16:0b
ちょい長めです。
大陸共通暦1771年:初春。
大陸西方メーヴラント:聖冠連合帝国:帝都ヴィルド・ロナ
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帝都ヴィルド・ロナの官公庁はどこも忙しい。
ソルニオル事変で大損害を被った法務省の再建。東メーヴラント戦争やソルニオル経済特区に起因する商業/金融/流通等々の諸問題。ソルニオル事変で激変した地中海情勢の対応。東メーヴラント戦争関連の内政的、外交的、軍事的諸問題。
あらゆる方面の仕事が戦列歩兵の津波のように帝国政府へ襲い掛かっている。
たとえば、軍ではこんな会議が催されていた。
「前線の報告を基に軍装の変更の提案が出ています。現行の色彩豊かなものから、ベルネシアやカロルレンのような画一的なもの、できれば、視認性の乏しい地味なものにしては、と」
「軍服は我らが死に装束。かような華の無い衣服を着て死ねと? 馬鹿を言うな」
「派手な格好をして敵弾を引き付けるよりマシでは?」
「意気地の無いことを抜かすな。真に勇気があれば弾がよけていくわっ!」
近代前期は男性原理の時代だ。つまりは、合理的迷彩効果なんてクソくらえ。くたばる時は格好良い服で。
さて。目下のところ、聖冠連合の国家指導層が対応しているのは、東メーヴラント戦争――カロルレン征服計画の予備案切り替えに対する諸国への連絡、下準備等々だった。
「戦争は予期せぬことが起こるものだが、これはいささか予想外だな」
聖冠連合帝国を切り盛りする指導層が会議室で雁首を並べていた。
彼らの手元にある資料には、カロルレンがヒルデン経由で『東』と行っている貿易の監査/監視報告に基づく分析と推論が記されていた。具体的にはその貿易取引量と金額だ。
宰相サージェスドルフを始めとする帝国大臣や高官達は、その数字に目を丸くし、あるいは、瞬かせ、溜息をこぼしていた。
「信じられん。本当に、あのド辺境とカロルレンのポンコツ飛空船で、これほどの物と金が動いているのか? 我が国の地中海貿易の3割に届くぞ」
財政畑の高官が呻くように自問した。周囲のお歴々も同意するように唸る。
宰相サージェスドルフが顎の肉を揉みながら口開く。
「クリスティーナ女大公閣下に意見を尋ねたら、ベルネシアがどうして大冥洋群島帯の領有に莫大な労力を費やしているのか、懇々と説かれた。挙句、これまで見過ごされていたことの方がおかしい、と笑われる始末だ。子供時分に読み書きを教わっているような気分だったよ」
会議に参加している面々の顔が嫌悪や嫌厭に歪む。ソルニオル事変の真の黒幕。冷酷無比な復讐者。おそらく当代一流の経済人の一人。そして、彼ら帝国指導部を掌で転がした策謀の達人。
若手官僚がおずおずと尋ねた。
「女大公閣下の御言葉通り、今まで見過ごされていた理由は何でしょう?」
「先入観じゃ」
商工筋の高官が方言訛りたっぷりの調子で語り始める。
「我が国やアルグシア、カロルレン、『東』、コルヴォラント北部。いずれも流通の主役は陸運じゃ。飛空船や飛空艇なんぞその補助やオマケよ。運用費用も荷馬車や荷駄より高いよってな。
こうした陸運主体で見た場合、ヒルデン山塊は最悪も最悪。地勢は凶悪でモンスターの巣窟。道路の開通も通行も維持も困難。そのうえ、現地のヒルデンが貧しいときた。周辺地域の援助無しでは生きていけぬド辺境の片田舎、いや、陸の孤島じゃ。
そんな土地に苦労しいしいで荷を運ぶ連中は限られとったのよ」
高官の長広舌に幾人かが頷き、歴史に詳しい法務大臣も方言交じりに滔々と語る。
「そもそも、ヒルデンに人が住み着いたんは、時の権力者から逃散した農民や官憲から逃亡した群島山賊が隠れ住んだんが始まりっちゅうからの。一定の所領化したんも、『東』の異民族や異教徒に対する警戒を口実に人を放り込んだっちゅうが……流刑だったんじゃろう」
内務省官僚が大きく息を吐いた。
「ですが、カロルレンの取引相手は『東』でしょう? 伝手もコネもない異民族で異教徒です。短期でこれほどの取引量に届くとは……」
「ロージナだ」
外務畑の高官が吐き捨てる。
「ロージナの領土拡張政策に備え、『東』の連中は軍備用資源を欲してる。連中の土地は肥沃な平野部で食料生産が豊富だが、鉱物資源に乏しい。鉱物資源があって食い物がないカロルレンと取引条件がかみ合った。そういうことだろう」
いわゆる相互関連。Aの事象とBの事象がCの事象で発生させる。バタフライ・エフェクト。ドミノ効果。風吹けば桶屋が儲かる。
「お歴々の通りだ。しかし、この数字を見てはもう放置出来ん」
宰相サージェスドルフの重い声色に全員が身を引き締める。
「ヒルデンが重要な貿易中継地として明らかになった以上、これまでのような扱いはできん。ヒルデンを経由すれば、『東』からカロルレンにもヴァンデリックにも帝国にも空路で相応の流通経済が可能となる。カロルレンのポンコツ飛空船ではなく、ベルネシアやイストリアの外洋用大型輸送船を使えば、それこそ有望な商業空路に化けるだろう」
うーむ、と皆が唸る。
「こうなると、ヴァンデリックの“ついで”に確保したことが僥倖ですな」
商工筋の高官が呟く。
「予備案への方針転換にこんなオマケが生じるとは。何がどう転ぶか分からない」
サージェスドルフも首肯し、ぐふふ、といつもの陰険な笑みを浮かべる。
「今頃はヒルデンの小賢しい狐も身の振り方に頭を抱えているだろう」
口八丁手八丁で中立と支援をもぎ取った悪賢い山狐、ヒルデン独立自治領の頭目ヨアキム・レズニークだ。彼にだまくらかされた外交畑の面々が苦虫を嚙み潰したように顔をしかめた。
「この際、ヒルデンを完全に領有化したらどうよ? 『東』への安全保障を口実にすりゃあ、出来んこともなかろう?」
「そうなっと、カロルレンも黙っとらんぞ。今や国の生命線。死に物狂いで確保に乗り出すだろうや。あの僻地でドンパチは面倒が多すぎる。中立地帯になっとる現状を維持した方が諸々都合ええじゃろ。今はな」
軍官僚と内務省筋がそれぞれの見解を口にする中、
「カロルレン征服の計画が予備案に切り替わる。この方針転換を利用しない手はあるまい」
サージェスドルフは言った。
「カロルレン南部の占領地域を返還してやろう。その代わりに、ヒルデンの“宗主”たる我々の権益を認めさせ、通商条約を飲ませる。それで十分だ。今はカロルレンの領土なんぞ要らん。ヒルデンを押さえてしまえば、奴らの資源と金を吸い上げられる。ベルネシアの賢姫殿が言うように段階的に切り崩す方が楽だ。何より人も死なん。女子供に泣かれんで済む」
「貴公は本当に性格が悪いのぅ」と年配の高官が呆れ顔を浮かべた。
「誉めても何もやらんぞ」
しれっとうそぶき、サージェスドルフは外交畑の官僚達へ顔を向ける。
「アルグシアはどうだ? 予備案移行にかなり不満らしいが、意見統一は出来そうか?」
「意見統一どころか分裂、内戦を起こしそうなほど荒れてるよ。派遣した使者は”言い出しっぺ”たる我々が真っ先に予備案移行を訴えたことを罵倒された。
その一方で、率先して予備案を切り出したことを発起人として妥当な判断と評されている」
外務畑の高官の報告に、誰もが呆れと戸惑いを浮かべる。
アルグシア連邦の主敵は聖冠連合帝国である。その主敵の使者相手に、国内が意見統一できていないと晒しているのだ。情報戦の観点で言えば、謀略を疑うところだろう。
しかし、外務畑が各方面から裏取した限り、アルグシアの反応は『ガチ』だった。
残念なことに、だ。
外務畑の高官は嘆くように告げる。
「最悪、アルグシア抜きじゃないと、予備案の話がまとまらないかも」
「流石に計画発起人の我が国が講和して、参加国に戦争を継続させる、というのは外聞が悪すぎる。結果としてそうした事態が発生することと、頭からそうした事態を許すことはまったく別問題だ。
アルグシアには予備案を飲ませ、カロルレンには講和を飲ませる。その後は計画通り段階的にカロルレンを衰弱死させようと、アルグシアが戦争を再開しようと構わん」
サージェスドルフは政治的冷徹さを以って断言した。
「当初の計画通りとはいかなかったが、現状で欲しいものは手に入れた。ここからは政治で始末をつけていこう。各々方、よろしいな?」
会議に参加している全員が了承する。軍部も異論を出さない。
ヴァンデリック侯国を保護国化したことで、帝国西部の戦略的縦深は確保できた。空路中継地として大きな利益を生むだろうヒルデン独立自治領も保護国化している。さらに言えば、戦災の酷いヴァンデリックの復興事業にしても帝国系企業が利権を掌握しているから、中長期的にみて損はない。
数万人の死傷者と多額の戦費の代価としては、“悪くない”結果。
こと戦争という“事業”においては、ディビアラント東征を主としている聖冠連合帝国は、東メーヴラント戦争の見切り時を誤らない。
「それで、宰相殿。アルグシアとカロルレンを卓に引きずり出せるのかね?」
年配の高官が妖怪染みた顔つきでサージェスドルフに問う。
サージェスドルフは憎たらしいほど不敵に口端を歪め、
「お歴々に一仕事御覧じよう」
ぐふふと顎の肉を揺らした。
〇
ヴィルミーナが甘えられる人間は少ない。
今生の祖母に当たる王太后マリア・ローザは甘えられる数少ない一人だ。そのマリア・ローザが先日、体調を崩した。昨年の秋頃、結婚式を挙げた時は元気で、無邪気に喜び、祝ってくれたのだが。
王太后マリア・ローザはベッドの上で身を起こし、老眼鏡をかけて書物を読んでいた。夜着の上に厚手のカーディガンを羽織っている。
ヴィルミーナは夫のレーヴレヒト共に祖母の寝室に入り、ベッド傍に腰を下ろす。
ベッド脇のサイドボードには王家一族の小さな肖像画や家族絵が並んでいて、その最前列には若くして戦死した叔父――次男ミカエルの肖像画が置かれていた。王太后が常に持ち歩いているものだった。
「御婆様」
優しく呼びかけながら、祖母の手を握る。
ビジネス上の冷酷さ冷徹さに反比例するように、ヴィルミーナは“身内”に甘い。いや、情が届く範囲が身内まで、なのかもしれないが。
「ヴィーナ、レーヴレヒト殿。よく来てくれたわね」
微笑み返す祖母の顔には、老いによる残り時間が浮かんでいた。ヴィルミーナの心が締め付けられる。が、表情筋がヴィルミーナの心情を慮り、端正な顔には慈愛深い笑みが保たれた。
「御加減は如何ですか?」
レーヴレヒトの声が優しい。彼もまた“身内”にはとても甘い。自身の持つ非人間的なほどの冷酷さや残酷さと反比例して。
「この通り、楽に過ごせるまで良くなったわ。季節の変わり目で少し体調を崩しただけ。歳は取りたくないわね」
「私は御婆様のように美しくお歳を召したいですよ」
ヴィルミーナはどこか気弱に微笑む祖母の手を握りながら言った。
「顔にできる皴は生き様が刻まれたものだとか。御婆様のお顔はとても綺麗です」
「生き様、ね……私の人生は後悔ばかりよ、ヴィーナ」
「後悔を重ねてもなお、気高く貴く国母たられた。私は御婆様の孫であることが誇らしい」
「ありがとう、ヴィーナ」
柔らかく面持ちを和ませた祖母に、ヴィルミーナはレーヴレヒトと共にいくつか楽しい話を披露する。
自身の新婚生活、母ユーフェリアの孫の催促。結婚式にやってきた従弟カスパーと公認愛妾ユーリアとの交流、王女ロザリアの気ままな王妹大公家訪問、聖冠連合皇女に困惑させられる王子アルトゥール、王女クラリーナの嫁ぎ先探しとその無茶振り条件に困る国王夫妻、王太子夫妻の胸焼けしそうな円満振り等々。
ひとしきり楽しい時間をすごした後、ヴィルミーナとレーヴレヒトは腰を上げて辞する。
「年内にはエドワードの子が生まれます。曾孫に元気な姿を見せられるよう養生なさいませ」
「私はヴィーナ達の子供も楽しみにしているの。早く見せてくれると嬉しいわ」
臥せっていてもきっちり圧を掛けるお婆ちゃん。
「夫と努力しますわ、御婆様」
祖母を抱きしめて頬にキスをし、ヴィルミーナはレーヴレヒトと共に部屋を出た。部屋の外に控える侍女や近侍達に目線で挨拶し、廊下を進んでいく。
「……御婆様はまだお若いのに。近年は体調を崩しがちだわ」
どこか悔しげに、唸るようにヴィルミーナが呟く。レーヴレヒトがヴィルミーナの手を握り、優しく告げた。
「ヴィーナの前世とは違う。50以上も生きられれば充分に長寿だよ」
「充分なんかじゃない。医学、薬学、看護学、生命工学、医療工学、機器開発技術に製造技術、足りないものが多すぎるだけよ。そして、金はあるのに作れない。用意できない。揃えられない」
しかし、ヴィルミーナは拗ねたように唇を噛み、レーヴレヒトの手を強く握り返した。
「私が欲しいと望んでいるのに手に入らない。腹立たしい」
「何も王太后陛下は大病を患われているわけじゃない。そんなに思い詰めないで良いんだよ、ヴィーナ。すぐに快癒されるさ。それで、王太子妃殿下のお産みになる曾孫を抱かれて、俺達に言うんだ。ヴィーナ、貴方達の子供はまだ?」
レーヴレヒトの気遣いに、
「そうね」
ヴィルミーナは表情を和らげ、レーヴレヒトの腕を抱きしめるように組む。
「でも、別れの時を意識させられるのは、寂しい」
――そんな感傷的なことを口にしていた小一時間後。
「連中の望み通り、もう数万人ほど死傷させてやれば良いでしょう」
ヴィルミーナは国王カレル3世の執務室で、さらりとそんなことを口にしていた。
「彼らにはこう言いましょう。予備案交渉を始めるまでは主案継続中であり、軍事行動とその戦果は主案に基づく成果であるため、許容すると。ただし、予備案交渉開始を以って予備案移行を承認し、能動的軍事行動を停止することを飲ませるのです。そうですね、春に予定されていた国際会議をこの夏か、秋までに延長し、時間的猶予を与えれば良いかと」
姪の口から発せられた冷徹な外交策に、国王カレル3世は嫌そうに顔をしかめた。
どうしてこうも容赦の欠片もない意見をさらっと吐けるのか。しかも、妥当性が高いことがより始末に悪い。まったく頼もしい。
「……連中は死に物狂いで戦果拡張に走るだろうな。きっとかなりの犠牲が出る」
人間という存在に対して信頼を失っていないカレル3世は、潜在的敵国民であろうと無為な犠牲を望まない。それに、犠牲と惨禍が生み出す『恨み』という力を侮っていなかった。
「彼らが望んで支払う犠牲です。我々が関知することではありません。好きなだけ死なせてやればいいでしょう」
姪の重ねる冷酷な言葉に、カレル3世は堪らず慨嘆をこぼした。
「ヴィーナ。もう少し、もう少しでいい。博愛精神というものを持て」
「私の博愛精神は愛すべき人々に注ぎます。現状認識に欠ける愚か者には与えません」
ヴィルミーナは紺碧色の瞳で伯父をまっすぐ見据え、
「このままアルグシアの連邦議会が意見統一を見なければ、聖冠連合も似たような提案をするでしょう。我々の懐が最も痛まない解決策です。あの太っちょが考えないはずがありません」
自身の見解を惜しげもなく開陳する。
「今、アルグシアが攻勢に出れば、さしものカロルレンも折れるでしょう。下手をすると王都が陥落し、主案通りに戦争そのものが完全終結してしまうかもしれません。
その場合、利権分配でアルグシア人がごねる可能性もありますが、そこはサンローラン協定で押しましょう。拒否するようなら、帝国、クレテア、イストリアと組んで連中を経済的に締め上げる。それで譲歩を引き出せるかと」
カレル3世は窓の外、中庭に目を向けた。
末っ子のアルトゥールが姪婿のレーヴレヒト相手に剣の稽古をしていた。その傍では娘達――王女姉妹が稽古を眺めている。
「仮に、アルグシアがヴィーナや帝国宰相の想定に食いつかなければ、どう動く?」
「いくつか想定できますが、具体的に可能性が高いのは2つ」
ヴィルミーナは右手を上げて人差し指を立て、
「1つは我が国とクレテアに更なる資金援助、まあ、常識的に考えて我々が行うのは有償借款になりますが、とにかく金を引っ張ってきて各派閥の不満を押さえる」
続いて中指を立てた。
「もう1つ。これはまず無いと思いますが、聖冠連合と共同作戦を実施、さらには我が国とクレテアへ軍の派遣を求める。なんとしてもカロルレン征服を実現して問題を解決する策ですね」
右手を下ろし、ヴィルミーナは追補を加える。
「そして、これらの代価として、カロルレン征服完了後、利権分配の譲歩か他の権益譲渡を持ち出す。つまり、面倒な提案を絵に描いた菓子で売り付けてくる。付随して」
「政略婚の提案か。我が子達は”適齢期”だからな」
カレル3世は姪の言葉を先取りして嘆息をこぼし、温度の無い声で告げた。
「論外だ。あんな不安定な国と血のつながりなど持てん」
「その手の話は、恋愛婚をさせていただいた私に何を言う権利もありません」
従弟のカスパーには政略婚を仕掛けておいて、ヴィルミーナはしれっとのたまう。
「アルグシアの内部意見がどうまとまるにせよ、聖冠連合とクレテア、それからイストリアに根回しをして足並みを揃えましょう。後はカロルレンですが……」
「彼らの命運に、我々は主導権を持っていない。聖冠連合とアルグシア次第、いや、彼ら自身の問題だ。もっとも……」
ベルネシア戦役で亡国を覚悟した王であるカレル3世は、どこか気の毒そうに言った。
「もはや死に方と死期の問題だろうな」
〇
ヴィルミーナが首を傾げたカロルレン王国の忍耐強さ――この冬をどうやって乗り越えたという疑問の答え。困窮と飢餓と寒さに晒された民衆が一揆も反乱も起こさずに耐え抜いた理由。
それは単に、カロルレン王国が限界を迎えており、誰もが平等に飢えていたからだ。王侯貴顕も町民も農民も賤民も、困窮していた。宮廷ですら節約倹約に励んでいた。
この冬はそれほどにカロルレン王国を苦しめ、苛ませ、追い詰めていた。
気象災害からの大災禍。此度の戦争と穀倉地帯である西部地域の一部占領。これらの事情により、カロルレン王国は食料、医薬品、衣類、越冬の燃料などが決定的に不足している。
ヒルデン貿易とソープミュンデ密貿易、半身不随の内需産業。これらで搔き集められ、生産された物資だけでは焼け石に水だった。
あらゆる階層の人々が寝食を忘れて働き、必死に打開策、解決案を模索し、思案したが、冬のもたらす絶対的残酷さの前では、あまりにも無力だった。
配給物資の届かなかった地方村落は特に悲惨で、動ける者達は難民として逃げだし、動けない者は雪と寒さに閉ざされた村で朽ちていた。
カロルレン国民は叛乱や一揆を起こすどころではなかったのだ。
この悲惨な冬は、オラフ・ドランが死に物狂いで対策を講じた北東部ですら、避けられなかった。戦災地域よりはずっとマシな状態だったが、あくまでマシという次元に過ぎない。
如何にドランが優れていても、掛かるカロルレンの現状では出来ることとできないことがあり、その現実に打ち勝つことは出来なかった。
ヨナス少年は、俯いて己の力不足を詫び続けるドランと、彼を黙って抱きしめるノエミの姿を目にし、生涯忘れなかったという。
南部の前線都市に駐留していたラインハルト・ニーヴァリ中尉の部隊日誌には『敵弾に倒れる者より、飢えと寒さによる体調不良で倒れる者が続出している』と記されている。『敵陣から立ち昇る炊事の煙が羨ましくて仕方ない』とも書かれていたが、こちらは不適切記述として斜線で消されていた。
メーヴラント諸国がカロルレンの始末についてあーだこーだと検討している頃、カロルレン王国は既に棺桶へ片足を突っ込んでいた。
冬の間に発生した餓死者と凍死者は、貴族主義に凝り固まった傲慢な者達さえ顔を青くする規模。国家財政はとっくに破綻。莫大な戦費負債と人的損害は今後数年に渡って重くのしかかるだろう。国土を一部占領され、状況打開の目が見えていない。奇跡的に昨年は耐えきったが、今年はどう考えても……
国王ハインリヒ4世はその責任の重圧と来たる恐るべき不安から、ひと冬の間に随分と老け込んだ。王国中央の重鎮達や王族の中にすら、亡命の手段と逃げ込む先を検討する者も現れ始めている。
そんな中、一部の強硬論者と主戦派だけは元気だった。
もはや勝つ以外にこの悲惨なる状況を打破する手段はない。賠償金をもぎ取って国家財政を立て直し、国土を取り戻して各種産業を立て直すのだ。戦闘可能な全ての臣民を投じる国家総大反攻を行うべしっ!
もっとも、幸いなことにカロルレン王国の圧倒的大多数はそのような妄想に付き合うほど、理性を失っていなかったし、愚劣でもなかったし、何よりそんな余裕などなかった。
彼らは既に『敗北』という現実を直視していた。直視せざるを得なかった。
そして、どうすればいいか必死に考えていた。
たとえ、サンローラン協定の宣言通りにカロルレン王国が滅ぶにしても、人々は『その後』を生き続けるのだから。
であれば、問題はどのように敗北するか、なのだが……長年に渡る引きこもりボッチ国家だった弊害だろう。
彼らは戦争の負け方を知らなかった。
ただし、彼らにも手を差し伸べようとする者もいた。
市場争いや権益争いをしている者は、国家や商人だけではない。
聖王教会伝統派、その総本山。法王庁がアップを始めていた。




