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クェザリン郡代官屋敷の客室で、ヴィルミーナは鉄筆を指の間で躍らせながら、メモ帳を読み返していた。背後では年若い御付侍女が御茶を用意している。
侍女はここクェザリン郡で採れたハーブと茶葉をブレンドしたお茶を陶製カップに注ぎ、花蜜を加え、魔導術を使った。小鉢の中に注がれた水がパキパキと小さく歌いながら凍る。その氷をカップに入れ、アイスハーブティーが完成。
「お待たせしました」と侍女がヴィルミーナの手元にカップを置いた。
「ありがとう」
ヴィルミーナが礼を言うと、侍女は一瞬驚き、次いではにかむように微笑んで一礼する。
――ちょっとした礼を言うだけで、この反応。“以前の”私はどんな子だったんや……
ヴィルミーナは心の中で似非関西弁のぼやきをこぼしつつ、密やかに嘆息をこぼした。
3日に渡る調査の末、ヴィルミーナは状況を認識し終えた。
自分はどうやらマジで異世界転生してしまったようだ。視界にステータス画面が浮かばないのでチートやスキルの有無は分からんが、どうも無いっぽい。
こんなルサンチマンと自己承認欲求と妄想症を垂れ流すネット小説みたいな事態が、如何にして我が身に起きたのか、はさっぱり分からない。ボンクラで無能な神やその他の類に出くわした記憶はどこにもない。
なぜどうして、は調べようもない。
重要なのは、これからどうするか、だろう。
幸い、自分は王族の王妹大公令嬢だ。順位は低いが王位継承権も持つ貴種。しかも、母は超金持ち。生活に難儀することはないだろう。反面、貴種の務めとして政略結婚も避けられないはずだ。好きでもない男に抱かれてただ子供を生む、という役割には眉をひそめてしまうが、それが貴種女性の生き方。これは避けようがない。
――性格の良いイケメンと結婚できるよう動くしかないわね。
ここで願ったり祈ったり、という選択肢がないあたり、ヴィルミーナの人間性が窺えよう。
――警戒すべきはこの“時代”よね。
調査の結果、この時代の大陸西方は地球西欧近代初期にとても似た状況にある。
大陸西方は欧州に近く、この時代は地球西暦17~19世紀の技術や文化、価値観が混在している近代初期。つまり、カトリックとプロテスタントが血みどろの殺し合いを繰り返し、近隣諸国の紛争が日常茶飯事で、しかも、市民革命の危険もある。近代フランスのような革命が生じたら、貴族令嬢などチンピラ共に輪姦された挙句断頭台送り待ったなしだ。冗談じゃない。
そんな運命は御免被る。いっそ外洋領土に移り住むか?
これも問題が多い。近代初期の植民地や外洋領土はとにかく治安と公衆衛生環境が酷い。山賊海賊群盗が頻発するうえ、現地人の反乱に抵抗運動。加えて危険な風土病や疫病だらけ。しかも、将来的にはきっと民族独立運動で全てを失う。子孫が悲惨な目に遭うと分かっていて移り住むのはちょっと……まあ、子孫を作る相手の当てもないけれども。
アイスティーを口に運ぶ。良く冷えたお茶の清涼感とハーブのすっきりとした爽快感、花蜜のほのかな甘さ。うん、美味しい。前世では珈琲党だったけれど、御茶も悪くない。
この予期せぬ第二の生をどう過ごすか。あるいは、何を為すか。大公令嬢という出身成分と立場をどう扱うべきか。激動の時代にどう立ち回るか……
ヴィルミーナが思案していると、ドアがノックされた。
「どうぞ」
ドアが開いて綺麗な顔の男児が姿を見せる。
「御所望の書籍を持ってきました」
逗留中のここゼーロウ男爵家の次男坊レーヴレヒトが頼んでおいた書籍を持ってきたらしい。
カワイイよね、この子。お兄さんも美形だったけど、お父さん(ゼーロウ男爵)似でちょっと顔が強いもの。お母さん(男爵夫人)似のこの子の方が好みだわ~。
「ありがとう、レーヴレヒト様」
ヴィルミーナは『前世』の趣味が滲みでた微笑を湛えた。
レーヴレヒトは微妙な面持ちを浮かべつつ、厚めの本をヴィルミーナへ渡した。
うう。美男児の反応が鈍い。前の私はどんだけ傍若無人だったのよ……
「他に御用はありますか?」
「ううん。ないわ」
「では、失礼しま」
「待って」
さっさと帰ろう、いや退散しようとするレーヴレヒトを、ヴィルミーナは呼び止めた。
「お礼という訳ではないけれど、御茶を一杯如何? メリーナの淹れるアイスティーはとても美味しいのよ」
「御厚情、ありがたく賜ります。御相伴に与らせていただきます」
レーヴレヒトは恭しく一礼した。
固い固い。この子、しっかりしてるというより老成しすぎてない? アダルトチルドレンなの? 男爵家、大丈夫?
※生育環境に問題があると、児童はその必要性から精神が早熟し易い。アダルトチルドレンとは子供らしさを奪われた子供という意味であり、精神が未熟な成人を指す言葉ではない。
「メリーナ。レーヴレヒト様にお茶を。それから、貴女の分も淹れなさい。三人で御茶にしましょう」
ヴィルミーナの提案に御付侍女は感激したように一礼し、素早く二人分の御茶を用意した。
カップを口に運び、レーヴレヒトはやっとこさ表情を緩めた。
「美味しいです」
美男児の微笑み。こちらこそ美味しいです。ヴィルミーナが内心でぐふふと笑う。
三人で気楽な他愛ない会話を交わす中、ヴィルミーナは何気なく尋ねる。
「レーヴレヒト様は将来、王立学園に通われるのかしら?」
ベルネシア王国の世襲貴族子女は10歳になると王都の王立学園の初等部に通うのが、一般的だ。無論、諸家それぞれに事情があるから、14歳になってから王立学園高等部に転入させる例も少なくない。ただ、いずれにせよ王立学園に通わせることを選ぶ。貴族の世界はコネと人脈の世界だから、子供の内からツナギ作りが欠かせないのだ。
「僕は恐らく通いません。嫡子である兄だけでしょうね」
王立学園は全寮制ではない。生徒である子女は王都屋敷や賃貸住居から通うことになる。その費用は結構バカにならない。資金的な事情から嫡子以外通わせない家も珍しくない。
「そうなの? 非礼を承知で伺うけれど、ゼーロウ男爵家は裕福な方でしょう? 御嫡男アルブレヒト様だけでなく、レーヴレヒト様を通わせても懐事情に困ることは無いのでは?」
我ながら踏み込んでるな、と思いつつ、ヴィルミーナは尋ねた。だって、この子可愛いんだもん。将来、同じ学校に通いたいじゃない。幼馴染の美少年とか最高やん。
「当家の懐事情ではなく、僕は士官学校へ進むことになるかと」
僕は次男坊ですからね、とレーヴレヒトは澄まし顔で言った。
あ、そっか。とヴィルミーナはベルネシア貴族制を失念していたことに気づく。
ベルネシア王国貴族制は領地制ではなく、旧大日本帝国式の格付制だ。これは中央集権制の過程で国内領土の大半を王家が直轄領とし、直参貴族には知行地を与えず、直轄領代官や行政司法等の官職に付けることにしたからだ。このため、王国成立以前から王家に従う譜代と臣従した少数派の外様以外の貴族は、基本的に領地を持たない。
加えて、ベルネシア王国貴族制は嫡子相続性で家督を継ぐ嫡子が、爵位も財産も全てを受け継ぐ。さらに嫡子の家督相続に伴い、嫡子以外は貴族籍を抜ける。一応、貴族親戚衆として上級平民の扱いを受けるが、平民化することには変わらない。
つまり、兄アルブレヒトが夭折しない限り、次男坊レーヴレヒトはいずれ貴族ではなくなるのだ。それならば、軍人になり、武功を上げて準貴族爵に叙されることを狙う。というのはこの時代、珍しくない選択肢だった。
「そう、ですか」
ヴィルミーナは残念に思うのと同時に、一抹の憐憫を抱く。
これから大陸西方は荒れる。外洋進出先発組と後発組の経済格差は大きい。この差を埋めるため、すぐ隣にある本国を直接叩く。そういう発想を抱く連中が出てくる。それに、所得格差と貧富の格差が深刻になり、内乱も増える。何より、近代初期から戦場の死傷率は桁違いに跳ね上がっていくのだ。もしも本当に軍人へなったら……
「残念ね。私、レーヴレヒト様と同じ学び舎に通いたかったわ」
御付侍女が、まあ、と感嘆を上げる。まるで愛の告白を聞いたような反応だ。いくら貴族の恋愛が奥ゆかしいとはいえ、大ゲサすぎない?
当のレーヴレヒトは……照れるどころか、びっみょーな顔をしている。
うわぁ。よほど前の私は彼を悩ませたんやなあ……これからはもっと優しくしたろ(誓い)。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
お母様付きの侍女が顔を見せた。私が生まれた時から傍にいる初老の彼女は私にとって御婆様に等しい。
「あら、御茶会を催しておいででしたか」
初老の侍女がヴィルミーナに尋ねる。
「申し訳ありません、ヴィルミーナ様。所用がございまして。メリーナをお借りしたいのですが、構いませんか?」
「ええ、構わないわ。私はまだ部屋で調べ物を続けるから。用向きがあれば呼びます」
「畏まりました。メリーナ。行きますよ」
「はい。では、ヴィルミーナ様、レーヴレヒト様。失礼いたします」
老若侍女二人が部屋を出て行き、幼児二人が残る。
レーヴレヒトは肩越しに閉ざされたドアを一瞥し、ヴィルミーナに切り出した。
「ヴィルミーナ様。一つお尋ねしてもよろしいですか?」
「うん? 私に答えられることならば、何でも」
ヴィルミーナは警戒することなくあっさりと受け入れた。
だから、レーヴレヒトもごく自然に尋ねた。天気の塩梅でも尋ねるようにさらりと。
「異世界転生とは何です?」
ヴィルミーナは凍りついた。




