェクシアの“ポチ”的ポジションに収まり、モリア=フェデーラは独立を保てる小国となったのである。
国家誕生の経緯が経緯だけに、モリア=フェデーラ公国の周辺国に対する不信感は強い。建前では同盟国のヴィネト・ヴェクシアに対しても『いつまでも恩着せがましいわ、宗主国面するわ、鬱陶しい奴め』と含むものがある。
モリア=フェデーラ公王家や貴族達は小国の王侯貴顕らしく、自国自領の繁栄、直近地域の安定以外に関心が乏しい。とはいえ、小国らしく周辺情勢に神経を尖らせているため、コルヴォラント情勢に協調して連合軍入りしていた。
当代モリア=フェデーラ公ドナテッロ・ディ・モリア=フェデーラは、御年25歳。病を理由に引退した先代国王サルエレは大御所として隠然と権力を振るっているから、実質モリア=フェデーラ公国は二頭体制にある。
「立ち回りが肝要ぞ」
先王サルエレはハトの丸鳥ローストを齧りながら言った。御年48歳。堂々たる肥満中年で、病人を称しているが健啖振りは象も斯くや、だ。
「目立ってはいかん。クレテアや聖冠連合の恨みを買うし、周辺の妬み嫉みも買う。かといって功が無いのもいかん。後々であーだこーだとイチャモンを付けられかねんからな。ゆえにほどほどが最上。もちろん、戦場で無様を晒すわけにもいかん」
「難しいですな」
現公王ドナテッロは父と同じハトの丸鳥ローストを齧りながら頷く。容姿も父とそっくりのデブチンだ。親子揃ってハンプティ・ダンプティみたいである。
「ベルモンテがベルネシアとクレテア相手に何かやっているようですが」
「大方、この情勢から自分だけ足抜けを企んでおるのだろう。ベルモンテ公ニコロはそういう男だ」
ハトの手羽先を齧りながら、サルエレは鼻を鳴らす。
周辺国から疎まれている小国の王らしく、サルエレは目と耳が良い。コルヴォラント内の情勢や情報に明るい。
「甥孫の死と姪の不幸を最大限に利用して、ですか。玉座の聖務は厳しいですな」
しみじみと呟き、ドナテッロ公はハトを皿に置いてワインを呷った。
「ぼんやりしよってからに……」
父サルエレは抜けたことほざく倅ドナテッロに呆れた目を向ける。
「そうそうこんな都合の良い事件が起きるものか。十中八九、ニコロが糸を引いておるわ」
「そんな……自分の甥孫と姪ですよ? 評判の悪いベルモンテ公と言えど、そこまで性根が腐っておりますまい。父上は少々穿った見方をし過ぎでは?」
倅のお人好し極まる発言に、サルエレは大きく嘆息を吐き、八つ当たりするようにハトへ大きく齧りついた。
口の周りを脂とソース塗れにした先王は現王をひと睨みする。
「ともかくだ。海戦ではヴィネト・ヴェクシアと歩調を合わせ、陸戦では目立たんよう上手く立ち回れ。この戦がどう転んでも生き延びられるようにな」
「難しいですが……公国存続のため、やり遂げましょう」
ドナテッロは頼もしい顔つきで頷き、父に問う。
「ところで、食後甘味は如何します?」
倅の発言に、サルエレは思わず天井を仰いだ。
※ ※ ※
「大御所が睨みを利かせているうちは、モリア=フェデーラが立ち回りを誤ることは無いだろう。問題は血気盛んなランドルディアだね。下手をすると、コルヴォラント北部の地図を書き換えることになるかもしれない」
香り高いパンを千切りながら老紳士は見解を披露し、千切ったパンに新鮮なバターを塗りつつ、言葉を編む。
「ベルモンテ公は謀略家だから実利に正直だ。その意味では信用が置ける。しかし、ランドルディアは実利より思想、現実より妄想を優先しがちだ。なんとも不安になるじゃないか」
※ ※ ※
コルヴォラント内3王国の1つ、ランドルディア王国。
地図的位置関係で言えば、東にヴィネト・ヴェクシア、西にタウリグニア、北にティロレを持つ北部の国だ。
ランドルディア王国の歴史は古代レムス帝国滅亡後から始まるほどに古い。王国は分裂したり統合したり、領土を増減させたり、王朝が変わったり、滅びかけたり。一時はヴィネト・ヴェクシアやタウリグニアの大半を制し、北部を統一しかけたこともあったし、本貫地たるランドリア地域を失って都市国家に成り果てたことさえあった。
そんな栄枯盛衰の激しい歴史を持つランドルディア王国にとって、コルヴォラントとメーヴラントの狭間にあるティロレ地方をメーヴラント勢力に掌握されていることは、経済的にも安全保障的にも国史的にも不愉快だった。
さらに言えば、コルヴォラントの同胞たるタウリグニア共和国がクレテアの属国になっていることも、実利的にも感情的にも許容し難い。
――油断するな。隙を見せたら、メーヴラントの下劣な小鬼猿共は次に我々を狙い、コルヴォラントを蹂躙せんと目論むぞ。我らはメーヴラント蛮族からコルヴォラント文明を守る盾であり、剣である。
これがランドルディア王国の世界観、御国柄と言っても良い。
昨今の地中海有事は、ランドルディア王国の妄想的世界観と現実的実益が奇妙に一致した状況といえよう。
しかも。
時のランドルディア王国国王ユリウス5世は、御国柄の気質に加えて熱心な伝統派超保守主義者だった。若き日を法王国で学び過ごし、個人として聖堂騎士に叙され、腕前は達人級。気質と合わせて『騎士王』とか『剣豪王』とか呼ばれている。
何より、齢40も届こうというのに『聖王教の信徒として、教会伝統派の守護者たらねばならぬ』と素面で考えている男だ。
ちょっとアブない君主ユリウス5世は、昨今の世情を強く憂いていた。
敬虔な伝統派国エスパーナ帝国が大乱に苦しむ様に悲嘆し、汚らわしき異端共に与する不信心者共が繁栄する不公正な世に、義憤を抱いていた。
であるからこそ、ユリウス5世は此度の戦にかなり乗り気であった。
伝統派の面汚したるクレテアと聖冠連合に制裁を与え、正しき伝統派信徒たるランドルディアがタウリグニアとティロレを導かねばならない。一滴も入ってない素面で、コレだった。
ランドルディア王国政府はユリウス5世ほど妄想的ではなかったが、ティロレとタウリグニアの権益と富を得るため、冒険を辞さなかった。自国だけではキツくとも、連合軍を起こして諸邦の兵力を投入すれば、二大国相手に痛打を与え、譲歩を迫れる“はず”だから。
メーヴラント的視点に沿った読者諸兄諸姉には『何言ってだコイツら』と思われるかもしれない。でもね、彼らは彼らなりに本気で真剣なんだ。馬鹿にしないであげて欲しい。
そう……空を飛ぼうとして、台風の日に傘を持って表へ出ていく幼児を見守るように。我々からすれば馬鹿馬鹿しい限りだとしても、幼児は幼児なりに本気なのだから。
※ ※ ※
パンを美味そうに咀嚼する老紳士に、
「バカはランドルディアに限った話でもあるまい。フローレンティアもカーパキエも金回りが落ち込んでヒィヒィ喘いでる。戦でも何でもしなけりゃ食っていけない」
アイリスは目を細めて毒を吐く。
「あんたの本国とて例外じゃない。そうだろう?」
「手厳しいね」と老紳士はどこか自虐的に喉を鳴らした。
※ ※ ※
ランドルディアとベルモンテに接するフローレンティア公国。コルヴォラント半島南端――鴉のクチバシに位置するカーパキエ王国。そして、エトナ海島嶼各独立政府。
いずれの国も懐具合が非常に苦しい。
三国の共通事項はコルヴォラントの中でも、ガルムラント……エスパーナ帝国と所縁が深いことにある。
フローレンティアは近世初期に法王国から分離独立した国で、教会の特権や特別優遇を基に金融や銀行業を発展させてきた金満国”だった”。加えて、敬虔な伝統派国であるということから、法王国経由でエスパーナ帝国の債券や担保や抵当を多く持つ債権国”だった”。
エスパーナ帝国を焼き尽くさんばかりの大乱により、それらの大量の債権が凶悪な不良債権に化けてしまった。巨額の不良債権はフローレンティアの金融市場や銀行業を直撃し、フローレティア経済を転倒させた。この影響はコルヴォラント全体にも普及している。
おまけにクレテアと聖冠連合による地中海権益の寡占がトドメとなり、フローレンティア公国は暗黒の大不況に襲われている。
エスパーナ大乱の終息に目途が立たない今、地中海権益を少しでももぎ取らなければ、早晩、国家破産と食い詰めた貧乏人達の革命騒ぎが起きかねない情勢にあった。
状況の厳しさはカーパキエ王国も劣らない。
コルヴォラント南部のカーパキエ王国は、長年に渡ってナプレ王国や海賊海岸と抗争を重ねており、今やコルヴォラント半島南端――鴉のクチバシに追い詰められている。
カーパキエ王国が滅亡せずに済んだ理由は、王家とエスパーナ帝室と血縁を基にした支援と援助だった。エスパーナの後ろ盾がカーパキエの生命線なのだ。
それなーのーにー。
肝心要のエスパーナ帝国が大乱を起こして自滅状態。援助も支援も途絶した。しかも、縁の深さを頼って難民や亡命者が押し寄せてきた。今やカーパキエの方がエスパーナに縋られる有様。勘弁してくださいよォー、立場の逆転なんて望んでないっすよォーッ!!
時期も悪かった。
カーパキエはソルニオル事変後、弱体化した海賊海岸から近海の制海権を奪うべく、非公然戦争をおっ始めてしまっていたのだ(積年の恨みを晴らすという意味もあった)。
難民ボムと海上抗争のダブルパンチ。このうえ、地中海権益までクレテアと聖冠連合に独占されたら、国家経済の土台がボロリと崩れかねない。
苦しい理由は他にもあった。
宿敵ナプレがコルヴォラント連合につくなら、カーパキエもまた、連合につかざるを得ない。クレテア・聖冠連合側に付いて、カーパキエに侵攻する口実を与えられかねないからだ。
最後にエトナ海島嶼各独立自治政府に触れよう。
地球世界のイタリア半島の傍にはコルシカ島、サルディーニャ島、シチリア島と比較的大きな島があったが、魔導技術文明世界のコルヴォラントに、コルシカとサルディーニャに相当する島は無い。地理的要因がティオニア海に近いエトナ海を構成している条件は、エトナ海列島群であり、各島に自治政府が設けられている。
と記せば、なんとも現代的であるけれども、実態はまとまっていないだけだ。エトナ海の雄ベルモンテとの関係は村上諸水軍と毛利家に近い。
小勢力であるがゆえに、地中海権益から締め出された影響こそ少ないものの、地中海情勢の変化に翻弄されている。クレテアかベルモンテか。つく側を間違えれば、滅ぼされかねない。滅ぼされずとも自治権を失うかもしれないし、犬以下の扱いを受けるかもしれない。
加えて、エスパーナ大乱が起きて以来、難民の流入も問題になっていた。経済基盤が貧弱なエトナ海各独立自治政府に難民を食わせる余裕などないのだから。
※ ※ ※
「まったく長ったらしくごちゃごちゃと。年寄りは話が長くていけないねえ」
アイリスは渋面を浮かべてワインを呷り、
「地中海情勢もコルヴォラントの事情も知ったこっちゃないんだよ」
老紳士をぎろりと見据えた。
「地中海の“牛頭鬼猿”ガットゥーゾがどういう要件なんだい」
コルヴォラント老紳士――老練の私掠船長ジャコモ・“ドン”・ガットゥーゾは不敵に微笑む。
ガットゥーゾは海賊海岸の凶徒に凌辱された母から生まれた混血児であり、周囲はもちろん実母からも虐待されながら育った。
が、彼は自身の生まれ育ちに抗い、自身を愛さぬ母を慈しみ愛し、自身を異教徒の私生児と見做して祝福を与えなかった教会を敬い尊び、自身を迫害した祖国に忠を誓った。
やがて成長したガットゥーゾは私掠船の水夫として経験を重ね、自らも私掠船船長になった。
船首に剣を持つ聖母像を掲げる『復讐の聖母号』を駆り、地中海屈指の海賊狩りとして勇名を馳せた。
聖王教徒を救い、異教徒海賊を血祭りにあげ、海賊からの強奪品と懸賞金と報奨金で大金持ちになった彼は、人々から“ドン”の名誉敬称を勝ち取っている。
一言で言えば、当代を代表する地中海海賊の一人であり、紛れもなく英雄に相応しい男だ。
老紳士ガットゥーゾはアイリスへ言った。
「隻眼の竜殺しアイリス・ヴァン・ロー。我々に雇われないかね? 報酬は弾むよ。拿捕はもちろん、撃沈当たりの報奨金も約束する」
「あたしが“紐付き”と知っての勧誘かい?」
アイリスは鼻で笑うように応じ、あっさりと誘いを蹴る。
「負けると分かってる軍に与する趣味はないね」
「たしかにクレテアと聖冠連合は強大だ。しかし、海軍に限れば、聖冠連合は沿岸警備隊に毛が生えたようなものだ。クレテア海軍の地中海艦隊も増強しているようだけれど、しょせん、図体の鈍い外洋艦隊だ。いくらでもやりようはある。負けるとは決まっていないよ」
滔々と語る老紳士へ、
「勘違いするな、牛頭鬼猿。クレテアも聖冠連合も関係ない」
眼帯を弄りつつ、アイリスはガットゥーゾを睥睨した。
「“あたしが”あんたらをぶっ潰すから負けると言ってんだよ」
「救国の英雄とはいえ、君がそこまで愛国者だとは知らなかったな」
ガットゥーゾは意地悪な顔つきで口端を歪める。
「君は故あれば祖国にも背を向ける人間かと思ったが、士爵を貰って飼いならされたか? それとも、王妹大公家が与える餌はそれほどに美味なのかね?」
「話は終わりだな、爺さん」
アイリスは挑発に答えず、ナプキンを卓に放り捨てて腰を上げる。
店内に控えていた『空飛ぶ魔狼号』の水兵達が俄かに殺気立ち、同じく『復讐の聖母号』の水夫達が腰を浮かせる。が、ガットゥーゾが軽く手を振るだけで、両船の水夫達は一瞬で制された。まさに役者が違う。
「あたしの可愛い“友人”が泣かされたんだ。お前らを叩き潰す理由にゃあ充分さね」
ガットゥーゾを睨み据え、
「戦を待ってろ、ジジイ。あんたの首もあたしの武勲話に加えてやるよ」
アイリスは踵を返して去っていき、『空飛ぶ魔狼号』の水夫達が続く。
残ったガットゥーゾは手酌でワインをグラスに注ぎ、ふ、と鼻で笑う。
「ベルモンテがどう動こうと、いや下手に動いたからこそ、ベルネシアの参戦の意志は強い、ということかな。公王ニコロは藪蛇をしたようだね」
ガットゥーゾは本気でアイリスを勧誘したわけではない。勧誘できれば儲けもの、程度だ。
自身の経験と知見、常識からアイリスを始めとするベルネシア私掠船や民間軍事企業を、ベルネシアの地中海進出の先兵と見做していた。そこで、アイリスの反応を通じてベルネシアの地中海有事に対する動向を探るべく、この会食を催した。
彼女の反応を見る限り、ベルネシアはやはり参戦の意志が強い。ガットゥーゾは確信した。西地中海の戦いはクレテア・ベルネシア連合艦隊との戦いになる。相当に厳しい戦いとなるだろう。
だが、退くわけにはいかない。
ジャコモ・“ドン”・ガットゥーゾは誓っていた。自身を憎む母、自身を蔑む祖国、自身を貶める教えを、それでも心から愛し身命を懸けて守る、と誓っていた。
なにより、
「まったく、尻の青い小娘が吠えてくれるじゃないか」
“地中海の牛頭鬼猿”と恐れられるほどの闘将は、隻眼の飛竜殺しの挑発に受けて立つ気満々であった。
不利な戦いも強敵との戦いも飽きるほど経験してきた。クレテア海軍もベルネシア海軍も何するものぞ。この牛頭鬼猿ガットゥーゾを畏れぬなら掛かってくるが良い。
ワインを呷るガットゥーゾは耳目の広い人物であり、卓識の人であったが、それでも地中海の一海賊に過ぎなかった。
ゆえに、ガットゥーゾは理解していなかった。
この戦で本当に恐ろしい怪物が誰かを。
次回から本編の予定。




