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ヴィルミーナ・デア・レンデルバッハ=クライフ・ディ・エスロナ。
御年32歳。三児の母。
「競争市場と自由経済において、顧客と消費者の選択こそが正義だ。私の販売する液体燃料が市場を変えたとしても、それは客の判断だ。私が慮ることでも憚ることでもない」
その相も変らぬ猛獣的な在り方に、“大熊”ハイラムはかつて“会合”でやり合った時のことを思い出し、溜息が出そうになる。
魔晶魔石公社の代表が額に脂汗を滲ませながら、初老の彼は自分の娘か孫みたいな歳のヴィルミーナへ、縋るように言った。
「変化が大きすぎるのです。もう少し段階的にできませんか?」
「方々の対応の鈍さを転嫁するのはやめてもらいたい。我々は『展示会』を含めて宣伝広報活動に一年掛けた。その間に対策を取ることも出来ただろう。我々が液体燃料の件で譲ることも妥協することもない」
しかし、ヴィルミーナは子猫を踏みつけるような言説を返すだけだ。容赦の欠片もない。上品に料理を口へ運ぶ。
「……あくまで現状の姿勢を崩さない、と」
ロマンスグレーな公社幹部がヴィルミーナを睨むが、大獅子が子鹿に睨まれたところで動じるはずもない。
「方向性が間違っている。君達の努力するべき点は私の説得や液体燃料の排除ではない。変化した市場と消費者の要求に対応、適応を図るべきだろう」
ヴィルミーナはナイフとフォークを置き、
「私に言わせれば」
ワイングラスを手にして述べる。
「魔晶魔石公社の不安は筋違いだ。君達は液体燃料や動力機関による石炭需要の増加を恐れるより、まず魔導技術の停滞を憂うべきだよ」
「停滞、ですか」
予期せぬ指摘に目を瞬かせる公社の2人。聞き耳を立てている周囲は驚くほどに静かで、そのせいか、ヴィルミーナの声が店内によく通る。
ワインで喉を潤してから、
「イストリアしかり我が国しかり、産業革命は非魔導技術分野で起きている。一方で、魔導技術の革新は乏しい。我々の文明史を鑑みれば、産業革命は魔導技術の革新によって発生してしかるべきだったのに」
ヴィルミーナは胸の内を開陳する。
「君達は魔晶魔石の市場価格低下や占有率低下を憂うよりも、魔導技術の革新を促し、その需要拡大を図るべきだ。もちろん一朝一夕に適うことではない。だが、その努力や投資を惜しんでいる限り、非魔導技術による他燃料需要の拡大は抑えられない」
グラスを卓に置き、ヴィルミーナは目を細めた。今にも飛び掛かりそうな獅子のように。
「私の事業を政治的に抑えこみ、法規制を科して妨いだとしても、ベルネシア以外での技術発展と需要拡大は止められない。結果はベルネシアが周辺国から取り残されるだけだ。エスパーナのようにな」
「……飛躍した意見だ」と公社代表が呻くように言った。
控えめな返しだな、と“大熊”ハイラムは思う。ヴィルミーナの見解は飛躍ではなく、傲慢で不遜だ。なんせ白獅子がベルネシアの技術発展を担っていると言っているに等しい。それは一つの真実ではあるが、全てではない。
「かもしれない。しかし、事実の指摘でもある」
ヴィルミーナはくすりと微笑む。
「それに、君達の危惧は少々先走り過ぎだ」
「と、いうと?」
三十路とは思えぬ可憐な微笑みに、公社の2人は毒気を抜かれたように目を瞬かせた。
「私は別に油田を持っているわけではない。あくまで聖冠連合から輸入した黒色油を精製して販売しているだけだ。聖冠連合から輸入分以上の販売拡大は出来ない。調達に絶対の主導権を獲得できない」
「――つまりは油田獲得を目指していらっしゃると」と公社幹部が探るように問う。
「その油田獲得に魔晶魔石公社が参画することを止める気はない。我が国は素晴らしき自由資本経済であり、競争市場経済だ。そして、」
ヴィルミーナは口端を小さく歪め、言った。
「公社が黒色油を確保し、そうだな。魔晶魔石に限らず燃料事業全般を取り扱う組織に拡大したとしても、それは公社の努力の成果と受け入れるだろうな」
周囲から密やかに唸りや呻きが聞こえてきた。
液体燃料の供給源を他社に預けても良いという宣言。白獅子の液体燃料式動力機関が普及すればするほど、共に儲かる。その利権を他社に委ねても良いという。
「非公式の場ではありますが、言質を取らせていただきますぞ」
公社代表と幹部の目がギラつく。先ほどまでは獅子を前にした鹿のようだったのに、今や獅子を逆に食らわんとする巨獣のようだ。
「構わないが、絵図すら描かれていないことをお忘れなく」
余裕たっぷりに微笑み、ヴィルミーナは鷹揚に頷く。黒色油の精製技術は事実上、白獅子の独占技術。公社が液体燃料の取扱いを始めても、精製技術を白獅子から購入するしかない。
これだよ、と“大熊”は内心でぼやく。この“お嬢ちゃん”はパイの切り分け方が上手い。本当に美味いところを譲らないくせ、相手を納得させる切り分け方を心得ている。
「私からも聞きたいことがある」
オーフェンレーム公爵が問う。
血縁的にはヴィルミーナにとって祖母筋の縁戚。王家閨閥と言えよう。もっとも、2人には親しむほどのつながりはないが。
「機関搭載車両のことだ。『展示会』を見るに、白獅子なら移送車両も開発できたはず。なぜ作らなかった?」
同じ疑問を抱いていた者が多いのだろう。周囲のテーブルもオーフェンレーム公の疑問へ同意するように頷く。
「この状況が示す通りです」
ヴィルミーナは小さく肩を竦めた。
「いくら私でもベルネシアの既存利権全てに挑戦する気はない。移送車両まで開発すれば、陸運と空運、それに関わる業界も黙ってはいないだろう? 何より私も運輸業を営んでいる。大量の馬匹を移送車両に据え変えることは出来ない」
白獅子が運輸業界にも機械化の嵐を起こせると宣言したことに、運輸業界の関係者が顔を引きつらせた。馬車関連の者達は顔を蒼くしている。
「いうなれば、これは私なりの他社や業界への気遣いだ。この配慮を無下にするというなら、私も相応の行動に出る」
そんな周囲を余所に、ヴィルミーナは狂猛な見解を淡々と並べていく。
「白獅子はフルツレーテンに足場を持った。また、協働商業経済圏によってこの国で活動を妨げられようとやりようはある。その時、私は配慮を一切しない。私の歩みを妨げたものを踏み潰し、蹴り飛ばす。これまで通りに」
その傲岸な言葉をハッタリと受け止めた者は一人もいない。
ヴィルミーナと白獅子はこれまで実際に敵を蹴散らし、踏み潰し、蹴り飛ばしてきた。倒産や廃業に追いやられた者、路頭に放り出された者はいくらでもいる。
王都小街区やクレーユベーレのように幸を受け取った者も多いが、白獅子によって地獄へ蹴り落された者も決して少なくない。
「産業革命と世界情勢の変化によってこの世界は“次の一歩”へ踏み出している。経済も商売も姿を変えていくだろう。その変化は止められない。仮に止めたとしても、その変化を受け入れた他国の後塵を拝する。真に権益や利権を守りたいなら、変化に対応する術を模索しなくてはならない」
ヴィルミーナは凶暴に、だが、ゾッとするほど美しく麗しい笑みを浮かべた。
「既得権益の保護、既存利権の防衛。大いに結構。しかし、自由競争経済とは本来、切磋琢磨による弱肉強食。競争相手の足を引っ張ることに労を費やすより、一歩でも相手に優るべく務めることが正しい在り方だ。理念観念に執着してはいけないが、かといって忘却して良いわけでもない」
成熟した美貌と美麗な笑み、そこから発せられる怪物染みた威圧感。
公社の2人とオーフェンレーム公はもちろん、周囲の卓でも息を呑み、身を凍らせる者が続出する中――
“大熊”ハイラムが不出来な孫を嘆くように言った。
「白獅子の。貴女は十代の頃から変わらんな。未だギラギラと尖りに尖ったナイフのようだ。少しは丸くなられては如何か」
小言を投げられたヴィルミーナは、威容を解いて不満げに唇を尖らせた。
「失礼ね、大熊殿。私だって成長しているわ。方々へ充分に配慮しているじゃない」
「配慮だけでなく協調性も示して欲しかったな」
「仲良く並んで歩きましょうと? 笑えないわ、“大熊”殿。愚図と間抜けを蹴り落すのがベルネシア人商人よ」
老教師へ抗弁するようなヴィルミーナを、“大熊”ハイラムは一笑に付す。
「誤解しておるな、白獅子の。愚図と間抜けを笑顔で唆し、明後日へ歩かせる。それがベルネシア商人だ」
諧謔たっぷりの切り返しを食らい、苦々しげに鼻を鳴らすヴィルミーナ。先程までの様子が嘘のように表情筋が達者な芸風を発揮する。
場の雰囲気が和んだところで、オーフェンレーム公が溜息交じりに呟く。
「産業と社会の機械化は止められない。止めても不利益があるだけか。しかし、無方図な普及と浸透は認められない。社会の安定と安全が乱れてしまう」
ヴィルミーナは大きく首肯した。
「当然です。そこは御上に律していただかなくては。法規制は最小限が好ましいと思いますけれど、絶対に敷かねばならぬ一線は確実に存在しますもの」
近代の商人や企業に倫理など求めるだけ無駄だ。
古今東西を問わず商人達が『意地汚い強欲者』と見做されてきたことは、ゆえ無きことではない。もちろん、倫理や道徳心を持っている商人や企業は大勢いる。
が、持っていない連中が悪質すぎる。アロー戦争を起こした麻薬商共などその筆頭例だろう。
オーフェンレーム公は王系閨閥に相応しい上品な微苦笑を湛えた。
「やれやれ。今宵の前向きな合意点はこれだけか。美食を台無しにした甲斐が無いな」
店内の全員が同意するように苦笑いをこぼした。
〇
ヴィルミーナと白獅子の政治工作は成功を収め、その企図通りに運びつつあった。
つまるところ、入念な準備と周到な根回し、押さえるべき要所を抑え、避けるべき要害を避ければ、ドラマティックな事態など起きない。
では『黒色油抗争』とは何か。
白獅子はいったいどこと喧嘩したのか。
Aの行動にはBの反応が。Bの反応にはCの反応が。BとCの反応の末の行動がAに影響をもたらす。
因果応報。自業自得。バタフライ効果。ドミノ理論。風吹けば桶屋。
これまで繰り返し触れてきたように、この時期、白獅子のリソースはパッケージ・ビジネスと商戦攻勢に費やされていた。それは白獅子の影で動く“商事”のような組織も例外ではない。
白獅子が如何に情報を重視する組織とはいえ、民間企業であるがゆえに、商事もまた組織規模に限界がある。
ただし、この件に関しては白獅子だけなく、聖冠連合もクレテアも少々甘く見過ぎていた、というべきかもしれない。ベルネシアもイストリアも軽視に過ぎたといえるだろう。
まさか結束と連帯に欠いた小勢力しかいないコルヴォラントが、地中海の主導権を巡る戦いへ本気で乗りだして来るなんて、誰も想像していなかったのだ。
兆候はあった。
コルヴォラントではなく、メーヴラントのアルグシア連邦に。
三列強による協働商業経済圏の発足。聖冠連合帝国と地中海貿易による協働商業経済圏の結びつき。第一次東メーヴラント戦争終結後にカロルレンへ進出したベルネシア資本とクレテア資本。南小大陸派遣を通じたカロルレンとイストリアのつながり。
こうした経済的包囲網下に置かれてしまったアルグシア連邦の焦燥感と危機感は、周辺国の実感と想像を遥かに上回っていたのだ。
兆候は、確かにあった。
アルグシアの対外貿易が完全な赤字に陥っていた。
ベルネシアの出先商館を持つ西部閥と海運貿易を始めた北部閥はまだしも、東部閥と南部閥は完全に割を食っていたし、一部の小領邦は深刻な経済危機に陥っていた。
このままでは、アルグシアの国富は協働商業経済圏に吸い上げられ、経済的家畜に成り果ててしまう。そういう危機感が広がるほどに。
第二次東メーヴラント戦争が痛み分けだった影響も無視できない。この引き分けは連邦政府の求心力と権威を少なからず傷つけていた。
一昔前なら、この状況を武力でどうこうしようとしたかもしれない。ベルネシアかクレテアと適当な口実で会戦を二、三回繰り返して上手いこと勝利し、賠償金を分捕って具合の良い条約を結ぶ。無数に繰り返された盤遊戯的戦争だ。
しかし、今はそんなこと出来ない。
メーヴラントの戦争は総力戦傾向が強まっており、ベルネシアもクレテアも近代化された強力な軍隊を有している。
また、協働商業経済圏の関係から、三列強のどこかに喧嘩を売れば、三列強が手を組んで殴り掛かってくる。
そうなれば、国土奪還を狙うカロルレンも襲ってくるだろうし、聖冠連合も便乗するだろう。
とにかく、金が必要だった。
三列強に立ち向かうためにも、カロルレンの完全征服を果たすためにも、富国強兵を進める原資が要る。
地域強国から世界の列強に成り上がるために、金が要る。大金が要る。
そこで、アルグシアは大陸西方コルヴォラントと地中海情勢に目を付けた。
地中海に張り出している半島地域コルヴォラント。連帯と結束に欠く小国群から成る地域であり、彼らは例外なく地中海貿易で食っている。
聖冠連合帝国とクレテアに地中海の実権を制圧されつつある現状は、生命線を握られることを意味する。しかも、既にコルヴォラント北部のタウリグニアとティロレをクレテアに押さえられていた。その危機感と焦燥はかなり強い。
だからこそ、アルグシア連邦はコルヴォラント諸勢力に目を付けた。
なんということはない。
ベルネシア戦役での“成功体験”を繰り返そうとしているだけだ。他人の戦争で大いに儲けたという成功体験を。
問題があるとすれば……アルグシア人の国際感覚や国際関係学的認識がどうにも怪しいということだ。引きこもりで国際常識に欠いたカロルレンよりマシ。アルグシアの国際常識や感覚はその程度に過ぎない。
間違ってもアルグシアにはイストリアやベルネシアのような振る舞いは出来ないし、クレテアや聖冠連合帝国のような立ち回りはできない。
その辺りの自覚が、アルグシア人はどうにも足りていなかった。
そこへ手を差し伸べたのが、ソープミュンデ自治国だった。
戦争密貿易で味を占めて以来、ソープミュンデはどうにも闇市場経済に勤しむようになっていた。彼らは今、アルグシアを通じてコルヴォラントと地中海の戦禍で儲けることを企んでいる。
第一次東メーヴラント戦争の密貿易で築かれた縁から、ルダーティン&プロドーム社を中核とするベルネシアの反ヴィルミーナ反白獅子グループも、ソープミュンデの暗躍に協力した。
R&P社を中核とするグループは『展示会』で白獅子の商戦攻勢に強い危機感を抱いていて、なんとかして白獅子に掣肘を加えたがっていたのだ。
彼らは白獅子の“弱み”――ヴィルミーナ自身が述べたように、黒色油の調達を聖冠連合帝国からの輸入に依存していること――を突こうしていた。
聖冠連合から黒色油を調達できなくさせてしまえば……それだけで白獅子の商戦攻勢は大きく停滞するし、液体燃料系商材はたちまち売れなくなる。開発と販売網整備に莫大な費用を投じた白獅子は、この停滞に大出血を起こす。
かくて、アルグシア・ソープミュンデ・R&Pグループがコルヴォラント勢力を動かし、地中海に嵐を招こうとする動きが本格化する。
ハリウッド映画的国際謀略を想像されるかもしれないが、実のところ、そこまで仰々しいものではない。
なんといっても、事は謀略下手のアルグシア人が主なのだから。
〇
聖冠連合帝国はサージェスドルフという帝国史上指折りの大人物が引退しても、ビクともしなかった。メッテルハイムを始めとした人材が控えていたし、なによりクリスティーナ女大公が居た。
この卓越した女傑は、早期段階にアルグシアのコルヴォラント接近を捕捉していた。
別段難しいことはしていない。
どうにも謀略というものに理解が欠けるアルグシア連邦情報機関は、あちこちに露骨な痕跡を残すわ、これ見よがしな動きを見せるわ、とあり得ないくらい容易く捕捉出来たのだ。
謀略家であるクリスティーナ大公は常識的にこれを偽装と判断した。
ところが、『偽装の類一切なし』という報告をうけ、クリスティーナは唖然とした。稀有な表情だった。
「解せない」
「御義母様は根本的に誤解していらっしゃいます」
ソルニオル公の公認愛妾ユーリアが微苦笑を浮かべた。
新生ソルニオル領の少々後ろ暗い部分を預かるユーリアは、クスクスと笑いながら続ける。
「そもそも、アルグシアは重要機密外交文書を最前線から届けようとした国ですよ。そこを忘れてはいけません」
例えるなら、クリスティーナはル・カレが書くような諜報戦を想定していたら、相手がイーサン・ホークやジェームズ・ボンドのような御洒落スパイを演じていた。といった具合だろうか。
そんなバカな話はない、と? 地球史には謀略の真偽を問われて馬鹿正直に『やりました』と答えた帝国が存在したのですぞ。
とはいえ、クリスティーナは状況を楽観視できない。
アホ共の戯言にコルヴォラントのバカ共が踊らされ、万が一にも地中海貿易に支障が出たら、経済特区への投資が一気に冷え込む。他にも保険上の問題やらなんやらで悪夢的事態が起きてしまう。
クリスティーナは思案した。
経済的観点で言えば、地中海が荒れて良いことなど一つもない。ビジネスは平和で平穏でこそ、最大の利益をもたらす。
しかし、謀略の観点で捉えたなら、このアルグシアの動きを利用して最大限の政治的利益を上げるべきだと考えてしまう。
倫理や道徳、法の善悪ではない。何をどう得るか、どれだけ得られるか、だ。
その冷たく怜悧な横顔があまりに美しく、ユーリアは背筋にゾクゾクと疼きを覚える。陶然とした気分のまま意見を呈する。
「コルヴォラントとなると、総本山が厄介ですね」
クリスティーナは無言でユーリアの指摘に同意する。
大陸西方コルヴォラントには聖王教伝統派の総本山、法王国がある。
軍事的には何ら脅威にはならない。儀礼用騎士団と警察戦力、法王国に仕える貴族達の領兵団。これだけだ。帝国軍の相手ではない。
しかし、宗教権威たる法王庁の動き次第では酷い面倒を生むだろう。
開明派国のベルネシアとイストリアは動揺しないだろう。だが、事と次第によっては伝統派国のクレテアと聖冠連合はかなり揺れる。宗教権威の威光が中近世ほど強くないと言っても、影響力は侮れない。
政治工作が必要だ。
それもかなり周到で入念な。あるいは、宗教屋の戯言など通じないほど決定的な事態が起きれば……
これから生じるであろう多大な厄介と面倒、疎ましい事態を想像し、クリスティーナは眉間に深い皺を刻みながら呟く。
「薄らバカ共め」
〇
共通暦1780年。
ヴィルミーナさんちのウィレム君は6歳。双子のヒューゴ君とジゼルちゃんは4歳。
仔犬だったグリとグラも今や体長一メートル越えの立派な猟犬であり、狸のポンタも成獣になっている。三匹の母親たるガブは今日も優美でマダムな感じが濃い。
6歳のウィレム君は自転車が大好きだった。御勉強や御稽古ごとの合間に自転車を乗り回している。どうもウィレム君は乗り物が好きなようだ。中二病に罹る年頃になったら『スピードの向こう側』とか言い出すかもしれない。
この数年で一般的な鋼管フレームと鋼線ホイールと金属チェーンによる現代的自転車が開発され、民間への普及率は伸びている。が、自転車愛好家や富裕層の間では今でもモンスター素材や天然素材を用いた工芸品的な一点ものを愛好していた。
話を戻そう。
ウィレム君は家族と『展示会』へ行き、小型機関車を見た。弟妹のヒューゴ君とジゼルちゃんは大興奮し、小型機関車の客車に乗って大喜びした。
ところが、ウィレム君はあまり関心を見せない。
「ウィレムは機関車が好きじゃないのかい?」
「……機関車ってあの鉄の線が置かれたところしか行けないんでしょ? そんなのつまんない」
父レーヴレヒトに問われたウィレム君はちょっと申し訳なさそうに答え、農耕用トラクターを指さした。
「あっちは好きなように走り回れるんでしょ? あれで原っぱとか走ったらきっと楽しいよっ!」
「原っぱを走るなら、馬でも良いんじゃないか?」
レーヴレヒトの指摘に、ウィレム君は『パパは分かってないなあ』と言いたげに豊かな表現を作る(まぎれもなくヴィルミーナの息子であろう)。
「あっちなら原っぱの窪みとか倒れてる木とか、全部やっつけて走り回れそうでしょっ!」
「……なるほど」
レーヴレヒトは髭を綺麗に剃った顎を撫でながら、大きく頷く。
「“そういう方向性”もあり得るな」
脳裏に浮かんだアイデアについて、レーヴレヒトは愛妻の既知だろうことを確信していた。




