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大陸共通暦1770年:晩春
大陸西方メーヴラント:ヴァンデリック侯国:聖冠連合軍陣地。
――――――――――
ファロン山攻防戦の苦境を知らされた聖冠連合帝国軍総司令部は、侵攻軍へ“とっておき”を送り込んでいた。
「よく持ってきたなぁ……」
「よく持ってきましたね……」
カール大公と副官のラロッシュ大佐は”とっておき”を見てしみじみと呟いた。
かつて大飛竜をぶん殴った22センチ要塞砲、その後装式改装砲架型。砲身と砲架合わせて総重量30トンの怪物。本国はこの巨砲を大型飛空船数隻によって6門も配達してきた。
ちなみにこの要塞砲に駐退復座器はない。共通暦1770年現在、油圧式駐退復座器を持つ火砲はベルネシアの火砲だけだ。
この頃、各国はベルネシア製火砲の駐退復座器を知っていた。が、各国の油圧式駐退復座器の開発は難航している。この辺りは高精度工作技術と根幹技術が育成されていないと難しい。
それでも、『仕組み』や『原理』を理解すれば、現物を作れなくても類似物は造ることが出来る。同様の物が作れなくても、近い物は作ることが出来る。前世知識が無くたって、人間には脳味噌という思考機械が搭載されているのだから。
事実、ベルネシアの同盟国イストリアや先の戦役でベルネシア製火砲を鹵獲したクレテアでは、水圧式や魔導技術応用の駐退器や復座器を開発し始めた。
聖冠連合帝国の22センチ要塞砲にしても、砲架は傾斜式緩衝器を兼ねており、その自重を持って砲撃の反動を減殺できるようになっていた。
話を戻そう。
カール大公は怪獣的な要塞砲を眺めつつ、思う。
素直に飛空船と翼竜騎兵で大規模爆撃を実施した方が早かったのでは? あるいは、先のソルニオル領で行われたという火船戦術ではダメだったのか?
カール大公がそんなことを考えている間にも、22センチ要塞砲はちゃくちゃくと砲撃準備が進められていく。
大勢の魔導術士達が土系魔導術で砲台となる大地を均し、固く締めていく。
次いで、十数頭の魔導強化馬と大勢の工兵達がウィンチなどあれやこれやの道具を使って分厚い鋼鉄製基板を敷き、そこへ巨砲と給弾用の小型クレーンなどを据えていく。
それから、やっぱり大勢の砲兵達が測量しつつ、砲口の向きや射角などを整えていく。
作業を眺めていたカール大公は、何かの土木工事を見ているような気分を覚えた。
そうこうしているうちに砲撃の下準備が整い、いよいよ砲撃の用意が進められていく。
22センチ要塞砲の大きな尾栓が開けられ、最初に200キロ近い榴弾が、続いて円筒型の袋に詰められた魔晶装薬が装填された。大型船の操舵輪みたいな尾栓開閉ハンドルを回し、尾栓が固く閉鎖する。砲撃観測鏡や温度計、風向計などあれやこれやを使って砲口角度など調整していく様は、砲兵が高度専門兵科であることをよく伝えている。
要塞砲部隊の指揮官である砲兵大佐が、ファロン山を背にしながら大声で告げた。
「帝国紳士諸君っ! これより勇敢なるカロルレン軍“戦友諸君”に馳走申し上げるっ! 我らが可愛い22センチ要塞砲は極めて大きな砲声を奏でる由、心されよっ!」
砲兵大佐が両手で耳を塞ぎ、その場の全将兵も同じく両耳を塞いだ。
「一番砲、放てっ!!」
大佐の号令の下、砲手が点火縄を勢い良く引いた。瞬間、撃鉄が落とされ、22センチ要塞砲が吠えた。
刹那。
音と衝撃の波がカール大公達を殴りつけた。
頭蓋越しに揺さぶられる脳。血肉を通じて痺れを覚える神経。圧力に押された肋骨が肺から空気を無理やり押し出し、腸が震え、胃がひっくり返りそうになった。喉元までこみあげてくる胃液。
そして、ファロン山の一画で鋭い閃光が煌めき、巨大な落雷の如き轟音が響き渡った。もうもうと立ち昇っていく真っ黒な爆煙。あの爆煙の中でどんな惨状が生じているのか……
その凄まじい砲声と砲撃の力に誰もが唖然とする中、
「うむ。初弾から命中であるっ!」
砲兵大佐が満足そうに叫ぶ。
直後、その場にいる全員が大喝采を挙げた。カール大公でさえも。
周囲を落ち着かせるように手を振った後、砲兵大佐は大声で告げた。
「全砲、斉射用意っ! さあ、砲兵諸君。演奏会の始まりだっ!!」
かくして、カロルレン第二軍が『帝国の六姉妹』と恐れた22センチ要塞砲の合唱会が始まった。22センチ要塞砲の効力射圏内に存在したカロルレン軍の拠点は次々に打破されていく。たとえ分厚いコンクリ製トーチカであっても22センチ徹甲弾は防げず、退避壕内に身を潜めても22センチ徹甲榴弾は退避壕ごとカロルレン兵を吹き飛ばしてしまう。
戦いの天秤は聖冠連合帝国の側に傾いた。
少なくとも、22センチ要塞砲が届く範囲では。
〇
夏の足音が近づいてきた頃……東メーヴラント戦争西部戦線は穏やかだった。
冬季戦の消耗と疾病の流行。二つの重たい負債を抱えたアルグシア連邦軍カロルレン侵攻軍は軍の立て直しと回復に大忙しだった。カロルレン軍も休息と回復を求めたおかげで、東メーヴラント戦争西部戦線は小康状態――両軍の斥候や偵察部隊の小競り合いに留まっていた。
そんな折……
「防御陣地の構築?」
アルグシア連邦軍カロルレン侵攻軍総司令官トロッケンフェルト大将は、小指を立てながら口髭を弄る。
「は、閣下っ! 敵は拠点群から街道沿い約10キロの地点、ルシーラ川支流の橋に防衛陣地を構築中ですっ! 女子供、老人まで投入し、馬防壕や塹壕を掘らせ、簡易拠点を建築していますっ!」
疾病に倒れて後送されたベンカー中将に代わり、参謀長として赴任したヤンケ准将が地図を示しながら説明した。
ヤンケ准将は大兵肥満の大男で、参謀というより武将といった見てくれをしており、体同様に声もデカい。
「未だに民を退避させていないとはな。我が軍を信用しているのか、それとも、見殺しにする気なのか……」
地図を見下ろしながら、トロッケンフェルト大将は眉をひそめた。
従来の封建制的価値観に従えば、民とは土地の付属物に過ぎない。民草という言葉が示す通り、民とは土地に生える草葉の如き存在ということだ。食料や文物を生産し、労働力や軍事力として使用可能な家畜。それが中近世――封建社会における民である。
よって、王侯貴顕が領民を守る義務とは、現代人が考えるような統治者による民衆保護責任ではない。“自身の資産価値低下を防ぐための義務”だ。
侵攻側にとっても、現地民は大事な“資産”である。
その地域の征服を目的とした戦争の場合、“資産価値”の低下を招くから現地民を殺戮することは本来、ありえない。現地徴発を行う際も、現地人の殺傷や無思慮な強奪は禁じられる。現地徴発と略奪は似ているようで同義ではないのだ。
例外もある。
征服後の目的が現地人支配ではなく、自国民入植だった場合、その土地の先住者は邪魔でしかない。歴史的に入植が目的の侵略は常に大殺戮を伴った。好例が北米やアフリカ南部、オーストラリアで行われた先住民の大量虐殺である。
翻って、アルグシア連邦である。
戦後に支配統治を前提としているため、占領地で無体を働いていない。現地民間人への略奪や虐殺、暴行を戒めており、取り締まりの野戦憲兵まで用意していた。征服後に自国へ取り込むのだから、無暗に乱取りして戦後統治を難しくするのは愚行である。
このカロルレンの動きは、その点を見透かしての行為なのか、それとも、民衆を捨て駒にする気なのか……前者ならともかく、後者だと政治宣伝戦に発展するかもしれない。
トロッケンフェルト大将が渋面を浮かべていると、ヤンケ准将が言葉を続けた。
「この新たな防衛線に見られる部隊は正規軍ではありませんっ! 民兵組織ですっ!」
「は? 民兵組織?」
パチクリと目を瞬かせるトロッケンフェルト大将に、ヤンケ准将は説明を続ける。
「カロルレン王国には正規軍の他に、各領主の民兵組織、領兵団というものがありますっ! 我が国における領邦軍のようなものですが、領邦軍が連邦軍隷下に対し、領兵団は領主貴族の完全な私兵ですっ!」
「では、この連中は第一軍の指示で動いていない?」
「おそらくっ! 冬季戦の結果、我が軍が後背進出可能になったことで、現地領主が勝手にやっていることでしょうっ!」
ヤンケ准将のデカい声による説明を聞きつつ、トロッケンフェルト大将は冷徹な眼差しで地図を見下ろす。
上手くすれば、第一軍を野戦に引きずり出せるのではないか。仮に第一軍が動かなかったとしても、この民兵部隊を壊滅させることで、カロルレン軍は民を見捨てたという政治的大失点を生む。
「ヤンケ准将。私は冬の間、カロルレンから馳走になった礼をすべきと考える。どうかな?」
トロッケンフェルト大将の意図を、ヤンケ准将は正しく読んだ。容貌魁偉な大男に相応しい獰猛な笑みを浮かべる。
「大いに賛成であります、閣下っ! 馳走には返礼せねば、礼を失しますからなっ!」
同時に、ヤンケ准将は高級将校教育を受けた如才無さも発揮する。
「ただし、カロルレン側の“過剰反応”を招く恐れもありますっ! その場合、再編中の我が軍は少々難戦苦闘を要求されるかとっ!」
「それは面倒だ……第一軍はともかく第三軍を呼びこみたくない」
アルグシア連邦軍と聖冠連合帝国軍は、間違いなく死に物狂いで挑んでくるだろうカロルレン軍の予備戦力――第三軍を互いに相手へ押し付けたかった。
トロッケンフェルトはしばし頭の中で算盤を弾き、言った。
「一個旅団。賄えるかね?」
「その程度ならば造作もなくっ!」
ヤンケ准将はどんと胸を叩いて快諾した。
こうして、アルグシア連邦軍カロルレン侵攻軍から一個旅団が出動していった。
〇
カロルレン第一軍はもちろん、王国中央も酷く気分を害していた。
第一軍がこもる拠点群の後背、街道を通って西へ向かった10キロ先。ルシーラ川支流コラス川の橋に、コラシェウ伯領兵団が領民を動員して防御拠点を構築し始めた件は、鬱陶しい問題になっていた。
カロルレン領主貴族には領兵団を所有し、自領の治安を守る権利があった。その観点に立てば、コラシェウ伯の行為は非難できない。敵国の侵攻に備えて防衛拠点を構築することは憚ることのない自領防衛行為である。
しかし、国家存亡を賭した戦いの最中にあって、国家戦略に寄与しない身勝手な行為を果たして正当な権利と認められるのか。第一軍の支援にも敵軍への牽制にもならない行為に領民を駆り出すことが許されるのか。
かといって、ここでコラシェウ伯領兵団を見殺しにすれば、アルグシアはここぞとばかりに王立軍の非を喧伝し、領主貴族達に調略の手を伸ばすだろう。
であるから、コラシェウ伯領支援のため、カロルレン王国中央はなけなしの戦力を第三軍から抽出した。なるべく影響の出ない部隊を。馬鹿な領主貴族に対する幻滅が民に広がらぬように適した部隊を。
そうして選ばれたのが、近衛騎士団だった。
大災禍の際、中央に振り回された結果、不貞腐れて王都に帰還してしまったボンボン部隊である。あの一件は凄まじい批判に晒され、騎士団長と副団長が更迭される事態にまで発展していた。騎士団員達も『卑怯者』『腰抜け』『役立たず』と方々で後ろ指をさされていた。
彼らにとって、この出撃命令は騎士団と彼ら自身の名誉を回復するためのまたとない機会であった。
しかし、貴族ボンボンの彼らはどこまでも貴族的傲慢さを抱えていた。
名誉挽回の戦いは王国の興廃を賭した決戦であるべきで、コラシェウ伯の“民草如き”を護るために命を懸けるのはなんかなぁ……
彼らが望むと望まざると、戦いは始まる。地味でつまらない、でも、生死を懸けた戦いが。
〇
事は聖冠連合帝国カロルレン侵攻軍がファロン山攻略を始める幾日か前まで遡る。
ヒルデン独立自治領の領袖ヨアキムは、聖冠連合とカロルレンに急ぎの使者を送りつけ、両国に『評定の場を設けたい』と提案した。
両国の許に赴いた使者曰く――
「我が国はメーヴラントとディビアラントの狭間にある辺境小国。両国の争いに巻き込まれてはたちまち滅んでしまいまする。よって、我が国は戦を避けるべく、両国と共に我が国の在り方を評定させていただきたい」
聖冠連合帝国は酷くイラっとした。ヒルデンの言い草は保護“領”が宗主国に対して『お前は当てにならねーからもっとマシな話し合いの場を設けてーンだよ』と言ったようなものだからだ。
カロルレン王国も酷くイラっとした。ヒルデンの言い草はド辺境の小領如きがカロルレンと帝国と対等に渡り合おうという増上慢にしか聞こえなかったからだ。
とはいえ、ド辺境の小領を巡ってドンパチを避けたい聖冠連合帝国と既に二正面を抱えているカロルレンは『話し合いをしたい』というヨアキムの提案に渋々乗った。
そうしてヒルデンまで出向いてきた両国の外交官に、ヨアキムはとんでもない提案をぶちまけた。
「ヒルデンは此度の戦において、完全な局外非戦闘地域たるを宣言させていただきたい。
むろん、御両国は互いに当地に監視団を置かれるが良かろう。
帝国はカロルレンがヒルデンを経由して帝国領に攻め込まぬよう監視し、カロルレンは東との交易を阻害されぬよう監視なさればよい。
ただし、御両国が滞在させる監視団はいずれも小隊規模に留めていただきたい。なんせ、我が国は小さく狭いですのでね。大軍を置ける土地なんぞありゃしません」
いけしゃあしゃあと長広舌を垂れ流すヨアキムに、両国の外交官が瞬間的に沸騰しかけた。
が、続く言葉に罵詈雑言を飲み込んだ。
「我が国が御両国いずれにも与しないことを約すため、この戦が終わるまで両国にそれぞれ人質を出しましょうぞ。帝国には我が母を。カロルレンには我が子を。如何かな?」
日本の中近世なら身内を人質に出すことは珍しくなかった。いや、世界史的に見ても、外交手段として人質を出すことは珍しくない(たとえばヴラド3世などはオスマン・トルコへ人質に出されていた)。
ただし、大陸西方圏において人質として出されるのは、外交官だった(人質ではなく保証人という体裁だったからだ)。であるから、ヨアキムの切った手札に両国の外交官は驚愕した。
すかさず、ヨアキムは脅すように両国の外交官へ告げた。
「御回答を頂こう」
動揺の収まらぬところを詰められた両国の外交官は『そ、そこまでするなら』と“うっかり”応じてしまった。
それでも、聖冠連合の練達な外交官は条件を付けることを忘れない。
「……カロルレンの交易内容に武器弾薬を含まない限りは容認する。当然ながら随時臨検を求める」
カロルレンの外交官は眉目を釣り上げた。
「そんな条件を認められるかっ! 我が国が帝国の指図を受ける謂れはないっ!」
「まあまあ」
ヨアキムは駄々っ子を宥めるようにカロルレン外交官へ語り掛け、
「カロルレンの交易は武器弾薬を扱わないとするも、武器弾薬に転用可能な”原料“は構わない。臨検に関しては我が国が面目を掛けて公正に行う。如何か?」
じろりと聖冠連合外交官を見据える。譲歩させるんだからそっちも譲歩しろ。
「……母御を人質に差し出すというレズニーク殿の面目を立て、帝国はカロルレンがその提案を受け入れるなら認めよう」
「……子息を我が国に預けるというレズニーク殿の面子を立て、我が国はその条件を受け入れる」
両国の外交官がこれ以上ないほどの渋面を浮かべて了承すると、ヨアキムはにこやかに笑って言った。
「それは良かった。祝着至極ですなっ! ところで御両国に“お願い”があるのですが、よろしいかな」
ヨアキムは笑顔を貼りつけたまま言った。
「御存じの通り、我が国はド辺境の小領、田舎国。
両国の監視団を受け入れるにも、賄いに不安があり申す。滞在の費用や物資は御両国で賄っていただきたい。
ああ、それと御承知だろうが、我が国の飛空船離発着場はとてもささやかなものにて。大々的な交易を行うおつもりならば、拡張工事が必要になりますが……
我が国はド辺境の小領にて大変に貧乏。
そのような資金はとてもとても……必要ならば、それぞれ両国の持ち出しでお願い致す。
情けないことながら、我が国はド辺境の小領。御両国のようにはとても動けませぬゆえ、何卒、御斟酌のほどを。
いやあ、本当に我が国はド辺境の小領ゆえ、至らぬことばかりでしてなあ」
長っ長とした能書きをまとめるなら、
『オメーらのやることに一切協力しねーから。無理を言うなよ? 俺達は弱者なんだからよぉ。御強いお前らは面子に掛けて弱者にたかったりしねーよなぁ?』
図々しいほどの弱者戦略。
仮にこれが、一対一の交渉だったなら、聖冠連合もカロルレンも『寝言は寝て言え、滅ぼされないだけありがたく思え。黙って服従しろ田舎モンのビンボー人が』ぐらい言ったかもしれない。
しかし、互いに敵国という立会人がいる以上、あからさまな態度は取れない。ここでヨアキムを脅して敵側に内通されたら面倒になる。
結果、交渉は大いなる妥結へ至った。
「舌先から生まれてきたような奴」(談・聖冠連合帝国外交官)
「小賢しい小悪党」(談・カロルレン王国外交官)
両国の外交官は斯様に不満をこぼしつつ、レズニーク屋敷を後にしたわけだ。
もっとも、この交渉はヨアキムの完全な“アドリブ”だった。実のところ、人質まで差し出すつもりはヨアキム自身も無かったのだ。
両国外交官が見せた瞬間沸騰の様子に『あ、こりゃ何かしら度肝を抜く提案をせんと駄目だ』と判断し、即興で人質案を出したのだ。臨機応変の奇策と言えば聞こえはいいが、要するに思い付きでフいただけだ。
とはいえ、ヒルデン独立自治領代表として、公式の場で吐いた言葉である。思い付きの駄法螺であろうとも、後には引けない。
なので、
「父上っ! 御婆様とショレムを人質に出すとは正気ですかっ!?」
「御前様っ! 実の母と我が子を質に差し出すなど何事ですかっ!!」
ヨアキムは交渉の勝利を味わう間もなく、長男坊と細君に食って掛かられてしまった。
「お前達の非難はわかっておるわかっておる。されど、これも御家とヒルデンのため、この地に住まう者達の生命財産のためじゃ。堪忍しておくれ」
しみじみと語るヨアキムに対し、嫡男は振り上げた拳を渋々降ろすが、細君の方は内心で『また口先で上手いこと取り繕って』とボルテージを密やかに上げた。
そして、予期せずして人質に出されることになってしまったヨアキム生母マリーネと次男坊ショレムは、
「御婆様。帝国って行ったことあります?」
「若い頃に一度行きました。いろいろな食べ物があって、どれも美味しかった。今回も楽しみです」
「カロルレンはどうです? 行ったことは?」
「そちらはありません。しかし、二ヶ国を同時に相手取り一歩も引かぬ国。きっと見るべきところの多き国でしょう」
「そっかー。楽しみだなあ」
なんだか旅行先について語るようなお気楽さだった。
下手をすれば処刑されるかもしれないというのに。特にカロルレンは亡国の際、一歩間違えば戦渦に巻き込まれて死んでしまうかもしれないというのに。いやはや胆が太いのか暢気なのか。
ともかく、こうしてヨアキム生母マリーネは聖冠連合帝国に、次男坊ショレムはカロルレン王国に送られることとなり、ヒルデン独立自治領に両国の監視団が到着し、両国の金で滞在所や飛空船離発着場の拡張工事が行われた。
この人質派遣とヒルデン独立自治領の局外非戦闘地域化が思わぬ事態を招くが……それはしばし先のことにて候。




