閑話24c:ヒルデン1776
猛者ベイチェクは誰の目にも恐ろしい姿をしている。
身長2メートル近い筋骨隆々の大男が戦鬼猿を模したグロテスク様式の高魔導素材製全身甲冑を着込み、金剛鋼製の大きなグレートソードを肩に担いでいるのだ。恐ろしいにも程がある。跨る騎兵用烏竜も周囲の騎兵より体躯が大きく、見る者の恐怖心を強く煽る。
だが、ベイチェクは脳味噌まで筋肉で出来た愚か者ではない。モンスターや群盗山賊を相手に幾度も戦いを経験してきた練熟の戦士である。
左翼の騎兵部隊と合流すると、ベイチェクは命じた。
「20騎を先行させぃ。奴らが擲弾を斉射後は左右に旋回。奴らを挟み込むのだ」
「ベイチェク殿は左右いずれに来られる?」と騎兵隊長が問えば、
「某は小僧の度肝を抜いてやるわ」
ベイチェクは野蛮に笑った。
そして、赤備えの擲弾斉射が行われ、先行する20騎兵が打ち崩される。その爆煙に隠れて騎兵本隊が左右両側へ旋回し、赤備えの挟撃を図る中、
「小僧ぉおおおっ! その首を切り飛ばしてくれるわぁっ!!」
ベイチェクは打ち崩された20騎の骸や負傷者を“踏み潰しながら”中央から赤備えへ襲い掛かった。
金剛鋼製の大きなグレートソードを振り上げながら突入してくる戦鬼猿に、
「こいやああああああああああああああっ!!」
ショレムと赤備え達は一歩も引かず乱戦覚悟で迎え撃つ。
戦況はレズニーク勢に傾きつつあった。
防戦に徹する中央と左翼はヨアキムの想定した通りに膠着し、重点を置いた右翼ではムラチェク勢を瓦解へ追い込み始めていた。
が、想定外もある。
右翼騎兵を撃破した直後、ムラチェクは思い切りよく左翼の騎兵を右翼へ回し、ショレムの赤備えへぶつけた。
そのため、赤備えは乱戦に呑まれて数の差に押されている。いや、数の差だけではない。ムラチェク勢になにやら豪傑がいて、大暴れしていた。
双眼鏡を覗いていたヨアキムが唸る。
「ありゃあ……ベイチェクか? 切り札を出してきよったな」
「応援を出しましょう。如何にショレム様の赤騎士が精強とはいえ、ベイチェク相手では分が悪ぅございます」
筆頭従士が言った。
人格その他に関してベイチェクを毛虫のように嫌っているが、戦士としては認めざるを得ないほど強い。この規模の戦闘なら個人の武で戦況を変えかねないほどに。
ヨアキムは筆頭従士の進言を即断できなかった。
なぜなら今、左翼に穴が開いている。ここへ予備戦力――パヴェルの騎兵部隊と後詰を投入すれば、ムラチェクの本陣を突ける。勝利だ。
しかし、強敵と数に押されるショレムが危うい。応援を送り込まねば、最悪、命を落とすかもしれない。
自治領伯なら戦略的勝利を優先すべき。
父親なら我が子を優先すべき。
ヨアキムは双眼鏡を強く握りしめ、決断を下す。
「パヴェルの隊を」
「でんれ―――いッ!!」伝令が駆け込んできた。
「何事かっ!」と筆頭従士が怒鳴る。
伝令が叫ぶ。
「パヴェル様が騎兵30を率い、ショレム様の応援に出陣されましたぁっ!!」
〇
パヴェル・レズニークは古狐紛いの親父や自由人気質の弟と違い、お堅く生真面目な青年だった。よもすれば四角四面の肩肘張ったつまらない奴とも言えるが、何事にも真摯に取り組み、一所懸命に頑張る姿勢は誰の目にも好ましい。
棟梁家嫡男として幼い頃から勉学に励んできた。一日とて鍛錬を欠かしたことがない。齢13で初陣の山賊退治に参加し、敵頭目を一騎打ちで討っている。
そして、パヴェルは家族思いの若者だった。指をくわえて弟の危機を看過するなど、あり得ない。
千鳥十文字の槍を抱えたパヴェルは烏竜を激走させ、右翼の最前線を目指す。視線の先で、鮮やかな朱色の騎兵達がムラチェクの騎兵達に取り囲まれ、もがくように戦っている。
刃と鎧が激突する金属音が、刃と刃が斬り合う剣戟音が、肉と肉がぶつかる衝突音が、刃が肉を裂く音色が、刃を振るう騎兵の雄叫びが、死傷する人間と烏竜の悲鳴が、奏でられていた。
精鋭といえど、人間的限界は否めない。少しずつだが、確実に赤備えは数を失っていた。大地に斃れる朱色の騎兵と烏竜が増えていく。
乱戦死闘の中、鹿角兜を被った赤騎士がグレートソードを振るう巨漢の騎兵と戦っている様を目にし、パヴェルは血が沸騰する。
あのバカッ! ベイチェクとやり合っているのかっ!! 敵うわけあるかっ! 敵はヒルデン最強ぞっ!!
パヴェルは付き従う30騎に告げた。
「突入するぞっ! 敵を蹴散らし、輩を救えっ!!」
『おおおおおおおおおおおっ!』
パヴェルと30騎は倍以上の敵騎兵へ臆することなく切り込む。
奇しくも、赤備えに集中していたムラチェクの騎兵達の側背を突く形になり、騎兵突撃は大きな成功を収める。
「邪魔だぁっ! 死にたくなければ去ねぃっ!」
パヴェルは強敵と戦う弟の許を目指す。
甲冑の身体強化魔導術付与で高められた膂力、幼少より鍛錬研鑽した技。クラッドメタル製千鳥十文字槍が草葉を刈り取る如く、次々と敵騎兵を蹴散らしていく。
見事な槍捌きと武者振りを発揮するパヴェルだが、その顔は焦燥に強張っていた。
ショレムとベイチェクの戦いは、明らかにベイチェクが圧倒しており、合を重ねるごとにショレムが押されていたからだ。
言葉も発せぬほど疲弊し、肩で息をしているショレムと違い、豪傑ベイチェクは周りを見回す余裕さえあった。
「もう一人の小童も来たか。ちょうど良い。佞奸ヨアキムの倅共をまとめて始末し、腹黒狐の血を断ってやるわ」
ベイチェクはぎょろりと戦鬼猿面の兜をショレムへ向け、ミシミシと音が鳴るほど強くグレートソードの柄を握る。
「貴様にはもはや用無し。疾く死ねぃっ!!」
上段から振り下ろされる大きなグレートソード。ショレムは咄嗟に槍を構えて斬撃を受け止める。
が、破城鎚染みた衝撃に槍が折れ曲がり、剣圧に圧倒された烏竜が崩れ落ちる。
幸運だった。
もしも烏竜が倒れずにいたら、ショレムは槍ごと斬られていただろう。
戦闘で荒れた地面に転げ落ちたショレムが落下衝撃に呻く。
「力はないが、運は良いか。レズニークの倅らしいわっ!」
ベイチェクはせせら笑い、
「ショレムっ!!」
千鳥十文字槍を構えて横入りしてきたパヴェルに向き直る。
パヴェルはベイチェクから視線を切らず、弟へ声を掛けた。
「ショレム、無事かっ!」
「が、ぅ、あ、あにうえ」と疲労と痛みで呻くように応じるショレム。
弟の無事を確認し、パヴェルは中段で槍を構えた。
「よくも弟」
「黙れ小童っぁあっ!! ちゃきちゃき掛かってこんかっ!」と大剣を構えるベイチェク。
「貴様までいうかぁっ!!」
パヴェルは激昂した。必ず、かの一統を打ち倒して小童扱いを覆さねばならぬと決意した。
〇
貴人がオペラグラスで大劇場の舞台を観覧するように、ルツィエは飛空船の甲板から眼下の死闘を双眼鏡で眺めていた。
甲板上は相対気流に晒されているため、初夏といえどそれなりに冷える。御付き侍女ヤンカがルツィエにもこもこした防寒コートを羽織らせていたが、ルツィエは観戦に熱中していてされるがままだ。
「御姫様が斯様に楽しそうにしておられるのは久し振りよなぁ」と年配の護衛頭がしみじみと呟く。
久し振りに楽しそうにしている理由が、血みどろの合戦見物とは如何なものか。
「凄い」
ルツィエは魅入られたように、戦場右翼で繰り広げられる騎兵同士の乱戦、その中心で繰り広げられる一騎打ちを注視していた。
容貌魁偉な大男が見事なグレートソードを振るい、いくらか地味な姿の騎士が千鳥十文字槍を振るう。剣戟の激しさに敵も味方も近づけない。削られた鎬から火花が散り、かすめた甲冑から火の粉が踊る。剣閃が煌めき、穂先が舞う。
なんて美しい。なんて素晴らしい。
大男の剣は生来の体躯と膂力を投じた剛の技と豪の業、一つの完成に至った剣だ。強い。ひたすらに強い。唯々強い。暴威の権化の如し彼の剣技の前では、余人は藁束の如く切り捨てられてしまうだろう。
対する地味な騎士の槍は未熟の槍であった。全てが基本の型と技、その応用にすぎぬ。されど、その槍捌きは幾星霜の鍛錬研鑽が作り上げた努力に煌めいていた。
圧倒的暴威に怯まず立ち向かう姿のなんと勇敢なことか。
しかも、全霊を注いだ槍捌きをしながらも体幹と重心移動を心がけ、騎乗烏竜に負担をかけぬようにしている。
見事。その一語に尽きる。
自らの武術を嗜むルツィエは自然、地味な騎士に心惹かれた。
武とは鍛錬研鑽によってのみ輝きを得る--師に学んだ答えの一つが眼下で命を燃やし、勇気を輝かせて戦っている様に、ルツィエの胸が熱くなり、体の芯が火照っていく。
頑張れ。頑張れ。「頑張れ」
心の内で重ねる応援が、ルツィエの口から洩れた。
「頑張れ」
〇
金属の砕ける音色が響く。
ベイチェクの戦鬼猿染みた膂力と金剛鋼製大剣の斬撃を耐えかね、千鳥十文字槍の穂先、左の羽に当たる刃が折れた。
その衝撃によりパヴェルの姿勢も大きく崩れ、防ぎようのない隙が生じる。
「死ねぃ、小童ぁあああっ!!」
ベイチェクの大剣がひと際大きな風切り音を曳きながら振り下ろされる。かわせない。避けられない。防げない。絶死の一刀がパヴェルの首元へ――
「兄上っ!」「若殿ぉっ!!」「若様あっ!!」「パヴェル様っ!」
ショレムや赤備え、パヴェルの部下達が思わず悲鳴を上げる。
が、パヴェルは眼前に迫る死を前に、左足の拍車で烏竜の脇腹をそっと蹴った。
瞬間、烏竜が腰を抜かすようにその場へ屈みこみ、パヴェルをベイチェクの剣閃、その軌道上から逸らす。
金属の砕け割れる音色が響き、鮮血が舞う。
パヴェルの兜のバイザーが吹き飛び、庇が割れ裂け、パヴェルの額から真っ赤な血が飛び散っていた。
ベイチェクの斬撃はあまりにも速いため、軌道修正できず振り抜いたがゆえに助かった。まさに紙一重の死地からの生還。
だが、その衝撃は凄まじい。頭蓋と頸椎に堪えがたい衝撃を受けたパヴェルの意識は半ば飛んでいる。額の傷から溢れ出る鮮血が汗と混じりながらパヴェルの顔面を真っ赤に染め、目元に流れ込んで視界を塞ぐ。
「こしゃああああっくうぅっ!!!」
パヴェルの首を切り飛ばし損ねると判断したベイチェクは、既に返し刃を振るっていた。
意識が半ばトび、視界の塞がれたパヴェルに為す術はない。
赤備えや部下達がその身を投げ出すようにパヴェルの許へ駆け込み、ベイチェクの部下達も横入りを防ごうと飛び込む。騎乗烏竜を失ったショレムが悲鳴染みた声で叫ぶ。
「兄上―――っ!!」
刹那の時。パヴェルは血と汗で塞がれた視界の隙間に空を見る。
もうもうと昇る戦塵と爆煙に覆われ、初夏の蒼穹を目にすることは叶わない。ぼんやりとパヴェルは思う。
今日は天気が悪いな。雨が降るかもしれない。用水路を見て回っておこう。ああ、そうだ。菜園の薬草に麦藁をかけておかねば、冷え込みで枯れてしまうかもしれない。御婆様が遺した大事な薬草だ。しっかり守らないと。
赤く澱んだ視界の隙間。鈍色の戦塵と煙に裂け目が生じ、美しい蒼穹が顔を覗かせた。
飛空船らしき影がさしかかり――
しっかりしなさいっ!!!
届かぬはずの凛とした力強い声がパヴェルの精神にビンタした。
「兄上―――――――っ!!」
ショレムの悲鳴。唸り声をあげながら迫る金剛鋼製の大剣。
パヴェルの意識が覚醒し、全身全霊の反射と反応が繰り出される。背骨と背筋が限界までパヴェルの上体を仰け反らせ、屈みこんでいた烏竜が主を落とさぬよう体幹をずらして支えた。
大きく身を仰け反らしたパヴェルの目と鼻の先を切っ先が駆け抜け、その剣風と剣圧がパヴェルの顔を濡らす血を払い飛ばす。
直後、パヴェルは腹筋と胸筋と大腿筋を奮い立たせ、仰け反った上体を戻らせる。烏竜も主の姿勢復帰を助けるように体幹をずらしながら、立ち上がる。
一連の運動の総決算に、パヴェルの槍が突き出された。
ベイチェクの首めがけて放たれる最短最速の一突。
片翼を奪われた千鳥十文字槍のクラッドメタル製穂先が、首元を守る分厚い顎当てを貫き、ベイチェクの太く逞しい頸部へ突入。脛骨が寸断され、戦鬼猿染みた兜を被る首が胴と切り離される。
雌雄が決した刹那、互いに無言であった。
パヴェルは雄叫びも怒声も発することはなく、ベイチェクも今際の絶叫も断末魔も上げることなく、その首を切り飛ばされた。
首を失くしたベイチェクの巨躯が大柄な烏竜から崩れ落ちる。
ムラチェクの騎兵勢が現実を認識できない。ヒルデン最強の猛者ベイチェクが、一騎打ちで負けた?
その動揺へ追い打ちをかけるように、パヴェルが槍を掲げて戦場の端まで届きそうな大音声を発した。
「ベイチェク、討ち取ったりぃいいいいいいいいっ!!!!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
レズニーク勢が大歓声を上げる中、パヴェルは血で真っ赤に染まった顔で大喝する。
「敵にもはや兵無しっ!! 蹴散らせぃっ!!」
「おおおおおおっ!!」
一騎打ちの勝敗は、そのまま戦場左翼の勝敗を決し――
この戦いそのものの趨勢を決した。
〇
右翼の戦線が崩壊し、味方が算を乱して逃散していく。レズニークの騎兵達が本陣を目指して駆けてくる。レズニークの歩兵と銃兵達が中央と左翼の方陣を片翼包囲する動きを見せていた。
どちらも防げない。
本陣の兵力ではレズニークの騎兵を押し留められず、味方の方陣を救う力もない。
「ち、父上」
ムラチェクの嫡男トマシュが顔を向けてきた。敗北を悟ったのだろう。顔が真っ青だ。息子だけでなく従士達も顔を強張らせ、あるいは血の気を引かせている。
負けだ。完膚なきまでに負けた。
もはや逃げるしか……
逃げる?
領のちっぽけな砦にこもってレズニークに包囲されながら、降伏勧告を受けるのか。みみっちく籠城してレズニークに慈悲を待つというのか。
ふざけるなっ!
このゴルド・ムラチェク、たとえ死しても家名に泥は塗らぬっ!
「馬ひけぇいっ!!」
ムラチェクは鬼神の如き怒り顔で吠えた。
「儂と共に死に花咲かせる者は残れっ! 生きたい者はトマシュを連れ、脱出せいっ!」
「ち、父上っ!? 何を――」
「よいか、お主は生きよっ! どこへでも構わん。この地より逃げ延び、ムラチェクの血を伝え繋げよっ!! それが嫡男たるお主の責務じゃあっ!」
「私に腰抜けの汚名を背負えとおっしゃるのか」
半ば泣きそうな顔で息子に見据えられたムラチェクは、優しい笑顔を返す。
「愚かな父を許せ、トマシュ」
トマシュは堪え切れずに泣き出す。従士達もはばかることなく目元を覆い、嗚咽を漏らす。
ムラチェクは従卒の牽いてきた烏竜に騎乗する。嫡男と共に生還を希望する少数の従士達へ告げた。
「中央と左翼に伝令を出して降伏するよう伝えよ。ヨアキムは嫌な奴だが、悪戯に同胞を殺傷したりはせん。降伏し、負傷者の救助をさせよ」
そして、直剣を額にかざした後、一振りして叫ぶ。
「訣別っ!!」
嫡男トマシュは泣きながら父と従士達の背を見送る。戦塵に呑まれ、その姿が見えなくなるまで。涙で歪んだ視界の中、最後まで。
反レズニーク派の首魁にして此度の騒乱首謀者ゴルド・ムラチェクの最期は定かではない。
パヴェルに討たれたとも、ショレムに討たれたとも伝えられているし、包囲された後に自害したとも、泣いて命乞いしながら死んでいったとも、語られている。
真実は如何。
後世、ヒルデン歴史博物館にてゴルド・ムラチェクの甲冑が、この騒乱時の状態で収蔵されている。
その甲冑には多くの致命傷らしき損傷痕があり、ゴルド・ムラチェクの直剣は酷く刃こぼれし、傷だらけで鋸と化していた。
また、パヴェル・レズニーク自治領伯は子や孫にムラチェク卿の甲冑を見せ、『かくあるべし』と自治領伯家の責任とヒルデン戦士の在り方を説いたという。
ゴルド・ムラチェクが如何なる最期を遂げたか、その答えは一つしかなかろう。
そして、ムラチェクが予見したように、自治領伯ヨアキム・レズニークは敗者達に寛大な慈悲を与えた。
敵対した豪族達を追放や領地没収などしたが、粛清の大殺戮は行わなかった。慈悲を示すことで度量と器量を示す目論見もあったし、そもそも人口が決して多いと言えないヒルデンだ。戦闘に参加しえる生産人口を無闇に損なう訳にはいかなかった。
ただ、ここまで寛大な処分をしてもなお、抵抗を試みる者に容赦はしなかった。
ともあれ、こうしてヒルデン騒乱は終わりを迎えた。
〇
合戦翌日。
「結果良ければ全て良し、とは言うがな……肝が冷えたぞ」
ヨアキムは溜息混じりに息子達を見る。
「御心配をおかけしました」
詫びる嫡男パヴェルは額に大きな包帯を巻いていた。
「ほんとに殺されるところでしたね、兄上」
笑う次男ショレムも体のあちこちに細かな傷を負っており、破傷風防止の軟膏で臭い。
一挙に息子を失い、レズニーク家本家を継ぐ直系男子も失われるところだったのだから、ヨアキムは胆が冷えたどころではない。
「斯様に危険な真似をせずとも勝てた戦だぞ。2人とも修行が足りん」
父の小言に対し、神妙に頷く兄と苦笑いを返す弟。
「殿。聖冠連合帝国の方がお越しです」
筆頭従士が困り顔でやってきた。
「後始末で忙しいっちゅうのに……駐在領事殿か? この件は話を付けておいたはずだが、なんぞ言うてきたか?」
「いえ、それが……」
歯切れの悪い筆頭従士の様子にヨアキムが訝る。
「? どうした。駐在領事殿ではないのか?」
筆頭従士は困り顔のまま言った。
「御客人は聖冠連合帝国皇族の姫君で、殿と若殿にお会いしたいと」
レズニーク父子は思わず顔を見合わせた。
ヨアキムとパヴェルが応接室に足を運べば、そこには公家眉が愛らしい美女が居た。
聖冠連合帝国がパヴェルに嫁がせようと画策し、此度の騒乱発生の決定的引き金となった、皇族ルツィエ姫だった。
現物は写真よりずっと美人じゃのぅとヨアキムが感嘆し、パヴェルも思わず見惚れてしまった、その刹那。
ルツィエが挨拶を交わす暇もなく、パヴェルへ駆け寄る。現代風に言えば、まるで街中で推しのアイドルに遭遇した熱狂的ファンのように、目をキラキラと輝かせ、頬をほんのり桜色に染め、足取りも弾ませていた。
パヴェルに駆け寄ったルツィエは、興奮を隠さぬまま告げる。
「結婚してください」
「ほぁっ!?」
パヴェルは奇怪な吃驚を上げ、目を剥いた。ヨアキムも驚きを隠さない。ルツィエの背後で御付き侍女ヤンカと護衛が唖然としていた。
余人語れり。
パヴェル・レズニーク自治領伯とルツィエ伯夫人は結婚の経緯に悶着あれども、結婚後は非常に仲睦まじかった、と。
夫妻が剣や馬術の鍛錬を共にする姿は、家中や領民の馴染みの光景だったという。
ヨアキム・レズニーク初代自治領伯の手記には、ムラチェクとの合戦の記述は少なく、強制離縁に反対する妻の説得に苦労した文言が並ぶのみである。かの合戦時、我が子と勝利を秤にかけた際、どちらを選ぼうとしていたのか、決して語ることはなかったという。
さて、最後に一つ。
パヴェルと強制離縁させられた元嫁のサラは、帝国政府の“配慮”でソルニオル公爵家の陪臣家に嫁いだ。
一見すると自治領伯家から格下の家へ嫁がされたようだが、実態は違う。件の陪臣家は女大公クリスティーナの側近で、下手な貴族家よりもずっと大身だったのだ。しかも嫁ぎ相手が紳士的な好男子で、舅姑もサラを実子の如く扱ってくれた。
かくてサラは妻として大事にされ、お金持ちの奥様として裕福に暮らし、子宝にも恵まれ、不自由も大過もなく豊かな人生を送った。
彼女こそ、この騒動で随一の勝ち組かもしれない。
割烹に上げた理由は、『とりあえず書いてみたけど、これ、本編に必要か?』と疑問に思ったから(今更の話であるが)。
結局はこうして本編に転載しているわけで、読者の皆さんには御迷惑をお掛けしました。
混乱を防ぐため割烹の方は非公開にします。




