閑話19c:東メーヴラント戦争・序幕の終わり
ラインハルト・ニーヴァリが死に物狂いの抵抗を続けている中、煤煙渦巻く侯都上空では『悪魔』が暴れていた。
市街内に展開している帝国対空部隊が、ひたすら空へ砲弾を打ち上げている。手透きの銃兵達も小銃を空へ向け、斉射を繰り返していた。
嵐の如く吹き荒れる銃砲弾により、カロルレン軍の翼竜騎兵達が次々と落ちていく中、ただ一騎、手綱にリボン飾りを付けたカロルレン翼竜騎兵だけは、鉄と炸薬の暴風雨を容易く潜り抜けている。
踊るように対空砲火をかわした”リボン”は、一気に急降下して対空陣地に魔導術を叩きつけて軽やかに離脱。高度を取り直すと、再び対空砲火をかわしながら対地襲撃を繰り返す。煤煙漂う空を舞い、帝国兵に死をもたらし続ける。
「ちきしょうっ! なんで当たらないんだっ!?」「化け物めっ!」「あいつの翼竜だけ特別なのかっ!?」
対空部隊が”リボン”へ呪詛を浴びせる。
“リボン”の駆る翼竜は特別でも何でもない。ごく普通の西方翼竜だ。むしろ帝国の翼竜の方が体躯も健康状態も良く、動きも良い。
なのに、“リボン”は恐ろしく速い。その俊敏さは文字通り視界から一瞬で消える。凄まじいまでの騎乗技術。常人離れした視野と空間把握能力。驚異的な魔力量。帝国軍にしてみれば、まさに『悪魔』だった。
「味方が来たっ!!」「いいぞ、やっつけろっ!!」「ぶっ殺せーっ!!」
銃兵達が歓声を上げた。駆け付けた帝国翼竜騎兵の群れがそのまま”リボン”に襲い掛かる。
しかし――
「嘘だろ」
空を見上げていた帝国将兵の歓声はすぐさま止んだ。
”リボン”は多勢を物ともせず、真っ黒な侯都上空を縦横無尽に飛び続けていた。
時に高度を上げ、煤煙の闇の中を舞い踊る。時に急降下し、廃墟の隙間を駆け抜けていく。追跡を試みた帝国翼竜騎兵達の中には、煤煙に巻かれて位置を見失い、友軍の対空弾幕へ飛び込んで撃墜された者も居た。追跡に熱中しすぎて地面や建物に激突した者達も居た。
そうして、帝国翼竜騎兵達の連携が乱れると、”リボン”は一転して帝国翼竜騎兵達の中心に位置取り、鮮やかな内線機動を取り始めた。
帝国翼竜騎兵達は味方に射線を制限され、思うように攻撃できない。数的有利が逆に足枷となっていた。
そんな彼らを、”リボン”は容赦なく狩っていく。
内線機動の回避運動から一瞬の好機を逃さず、無駄打ちはせずに一撃一殺。1騎、1騎、また1騎。まるで猛禽が小鳥の群れを蹴散らすように。
「ぐぁあああああっ!?」「ちきしょうッ!! 隊長がやられたっ!!」「ケツにつかれたっ! 誰かたす――」「悪魔めっ! ぶっ殺してやるっ!!」「なんなんだよ、なんなんだよ、こいつっ!!」「”リボン”めぇっ!」
帝国翼竜騎兵達の悲鳴と怒号は地上に届かない。
「――損害が大きすぎるっ! 全騎撤退っ! 撤退だっ!」
撃墜された指揮官の代理が撤退信号の紅い光弾を放ち、帝国翼竜騎兵達はケツをまくって逃げていく。
“リボン”は追撃せず、帝国翼竜騎兵の撤退を大人しく見送った。悠然と市街上空を一周した後、カロルレン王国領内へ向けて撤収していく。
地上の帝国兵達は『勝利の旋回』をして去っていく“リボン”を畏怖と憎悪の目で睨む。
侯都宮城のカロルレン兵達は『勝利の旋回』をして去っていく“リボン”に喝采を挙げる。
“リボン”自身はこの勝利を気にも留めず、敵軍団司令部となっている中央聖堂を上空から『観測』していたことを、誰も知らない。
〇
ラインハルトは16歳の促成少尉上がりの中尉で、士官学校の教育もほとんど未修了だ。
そんな半人前将校の少年が今や300人以上の命を預かっていた。
日が沈んで戦闘が切り上げられた時、麾下中隊128名+大隊残余107名+第二軍からの脱出者98名。無傷の者は半数といない。
もちろん、この中にはラインハルトより上位階級者が幾人かいたが、彼らは指揮を執ることなど出来ない負傷者だった。
16歳のガキだろうと、中尉の階級章を付けている以上、彼らの命はラインハルトが背負わなければならなかった。
よって、ラインハルトは暢気に夜明かしなどする気はなかった。
ラインハルトは部下達を集め、ギラギラと血走った眼でまくしたてる。
「今夜中に林を脱出する。重装備、手持ち分以外の予備弾薬と食糧、その他は全て捨てろ。林を出た後は道路を迂回して友軍戦線を目指す。敵前哨線を静かに突破したい。腕の立つ奴を集めて斬り込み隊を編成しろ。全ての馬と烏竜は負傷兵の移送に使う。それから、脱出の隠蔽だ。夜営しているように見せかけるぞ。焚火を起こして、歩哨代わりの案山子を立てろ。何か意見は?」
部下達は互いの疲れ切り、汚れ切った顔を見合わせ、ラインハルトへ狂人を見るような目を返した。
「中隊長、昼の戦闘で全員くたくたです。少しでも休息を取らせねば、とても動けません。脱出を明日の夜明け時に伸ばすべきです」
促成少尉の一人が代表して言った。彼自身が死人と大差ない顔色だった。
「明日になれば手遅れになる。兵の尻を蹴飛ばし、首を縄で括ってでも歩かせろ」
ラインハルトはガンギマリした目つきで同期の促成少尉に冷たく言い放つ。
と、額に包帯を巻いた女性将校がイケメンの従卒と共にやってきた。
侯都を脱出してきた第二軍の促成少尉で、ラインハルトは彼女に見覚えがあった。たしか二期上の王家閨閥の出だ。エーデルガルト・フォン・ノイベルク。ノイベルク侯爵家の長女で第三だか第四だかの王子と“良い仲”という噂があった。イケメン従卒もたしかノイベルク家の家人だったはず。
「ニーヴァリ中尉。戦わずに逃げるというのは本当か」
栗色の長髪を結い上げた美少女が噛みつくような口調で言った。
「そうだ、ノイベルク少尉。我々は友軍へ向けて脱出する」
ラインハルトはエーデルガルトに上官として接する。氏素性と年齢が格下でも、軍隊では階級と実戦経験が物を言う。
エーデルガルトもその事実は理解している。だからこそ、不快そうに美貌を歪め、ラインハルトを睨みつけた。
「敵を前にして戦わず、しかも装備を捨てて逃げるなど、敵前逃亡罪に問われるぞ」
私が告発するぞ、と聞こえる発音だった。
おお怖い怖い。ラインハルトは鼻で笑い、
「好きにしろ。俺の任務は部下と侯都から”逃げ出してきた”連中を無事に連れ帰ることが第一だ。それとな、ノイベルク少尉。ここは戦場だぞ。余計な戯言は吐くな」
剥き出しの軍刀みたいな眼差しで告げた。
「弾は前からだけじゃないぞ」
あからさまな脅し文句にエーデルガルトが気色ばみ、イケメン従卒が腰の軍刀に手を伸ばしかけるも、気づく。
ラインハルトの部下達や周囲の兵士達が冷酷な眼差しを向けていることに。
戦場では、弾は前からだけではないのだ。
悔しげに唸り、エーデルガルトはイケメン従卒と共に去っていった。
「あの軍服の出来栄えと飾り。あのお嬢ちゃんは王家閨閥でしょう? あれだけ怒らしちゃあ、中隊長殿は出世とは無縁になりそうですな」
曹長が苦笑いをこぼす。
「どうでもいいさ。俺の出自じゃどうせ栄達なんて望めない」
ラインハルトは黒ずんだ唾を吐き捨て、部下達を見回す。
「俺は夏の大反攻の撤退戦も生き延びた。今回だって生きて帰る。生きている限り、誰も置き去りにしない。脱出の準備に掛かれ」
部下達は敬意を込めた敬礼で応じた。
〇
“リボン”が隊の仲間と共に出撃したのは薄暮時の少し前。地平線にわずかな明るみが浮かんだ頃だった。
優れた翼竜騎兵である“リボン”は限界を理解していた。
侯都の戦いは既に勝敗が決している。敵翼竜騎兵や下っ端の将兵をどれだけ葬ったところで、戦局や戦況に全く影響を与えないだろう。かといって、自分達にある戦力や兵器では、戦略単位の打撃は与えられない。
自分に出来うることで、何をすれば、第二軍将兵の一助足りえるだろうか。
”リボン”はその『答え』を持って、侯都へ向けて飛んでいく。
同じ頃、聖冠連合帝国軍の偵察部隊がラインハルトの小賢しいペテンに気付いた。
「くそっ! 逃げられたっ!」
ガッと焚火跡を蹴り飛ばす偵察兵。
「昨日あれだけ激しくドンパチやって、そのまま徹夜で脱出? 奴ら正気かよ」
「予備弾薬や食糧まで捨ててる。追撃は間に合うかな?」
「わからん。疲れ切っているだろうし、負傷兵を抱えている。行軍速度は早くないはずだ。ともかく司令部へ連絡しよう」
下士官が大型ランドセルみたいな魔導通信器を背負った通信兵を呼び、司令部へ状況を報告する。
情報を受け取った参謀はカール大公を起こし、判断を求めた。
叩き起こされたカール大公は従卒が用意した水で顔を洗い、きちんと眠気を払ってから確認する。
「薪炭林の外に展開している部隊から接敵や発見の報告はないのか?」
「今のところありません。哨戒線に隙間があったのか、前哨部隊が始末されているのか。未確認です」
「敵部隊の残余は疲弊しきっているはずだろうに」
カール大公はそこで言葉を切った。味方の体たらくを嘆くべきか、敵の奮戦敢闘を讃えるべきか。答えは出なかったが、命令を発した。
「薪炭林の外に展開している軽騎兵部隊に捜索追跡を実施させろ。発見した状況によっては、軽騎兵部隊の判断を許す。銃兵部隊の移動は発見場所次第だ」
「了解しました」と参謀が退室した。
カール大公は二度寝の誘惑を気力で撥ね退けつつ、着替え始め、従卒に言った。
「朝食の珈琲は濃くしてくれ」
カール大公が目覚めた頃、ラインハルトは約300名を率いて霜の降りた原野を歩いていた。
斬り込み隊がこじ開けた前哨線の穴から薪炭林を脱し、最短経路の道路を外れて遠回りに迂回していた。
疲労。寝不足。空腹。渇き。負傷に不衛生。心身ともに消耗しきった兵士達の足取りは重く、ふらついていた。馬や烏竜に乗せられた傷病者には死にかけている者も多いが、手の打ちようがない。
ラインハルトは夏の負け戦の時と同じく、夜を徹して行軍縦隊の中を見て回った。
限界を迎えて座り込む兵士を引きずり起こして歩かせ、馬に括られた傷病者に声を掛けて意識を覚醒させる。兵士達を励まし、部下達を労い、周囲の何倍も歩いてひたすら前へ進ませる。
不屈の指揮官振りを発揮するラインハルトは、夜闇を溶かしていく曙光を忌々しげに見つめた。吸血鬼だってここまで太陽を憎まないだろう。
「不味いな。日が昇ってきた」
ラインハルトは地図を取り出し、計測係の下士官に問う。
「今どのあたりだ?」
「道路を迂回して進んでますから……我が軍の前線まで最速で2時間です。まあ、この調子じゃあ倍の4時間かかっても着くかどうか」
疲れ切った下士官は他人事のように答えた。
4時間。その4時間、敵に捕捉されずに行けるか?
ラインハルトは自問した後、そして、部下の指揮官達を集めて告げた。
「縦隊の順番を組み替える。負傷兵と荷駄を真ん中にし、第一小隊と第二小隊が前衛、第三小隊と本部小隊を後衛。号令一下で方陣を組めるようにしておけ」
部下達の顔が強張った。即席少尉の一人が泣きそうな顔で呟く。
「……追いつかれますか」
「敵は優秀だからな。だが、関係ない。我々は敵を蹴散らして帰るだけだ」
ラインハルトの血走った目はギラギラと精気に満ちていた。爪の垢ほども絶望していない中隊長に、下士官の一人が呆れたように言った。
「中尉殿。あんたは英雄か狂人だ」
〇
カール大公麾下の軽騎兵がラインハルト達を発見したのは、朝日が昇り切った頃だった。
「信じられん。本当に徹夜で行軍してたのか」
「規模は増強中隊ですが……ヒデェざまだ。まるで乞食の群れです」
「重装備は持ってねェな。本部に連絡後、ひと当てしてみっか」
「ですね。あれなら簡単に仕留められそうだ」
ラインハルトにとっては地獄の始まりだった。しかし、幸運でもあった。
もしも、この騎兵部隊が捜索追跡を目的とした軽騎兵ではなく、帝国御自慢の有翼重装騎兵だったら、瞬く間に全滅させられただろう。どれだけラインハルトに軍才が有ろうと、覆せない現実は確かに存在するのだ。
だが、敵は軽騎兵。まだやりようはある。
「方陣だっ! 方陣を組めっ! 急げっ!!」
ラインハルトは右手に軍刀を、左手に拳銃を握って兵士達を鼓舞する。
「友軍の戦線まであとわずかだっ! ここで死にたくなければ、方陣を決して崩すなっ! 将校と下士官は方陣から逃げ出す奴を見つけ次第、即座に射殺しろっ!!」
音楽的な美声から発せられる獰猛にして狂猛な命令に、将兵は震え上がりながらも武器を強く握りしめる。生きて帰るには戦うしかない。他の選択肢は許されない。
帝国の軽騎兵が襲撃を試みる度、たった300人ぽっちの小さな方陣は大声を上げ、ひたすら銃をぶっ放す。戦う。抗う。死に物狂いになって。生きて帰るために。
ラインハルトはイケメン従卒の亡骸に縋りついて泣いているエーデルガルトを見つけ、胸ぐらを掴んで引きずり起こした。
「立てっ! 泣いている暇があるなら、敵を殺して仇を取れっ!」
自身の拳銃をエーデルガルトに握らせ、全将兵に向けて怒鳴る。
「帝国のクソッタレ共に王国人の勇気を見せてやれっ! 声を出せっ! 喚けっ! 叫べっ! 怒鳴れっ! 声で奴らをビビらせろっ!! 勇気で奴らを追い返せっ!!」
無茶苦茶だった。
しかし、他の選択肢は存在しない。無茶だろうと無理だろうと無謀だろうとやるしかないのだ。
兵士達はラインハルトの怒声に応じてやけっぱちに怒鳴り叫び、罵詈雑言が原野に響き渡る。
軽騎兵の攻撃を受ける度、方陣は削られて小さくなっていく。将兵は傷つき、斃れていく。
それでも、彼らは決して挫けず、崩れない。士気は衰えず、統制は微塵も揺るがない。
1少年指揮官のしぶとさが伝播した寄せ集めは、精鋭部隊の如く方陣を維持し、戦いながら友軍の許へ向かって進んでいく。少しずつ、少しずつ、確実に。
「なんなんだ、こいつらっ!? ボロ雑巾みたいな様なのにクソしぶといっ!」
「騙されたっ!! こいつらは寄せ集めの振りをした精鋭部隊だっ!!」
「一旦離れろっ! 騎兵砲を持ってこいっ!! 叩き潰してやるっ!!」
帝国軽騎兵達は困惑し、勘違いし、ラインハルトにとって最悪の選択を採った。
「中尉、奴ら騎兵砲を持ち込んでくるつもりですぜ」と軍曹。
「くそっ!」
ラインハルトは数え切れないほど繰り返した舌打ちをした。方陣は砲撃の格好の的だ。榴弾や炸裂弾一つで壊乱させられてしまう。だが、方陣を解けば、統制が届かず崩壊してしまう。
原っぱで壊乱して騎兵に狩り潰されるとか、無様にも程がある。全滅するくらいなら降伏を選んだ方が……
さしものラインハルトも弱気になりかけた矢先。
不意に帝国軽騎兵達が攻撃を停止し、次々と馬首を返して後退していく。
「? ? ?」
ラインハルトは目を丸くした。ラインハルトだけではない、大隊残余の全員が呆然と去っていく帝国軽騎兵を見送る。
なんだ? 何が起きた? 奴らはなんで撤退する? 騎兵砲を使えば、俺達を皆殺しに出来るのに……
「中隊長っ! 好機ですっ! ずらかりましょうっ!!」
下士官のだみ声に、ラインハルトは我に返る。そうだ。理由なんざなんだって良い。もう俺達に出来ることは一つだけだ。
ラインハルトは怒鳴り続けてかすれた声を目いっぱい張った。
「総員、脱出するぞっ!!」
奇跡が起きた。
ラインハルトも含め、大隊の誰もがそう思ったが、実のところ、奇跡でも何でもない。
聖冠連合帝国軍側の“事情”が変わったのだ。
〇
ラインハルトが地獄を見る少し前のこと。
侯都上空に侵入した“リボン”は、味方翼竜騎兵を餌にして帝国翼竜騎兵達を振り切り、自身は対空砲火の嵐を潜り抜け、侯都攻略軍団総司令部が置かれた中央聖堂を空爆した。
“リボン”は空爆に際し、先日の『観測』を基に、一つの策を弄していた。
バッグ一杯に詰め込んだ魔石や魔晶を中央聖堂に投げ落とし、それを攻撃魔導術で打ち抜いて活性反応爆発を起こさせる。
中央聖堂の頭で暴力的な青い閃光が煌めき、鮮烈なエネルギーを放った。
強烈な爆発により、激戦で損傷していた中央聖堂の屋根や尖塔など上部構造体が崩落。その崩落の大衝撃が聖堂自体の倒壊を招き、作戦会議のために召集されていた軍団総司令官ネタスコフ中将以下、軍団麾下の各師団長や高級参謀、司令部要員を飲み込んだ。
”リボン”自身は『敵司令部施設を破壊し、第二軍の一助になれば』程度のつもりだった。
が、この空爆により侯都攻略軍団の首脳部が死傷し、指揮統制が崩壊、完全な麻痺状態に陥ってしまった。
共通暦1770年における聖冠連合帝国が被った最大の損害だった。
これこそまさに奇跡。
運命の女神のサイコロが出したクリティカルである。
聖冠連合帝国にとっては最悪のファンブルにより、侵攻軍総司令部は大混乱に陥った。すぐさま侯都攻略軍団の司令部を再建しなければならないが、高級将校の代替はそうそう得られない。
緊急連絡を受けたカール大公は侵攻軍総司令部との連絡に忙殺されることになり、麾下の全部隊に作戦中止、待機命令を出していた。
後年、カール大公はこの時ラインハルトを殺さなかったことを強く後悔する。
かくして、“リボン”の空爆が巡り巡って、ラインハルトの窮地を救ったのだ。
小説なら御都合展開と罵られて非難轟々であるが、地球史が示すように(15:0も参照のこと)、この世界は時折、創作物ならクソ展開と呼ばれる事態を生む。
これこそ世界に満ちる絶対的不思議。もしくは理不尽と不条理。あるいは――性悪で陰険な運命の女神の振るうサイコロなのである。
そんな運命の女神に愛されているラインハルトの部隊が友軍戦線に辿り着いた時、生存者は100名強まで減っていた。無傷の者は20名にも満たない(そのうちの一人がラインハルトだ。しぶとい。実にしぶとい)。
原野で武器もなく支援もなく弱り切った状態で騎兵と殴り合った結果なら、この数字でも多いくらいだろう。
生還を果たしたラインハルトは、そのまま南部戦線へ配属された。なぜかエーデルガルト・フォン・ノイベルクが副官として引っ付いてきたが……問題はそこではない。
問題は、ラインハルトの配属された戦区がカール大公が奪取し損ねた要衝ペレノビリ市。聖冠連合帝国が本格攻勢に出たら、真っ先に地獄となる街ということだ。
運命の女神はラインハルトに戦争からの足抜けを許さないようだ。
〇
最後にカロルレン第二軍の運命を記し、東メーヴラント戦争の序幕を終えよう。
共通暦1770年の年末。幾度かの熾烈な戦闘を経て、侯都第二軍は遂に降伏した。
降伏時、弾薬もパンもなく、飢え、病み、疲れ果てていた第二軍の残存戦力は2万人を切っていた。
この2万人弱の捕虜達のうち、貴族将校はカロルレン側との交渉に利用され、一般民衆の将兵はヴァンデリック侯国に引き渡された。彼らはヴァンデリック侯国の戦災復興のため、過酷な強制労働に従事させられ、生きて家族の許に帰ることが出来た者は3000人ほどだったという。
魔導技術文明世界の近代前期末。
東メーヴラント戦争はたった一年で20万人以上の死傷者を出していた。この統計は近代産業社会の戦争が如何に破壊的かつ殺戮的であるかを示していたが、多くの人間はそこまで思いを巡らせることは出来なかった。
この世界の人々、特に政治家や軍人が『戦争の破壊と殺戮に歯止めを掛けるべき』と、あるいは『戦争に代わる問題の解決手段を見つけるべき』と本気で考えるには、死体の数も血と涙の量も足りなかった。
〇
寒風吹きすさぶ侯都宮城に2枚の軍旗がたなびく。
上に掲げられた軍旗はヴァンデリック侯国義勇軍のもの。下に掲げられた軍旗は聖冠連合帝国軍のもの。ヴァンデリック義勇軍が上なのは、政治である。
破壊しつくされた侯都を凱旋するヴァンデリック義勇兵達の顔に笑顔はない。それどころか、叩き壊された街並を前に、義勇兵達は怒り顔や悔しそうな顔を隠そうともしない。
「なんで他国の戦争のせいで、俺達の街が壊されなきゃいけないんだろうな」
「いつものことさ。9年戦争でもそうだった」
年配の伍長が心底憎々しく吐き捨てる。
「皆まとめて地獄に落ちやがれ」
ヴァンデリック侯国人達の呪詛は彼ら自身が知らぬうちに成就する。
カロルレン王国征服計画の予備案切り替えに際し、諸国間でカロルレン王国との休戦交渉や利権分配の再交渉が始まったからだ。
狐と狸と貉の群れが、欲望と野心と猜疑と不信を煮詰めた鍋を囲み、右手で握手をしながら左手のナイフを使う機会を探る――そんなパーティの時間を迎える。
東メーヴラント戦争は序幕を終え、次幕へと進む。




