16:8
お待たせしました。
大陸共通暦1771年:晩春。
大陸西方メーヴラント:アルグシア連邦:首都ボーヘンヴュッセル
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話はヴィルミーナが連邦議会堂へ向かう前日のこと。
この事前交渉期間中、最も精力的に活動した人物の一人は、間違いなくオラフ・ドランだった。ヴィルミーナと再会した後、彼は聖王教会に接触して援助や支援を引き出すことに成功している。それだけでも大した成果だが、愛する者達と大事な場所を必ず守らんとするドランは、下手をしたら殺されかねない相手にも接触していた。
彼の元雇用主、王妹大公御用商人クライフ翁である。
クライフ商会は決して大きな組織ではなかったが、大陸西方中の事情に通暁し、広範な伝手を持ち、軽快で素早いフットワークを有する。何より王妹大公家と白獅子に格別のつながりを持つ。殺されかねなくとも縁故を修復し、温め直さねばならなかった。
ドランは身一つでボーヘンヴュッセル内の某高級宿に赴いた。
指定された3階に上がると、要所に護衛が配置されており、腕利きの冒険者上がりや元軍人達が目を光らせていた。
そして、部屋の前で屈強な護衛達の身体検査を受け、入室。
ドアが閉じられた瞬間、護衛から魔導術の電撃を浴びせられ、ドランは尻を蹴飛ばされた蛙みたいな悲鳴をこぼし、成すすべなく崩れ落ちる。
手荒すぎる歓迎に苦悶する暇も間もなく、体が麻痺したドランは2人の護衛に両脇を抱えられ、引きずられるように広い客室のリビングへ運ばれた。
リビングの窓際で、クライフ翁が優雅に細巻煙草を呑んでいた。
強烈な痛みに呻いていたドランは、未だ冷静さを保つ頭の芯で思う。
……やっばい。会頭が煙草吹かしてる。
クライフ翁は基本的に煙草を吸わない。そんな彼の喫煙は腹のうちに収められないほどの激情を抱えている証だった。煙草を吸い終わってなおも、激情が沈静しなかった場合、クライフ翁はこの時代の武闘派商人らしい怖さを存分に発揮するのだ。
クライフ翁の前に転がされたドランが腹部の痛みを堪えながら上体を起こそうとするも、護衛に背中を踏まれて床に這いつくばらされた。
ぐぇっと再び蛙染みた悲鳴をこぼしたドランに目を向けず、クライフ翁が静かに告げた。
「私はお前と交渉する気も話をする気もない。私が許可するまで一言も発するな。違えば」
護衛がドランの踏みつける足に体重と力を加えてきた。ドランは呻き声を堪えて首肯を返す。
よろしい、とクライフ翁は話を始める。
「……私はお前の才能を高く買っている。ヴィルミーナ様の許での素晴らしい活躍を耳にした時、お前を見出した我が目を誇ったものだ」
煙草の灰を灰皿へ落し、
「だが、カロルレンのド田舎での大活躍を耳にした時、ヴィルミーナ様にお前を御紹介したことを酷く後悔させられた」
ゆっくりと首を回してドランを見る。
瞬間、ドランの全身の毛穴から冷や汗が噴出した。年輪を重ねて築き上げられた重厚な威圧と冷酷さは、ヴィルミーナのような化生染みた恐ろしさとは違う、“人間の怖さ”に満ち溢れていた。殺されないと“分かっている”が、それでも体の脅えを止められない。
クライフ翁はドランの反応を無視し、言葉を紡ぎ続ける。
「私の面目をこれほど見事に潰しておいて、お前が今日まで生きていられた理由は、ヴィルミーナ様の御寛恕とお前の行動に思うところがあるからだ」
クライフ翁には身分差により、心から愛した女と結ばれなかった過去があった。
自身の恋愛が後悔に満ちていたからこそ、甥っ子の恋路を応援した。悲劇的な結末を迎えた甥っ子の想いを慮り、王妹大公ユーフェリアとその娘ヴィルミーナを支え続けてきた。
自らの後悔を癒す代替行為といえばそれまでだが、であるがゆえに、クライフ翁にとってユーフェリアとヴィルミーナは特別だった。もう一人の甥である現クライフ伯や他の甥姪、その子供達も可愛い。しかし、ユーフェリアとヴィルミーナほどではない。
そんなヴィルミーナに推薦した辺り、クライフ翁がどれほどドランに目を掛け、期待し、高く評価していたか窺えよう。そんなヴィルミーナを裏切るように出奔したドランに、どれほど腹を立てているか、分かろう。
同時に、かつての自分が採れなかった選択をドランが為したことに、やはり思うところがある。
それは羨望であり、嫉妬であり、自分が出来なかったことを成し遂げて今も奮闘するドランを誇らしい感情も、確かに存在した。我が目は正しかったと。
沈黙が場を支配する。クライフ翁が煙草を吸い終えるまで緊迫と緊張の静寂が室内を満たす。表の喧騒がやけに大きく聞こえていたが、ドランの耳には別世界の音色に思えた。
煙草を灰皿に押し付けて揉み消し、クライフ翁はドランを睥睨した。
「ヴィルミーナ様からお前を再び用いる旨を拝聴した。ゆえにお前を害さん」
クライフ翁から予想通りの言葉を聞いても、ドランは安堵を覚えない。商人が振るう報復で一番怖いのは暴力では無い。
「お前の仕事も邪魔はせん。いや、能う限り手助けしてやろう。お前の求めに可能な限り答えてやろう」
冷たい声音で語られる善意に、ドランの冷や汗がどっと量を増した。
「代わりに」とクライフ翁が言う。来た、とドランは身を震わせる。一体どんな恐ろしい条件を提示するのか。
「カロルレン経由でソープミュンデの内情を探れ」
まったく予期せぬ要求に眉根を寄せて訝るドランへ、クライフ翁が説明をした。
「ソープミュンデはカロルレンとアルグシア相手の戦時密貿易で巨額の利益を上げている。だが、社会や市井に還元された様子はない。かといって、貴顕や富裕層が全てを懐に入れたわけでもないらしい。あの土地で何かが起きているようだが……探り切れん。よって、お前が為せ」
クライフ翁は告げた。さながら王の如き冷厳さで。
「もしもソープミュンデにて毒花が咲く時、お前がその種や芽を見逃したならば、お前の全てを奪う。ヴィルミーナ様が如何に取り成そうとも、私の面目に掛けて不忠不肖の弟子を断じる」
困惑するドランを無視し、言いたいことを言い終えたクライフ翁は護衛達に目配せする。
護衛達は未だ体が麻痺したままのドランを引きずり起こし、そのまま担いで退室。ドランを廊下に出し、護衛の一人が魔導術でドランの麻痺を快癒させた。
「……僕は会頭に要求内容を告げてないんですが」
苦情気味にドランが言うも、
「会頭はお前の要求をとっくに把握しておられる。さっさと失せろ」
護衛は疎ましげに応じ、ドランを追い払った。
一言も会話することなく会談を一方的に終わらされたドランは、大きく溜息を吐いて階段に向かう。
ホントに殺されてたかもしれないなあ、とドランは他人事のように思いつつ、クライフ翁の望みを叶える方法を考え始める。
クライフ商会の社員だったドランは、クライフ翁の怖さをよく知っている。怒り心頭のクライフ翁の要求を撥ね退けることなど、迂遠な自殺に等しい。要求を叶える以外ありえない。
ともあれ、クライフ商会の協力は得られた。ならば、これも些末な問題。
後はカロルレンの御貴族様に明日の秘密会議で仕事をしてもらうだけだ。
ドランはノエミとマキラの人々を脳裏に浮かべながら、階段を降りて行った。
〇
ドランがクライフ翁と会談した翌日。停戦講和に向けた事前交渉の第二回秘密会議。
連邦議会堂内の会議室へ通されたヴィルミーナは片眉を上げて訝っていた。
カロルレン代表の席にコーゼル=カロルレン公ではなく見慣れぬ美熟女が座り、その背後にオラフ・ドランが控えている。なお、ドランは顔に痣が見え隠れしている。
彼の美熟女はカロルレン密使団との交渉の場で見た覚えがある。たしか名前は――
連邦議長アウグスト2世が告げた。
「話し合いを始める前に説明させていただく。カロルレン代表のコーゼル=カロルレン公爵が体調不良とのことで、本日はこちらのイレーナ・リーザ女男爵が代理を務める。急遽の代理のため、イレーナ・リーザ殿に補佐が付く。以上だ」
アウグスト2世の目配りを受け、イレーナ・リーザが立ち上がって会議室の面々へ目礼する。
「御紹介に与ったように、私はカロルレン王国ハインリヒ4世陛下の臣イレーナ・リーザ女男爵と申します。私共の代表、コーゼル=カロルレン公が体調不良にて、本日は私が代理を務めさせていただきます。どうぞよろしく」
サロンの茶会や夜会ならば笑顔を浮かべるところだが、イレーナ・リーザは男受けするその顔を微塵も和ませることなく、着席した。祖国を滅ぼさんとする奴輩共に笑顔など向けてたまるか、という強い意志が表れていた。
ヴィルミーナは思う。ドラン君のおまけ付きか。油断できへんな。
メッテルハイムは思う。旬は過ぎてるけど、それもオツだな。
白髭王は思う。また女か。政に女がしゃしゃり出おって。メーヴラントは惰弱になっておる。
ともかく、こうしてアルグシア諸王を含む第二回秘密会議が催された。
この『事前交渉における第二回秘密会議』という舞台で主役を演じたのは、アルグシアの白髭王でも、カロルレンのイレーナ・リーザとドランでもない。ヴィルミーナは舞台袖に引っ込むことを決め込んでいたから、やはり違う。
この舞台の主演俳優は聖冠連合帝国外交官メッテルハイムだった。
ニヤケ面外交官メッテルハイムは図々しく会議の音頭を(勝手に)取って進めた。なかば独演会染みた会議の進行に誰もが辟易する中、イレーナ・リーザが発言の機会を持つ。
ドランがひそひそと耳打ちし、イレーナ・リーザは小さく首肯してメッテルハイムとヴィルミーナを意味深に一瞥した。次いで、ゆっくりと立ち上がった。
「我が国は停戦講和を受け入れる用意があります。しかし、陛下の退位と兵力制限は許容できません。我が国が推戴する至尊を他国にとやかく言われる筋合いはない。また、先立ってブローレン王陛下は我が国の命脈を断ちたいと明言された。斯様な思惑を抱く隣国がある以上、兵力制限などありえない」
イレーナ・リーザは背筋をまっすぐ伸ばし、
「我が国は確かに劣勢です。国情も予断を許さない。貴国らに国土と金穀を差し出さねば和を得られぬ状況だと理解しています。しかし、」
誇り高く堂々と告げた。
「我が国は驕慢な侵略者に泣いて和を乞うたりしない」
ヴィルミーナは冷淡な気分で勇敢なるイレーナ・リーザを見つめ、その背後に控えるドランを窺う。
なるほど、ドラン君は“心得た”立ち回りをしているらしい。結構。大いに結構。君はそうやって“アラビアのロレンス”のように振る舞いたまえ。
アラビアとその地に住まう人々を心から愛しながら、祖国の勝利のためにアラブ人を裏切り騙した男トーマス・エドワード・ロレンス陸軍中佐。姑息で卑劣なイギリス三枚舌外交の象徴にされてしまった、憐れな現場工作官。
まさにドランの演じる役回りだ。
ヴィルミーナは紺碧色の瞳を動かし、アルグシア諸王を観察した。
白髭王は獰猛な薄笑いを浮かべ、ヴァイクゼン王はピットブル染みた顔をさらに強くしかめており、ハイデルン国王とメイファーバー女王が密やかに安堵の息をこぼしていた。アウグスト2世はどこか達観した面持ちだ。
白髭王以外はカロルレンの対決姿勢は好都合。しかし、決して心から臨んだ展開ではないといった塩梅だろうか。
ともかく、イレーナ・リーザの意見表明を機に、メッテルハイムの芝居がかった司会振りの下、今回の予備交渉で出揃った条件を各国代表が自国へ持ち帰り、それぞれ国内で検討。そのうえで停戦講和会議を開催することで話がまとまる。
ただし、その停戦講和会議の開催をいつ開くか、で揉めた。
年内は決定。では、夏か秋か年末か。
国情から一刻も早い停戦講和を求めたいカロルレンは夏を要求し、停戦講和が予備案移行を意味するため、さっさと利権を食いたいベルネシアやクレテア、イストリアもこれに賛同。
しかし、軍事行動を見込んでいるアルグシアは秋ないし年末を要求した。時間はカロルレンを追い詰めるし、開催までの余裕は軍事行動に多くの選択肢をもたらす。
結局はヴィルミーナとメッテルハイムの仲裁で晩夏の開催が決定する。
停戦講和会議が催されるまでの期間は一時休戦とされた。が、アルグシア側の主張でこの休戦監視は行われず、主戦国間でいずれに非がある交戦が生じた場合、自動的に休戦が破棄されることとなった。
この露骨な“伏線”の敷き方に、メッテルハイムがニヤケ面を引きつらせた。ほくそ笑む白髭王を前にし、イレーナ・リーザがこめかみに青筋を浮かべていた。
ヴィルミーナは白髭王達の様子を横目にし、こぼれそうになった溜息を堪える。
大方、アルグシアはカロルレン側に休戦違反があったとかなんとか言って攻勢を行う気だろう。よくある偽旗作戦だ。有名どころを挙げるなら日本の柳条湖事件、ドイツのグライビッツ事件、アメリカのトンキン湾事件。
なお、これらの有名例は偽旗作戦を仕掛けた側が痛い目を見たことでも有名な例でもある。
アホ共め。
思い通りに進む戦争などあるものか。戦いそのものが計画通りに進んでも、その後始末や影響が想定通りだったことなど、歴史上一度もないというのに。
「停戦講和の開催は晩夏で如何か?」
ヴィルミーナは冷たい声音で告げた。
「ひと季節あれば充分でしょう。停戦講和の開催自体では合意に至っているのだから、冗長に時間を浪費するべきではない」
肩にかかった薄茶色の髪を指で弄りながら、ヴィルミーナは面々を見回す。
「よろしいな、御諸賢方」
有無を言わせぬ強い口調は、二十代前半とは思えぬ威容と威圧に満ちていた。
白髭王が『小娘が偉そうに』と顔いっぱいに不快感を湛えた矢先、アウグスト2世が機先を制して「我が国はベルネシア特使の提案を受け入れる」と押し切った。
イレーナ・リーザとメッテルハイムも同意する。
こうして講和会議の事前交渉は終わりを見た。
まさに茶番そのものだった。
〇
事前交渉の閉会レセプションが催され、カレンハイム侯国宮城の大会場は美しく華やかに飾り立てられていた。雛壇の演奏隊が控えめな音曲を奏で続ける中、着飾った男女が歓談しながら美食と美酒を次々と消化していく。
宴は概ね平穏に過ぎていた。
聖冠連合とアルグシアの関係者がザモツィアの件で殴り合いを演じることもなければ、進行中の戦争の件でカロルレン密使団と諍いを起こすこともない。
ただ、上っ面を取り繕っている印象もまた、強かった。仲が冷え切った離婚寸前の夫婦が子供の前で笑顔をこさえているような、そんな雰囲気が拭えない。特にカロルレン関係者は周囲と交わることなく、会場の一角でピリピリとした気配を発していた。
また別の一角では狸と狐と狢+1が雁首を並べ、酒杯を交わし合っている。
「概ね予想通りの展開だった。疲れ果てるまで殴り合うのがメーヴラント人の伝統文化だからな。さもありなん」
イストリア連合王国外務省参事官バンカーハイドが皮肉を吐く。
「非文明的で野蛮なアルグス人と我々を一緒くたにするとは。ノーザンラントを暴力で統一した国は物の見方が雑だな」
大クレテア王国外交官のレジナエ卿が嫌味を返す。
「両国の仲が睦まじいことを我が国は心から嬉しく思いますよ」
ベルネシア王国特使のヴィルミーナは冷笑を浮かべる。
「いやいや、皆さんの相互信頼の篤さには頭が下がりますね」
聖冠連合帝国外交官メッテルハイムがにやにや顔を晒す。
ところで、とメッテルハイムは赤ワインが注がれたグラスを揺らしつつ、面々に問う。
「皆さんはカロルレンに投資を決めているようですが、アルグシアの占領地には手を出さないのですか? おそらく彼らも外資を誘致すると思いますよ?」
「民間が手を出す分には止めない。ただし、国として関与する気は無いし、推奨もしない。“将来性”に大きな懸念があるのでね」
バンカーハイドは黒い魚卵のカナッペを口に運び、片眉を上げた。気に入ったらしい。
「まったく。イストリア人の手の長いことだ。一体どんな手品を使っているのやら」
レジナエ卿がパイプを吹かしながら皮肉っぽく口端を歪める。
「我が国は地中海の方を優先する。今回は遠慮させていただく」
「ハイデルン王国に出先商館がありますから、一枚噛むくらいですかね。本格的に踏み込むかどうかは民間任せになるでしょう」
ヴィルミーナはシャンパンのグラスを傾けた。
「停戦講和が成立するとして、如何ほど保たれると思います?」
「5年持てば上等でしょう」メッテルハイムは真顔で「その5年で情勢がどう変わるやら」
「安定期間があまり短いと投資する意味がないのだがね」
バンカーハイドは二つ目のカナッペに手を伸ばす。
「カロルレンの前にアルグシアが揺れるやもしれませんぞ」
パイプを吹かし、レジナエ卿がひときわ大きく紫煙を吐いた。
「白髭王の様子を見る限り、アルグシアには遠からず大きな政変がありそうだ」
御歴々の回答に、ヴィルミーナは微かに口端を緩めた。
怖い怖い。物が見えている人間はどこにでもおるわ。まぁ、考えてみれば、当然か。彼らはこの時代におけるトップエリートやし。聖冠連合の太っちょやクリスティーナ伯母様には手痛い目に遭わされたもんなぁ。この先、ナポレオンやビスマルクみたいなんが台頭してきたら嫌やなぁ。手に負えへんわ。
ん? ナポレオン……―――待てよ?
ヴィルミーナはとんでもない見落としをしていたことに気付く。
カロルレンで革命が起きるのは良い。地理的条件によってベルネシアへの影響が抑えられる。
だが、もしも革命後のカロルレンにナポレオンみたいな奴が登場したら?
ナポレオンが凋落したのは欲の皮を突っ張らせてスペインに足を突っ込み、莫大な戦費と優秀な古参兵を消耗し、ロシア侵攻で壊滅的損害を被ったからだ。
しかし、やはり地理的条件から、カロルレンがスペインに該当する地域へ侵攻することはない。東はプロン造山帯とヒルデン山塊に塞がれているからだ。ゆえに、カロルレン版ナポレオンが領土的野心に駆られた場合、一貫して西進か南進を続けることになる。スペインの泥沼にハマることなく、ロシアの冬に打ちのめされることなく。
……ひょっとして、私は地獄の蓋を開けようとしとんちゃう?
いや、カロルレンはフランスほど大国やない。国民軍を創設しても規模は知れとる。地政学的条件が異なるなら、動きも異なるやろ。それに、アルグシアと聖冠連合がなんとかしてくれる、はず。きっと。多分。そうだとええなぁ……
「どうかしました?」
突如、百面相を始めたヴィルミーナを気味悪そうに窺いながら、メッテルハイムが問う。
内面から意識を引き戻したヴィルミーナは取り繕った笑みを湛え、紺碧色の瞳を動かしてレーヴレヒトへ定める。
愛する夫はアルグシア貴婦人達に包囲攻撃を受けていた。
「悪い虫に集られた夫のことが気になって」
嘘である。
この女、自慢の夫がモテることに鼻が高い。浮気されるかもって? 無い無い。長期前線勤務で性欲処理に娼婦を買うことはあるかもしれないが、ヴィルミーナの傍らにいる間に余所の女へ手を出すなど、ありえない。なんせレーヴレヒトはヴィルミーナ大好きのサイコさんだから。
ヴィルミーナは話を打ち切るように腰を上げた。胸の奥で生じた不安は小さくなく、もはや狐狸狢とじゃれ合う気分ではなかった。
「皆さんとの知的な会話も楽しいけれど、そろそろ夫の許へ戻りますわ」
さて、会場の壁際ではオラフ・ドランがテレサとヘティにいびられていた。
「件の女男爵閣下は絶世の美女なのでしょうね。なんせヴィーナ様の許から勝手に出奔するほどですもの」と皮肉を吐くヘティ。
「同僚が歌劇のような人生を歩むとはねえ」と眼鏡の奥から冷ややかな目線を飛ばすテレサ。
「御叱り御もっとも。我が身の不肖と不実、痛悔の至りにございます」
ドランは低身低頭で2人に詫びる。そのうえで、先ほどから気になっていることを問う。
「ところで……“あれ”はいったい……?」
ドランの視線の先では、マルクが10歳未満の幼女に口説かれていた。
アリシアのことを引きずり、いつまでも結婚どころか婚約者すら作らずにいたマルクは、メイファーバー女王の孫娘(7歳児)から猛烈なアタック(死語)を受けている。メイファーバー女王が傍に控えているため逃げることも出来ない。
マルクの憐れな窮状と失笑を禁じ得ない光景は、この数日間に渡る茶番劇を象徴しているかのようだ。
そう、茶番劇は終わった。
不定期予定の新シリーズ投稿しました。
『彼は悪名高きロッフェロー』です。




