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前世では未婚だったが、他人の結婚式には幾度も顔を出していた。一流企業の取締役ともなれば、そういう義理事への参加機会は決して少なくない。
今生でも他人の結婚式には幾度も出ていた。なんせ王妹大公令嬢と白獅子総帥という立場は義理事への出席を要求する。
王太子夫妻、レーヴレヒトの兄アルブレヒト、側近衆キーラ、友人コレット、他にも親族衆や貴族他家、麾下各事業部の関係者や懇意の取引先、あれやこれやの結婚式に出席してきた。
しかし、いざ自分が主役となると、その煩雑さと面倒さと厄介さと手間と苦労の量に圧倒されてしまう。
ヴィルミーナは素直に母へ助けを求めた。
「もう何が何やら……助けて下さい」
母は大賢者のような顔つきで答えた。
「ママの結婚は全て他人任せだったわ」
胸を張って返すセリフではないのだが。とはいえ、このままでは母としての威厳が損なわれると考えたユーフェリアは、愛娘に助力することにした。
「分からないことは知っている人に聞けばいいのよ」
頼りない助言ではあったが、道理ではある。
というわけで。
ヴィルミーナはレーヴレヒトと共に聖王教会へ足を運び、ゴセック大主教と面会する。
「遅ればせながら今年中に式を挙げることになりまして」
「ようやくか。本当によう待たせたものだ。ヴィーナの式を挙げるが先か、儂が聖王の身許へ旅立つが先か、と危惧しとったぞ」
がはは、と笑うゴセック大主教。
「で、式の日取りなどは決まっとるのかね?」
「それ以前の問題です、大主教様」
レーヴレヒトが眉を大きく下げつつ、自分達の置かれた状況を説明した。
「あー……なるほどのう。ヴィーナの場合は一般的な結婚では済まんわな」
話を聞いたゴセック大主教は、顎先の髭を弄りながら頷く。
「貴賤を問わず結婚式の流れは大差がない。結婚式は嫁入り、婿入りする側が従となり、嫁取り、婿取りする側が主導となって仕切る。主側所縁の教会で式を挙げ、主側の土地屋敷で宴を行う。一般論で言えば、ヴィーナも教会で式を挙げた後、王妹大公屋敷で披露宴を行えば良い」
ゴセック大主教は珈琲で喉を潤してから、
「だが、ヴィーナの場合は“白獅子”財閥総帥という肩書があるゆえ、いろいろ厄介な条件が伴うわけだな」
「ええ。たとえば、式を挙げる場所とか……」
相槌を打つヴィーナへ、
「ヴィーナの結婚式には国王陛下御一家の行幸もあり得る。警備や移動距離の面では王都内の小街区が無難だな。ただ……」
難渋顔を浮かべた。
「あそこの教会はちと小さい。ヴィーナの身代に合わん。それに、列席者が入りきらんだろう」
「かといって、クレーユベーレの教会はまだ建設中です。年内に完成しません。そもそもクレーユベーレには私の屋敷すらありません」
ヴィルミーナも難渋顔を浮かべた。
財閥総帥としての執務は小街区オフィスで行っているため、実家暮らしだ。クレーユベーレでは現地にこさえた白獅子の幹部用宿舎施設で寝泊まりしている。別邸を建てる予定もあったものの、後回し状態。
「となると……」
ゴセック大主教は沈思黙考の末、うむ、と呟く。
「ここは王妹大公令嬢として式を挙げるべし。小街区とクレーユベーレから代表者と適度な招待者を列席させて面目を保たせなさい。その後に結婚祝いとして双方で振る舞いをすると良いだろう」
「つまり、私が肴の大宴会を三度やれと」「なんてこった」
げんなり顔のヴィルミーナとレーヴレヒトに、
「語り草になりそうじゃな」
ゴセック大主教は楽しそうに笑った。
〇
ヴィルミーナが今年中に式を挙げる。
その話を聞いた側近衆達は腹を空かせた雌獅子の群れの如く大騒ぎになった。いや、側近衆達だけではない。各事業部、各子会社、関連会社などのお偉いさん達も、白獅子との取引先も、それどころか白獅子との対立筋の関係者まで騒ぎ出した。
実のところ、損得勘定の関係性を重視する経済界の人間は、その縁が利益につながる限り大事にする。たとえ敵対していても『昨日の敵は今日の友』メソッドが存在する以上、完全に撃滅させる予定が無い限り、敵対していても義理を通すのが、金の世界だった。
そして、小街区オフィスでは緊急会議が開催され、イストリア駐在中のエリンと出奔中のドランを除く全側近衆が召集された。
「式は王妹大公家として行う? ですか」
“侍従長”アレックスが小首を傾げ、ヴィルミーナは首肯を返す。
「小街区にしてもクレーユベーレにしても、不都合が伴うからね。私の結婚後にそれぞれ振る舞いをすることで補うわ」
「うーん……仕方ないですね。小街区の教会では列席者を収容できませんし、クレーユベーレはそれ以前ですし……」
「こんなことなら最初に教会を建てておくべきだった……」と頭を抱えるニーナ。
「となると、白獅子総帥として振る舞いの順番が問題ですね」
「え、順番?」
目を瞬かせるヴィルミーナに、アレックスが片眉を挙げた。
「まさか振る舞いに参加しないおつもりだったので?」
「挨拶には出るわ。でも、午前中に小街区へ顔を出して、その足で午後にクレーユベーレへ顔を出して済ませ――」
「甘いっ! 激甘です、ヴィーナ様っ!」
言葉を遮って一喝するアレックス。ひぇっと変な声を漏らすヴィルミーナ。
アレックスはヴィルミーナをまじまじと凝視しながら、
「ヴィーナ様は御自覚が足りません。良いですか? 小街区の者達にしてみれば、ヴィーナ様は貧困と絶望から救済した大恩人。クレーユベーレの者達からは繁栄を約束した御方なのです。彼らにしてみれば、ヴィーナ様の御成婚祝賀は御恩返しする機会であり、同時にヴィーナ様の御歓心を益々強くするためのまたとない機会なのです。つまりは」
言った。
「彼らは本気です」
「ど、どれくらい?」
ヴィルミーナは半ば慄きつつ、おずおずと問う。
「振る舞いの順番を巡って深刻な遺恨が生じてもおかしくありません」
「勘弁して……」
アレックスの回答にヴィルミーナは目を覆った。
私の結婚式は大口公共事業かなんかか?
ヴィルミーナの慨嘆はそう的外れでもなかった。
この時代、貴顕の結婚式は地域を挙げてのお祭りであり、“経済効果”が見込めるイベントなのだ。
しかも、王家に連なる姫君にして新興財閥総帥の結婚式ともなれば、国王一家も行幸されるかもしれないし、外国の要人も多数訪れるに違いなかった。経済効果+アルファが計り知れない大イベントだ。
すなわち、ヴィルミーナの挙式地や振る舞いの順番を巡り、小街区とクレーユベーレで暗闘が繰り広げられてもおかしくないのだ。実にバカバカしい話だが、大金と名誉が絡めば何が起きてもおかしくない。
「もうどうしたらいいのやら……」
ヴィルミーナがぼやいた直後、デルフィネがスススとヴィルミーナの傍らに近づき、上目遣いで甘えた声を発した。
「ヴィーナ様。御願いがあるのですけれどぉ」
刹那。
会議室のドアが勢いよく開かれる。いや、蹴破られた。
驚くヴィルミーナ、側近衆の面々が瞬時にヴィルミーナの許へ集まり、御身を守り、侵入者へ迎撃態勢を取る。
そして――
闖入者は青白ドレス姿の裾を持ち上げたメルフィナだった。
メルフィナは息を切らしながらデルフィネを睨み据え、吠えた。
「この泥棒猫っ! ヴィーナ様から離れなさいっ!」
デルフィネが銃声染みた舌打ちをした。
ヴィルミーナが眉間を抑えて呻く。
「なんだこの展開……」
アレックスはハッとして、
「あの、メルフィナ様、御用向きはひょっとして、」
「決まっているでしょうっ!」
メルフィナが今にも噛みつきそうな顔で吠える。
「ヴィーナ様の介添人に志願するためですっ!!」
「“部外者”はすっこんでろ、ございますっ!!」
デルフィネはメルフィナを怒鳴り飛ばし、表情を一変させて甘える子猫の如くヴィルミーナに言った。
「ヴィーナ様。もちろん介添人は側近衆にして親友たる私ですよね?」
「誰が親友ですか、元は世代きっての嫌悪者だったくせに図々しいっ!」
メルフィナは眉目を吊り上げながらヴィルミーナの傍に駆け寄り、縋りつくように抱きついた。
「ヴィーナ様っ! 私との間にはこれまで育んだ情と絆がありますよねっ!?」
ヴィルミーナは思う。
愛が重いわぁ……
ヴィルミーナは大きく息を吐き、バッチバチに火花を飛ばすデルフィネとメルフィナを一瞥した。
「貴女達のどちらかを選べば、後々まで絶対に尾を引くでしょ。嫌よ、そんなの。2人とも大事な友達なんだから」
その回答にデルフィネとメルフィナはさあっと顔を蒼くした。
「ということは」「まさか」
ヴィルミーナは無情に告げる。
「介添人はアレックスに頼むつもりよ」
「「いやあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」」
2人は仲良く悲嘆を挙げた。
指名されたアレックスは誇らしげな面持ちを浮かべる。
リアが小声で呟く。「残念ながら当然」
テレサも小声で呟く。「妥当だわな」
“侍従長”にして総帥代理であるアレックスの指名は、側近衆達にとっては無難だった。“信奉者”ニーナが嫉妬で身悶えしていたが。
そんな他の側近衆の反応を余所に、デルフィネとメルフィナはガチで泣いていた。ひどいひどい、とヴィルミーナの着衣を涙で濡らす。
まさかこれほど悲嘆にくれると思っていなかったヴィルミーナは慌ててフォローに走る。
「も、もちろん2人にも別途でお願いがあるわ。メルフィナには私の花嫁衣裳をお願いするし、デルフィネには式で演奏をお願いする。そ、それでどうかしら?」
メルフィナとデルフィネは恨みがましい目つきでヴィルミーナを見据え、そういうことなら、と不承不承受け入れた。
「これはもう私とレヴだけで対処できる規模じゃないわね……」
ヴィルミーナが悄然として呟くと、アレックスが胸を張って言った。
「御心配なく。ヴィーナ様の御結婚式は我々側近衆が総掛かりで行います。これを成さねば、私共側近衆の名折れ。何卒お任せあれ」
「いや、でも通常業務とか案件が……」
「そちらの手配も併せて行います。ヴィーナ様が安心して御自身の御結婚式に臨めるよう、万難を排して準備を進めて御覧に入れますとも」
アレックスを筆頭に側近衆達がヴィルミーナを真っ直ぐ見つめてくる。
え、なにこれは。
ヴィルミーナは内心で狼狽えていた。
この娘ら、なんでこんな覚悟完了した顔してるん? 私の結婚式の話やんな? どっかに戦争仕掛ける話と間違えてない? 大丈夫なんか、これ。
何やらベクトル違いな不安を覚えるが、ここまで御膳立てされては、さしものヴィルミーナも答える言葉は一つだけだった。
「分かりました。貴女達に私の結婚式の準備を委ねます。どうぞ、よしなに」
『はいっ!』
側近衆達は誇らしい顔つきで意気軒高に応えた。完全に決戦へ臨む将兵の顔つきだった。
ヴィルミーナは頭を抱えた。
同じ頃、軍に出勤していたレーヴレヒトも頭を抱えたい気分になっていた。
「……えっとどういうことですか?」
今年中に式を挙げることを直属の上司たる大尉へ報告したところ、
「だからな、お前の結婚式。陸海軍のお偉いさん達が参加することになると思うぞ」
大変に怖い回答が返ってきた。
「え、と、大尉殿を筆頭に部隊の皆だけではダメ、なんですか?」
「あのな」
大尉は世間知らずの弟を気遣うような顔つきを湛える。
「クライフ。王妹大公令嬢様は傷痍退役軍人や戦死者遺族の救済に奔走してくださった軍の恩人だ。軍としても敬意を示さないと面目が立たないだろ? で、お前は海軍貴族クライフ伯家の養子で、現役陸軍士官だから、陸海軍から揃ってお偉いさんを出すわけだ」
「いや、でも、俺は一介の中尉に過ぎませんし……お偉いさんばかりそんな集まられても」
なんとか事態を止めようとレーヴレヒトが抵抗を試みるも、大尉はレーヴレヒトの肩を優しく叩き、言った。
「諦めろ」
〇
ヴィルミーナとレーヴレヒトは王妹大公屋敷のリビングで、ぐでーっと脱力していた。
愛犬ガブがちっとも遊んでくれない2人に拗ねて部屋を出ていってしまったほど、2人は仲良く並んで脱力していた。
「私、結婚式の準備ってもっと楽しいものだと思ってたわ。レヴ君と二人で花嫁ドレスを選んだり、披露宴の料理を選んだり……これじゃ苦行じゃない。苦行じゃない」
悄然として嘆くヴィルミーナ。
「結婚てこんなに大変なことなのか? 皆、こんな苦労して式を挙げてるのか?」
思わず自問してしまうレーヴレヒト。
そこへ、母ユーフェリアがやってきた。恐ろしく上機嫌だった。
なんせユーフェリアは愛娘へ深く自己投影しているから、この結婚式はある意味で“我がこと”に等しかった。
「式の日取りは決まった? 内容はどんな感じなの?」
「御母様。そんなすぐに決まりません」とヴィルミーナがむすっと不満顔で応じるも、
「おおよその目途くらいはついてるでしょう?」
ユーフェリアはまったく意にも介さない。
小さく嘆息を吐き、ヴィルミーナは言った。
「早くて中秋から晩秋。遅くても初冬ですね」
「そういうことなら、中秋にしましょう」
ユーフェリアはにこにこしながら言った。
「紅葉が進んで朱と黄金に染まった秋の中、麗しい新郎新婦が結婚式を挙げる。素晴らしいわっ! 絵画にして残さなきゃねっ!」
「絵画……っ!?」「か、いが……?」
後世、自身の結婚式の絵が美術館に飾られている様を思い浮かべ、ヴィルミーナとレーヴレヒトが白目を剥きかけた。
「うふふふ。楽しくなってきたわっ! ねえねえ、ヴィーナっ! ママ、いろいろ考えたことがあるのよっ! 聞いて聞いてっ!」
ユーフェリアが嬉々として自身のアイデアを語り始める。ヴィルミーナはげんなりしつつも今生の母がこれほどまでに喜び、楽しんでくれていることが素直に嬉しくなっていた。
もっとも、脳味噌がシロップ漬けになりそうなアイデアの数々を聞かされた結果、レーヴレヒトが口からエクトプラズムを吐き出しそうになったけれども。
〇
盛夏が間近に迫った早朝。
アルグシア連邦カロルレン侵攻軍が夏季攻勢を開始した。
規模は冬季攻勢ほど大規模ではない。あくまで第一軍を野戦にて撃破することを目的とした限定攻勢だ。投入された兵力は約7万人。侵攻軍戦力の6割といったところ。残り4割は占領地域の維持と拠点群包囲に費やされている。
もっとも、見るべきところは兵力ではなく、参加兵科だ。
アルグシア連邦軍はこの攻勢のために本国から翼竜騎兵一個旅団と沿岸警備飛空船隊、西部防衛航空隊を引き抜いていた。初期から参加している航空部隊と合わせれば、翼竜騎兵は3個旅団、4個飛空船隊という、アルグシアの近年では例を見ない大戦力を用意していた(まあ、飛空船大国ベルネシアにしてみれば、『お可愛いこと』の規模だが)。
そんな万端の準備を整えたアルグシア軍が、攻勢を開始する。
が。
「抵抗がほとんどない?」
前衛部隊からの報告に、トロッケンフェルト大将は眉根を寄せ、
「はいっ! 閣下っ! 民兵の抵抗や破壊工作はあるものの、攻勢は万事順調とのことですっ! また、拠点群にこもる第一軍にも動く気配はありませんっ!」
デカい声で報告を続ける大兵肥満のヤンケ准将も『解せぬ』と言いたげな顔をしていた。
拠点群の第一軍やヴァンデリック侯国に展開した第二軍の戦況報告を聞く限り、カロルレン軍の抵抗がぬるいなどあり得ない。
意気軒高にリングへ上がったら、相手が現れなかったような肩透かし。だが、酷く策謀の臭いが鼻につく。トロッケンフェルト大将を始め、総司令部の人間は誰もが嫌な気分を覚えていた。
トロッケンフェルト大将はアルグシア軍的常識からカロルレン側の意図を推察する。
「こちらを引き込んで叩くつもりか? いや、だとしても第一軍まで全く動きが無いことはおかしい。このままでは敵中に孤立するだろうに」
「航空偵察では敵軍の埋伏や野戦築城を確認しておりませんっ!」
ヤンケ准将は報告を続けつつ、自身の意見を申す。
「敵は我が軍が伸びきったところで側面へ逆撃を企図している、と愚考しますっ!」
「常識的に言えば、そうだな」
小指を立てた右手で顎先を弄りながら、トロッケンフェルト大将は決断する。
「このまま我が軍の航空部隊が王都を攻撃航程圏に捉えるまで前進を継続。同時に一部騎兵部隊を反転させ、拠点群後背を寸断しろ」
カロルレン王国側が何を企図しているにせよ、王都を攻撃距離に捉えられれば、何かしら動くはずだ。第一軍も敵中孤立の状況を黙って見過ごしたりはするまい。敵があくまで動かないというなら、こちらは前進して制圧地域を増やすだけだ。
「はい、閣下っ! 側面警戒を怠らぬように、ですなっ!」
ヤンケ准将の応答を聞き、トロッケンフェルト大将は満足げな首肯を返した。
しかし、トロッケンフェルト大将は再び肩透かしを食らった。
カロルレン軍はあくまで動かなかった。アルグシア軍が王都の直衛たるモーデリン要塞の線で足を止めるまで、一切動かなかったし、足を止めても動かなかった。アルグシア軍航空部隊が王都を攻撃距離に捉えても、第一軍が敵中孤立しても、動かなかった。
ただし、占領地域でテロやサボタージュを頻発していた。
雑多な武器で武装した領兵達が襲撃してきたり、百姓達が道路や橋を破壊したりする。当然、現場の将兵が復讐心や憤怒の感情のまま、現地人を殺害したり、暴行を加えたり、さらには略奪や婦女暴行の事例が激増した。その暴力がさらなる治安悪化を招く。
第一軍のこもる拠点群包囲に兵力を割いているため、治安維持の手が足りない。拠点群は孤立した遊兵集団からアルグシア侵攻軍に負担を強いる存在に化けていた。体の深くに刺さった棘のように。
だが、カロルレン軍は動かなかった。戦略予備の第三軍を投じることもなく、第一軍も拠点群にこもったまま動かない。
トロッケンフェルト大将は酷い不快感に駆られていた。メーヴラント東端の田舎軍隊に踊らされている、という感覚が猛烈に不快だった。
「これが狙いなのか? 我が軍に負担を強いて厭戦気分を持たせることが?」
「第一軍や第二軍の熾烈な抵抗を鑑みるに、そこまで消極的になるとは思えませんが……」
ヤンケ准将が珍しくデカい声を発さずに応じた。
勇猛果敢にして豪放磊落な彼にとって、カロルレン軍の現状はまるで理解が及ばない。武人気質なヤンケ准将にとって、指をくわえて敵の侵攻を許し、民の犠牲を見過ごすなど、絶対に許されないという認識がある。
「しかし、現実問題として占領地の安定確保に人手が足りません。拠点群を陥落させるか、本国から増派を求めるかしなければ。実情、カロルレン第三軍が攻勢に出た場合、前衛戦力だけでは対応しかねます」
ヤンケ准将は渋面を湛えて言った。
トロッケンフェルト大将はしばし考えこみ、本国へ増派を要求することを決めた。
拠点群を強引に落として多大な犠牲を払うより、本国を説得して増派させる方が楽だからだった。
かくして、アルグシア連邦は新たに8万の兵力を投入した。
総兵力23万という大軍が占領地域内に展開し、彼らを食わせるための物資集積所や仮設兵営が構築されていく。
アルグシア連邦カロルレン侵攻軍は軍事戦略や占領統治に余念が無かった。
ただ、一点。防諜という点をやや軽視していた。
異民族統治の経験や外洋領土を持たぬアルグシア連邦にとって、”敵”を管理統治するという行為がどういうことか、決定的に理解が不足していた。
であるから、占領地域内に埋伏する諜報員に加え、そこらの民百姓や子供までもが絶えず情報を中央へ送り続けていたことを察知できなかった。
絶えず届く情報により、カロルレン王立軍総司令部の戦略地図には、被占領地域内のあらゆる情報が記されていた。
部隊配置と戦力状況。物資集積所や兵営所、野戦離発着場の位置と警備状況……カロルレン王立軍は全てを把握していた。
準備は整っている。
あとは機会を得るだけだった。




